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雑記帳2021-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2921-9-1
◆知り合いから、このたび、立川の隣の東大和市にある戦績、旧日立航空機変電所の案内人になることが決まったと報告がありました。
それも、ボランテイアではなく、週2日勤務という、非常勤ながら職員待遇ということです。東大和市の、戦争や平和の取り組みの姿勢がうかがわれるようではありませんか。

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日立航空変電所

日立航空株式会社立川工場(通称 日立変電所)はこの雑記帳でも一度紹介したことがあります。当時は公開されていませんでしたが、この数年の間に、市は戦績として公開に向けた整備をすすめ、ようやく一般公開出来るまでになったのです。

変電所は、西武線玉川上水駅の北側、団地とならぶよう位置する都立東大和南公園の一角に、おびただしい数の機銃掃射や爆弾の爆裂痕を残して建っています。
この建物は、昭和13年(1938年)、当時の東京府北多摩郡大和村に建設が開始された飛行機のエンジンを製造する軍需工場に電気を供給する重要な施設でした。

太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることになります。この工場でも昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けて、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える犠牲者を出しました。4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれています。

変電所の窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。が、鉄筋コンクリート造りの変電所は幸いにも決定的な損傷を受けることなく、戦後の平和産業の受電施設としてその後も稼働し続け、平成5年(1993年)まで変電所として働き続けました。しかも、爆撃を受けた生々しい痕跡を残したままの状態で使われていたのです。

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壁中に弾痕が残っている

平成5(1993)年、変電所を含む工場の敷地は、都立公園として整備されることになり、建物は変電施設としての役割を終えました。

しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのままの場所で保存されることになりました。
戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市はその年、文化財に指定し、後世に伝えることにしたのです。

公開をまえにして、残念なながらコロナ下の緊急事態宣言にあたってしまいました。
建物の前には公開延期の張り紙と、秋の平和学習の講演会のお知らせがありました。

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◆立川にも山中坂に、戦争の傷跡を残す戦災供養地蔵尊があります。

陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた立川は、米軍からは重要拠点とみなされて、昭和20年には13回に及ぶ空襲を受けました。

立川市富士見町5丁目にある通称「山中坂」は、残掘川の崖に面した坂です。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていました。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫だったのを、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていたそうです。

昭和20年4月4日は 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難しました。
このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となりました。犠牲者は42名ともいわれています。

山中坂が被弾した理由は諸説あります。
立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた、中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた、などと言われる他に、防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見されたとの説もあるそうです。
大勢の子供たちが亡くなったことを思うと、なんとも痛ましい理由です。

防空壕のあった跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されました。

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戦災供養地蔵尊の祠と碑
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祠の中のお地蔵さん

          山中坂悲歌 (エレジー)
      作詞 小沢長治  作曲 新田光信

      夜明けが遠い 闇の中 
      山中坂の防空壕に
      息つめよりそう四十一人
      子ども年より女の人 
      爆弾つんだ飛行機がくる
      闇をひきさき とどろく音 
      防空壕に爆弾が落ちた
      埋められた四十一人
      子ども年より女の人 
      二度とかえらぬみんなの命

      ああ 悲しみが坂を流れる 
      桜の花がなきがらに降った
      あの日のように花びらが舞う
      山中坂よ 小さなほこら 
      お地蔵さまに祈る誓い

      あの悲しみを くり返さない 
      あの悲しみを くり返さない 

戦後76年がたち、各地で戦災の記憶や遺構をどう保存し伝えていくかが問われています。戦争を経験した世代がほぼ80代に入り、次々と亡くなっていく中で、残す作業がいかに大変か、携わる人々の絶え間ない努力を思い、私たちが関心を持ち続けることの大切さを思わずにはいられません。

◆コロナ下のオリ・パラリンピック喧噪のうちに夏が過ぎようとしています。久しぶりに訪れた薬用植物園は、人影もなく、ひっそりとしていました。

梅雨明けから続いた猛暑のあと、8月中旬には東京は1週間もの長雨に見舞われました。線状降水帯の被害が各地に出ていたころです。8月中旬を過ぎると例年ならぼつぼつ咲き始める秋の七草も、今年はその気配は薄く、僅かにオミナエシが元気でした。初秋の数少ない花を拾いました。

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オミナエシ
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ヘビウリ(花弁のふちがレース状になっているのはカラスウリの仲間の特徴、若い果実は食用に)
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トロロアオイ(オクラの仲間。粘液は和紙の材料や漢方薬の成型に利用された)
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ノゲイトウ
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ヘチマ    

炎天にさらされて、夏のおわりには園内もすっかり疲れてしまったように見えます。コロナ下では、イベントもボランテイアさんのガイドもありませんが、昨年は緊急事態宣言中ずっと閉園してていたことを思うと、開園しているだけでももうけものと思わなけえばなりません。変わらないのは温室でした。

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カカオの実
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パパイアの実
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使君子(珍しい名前のこの植物も殺虫作用、消化促進、鎮痛作用、精神安定、食欲増進などの生薬の原料になる)

◆ノウゼンカズラは9月1日号の表紙にするにはちょっと遅かったので・・・

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真夏の炎天にひけをとらない、あの悩ましい色は何なのか、名前さえも悩ましい、と思っていました。調べてみても意外にあっさりと、夏から秋に美しい花をさかせる、しか書かれていない。8月20日過ぎ、ひとまず、玉川上水口に咲くノウゼンカズラの写真を撮ることに成功したので、雑記帳で紹介することにしました。


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