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雑記帳2021-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-7-1
◆清澄庭園はさながら石の博覧会場。スペイン料理はフルコースでもお手軽でした。

地下鉄大江戸線と半蔵門線が乗り入れる「清澄白河」の地名は、此の地の造成し移り住んだ住民が安房・清澄村の出身であったこと、白河は白河藩主、松平定信の屋敷があったことに由来しています。ここには都立清澄庭園と、深川江戸資料館があります。

清澄庭園は、泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」として知られています。
もとは、紀州の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷であったところ、享保年間に、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、今の庭園の原型が作られました。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として改修、整備されました。

関東大震災の折には、災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。庭園の持つ防災機能を重視した岩崎家は、園用地として東京市に寄付、現在の都立清澄庭園になったのでした。
ちなみに、東京には浜離宮、六義園、旧岩崎邸庭園、旧古河邸庭園など、9か所の都立庭園があり、以前紹介した殿ヶ谷戸庭園もその一つです。

見どころはいくつもありますが、なんといっても園内の石の多さに驚きます。
伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石・・・。この ほか敷石や橋、前述の磯渡りの石を含め、園内には無数の石が配置され、さながら「石庭」の観があります。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全 国の石の産地から集めたものでした。三菱が財をなした一因が海運業でああったことを思い出しました。西南戦争のおりには、政府軍の兵器・物資の輸送で巨額の富を得たのでした。

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伊豆の磯石
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佐渡の赤石

池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物は「涼亭」です。涼亭は明治42年国賓として来日した英国のキッ チナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。今は改修されて集会場として利用されています。
庭園で最も高く大きな築山は「富士山」とよばれています。。関東大震災以前はこの築山の山頂にサツキ・ツツジの灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現したものだと言われています。

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涼亭
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庭園の「富士山」

川と海に近いこともあって種々の野鳥がくることでも知られています。
この日、池にはゴイサギの姿がありました。

深川江戸志朗館は清澄庭園のすぐ近くです。ここでは江戸時代の深川佐賀町の町並みが実物大に再現されています。
八百屋、米屋などの商店とともにあるのは掘割に面した船宿。舟は水上タクシーでした。火事の多かった江戸には火の見櫓や日除け地は欠かせません。日除け地にはてんぷら屋・二八そばの屋台があつまっていました。江戸の職人はせっかち、ハンバーガーよりずっと前から江戸にはファストフードがあったのです。
3畳から4畳半のコンパクトな長屋は庶民のつつましい暮らしぶりをうかがわせました。この広さで寝室にもなり、食事をする場にもなり、子育てやおけいこごとをする場にもなったというのですから、誠に合理的です。

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舟つき場、この前に舟宿が建つ
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てんぷら屋の屋台

企画展示室で開催中の企画展「こうとう浮世絵づくし」と同じフロアーに、現在の江東区で制作された工芸の品々を、職人の世界として紹介しています。東京の下町に江戸時代から続く職人の伝統が今も受け継がれているのが感じられるコーナーでした。

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開催中の企画展
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工芸展示品の一つ

江戸資料館に隣接する霊巌寺には松平定信の墓の他、5番目の江戸六地蔵が建立されています。この六地蔵は江戸で一番大きいお地蔵さまとして知られています。

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霊巌寺の六地蔵

深川にある寺や神社は江戸一、日本一と言われるものが少なくないようです。
深川閻魔堂で知られる法乗院には日本最大の閻魔さまがいます。
本堂1階には江戸時代に描かれた『地獄極楽絵』が展示されているほか、境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石が置かれています。

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深川閻魔堂の日本一の閻魔様

江東区はその名のとおり、東京の東に位置しています。江戸市中に比べて幕府の統制が比較的緩やかだったことから、自由を求めて移り住む文人も多かったとか。芭蕉もその一人でした。伊賀藩に仕え、神田川改修で人足を差配した芭蕉は、将軍が代替わりした綱吉時代に、弟子の杉山杉風の招きで深川にやってきました。芭蕉は仙台堀川のたもとにある、杉風の庵室「採荼庵(さいとあん)」から、奥の細道に旅立ったのでした。

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採荼庵から旅立つ芭蕉は令和のコロナ下でマスク着用

江戸の東南は、干支方位でいえば「辰巳」に当たります。深川八幡や永代寺の門前町としてにぎわうようになったこの地で、粋できっぷのいい辰巳(巽)芸者は誕生しました。岡場所の遊女と芸者の区別のなかった時代に、男顔負けの装いや、芸は売っても色は売らない心意気は大層な評判となり、芸者の社会的地位を高めたと言われています。

その深川八幡は江戸最大の八幡宮で、正式には富岡八幡宮、東京で最大の八幡さまです。応神天皇をモデルにしたと言われる八幡菩薩像を安置する八幡神社は全国に7,800もあるそうです。八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つになっています。

以前この紙面でも紹介しましたが、伊能忠敬の像があることでも知られています。一日1万歩歩くのがやっとの現代人に対し、忠孝は測量のために一日8万歩歩いたと言われています。
境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。江戸勧進相撲発祥の地でしたが、明暦の大火の後は勧進相撲は両国の回向院に移りました。

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深川八幡宮

その大火で紀伊国屋文左衛門が奉納した神輿も焼失、今の神輿は佐川急便の会長が寄付したそうです。重さは4.5トン、純金の屋根とともに鳥の目にはダイヤやルビーがはめこまれた豪華賢覧の神輿です。あまりの重さに担ぐことはできず、のちに、重量を半分にした二宮神輿が作られました。・

門前仲町から月島を目ざして通りを進むと、隅田川の手前に海洋大学越中島キャンパスが見えてきます。海洋大は元の国立東京商船大学と東京水産大学を統合してできた大学です。商船大学の前身は明治政府が助成して岩崎弥太郎に作らせた三菱商船学校でした。越中島キャンパスには昭和初期の重厚な建物が多く残っていて、百周年記念資料館、日本最古の鉄船明治丸、日本で2番目に古いというプラネタリウムなど、見るだけでもおもしろい。明治丸は、明治天皇が東北・北海道巡幸に利用して、これが海の日の由来になりました。

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明治丸(重要文化財)

海洋大に隣接して、人目を引くこともなく建っているのは明治天皇聖蹟の碑です。皇紀2600年(昭和16年)を国をあげて祝い、さらなる国威掲揚のために建てられました。皮肉なことに、この年、日本は太平洋戦争から敗戦へとつきすすむことになるのです。
明治天皇が行幸でおとずれた地に建てられた聖蹟の碑は史蹟として全国に数多くありましたが、終戦とともにすべて史蹟を解除されました。聖蹟など今は気に留める人も無いと言うのは、先の海洋大のキャンパスに女子学生の姿が見られたことと合わせて、いい時代なのかもしれません。

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明治天皇聖蹟の碑 写真奥に明治丸の帆のポールが見える。

さて、ここから左手に佃島を喪ながら相生橋を通って隅田川をわたると、いよいよ月島です。清澄庭園から歩いてきて、今回のお目当てはスペイン料理。開店して27年になるというレストラン「月島スペインクラブ」でちょっと遅めのお昼をいただきました。

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前菜(タコのアリオリ(ガーリック風味)、イベリコ豚の生ハム、鰯の酢漬け。                 スープはコンソメタイプのあっさり味

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メカジキのソテー・エスカベッシュ(野菜の南蛮漬け添え、この後に出た肉料理は子羊の肩肉の煮込み

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魚介とお肉のミックスパエリア

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デザートのクレマカタロナ(クリームブリュレに似ているが、コーンスターチをつかう)

スペイン料理と言えばパエリアしか知らず、イタリア料理と区別もつかない私ですが、随所にサフランが使われているのは気付きました。実際に、スペイン料理と一口に言えないくらい、その土地その土地に特色ある料理があるそうです。

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厚さ15cmほどもあるドアや調度品はスペイン製、できるだけスペインの空気を感じてほしいと店長さん。

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