SSブログ
文化としての「環境日本学」 ブログトップ
前の20件 | 次の20件

高畠学 №58 [文化としての「環境日本学」]

『もののけ姫の世界で』 2

                                              関谷 智 

 映画『もののけ姫』はもうひとつ示唆を含んでいる。それは水の清らかさの意義である。映画の中ではタタリ神に呪いをかけられたアシタカの右腕の傷を癒すときに、水をかけて
いる。さらには銃で瀕死の傷を負ったアシタカをサンが運んだ先も、原始の森の湿原である。シシ神の首が飛んだ時に森を破壊したのはシシ神の体内から溢れ出た液体であった。このように水はいのちと切り離せない関係にある。澄んだ水が綺麗ないのちを育むのである。高畠の水の綺麗さは、言うまでも無い。蛙が鳴き、蛍が飛ぶ景観を作り出し、星さんや井澤校長のもとで食農教吉を受けてすくすく育つ小学生の命を育ててきたのも、山から湧き出る水である。水が綺麗であるからこそ、人の心も綺麗に透き通っているのではないか。
 澄んだ水と厚い信仰心が併存し、町全体が自然の鼓動を打つ高畠から帰った今も、私は夜になるとそわそわし始める。蛍が飛んでいないか草むらに目を凝らし、生き物の息使いを確かめようとする。だが、高層ビルのひしめく新宿や渋谷では、もちろん聞こえるはずもない。ネオンがきらめき、夜さえも眠らない町は人の影がひしめいている。高畠と対極にあるような街、新宿で我々は何が出来るのか。

 大都市は非常に便利である。農村と比べて人口やサービス、自然環境の極度の偏りが生まれており、生きていくのに必要なものはすべてと言ってよいはど簡単に手に入る。言い換えれば、大都市の中だけで生きていけるのだ。さらに大都市には非常に大きな憧れを抱かせる力がある。ライフスタイルやファッション、高性能機器からアイドルに至るまで、「フロム東京」(関西方面は知りませんが)は絶対的な力を持つ。その結果、私は、この「大都市東京」に住んでいる人たちの多くは、東京の中に住んで居さえすれば、快適な生活も享受出来、時代の流れに取り残されることはないという安心感を得ているのだと思う。そしてこの安心感は、潜在的に日本各地への視野を狭める事になっているのではないだろうか。全国紙を見て、各地の出来事を理解したと満足し、物産展で美味しいものを食べて、そこの味を味わいきったと喜ぶ。苦い味には蓋をして、美味しいと感じた味を、四七個のポケットにしまい込む。しかし、これでは本当に地方の魅力を理解したとは言えない。私は高畠に行って、高畠の士に触れ、風の音を、水の流れを聴き、おばちゃん達の笑顔と美味しい料理に満足し こぼれんばかりの星空を見た。しかし同時に、高齢化の現実や、農村の気苦労もかいま見させていただいた。私は高畠に、今の高畠を作ってきた人々のすさまじい努力の跡を見た。そして私は、そういうもの全てを含めて、高畠が大好きになった。「フロム高畠」は私にとっ・特別な価値を杓っている.
 私は今、大学生である。将来の仕事は未定であるが、やりたいことがある。それは、「東京」という圧倒的に濃いブランドに対して、地方の魅力がぎゅうぎゅうに詰まった濃いミルクを注ぎ込むことだ。もっともっと東京の人間に、他方の魅力を知ってもらう。実際にその場に行って、考えるのではなく感じてもらう。そんな体験が、一人ひとりの中にブランドをつくり、気づいたらいつのまにか東京中でブレンドコーヒーが出来ている、そんなことをしてみたい。東京の人々が、自分のなかにブランドを持って、もっと地方に目を向けることが、地方の自然や文化伝統を破壊する関わりなく、実は地方に支えられて生きて居るのだという感謝の心をもって関わっていけることにつながるのではないか
 地方からの魅力の発信は、人口、環境問題、福祉の問題への一の有効なアプローチの方法であると思う。私は高畠に行って、こんなことを感じ、また畠に帰りたいと願っている。今度はどんな魅力を東京ににしょっていけるか、わくわくしながら。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №28 [文化としての「環境日本学」]

願望

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  まだ見ぬ沖縄の友から
  山原(やんばる)の香気を詰めて
  あおいささげが届いた。
  珊瑚の海をこえ
  三千キロの天空を駆けて
  さやかな形のまま
  竹節にあふれる
  いのちの群れ、

  掌にのせると
  北の冷気に肌をそめて
  とおい赤土のぬくもりを
  ひたひた伝えてくる。
  小刻みな時間とか、
  目の廻る忙しさとかを
  すっと超えるもの、

  ふところの手帳に
  ひしめく暦の
  とらわれの時(とき)、
  失なわれた余白への頗望

  時間バンクに積立てた
  せわしげな時(とき)の総量は
  はたして、
  この空洞の五体を
  癒してくれるだろうか

  青いささげを抱え
  ふと立ちあらわれた
  野性のモモは
  語りかける、
  「はてしない野道を
  ゆっくり、
  ゆっくり歩こうよ、
  くたびれたらタイム、
  そして、また一歩
  足跡など消えてもいいよ。」

  あたり一面の草花や
  鳥や、虫たちや
  風の音や、水の音、
  いのちの饗宴(うたげ)に溶けこんで
  ぼくは直ぐに
  やさしい生き物になる

  幾可学もようの世界から
  解き放たれて
  耕やす土の豊籠や
  あの山なみの曲線や
    円みをおびた水平線に
  ぼくの複眼が吸い込まれて
  かすかに地球の明日が
  見えてくる。

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №57 [文化としての「環境日本学」]

『もののけ姫の世界で』 1

                                              関谷 智

 一日目の夜、星寛治さんの軽トラックの荷台で、私は興奮して喋り、歌い、ライトに照らされては漆黒の暗闇に消えゆく農道をちらちら眺めやっていた。高畠についたのはその日の午前中であった。雨が心配されていたが晴れ男原剛先生のおかげでからりと晴れた青空に迎えられた。最初にお会いした星先生の物腰穏やかで、それでいて透き通った瞳に芯の強さを感じさせる姿は、講演の内容もさることながら、高畠の入り口は星さんであると感じさせるものがあった。高畠に入った私たちは、清流に棲む生き物がもつ川の息づかいのようなカジカ蛙の鳴き声に耳をそばだて、森のいのちが美しく漂い舞う光を、驚きをもって見守った。手にとった小さないのちの光はほんのり暖かく、くすぐったかった。昼間に見たぽつねんとした草木塔の姿が、姫と呼ばれる森の小さなホタルのいのちに重なった。小さいけれどその力のもつ抗いがたい力と魅力は、人々の心をつかんで離さないという点で、高畠に到着してからの出来事は、私の日常では経験し得ないことばかりであり、私は一種異様な興奮に包まれていたのである。それは一方では高畠の人々の、よそ者を迎え入れる暖かな態度や、今時の若者のコミュニケーションには切っても切り離せないファーストフードとは全く違う野菜主役の料理によるものであった。食べ物には機械の切なさではなく、人間の手の感触があった。人間の繋がりとでも言ったものだろうか。しかし他方では、私の興奮の要因として、何か自分の座っている和田民俗資料館の畳の部屋を越えて、その外に広がる田んぼの稲の風にこすれる音や、その中に棲む蛙や水蟷螂、そして森の木々の間をうごめく動物たちの息づかいがあった。大きな大きな生き物たちの命の渦の中に自分の存在を溶け込ませていた。都会で生まれ育った私にとって、子どものころに一番記憶に残っているものは、空が黄金色になるまで夢中になって蝉を追いかけたことや、家族でキャンプに行ったときに見た、夜の森で樹液に群がる虫たち、地面を這う蟻を捕まえて観察した経験である。想い出は土や草の匂いと常に一緒にある。決してコンクリートのビルやゲームソフトから生まれるものではない。そしてこの子ども時代の記憶がふと、高畠でよみがえってきた。私の興奮は、そして高畠病と呼ばれる愉快な興奮症状は心の中にしまわれていた大切な思い出のひもがほどけてゆくことにあるのかもしれない。これは言い換えるならば、大地の霊性を感じることであるといえよう。
 大地の霊性などというといささか神秘めくが、それは古代アミニズムの中にあり、またそれ以上のものでもある。山川草木、地上におけるものはなんでも神々のよりどころであるというのが日本の神道に見られるアミニズムであるが、それが今日地球全体が有機的な生命体であるという認識に再生されつつあり、環境問題を考えるうえで大前提として思想的な形成をなしつつある。そこでは人間は大地の霊性に敵対するものと位置づけられてきた。これを日本人の感性に刻み込むように訴えかけたのが、宮崎駿監督の映画『もののけ姫』である。私は高畠から帰ってきて、取り憑かれたようにこの映画を観た。映画の冒頭で流れるテロップには「昔、この国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々が住ん
いた」とある。そして生と死をつかさどる「シシ神」や人問に恨みを晴らそうとする動物の怨念がなす、「タタリ神」、モロや乙事主といった動物種を代表する神がみがいる。豊かな森にしか生息しない木霊も、重要な位置で描かれる。森は人の手の届かぬところで驚くほど豊かな生命の循環を持っている。ところがこの世界に神をも恐れぬ人間が踏み込み、森を焼き、動物を殺し、森にいのちをもたらすシシ神の首さえもぎ取った。宮崎氏は映画の中で「怖いのはもののけよりも人である」と人間の女頭に言わせている。神すら睥睨した人間にとってもはやしめ縄や鳥居などは畏怖の対象ではなくなったのであり、むしろ人間の都合のいいように形を変えていった。
 高畠において、しかし、私が感じたのは人間と森との共生関係である。農薬を使わず合鴨を使う農法や、ほじくって手に取ると柔らかく暖かな畑の土を作るミミズや微生物を大切にする、化学肥料を使わない野菜栽培。草や木の中でさえ神を認め、観音岩を大切に保存する信仰心の強さ。それが高畠の大きな魅力の一つである。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №27 [文化としての「環境日本学」]

遠雷

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

 ふと、
 羊水の海から目ざめると
 窓越しの白い朝に
 シンビジュウムの花がもえ、
 遠雷のように
 歴史の地鳴りが聞こえる

 あの日、
 アラビアの夜を砕いた
 砂漠の嵐。
 朝、瓦礫と化した街並。

 やがて、砂塵が止んで
 さまよう子らの背に
 夕陽が戻ってきた。
 けれど、
 燃えさかる油井の火煙は
 虚無の翼を広げ
 青い惑星を抱いてゆく

 夏、
 はるか東方の
 みづほの国で
 四季の巡りが壊れたように
 ふりしきる雨、
 はてしない雨季の回廊を
 泳いでいる、ぼくたち

 葦を取るぼくの背中が
 ヒリヒリ痛むのは 
 酸(す)の雨にただれたせいか、
 見れば、
 いとしい稲も
 激しい稲熱にもだえている。
 ヒマラヤに黒い雪がふるように
 ぼくの村に硫黄色の雨がふる
 
 あめは
 赤とんぼの羽根も
 きん色の穂波も奪っていった。
 掌にこぼれる
 べっ甲色の粒々も、

 初冬(ふゆ)、
 北を揺がす地鳴りは
 世紀をのし歩いた巨象の
 崩れる音。
 それは、地軸が傾いて
 永久凍土の溶けるように
 白鳥を呼び戻す響きだろうか、
 それとも、
 あらたな混沌の前ぶれなのか、

 遠雷のつたう
 ぼくの村は、
 少し陽が高くなって
 晴着をまとった樹々たちが
 霧氷のイルミネーションを
 点し始めた、
 「ブナはブナでいたい。」
 「ナラはナラでいたい。」
 「りんごはりんごでいたい。」

 里は静かだが
 ゆきに耳をあてると
 ドッ、ドッ、ドッと
 大地の鼓動が聞こえてくる
 やがて春が訪れて、
 いのちの交響曲がひびくのだ。

『果てしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №56 [文化としての「環境日本学」]

鎮守の森との出会い 2

                                             岡一仁志
         
 教育について

 今回の日程のなかで、私が最も感銘を受けたところは二日目に訪問した二井塾小学校での伊澤良治校長のお話だった。
 小学校内給食の自給率五〇%を始めに聞かされたときも驚いたが、それにも増して、このような教育方針を打ち出した校長の熱意と、それに応えた現場の教員の方々の努力が、講演を通じて感じられた。農村地域である当地の特性を生かしてこそ可能な教育実践であるが、小学生の時にこのような経験をさせることによって養われる子供たちの感受性や生きる力など、プラスになることは計り知れない。さらに、年長者(ここでは農業のベテラン、人生の大先輩である高齢の方)と接することにより地域に古くから伝わる仕来りや風習、日本の伝統文化に触れることが出来るということは、大変意義のあることだと思う。
 ちなみに、神社本庁においても、関係団体を通じて自然や伝統文化に触れ合うさまざまな活動を行っている。
 例えば、地域の森を守る運動と青少年健全育成の観点から、神宮御用材の地である長野県木曽郡の赤沢自然休養林内に、森林保全施設を運営し、間伐、植栽、遊歩道整備などの林業体験を通じて、森の多面的機能や自然環境保護育成の理解を深める教室を開設している。また、日本の伝統文化啓発の観点から、日本の伝統精神、文化と切り離すことができない「米作り」を体験して学ぶ「田んぼ学校」を開催している。ここでは稲作体験はもとより、コメの歴史や宗教観などを通し、「日本人とコメ」を再発見する学習を子供を対象に行っている。
 しかし、国の根幹である教育に関して、一宗教法人がどれだけ頑張ってみたところで限界がある。国、または地方自治体が積極的に二井塾小学校のような活動をサポートしてくれることを願うばかりである。校舎の外で見た二、三人の児童がリヤカーにたくさんのネギを積んで畑から帰ってくる姿がとても微笑ましく、私事ながら今夏生まれた私の娘もこのような小学校に入れたいと思った次第である。

 日本の農業の今後、神社との係りについて

 今回の日程のメインである星寛治氏の講演は大変示唆に富むものであった。まきに高島町のみならず、日本の有機農業におけるキーパーソンといえる方だと思う。
 「食」は国家にとって最大の安全保障といわれる中で、我が国の食料自給率の低さは危機的状況であることは今更いうまでもない。「農」に関して全くといってもいいはどの無知である私も、それだけは常々気に掛かっており、今回の講演でそれに対する展望をいくらか聞くことが出来た。
 なるほど高島町においては優れた方々の長年の努力によって有機農業が根付き、初等教育も素晴らしいものがある。しかし、これを高畠町の単なる町興しのひとつにしてしまうだけではなく、高畠の人たちが実践する農業の素晴らしさを全国に伝え広めてゆくことが何よりも大切である。同じことは二井宿小学校での教育についても言えることで、全国から農業を営む人たちや学校関係者が高畠に学びに訪れているようであるが、どのようにすれば全国規模で高畠のような取り組みが広がっていくかは、我々も考えてゆくべき課題ではないかと思う。
 我が国は「豊葦原瑞穂国」というように、まさに稲作によって成り立っている国である。
神道でも、一年を通して行われるコメ作りにおいて時に豊かな実りをもたらし、また、時に災いをもたらす大自然に対する感謝と畏怖の気持が基にあり、豊作を祈り、感謝する「祈年祭」や「新嘗祭」といった祭が最も重要位置を占めている。『古事記』・『目本書記』では、天照大御神が天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)に稲穂を託してコメ作りをお命じになったことで、我が国で稲作が始まったとされていることからも、日本人にとって稲作は切っても切り離せない生業のはずである。
 そうでありながら、我が国では市場経済最優先、食文化の変化によって、食料自給率の低下という現在の状況を招来している。かくいう私も神社関係者でありながら、都会育ちでぁるが故に最も大切である稲作を中心とする日本の「農」というものにあまりにも無関心であったと言わざるを得ない。
 星野氏が仰っていたフランスの事例は、今の私たちにとってまさに目標とすべきものであり、今後、我が国は高畠のよぅな農村の復権を全国規模に拡大してゆかなくてはならないと強く感じた。たしかに、現在、我が国が置かれている世界経済体制の中にあっては難しいことだが、食料自給率の問題、その根本にある「農」の問題はもはや看過することはできないだろう。全国規模で日本の原風景を取り戻すことは鎮守の森を再び蘇らせることにも繋がる。そのために自分にできることは何であろうかと、今回の山形の研修で感じた次第である。
              (おかいち・ひとし/神社本庁広報センター広報部)

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №26 [文化としての「環境日本学」]

山居秋瞑(さんきょしゅうめい)
  王経の心象風景

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  ある日、
  ぼくの胸ふかく
  一つの蓮の実が
  千年の眠りを破って
  ポチッと小さな芽を切った

  唐の昔、王経がうたった
  山居の静ひつ、
  めぐる季節の息づかい、
  向うには
  わずかにひとの気配

  ここに生まれ、
  ひとつ所に住み、
  ぼくは迷いながら時を重ね
  幾つもの旅に出た

  銀河鉄道にのって屋をめぐり
  ときには飛天になって
  見知らぬくにを翔び、
  ふと、騾馬(らば)にゆられ
  黄土平原をよぎり、
  はては、海亀の背に腹這い
  南の島を望み、

  その度に
  ぼくの胸は躍り
  あるいは痛み、
  出合いの波にうちふるえた。
  ひととの出合い、
  風土や、歴史とのめぐり合い

  けれど、
  窓の外に流れるものは
  風景でしかなかった。
  都市の光の渦や
  せわしげな営みさえ
  一幅の絵に納ってしまう

  旅に疲れ、
  この山居に戻ってきて
  柔かい土を踏みしめると
  時代が音をたてて動くのに
  ぼくの呼吸はゆったりと
  別の時を刻みはじめる

  むらききの尾根を発ち
  葦や木の根を洗い
  いわばしる谷の水。
  両手ですくい
  喉をうるおすと
  胃腑をひたし、五体をめぐる
  天然の精気のようなもの。
  あたりは山の香気にみち、

  けれどいま、
  この澄んだ水さえ
  ひとのおごりを溶いている。
  酸性雨、
  放射能、
  そして、大気が運ぶ
  数え切れない人為の塵、
  もう無垢の聖地など
  どこにもないが、

  それでもぼくは
  胸ふかく芽を出した
  千年の蓮を育てつつ
  ひっそりと
  山の層に留まろう

  ゆっくりと時が流れ、
  そこから始まるぼくの旅は
  はてしない自己への旅。

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №55 [文化としての「環境日本学」]

守の森との出会い

                                            岡市 仁志

高畠の鎮守の森を訪ねて
                    
 初めて訪れた高畠の郷は、私がこれまで思い描いてきた数十年前の日本の原風景そのものだった。思い描くといっても、私が思い浮かべるのは子供の頃観た映画『となりのトトロ』の世界といった程度で、名作とはいえアニメでしか想像できない私の貧弱な想像力に恥じ入るばかりであるが、その原風景がいまだにこの場所に残っていたことに、素直に感動を覚えた。
 私が思い描く日本の原風景には必ず神社が付随する。田畑の広がる郷に、ぽつりぽつりと鎮守の森があり、表には鳥居が見え、中に小さな社が鎮座する。ときにそれは山の麓にあったりもする。先に述べた『となりのトトロ』でも鎮守の森が重要な役割を果たしている。
 私は、行きのバスでの自己紹介のなかで、「これから行く高畠で期待することは鎮守の森を見て回ること」と言ったが今回の私にとっての目的は、まさに鎮守の森によって育まれた日本の原風景を肌身で感じることにあった。正直に申上げると、私はこれまで「環境」と名の付く学問をしたことがなく、また、昨今の環境問題についても特に専門的な知識をもって接してきたわけではなかったため、今回の高畠合宿でどれだけのことを吸収できるか未知数であった。ただ、「まほろば」とまで銘打つこの高畠の郷に、鎮守の森はどれくらい重要性を占めているかということは大変興味のある問題であった。
 神社といっても、なかには明治神官や京都、奈良などの有名な大社があるが、それは全国に約八万社ある神社の中では極僅かで、大多数の神社が神主1人で奉仕しているか、神主がおらず地域の氏子たちが守っている神社である。なかには小さな祠のような神社もある。しかし、それぞれが今もそこにあるということは、長い年月を通じてその地域の人々に親しまれ、守られてきたのであり、むしろそこに民間に息づく神道の本来の姿があるのである。
 その意味で高畠の郷は、まさに期待通りであった。あたり一面田畑が広がる中に、ぽつりぽつり、こんもりとした森が独立してある風景がいくつも見られ、しかも、その神仕の多くに、きちんと氏子によって管理されている形跡が見られた。特に「ゆうきの里・さんさん」の近くにあった神社(皇大神社)は、鳥居が新しく奉納されており、村の神社として、地域の人が神社に対し豊作を願い、感謝する、はるか昔からの姿がそこにありありと感じられた。
 日程上、ほとんどがバスの中からしか確認することが出来なかったが、鎮守の森を見るたびに、カメラのシャッターを夢中で押していた。田舎の澄んだ空気の中にある田園風景は写真を撮るのには格好の被写体だが、やはりそこに鎮守の森がないと画竜点晴を欠いてしまう。日本の原風景に神社は欠かせないとつくづく思う。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №25 [文化としての「環境日本学」]

 果樹園だより

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  奥羽の屋根に
  わき立つ雲を染めて
  陽がのぼるとき、
  あたらしいゆきに包まれて
  里は夢のくにに変った

  山も、木も
  野も、畑も
  荒れた休耕田さえ
  白にめざめ
  はなやいでいる

  むらは無言だが
  ぼくは雪を踏みしめ
  ひとり果樹園に向った。
  すると樹々たちは
  白い盛装で迎えてくれる
  摘み残したりんご二つ、
  紅を溶いて
  元旦の朝にもえて、

  「幻の果実が戻ってきた」
  何年ぶりに
  ぼくがもらった玉杯に
  涙の粒が落ちた
  それは、
  流した汗の総量に
  造物主からの贈り物。
  
  ぼくを囲む樹々たちが
  その樹形に刻んでいる
  三十年の時の重さ。

  桑の古木を掘り起こし
  ふじの細い苗木を植え、
  五年たって初成り、
  十年たって成木に、
  その年、モニリヤ病で全滅、
  土づくりから再起。
  十五年かけて鈴成り、
  つづいて台風、
  冷害、豪雪、日照り、
  無農薬に挑戦。
  ふたたび壊滅、
  回復までに三年、
  来る年も、また
  病虫害とのせめぎ合い、
  あ然とする結果と
  わずかの歓びと
  はてしないくり返し。
    りんごに恋して三十年。
  ふろ、炭焼きの煙から生まれた
  天然の木酢液(エキス)が
  樹々たちの野性を醒まし
  地のみのりを結ばせたが。

  きらめく朝、ぼくは
  生きてきた果樹園の
  手さぐりの履歴書を胸に
  地球の鼓動を聞いている

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №54 [文化としての「環境日本学」]

体的に「精神的辺境生」を生きる意志 2                                                              [“ひと”を育んだ風土] 

                                             西村美紀子 

 交流会で星さんが差入れて下さった高畠のお酒は、美味しかった。ワイン党の私が長年米国で暮らしている間に、日本酒は全く別物に生まれ変わっていた。華やかな芳香と雑味のないやわらかな味わいとさらりとした後味。「これは日本酒ではない」と叫びそうになったのを、危ういところで「夢見心地でいただきました」と、こちらも本音で置き換えると、星さんは「今年もイギリスの鑑評会で入賞が期待されているんです」と、遠慮がちに、誇らしげに、そして本当に嬉しそうにおっしゃった。

 第三の出会いは、最近聞き知った高畠からほど遠からぬ旧宿場町のある清酒蔵の話である。奥羽山脈を見上げる最上川沿いにある一六一五年創業の蔵元。当時まだ二〇代だったその跡継ぎが、酒蔵の総監督であり実際の製造・管理を指揮する杜氏なしに自分で酒造りをするという前代未聞のことをやってのけ、しかも「十四代」というその地酒はそれまでになかった類の旨さと質の高さゆえに全国で評判になり、今では入手困難になるほどの人気だという。東京で醸造学を学び、学生時代に友人と酒を酌み交わしながら「清酒で天下を取る」決意を語り、会社勤務後、故郷に帰ったその人は、熟練の蔵人達の信頼と協力を得て、その頃主流であった「淡麗辛口」ではなく「芳醇旨口」という新潮流を生み出し、それが全国を席巻したというのだ。

 星さんにいただいた日本酒の味はその「芳醇旨口」を彷彿とさせるものだったが、地元とはいえ、その酒の蔵元と、酒造業界に革命を起こした高木顕統という上記の人物との直接の影響関係は分からない。ただ、その革命によって、引退する杜氏の後継者難で苦慮していた全国の中小蔵元の跡取り達が高木氏を目標に自ら酒造りを始め、各地で消えかかっていた清酒蔵の灯が再びともったそうである。

 星さんと高木氏、この二人にいくつかの共通点があるように思えてならない。

 固有の特性と歴史を持ち、住民の地縁的生活空間である、「地域」に根を下ろし、効率的近代農業という時代の流れに逆行して、生命を育む有機農業という農業革命を断行した星さんと高畠町有機農業研究会の皆さん。書物や数知れぬ研究会により幅広い知識を身に付け、技術的経済的諸問題解決の中値性を模索し、中央の動向を批判的に隼握しつつ辺境から世界を透視する目を持ち続ける星さん達の三六年にわたる活動や「耕す教育」は、傍流・異端であったものがいつの間にか中央で尊重される、という逆転の現象を生んだ。
 一方、高木氏は、東京での大学・社会人生活の中で実家の酒蔵を日本地図・世界地図上に位置付けることによって、日本酒という文化の継承と家業の存続・発展のために自分が成すべきことを見出し、その伝統文化の重みゆえに誰も考えつかなかった革命を酒造業界に起こした。「十四代」は全国にファンを持つ本流となり、日本酒文化のさらなる発展の契機ともなった。
 世界を透視する目と、確固たる信念と、絶え間ない努力を超えてこの二人のキーパーソンに共通するのは、「中央/中心」を知識として取り込みながら、そこから一定の距離を置き、己の生きる地域の歴史風土に根を下ろして、自分とそれを含む共同体の未来に向けての決断と選択を行うことができる、主体的な「精神的辺境性」といったものではないかと思う。
 今回の高畠への旅から得たものは、雑多で漠然とはしているが、以下のようなことになろうか。稲作農耕文化の国、日本に生まれた幸福と呪縛を受け入れ、中央の主流に呑み込まれることなく、精神的辺境性を保ちつつ、地縁的生活空間としての地域の伝統文化・風土に根を下ろし、生命に感謝しつつ自然と共生しつつ、常に新しい在り方のカタチを模索しながら生きていく意志の重要性。私の「環境日本学」創成参画の旅は始まったばかりである。
(にしむら・みきこ/地球環境戦略研究機関持続性センター環境人材育成コンソーシアム準備会事務局次長)


はてしない気圏の夢をはらみ №24 [文化としての「環境日本学」]

共生のむらへ

                                      詩人・「地下水」同人  星 寛治

  ふと、目ざめると
  地鳴りのように低く
  時の鼓動が聞こえてくる
  もう、ぽくらの村に帰ろう

  そこはイワンの国のよう
  掌に豆だこの人がいて
  土にまみれ、鍬を打ち
  胸につたう汗が勲章だ

  見れば
  森の泉で若水を汲む
  子らの背中がまぶしい
  雪を頂いた山に向い
  ぼくらは地の声を聞こう

  いま列島は
  地ふぶきにかすんでいるが
  やがて、ぼくらの村に春がくる
  まんさく、辛夷(こぶし)、山桜
  菜の花、れんげ、梅、桜桃
  李、梨、りんご、かりんの花
  せきを切って咲ききそう
  桃源郷の花明り

  広がる水面に早苗がゆれ
  帰ってきた燕の影がよぎる
  子らは湯気の立つ乳を汲み
  産みたての卵を割り
  羊毛を紡いだ服を脱ぐ

  ふと、ぼくのファインダーに
  二重写しに浮かんでくる
  海の向うのおとぎの国
  ペンシルバニア州
  ランカスター郡
  エミッシュ村の物語
  四百年の時空をこえ
  文明の孤島のかたちをして
  新教徒の夢が息づく所

  なだらかな丘に沃土が開け
  育ちゆく作物はみな美しい
  耕すのは人と馬で
  道を走るのは幌馬車だ
  種まく人たちは答える
  「陽の出と共に野良に出て
   陽の沈むまで働くことに
   何のふしぎがあろうか」
  だから地味は肥え
  ゆたかな稔りの波、波、波

  野辺に鐘がひびけば
  古風な主屋で
  ランプの団らんがはずむ
  心を耕やし、時をかみしめ
  暮らしの根を伸ばす
  速度も、変化も、情報も
  エミッシュの幸せとは無縁で
  ゆったりと時が流れ
  この楽園にみちみちる
  人と自然の息づかい

  ふと、われに返った今は
  ぼくらの村に戻ろう
  林立するビルや、電光文字や
  洪水のような物量や、競合いや
  途方もない何かに焦がれ
  虚像に踊る姿を後に
  さあ、美しい村に帰ろう

  胸の窓を開けてみないか
  膏い風が分け入ってくるよ
  あの峰を流れる雲は
  はてしない気圏の夢をはらみ
  澄んだメッセージを伝えてくス
  そう、谷の水音に
  じいっと耳を傾ければ
  深く地の薯が聞こえてくる
    豊饒の地にみちみちる
  いのちの鼓動がひびいてくる

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №53 [文化としての「環境日本学」]

主体的に「精神的辺境生」を生きる意志 1                                                              [“ひと”を育んだ風土] 

                                             西村美紀子

 バスを降り立った私の目に飛び込んできたのは、高畠の里山と田んぼ、小川に屋敷林であった。関西の田舎で育ち、長く米国で生活し、帰国後東京の住人となった私にとって、今回の山形訪問は、忘れかけていた「ふるさと」との再会になったのかもしれない。そんな旅での人・食べ物・自然との新たな出会いは、しまい込んでいた思い出とともにその土地のイメージを決定づけてしまうことがあるが、私の場合も、高畠行きの直前に甦った懐かしい記憶、高畠での経験、そしてその後の東京での経験という三つの出会いが、山形の風土が育んだ山形びとに対する強烈なイメージを形づくることとなった。
 第一の出会いは、二〇余年前の、月山のふもとで農民によって見事に演じられる「黒川能」との出会いである。長年能を舞うことを趣味にしていた祖母の影響で、京都や大阪の舞台で演じられる能や狂言を観るようになっていた私は、芸能としての能の成立史に興味を持ち、また鑑賞の助けにと仕舞を習いだしたばかりだったが、たまたま黒川の能演者の家に生まれた知人に教えられた、五流の能とは違った黒川能の姿に強く心惹かれた。近代以降の農村環境の激変に堪え、村人自らの意志によって、戦時中も中断することなく、四〇〇年以上守り継がれてきた農耕の神事能である黒川能と、それが自然暦の一部となっている黒川という場所自体に魅せられたのである。黒川能は月山の項から神をお迎えして二月一日・二日に行われる迎春の祭り「大祇祭」、五月の黒川春日神社「例祭」、七月の出羽三山神社の豊作祈年魂しずめの儀式「花祭り」、二月の「新穀感謝祭」と農耕暦の節目ごとに奉納される。とりわけ迎春の大祇祭は黒川の里の人々がひと月前から準備に入る一大行事で、全国各地から熱心な能楽ファンが詰めかけるそうである。
 実は、すっかり忘れていたこの黒川能のことを思い出したのは、原剛先生が高畠行きの前に我々塾生に次のようにおっしゃった時だった。「高畠病に気をつけて下さい。高畠から戻った人は口々に高畠のことを周りの人に話したがり、再び高畠を訪れずにはいられなくなるのです」。この言葉は、ある著名な能楽研究者が自戒の意味を込めて発したという警告、「黒川へは行かぬ方がよい。行けば皆黒川に淫する」を即座に連想させたのである。
 これは単なる偶然ではなかろう。第二の出会いとなる高畠という場所は、神の宿る里、日本の農村の原風景であるといわれる。そこでは村人が春に祖霊神を里宮に迎えて豊作を祈願し、秋の祭りで収穫を感謝し、薪や炭、山菜や何より農耕に欠かせぬ水という恵みを与えてくれる里山に感謝し手入れを絶やさない。神の息吹の感じられる白然を損ねることなく、作物を食する人を損ねることなく収穫を得るために、皆であれこれ試行錯誤し、土と対話しながら有機農業を行う。そこここに建てられた神社仏閣では飽き足らぬと見えて自らの手で石を切り出し、石仏を刻み、そのものに命が宿っているかのような形状の石に草木塔を刻んで、あらゆるものの生命に感謝し祈りを捧げるのである。

 近代以降、生命や自然や伝統文化を蔑ろにして押し進められた開発の結果疲弊しきった都市の住民が高畠病にかかるのにはちゃんとした理由がある。そしてそれは都会人が農民祭事黒川能とその能を守り育てた黒川の里にのめり込む理由とも相通ずるのである。聞くところによると、黒川能が農民によって能という日本の伝統芸能を連綿と継承してきたことの意味を考察し、昭和三四(一九五九)年に『黒川能』という研究書によってその真価を最初に世に問うたのは、高島町有機農業研究会のリーダーで農民詩人として知られる星寛治氏が人生の師と仰がれる、野の思想家、真壁仁氏であったという。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №23 [文化としての「環境日本学」]

幻視のむら

                              詩人・「地下水」同人  星  寛治

  それはメルヘンの村なのか
  あのむらききの山なみへ
  白い衣をはためかせ
  ゆきの女は去りました

  樹々たちは残雪をはねのけ
  水車はしぶきをあげ
  もえぎの里は一面の菜の花
  赤牛の背に陽炎がもえ
  庭には土をついばむ鶏のむれ

  早乙女のうた声は
  水面をわたる風にのって
  スクール馬車がかけぬけます
  子らの歓声に囲まれて
  爺さんは誇り高い駁者になり

  紅花は梅雨あけの野を染め
  麦秋は蝉しぐれにもえました
  だんだらの丘はぶどう棚
  ルビーの実がひかる日は
  汗にぬれた顔がほころびます

  ぎんぎらの夏は
  川辺に子らの水しぶき
  樹下を吹きぬける風に会い
  螢の川の日暮れには
  茅ぶき屋根の緑に出て
  祭太鼓を聞くのです

  豊穣の秋はいい
  きん色の穂波の中に
  ただ立っているだけで
  ときめきが満ちてきます

  それは季節のおごりのよう
  いいえ地の恵みというべきです
  枝もたわわなりんごや
  打上花火の柿の実を
  子らは木によじのぼり
  小鳥ときそってかじります

  干柿ののれんの下に
  もう漬物も仕込みました
  陽だまりで粟を打ち
  炉端でまゆを紡ぎましょうか
  納屋は薪木で一杯だし
  木枯しの日は納豆を煮よう

  飢えも戦争もない自給のむら
  老いも若きも結び合って
  のびやかに生きている村
  そんなぼくの初夢は
  ふしぎや21世紀のことでした

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №52 [文化としての「環境日本学」]

いのちのマンダラ 2

                                                               嶋田文恵

  風土と祈り

 星さんは「祈りの心を失っていない人たちがいる地域では、大規模な自然破壊は行われない」と言う。
 「祈り」とは何か。確かに高畠には、「いのちのマンダラ」を映し出す、目に見えない小さな生物が無数に生きている田んぼを大事にする人たちがいる。子供たちを愛し子供たちの未来のために、いのちと農の教育を実践している人たちがいる。きれいな川と山を維持し、蛍とカジカ蛙を愛護する人たちがいる。土地で取れた新鮮な野菜やコメをおいしく料理する知恵や技術を継承する人たちがいる。この上地の気候、作物、土、はたまた歴史など何でも知っている「人間国宝ともいうべき文化と知恵のかたまりの人(伊澤校長)」がいる。そして何より安心と幸福に満ちた笑顔を見せる子供たちがいる。先祖の人々は「章木塔」いうモニュメントを刻み、人と草木のいのちのつながりに感謝してきた。高畠の「糸たちはその地に「共に生きる」ことに、愛情をたっぷり注いでいるように見える。
 「祈り」とは、まさにこのことなのではなかろうか。すべてのいのちは、自然(宇宙、神、人間を超越したもの)によって生かされ、また自分もその一部であることを自覚(無意識にも)していること。万物は自然の調和によって生かしあっていること。それが「祈り」であり、その心が、高畠には連綿と継承されてきたように思う。
 このように思うとき、まさに明治初期、まだ近代化が屈かぬ東北の地を旅したイギリス人女性、イザベラ・バードが越後から小国峠を越えて置賜盆地に入ったときに記した風景が重なる。
 バードは「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。〝鍬で耕したというより鉛筆で描いたように〟美しい」「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である」「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である」「どこを見渡しても豊かで美しい農村である」などど、この地方を記している。
 実際にはただ美しいだけでなく、そこには先祖たちの幾多の苦労があったことと思う。しかし今回初めて高畠を訪れた旅人である私は、バードがこの地域に対して抱いた感情と、
ほぼ同じ感慨を持って高畠を体験したのである。これはこの地に「祈り」の心が連綿と引き継がれてきたことを意味していないだろうか。

 近代の向こうにあるものと農業

 星さんを中心に高畠の人たちがたどってきた軌跡をみてきた。農民として身をもって体験した農化学薬品の健康被害によって、星さんと仲間たちは有機農業を学び、先駆者としての多くの困難と闘いながらも、その「本物度」を証明し、有機農業の社会的認知を広げてきた。「点」が「面」になり地域社会に広がり、教育や文化に影響を与え、それが町や県という行政をも動かす力となった。
 ここから何を学ぶか。一つは、「一人の人間の意識が社会を変えていく」ことである。それも「足元から」だ。一人の人間の本物の意識は、周りの人々の意識を変え、さらに地域社会の意識を変え、もっと大きな単位の人々の意識を変えていく。その意識の変革が社会の変革を促していく。そうした力が私たち一人一人にもあるのだ。そのことを犀さんと高畠のみなさんは教えてくれたように思う。
 私が学んだ二つ目は、「パラダイムの転換」「近代の向こうにある新しい社会の創造」としての、一つのモデルを高畠に見たことである。それは、農業・教育・福祉・産業が共に生きる「共生社会」としてのモデルである。それはその土地の資源、生活様式を活かした「内発的発展」でなければ難しいように思える。なぜなら近代化の要請は、伝統的な生活様式を持つ地域社会・地域文化をある意味「破壊」することだったからである。
 近代の限界と矛盾が明らかになった現在、日本の産業構造の変革、とりわけ食糧自給の問題が急を要するが、それを実現するためには、国民の意識の変革が必要である。エコブームという時代の後押しは、エコビレッジ、農家民宿やレストランのブームに見られるように、若者や退職者の農指向、自然回帰を促している。「文化は都市にある」のではなく、「文化は農村にある」に人々の意識は変わってきた。それはまた人々が、地域社会での「共生」=つながりの再構築を求めている現われのようにも思える。星さんはこのことを「生命文明への転換」と表現した。
 私たちが大きな歴史の転換点に立っていることは、誰もが意識していることだろう。ではこれからどこに向かっていこうとしているのか。それは、単に近代を否定し逆行する道
ではない。私たちに近代を通ることでしか見えなかった者、わからなかったものがたくさんある。近代という時代を通過したからこそ向こうに見えてきた道。その一つの道をすでに歩いてくれる先達たちが、「タカハタ」にいたのであった。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №22 [文化としての「環境日本学」]

新アルカディアの寓話

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  国境のせまいトンネルから
  薄明りがもれている
  見ると苔むした魚板に
  新アルカディア入口とある

  三輌つづきの箱列車は
  汗ふきながら登ってゆく
  スイッチバックをくり返し
  古い親戚を訪ねるしぐさで
  峠の駅々に立寄るのだ

  ふかい峡の回廊をぬけると
  ばっとらんまんの春がひらける
  この山里にあふれる
  めくるめく花明り

  古事を抱いた街に着くと
  きぬずれのさやげに似た会釈
  「ようござったシ、
   ほんとにとおぐから、
   オショウシナ」
  みんな同じ目線で語りかける
  目の湖にあおい森が映るのだ

   ひなびた街はずれから
  直ぐ村みちがつづいている
  桜桃並木の切れ目から
  菜の花、れんげ畑が広がって
  蜜蜂の羽音、蝶の舞い
  昼下りなのに鶏の声、犬の芦
  ふと苗譜の桃源郷を患う

  いい顔をした若者も
  彫りの深いお年寄りも
  すがやかに会釈を交す
  背負い籠に野菜を摘む
  娘たちのふくらはぎに
  陽炎がゆれる

  畑の土は
  かかとが埋るほどに柔かい
  足裏に地の温りが伝わって
  うす紅のりんごの花が散ると
  やがて小さな実を着ける

  麦秋は
  水車がしぶきを上げるときだ
  山裾につづく稲田の絨毯(じゅうたん)も
  ずい分厚みを増したものだ
  朝やけの葉先をおおう
  クモが編んだ銀の皿

  泉のほとりで小屋をとり
  若い夫婦はうなずいた
  「野も山も、空も風も、
   みんな子どもたちの舞台さ」
  葦木供養の石碑(いしぶみ)に背もたれて
  鳥の芦に耳を澄ますふうだ

  明日は森の泉に出かけよう
  みんなで清水を汲み
  あたらしい桃源郷の朝やけに
  身も心も染りたい

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世織書房


高畠学 №51 [文化としての「環境日本学」]

いのちのマンダラ 

                                                               嶋田文恵

はじめに

 「高畠、有機農業、星寛治さん」この三つの言葉はかなり以前から私の脳裏にあり、いつかは訪ねてみたいと思っていた。それが早稲田環境塾のスタディツアーという形で実現しきわめて幸運だった。そして多くの気づき、学び、癒し、そして希望をいただいた。
 高畠に何を見たか。それは一言で言ってしまえば「パラダイムの転換」である。どのような思考の枠組みへと転換していくのか。その一つの形を見せてくれたように思う。
 以下、私が高畠で学んだことを、星寛治さんを軸に有機農業と高畠の歴史をたどりながら、いくつかの項目を立てて述べてみたい。そして最後に、高畠を通して私が考えた「近代と農業」について述べてみたい。

近代農業の光と影

 近代の経済効率優先、合理主義、大量生産/大量消費/大量廃棄システムの物質文明社会は、地球資源の無駄遣いと枯渇、深刻な環境汚染、さらには人間をモノとして扱い食といのちをおろそかにした結果による、人間の深刻な肉体的精神的病を引き起こした。人間が作った社会経済システムも、金融危機に見られるように立ち行かなくなった。地球も人類もこのままでは生き延びていけないことは、もはや誰の目にも明確になってきている。
 農業も近代化の中で、効率化や重労働からの解放という光の一方、農薬や化学肥料の影響による深刻な人体や自然に対する影響という影の部分を引き起こしてきた。星さん自身、「近代農業の尖兵」のような役割を果たしていたというか、リンゴの幼果の全滅、健康被害にあい、農薬が命や環境に大きなダメージを与えることを身をもって体験する。さらに自分も被害者だが、消費者にとっては加害者にもなり得る。そぅしたことが転機となって、有機農業を志すのである。

星寛治さんと仲間たち

 星サンと対面するのは初めてであり、たった数時間のお話と二日間を一緒に過ごしただけなのに、私は深い感銘を受けた。哲学者だと思った。まさにキーパーソンとはこういう人のことをいうのだと思った。それは実体験の中で積み上げてきた賜物なのだろう。
 一九七三年に「高畠町有機農業研究会」を三八名の仲間と立ち上げ、リーダーとなった星さんは、①自分との闘い②地域社会との闘い③農政(国)との闘い(星さん)を続けながら、手探りの実践を重ねていった。有機農業は異常気象、干ばつに強い、そして市場相場と一切関係のない「提携」をすることによって、しだいのその価値が認知されるようになる。軌道に乗ったかと思われる頃、星さんは地元の人に、「おまえらずいぶんいい思いしているじゃないか」と言われ、ハッとしたという。地域社会を変えるには「点」から「面」にならなくてはだめだと思ったと言う。
 一九八七年に「上和田有機米生産組合」を立ち上げ、有機農業を広げ始める。そしてここが難しいところだが、有機農業を広げるために一回だけ除草剤の使用を認めた。「妥協した」「今思えばこれが境目だったが、これで広がった」(星さん)と言う。さらに地場産業であった食品会社とも連携し、地域経済の活性化にも貢献する。
 もちろんこうした実績は、星さん一人の力ではなく、そこには星さんたちが有機農業を学んだ先達たち、福岡正信さんや一楽照雄さんたちの協力があった。そして有機農業を始める前からの青年団運動の仲間たちがいた。星さんは突出して有能な人だが、共に支えあう仲間たちがいたからこその賜物なのだと思う。その仲間たちのリーダーとしてここまで有機農業を社会認知させてきた星さんは、やっぱり人並みはずれた大智、人徳を持つ人なのだと思う。それを言葉の端々、私たちとの個人的な会話からも「分感じさせてくれる人であった。

地域・行政を動かす力

 「面」となった力は、さらに地域を動かす力となるり 農業は単に食物を得るだけでなく、人間形成に果たす役割も大きいとの観点から、食農教育に取り組む。「耕す教育」と称して、高畠町の小中学校では三〇年前から学校所有の畑や田んぼを持ち、実際に土に触れる教育を取り入れる。二井宿小学校の伊澤良治校長が見せてくれたスライドでは、子供たちは本当にイキイキと見えた。さらに「いのちの教育」として、二〇年前から都会の子供たちの農業体験を受け入れている。それは、星さんたちが有機農業を地域の中で成功させてきた実績があり、塁さんが高畠町の教育委員長としての任にあったことが、これらを導く大きな力だったといえるだろう。
 地域の力=教育と文化の力は、次に行政を動かす力へと強まっていく。
 高畠町は「たかはた食と農のまちづくり条例」を二〇〇九年四月から施行している。この条例は画期的だ。大雑把なポイントは「自然環境に配慮した農業」「安全・安心な農産物の生産と地産地消」「食青の実践」「農業の多面的機能と交流の場」そして「遺伝子組み換え作物栽培の自主規制」である。すでに多くの遺伝子組み換え作物が輸入されている日本だが、自国での栽培はまだ試験段階にある。農水省はイノゲノムの実績のある稲からまず実用化したい考えのようだが、それを見越して水際で食い止めようという条例を作ったのは、他の地域のことは知らないのだが先駆的であると察する。しかし星さんたちは、「自主規制」からもう一歩踏み込んで「禁止」まで持っていきたかったようだ。有機栽培の農地が増えてきた昨今、他の地域がどのように対応しているのか興味のあるところである。
 星さんは山形県教育振興計画審議会委員長も務めており、二〇〇四年、山形県教育委員会は審議会の答申を受け、一〇年間の第五次山形県教育振興計画を策定した。ホームページを開くと、「星寛治委員長から木村宰教育長へ答申書が手渡されました」のキャプションが付いて、星さんの大きな写真が飛び込んでくる。星さんは「行政もようやくこういうレベルまで達した」と言う。それを動かしてきたの.が星さんたちである。
 星さんは言う。「農と教育は見えないところでつながっている」「パラダイムの転換には教育と文化のカが必要だ」。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №21 [文化としての「環境日本学」]

いまよう飛天物語
   春の広島紀行

                             詩人・『地下水」同人  星 寛治

 北のふるさとは
 粉雪が舞うていたが
 市電の行き交う街には
 蘇鉄(そてつ)の葉が見えかくれ、
 国泰町の大路にのしかかる
 巨きなビルの容量が
 生れ変った都市の身体(からだ)と
 情熱をあらわしている
 
 鯉城に沿って川が流れ、
 橋の上を車が流れ、
 飛天になったぼくは
 ドームの上を旋回して
 ゆるやかに着地する。
 その衣の風に誘われて
 数え切れない鳩が舞う

 慰霊塔にもえる火に
 目を閉じ、頭を垂れると
 はるかな時空をつきぬけて
 あの日が戻ってくる
 幼い日の夏を引き裂いた
 悪感のようなもの、
  心を喪うことのおそれ、

 あの日、飛び込んだ人々で
 埋まったという川、
 いまは、銀色の鯉が泳いでいる
 この平穏の水底にゆれる影を
 じいっと見入っている
 飛天の懐に抱えているのは
 香気の壷だ。

 タクラマカンの熱砂は、秋
 奈良の杜に薫風を運んだが、
 冬のヒロシマは
 飛天の胸をしめつける。
 もう鳩の群れに囲まれて
 留まることはできない

 ふたたび羽衣をひるがえし
 冬の飛天は空に舞う
 琴を鳴らし、
 ゆらめく炎に祈りを残し
 北に向って翔びつづける、
 眼下に広がる瀬戸の海
 おとぎの国に似た畠、島
 てり返すしぶき

 翼はしめった雲を切り
 すぐに雲海の上に出た
 累々のじゅうたんの果ては
 ぬけるような青空
 鳥たちの呼吸も届かない

 やがて薄暮が訪うと
 彼岸の国の夕映えがもえる
 飛天は息を呑んだまま
 まばたきせず眺めている
 あの橙(だいだい)色の花園に
 天女たちがゆったりと
 会釈を交わしているのだろうか

 飛天は目を閉じたまま
 さらに北へと翔びつづける
 皮膚に時空の流れを刻み
 磁気も引力も振り切るように
 飛ぶことだけに生きている
 
 どれだけたつのか
 底深い夜気が肢体(からだ)を包む
 気がつくと、
 前方に大きな月がある
 山の端でも、海の上でもない
 ましてやビルの屋上でもない
 無辺宇宙の空間に
 ただぽっかりと浮いている

 ふと、翼を斜めに旋回すると
  月は左右に位置を変え、
 あるいは彼方に去る、
  それは不思議な光景だ 
 はるか地軸宅を離れた不安定が
 ぼくの神経をくるわしたのか
 
 意を決した飛天は
 オゾンの皮膜をはなれ、
 まるで墜落する速度で
 地上めがけて降下する。
 一瞬、雲海をつきぬけると
 しめった温かさを知覚する

 すぐに、潮の匂いが迫ってきた
 無数の明りの点滅が見える、
 にぎわう東京湾の方位が
 ざわめきの中に読み取れる
 
 翼をたたみ
 潮風に衣をなびかせて
 飛天はひらりと着地する
 そこは関東ローム層の
 やわらかい土の上だ。
 足裏から伝う大地のたしかさ、
 温かさ

 まだ、北のふるさとは遠いが
 地を這うて行くばかりだ、
  虫の目でいいではないか
 ゆるぎないものを見つめ
 いのちの鼓動を聞きながら、
 歩きたいのだ

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世織書房


高畠学 №50 [文化としての「環境日本学」]

[宗教的自然観の教えるところ] 2

                 システックエナジー研究所代表パートナー   加藤和正 

 私にとっての宗教

 日本経済が右肩上がりだった時、項張れば頑張っただけ収入が増した。これはこれで面白く、やりがいを感じていた。しかし仕事をしながら、ビジネスの伸展が同時に自然を段々と消耗させて行く現実を感じ、これがとても気になっていた。もちろん公害防止ルールを遵守して仕事を進めてゆく訳だから、人にうしろ指を指されることはない。しかし、それで良かったのだろうか。一方で、これでは自然に対する配慮が不十分であると感じていた。すなわち、水、空気、そして土を劣化させ、その結果人間以外の生物の生存を阻害しているのではないかという恐れである。自然を含む他者を破壊すれば、いずれ自己を破壊するという確信が徐々に形成された。これを改善するための倣うべきモデルは、合理主義一辺倒の西欧社会はもちろんのこと、世界全体を見渡してもどこにも見あたらない。成長神話に人が疲弊し切っている現況があり、だから次のグランドデザインが求められているのだと思う。これからは自力で考えて行かなければならない。だれも教えてはくれない。その意味から、共生を重要視する環境保全の新たなパラダイムとして、宗教の視点を採り入れる必要性があると感じている。
 多くの日本人がそうであるように、私の場合も、神は正月の初詣に、また仏は法要にあるだけである。これ以外に神や仏と係わる事はなかった。日本で社会生活を営む限り、これでも特に問題は起こらない。しかし、還暦を過ぎ、来し方を思い、これからの人生を考えるたびに、宗教的自然観の重要性を感じるようになって来た。それは、西欧文明国が主唱し、合理性に終始する地球環境保全の議論に飽き飽きしたからである。いくら議論をしても具体的な解決に至らない現実に対し、これまでに無い新たな規範として宗教的自然観が必要であると考えるようになった。しかし、宗教的自然観と言っても、これまで宗教を学んだ経験は無い。つまり、宗教的知識は皆無の状態である。そこで、宗教書を読んでみることにした。
 先ず、西欧社会のEthicの根元である旧約聖書に目を通した。冒頭、創世記第一章に神の言葉として「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」とある。つまり、キリスト教では、生き物を人間とそれ以外に分け、その統治の権限を人間に与えている訳だ。この様な宗教心からは、「自然と共生」という意識は育ちにくい。それは、人間から見て「自然は常に人間が持続的に存在するための管理対象であると考えているからだ。この思想からは食を得ることに対する感謝の念は生まれてこない。これが西洋的考え方の本音であり、同時に限界であるような気がする。だが、この認識も一部をとらえただけのもので全体を理解するには程遠い状態にあるのかも知れない。次に、般若心経を読んでみた。古来、未来を貫き永久に変わらぬ心理は「空」だと説く。難解な内容だ。理解するためには相当の時間を要する。だが、共生の理念を共有するためには宗教に関する理解を更に深める必要があると感じている。それは、宗教と文化には密接な相互関係があり、これが「自然」の持続性に大きな影響を与えることが確かだと考えているからだ。

 改めて「ゆたかさとは何か」を考えてみる

 ゆたかさとは何か」を考える場合、「人間は自然の一部である」という基本的認識が先ず求められると思う。加えて、「人間は自然には勝てない」との認識も必要と考える。すなわち、自然を中心とする考え方だ。しかし、これらの認識は近代化の流れとは全く逆のベクトル上にある。確かに、宗教的自然観の中に環境保全問題解決のための新たな糸口があると感じるのだが、これはすでに物質的ゆたかさを享受してきた先進国の反省から生まれたものである。未だ近代化の恩恵に浴していない発展途上国に対してこの考え方を押しつけるのは可能だろうか。当然彼らは物質的ゆたかさを先に求めて来るだろう。これはかつて先進国が歩んできた道筋でもある。従って、先進国としては発展途上国が近代化の道をたどる過程で引き起こす種々の環境阻害要因を引き受ける努力をしなければならない。宗教的自然観の定着が阻害を緩和する方向に作用するのは確かだが、これだけで総てを補償するのは難しいのも事実だ。だから、近代化指向との整合が求められる。
 宗教アレルギーも気になる。例えば、かつて森喜朗元首相が語った「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」という「神の国」発言などに接すると、かつて日本軍が神の存在を悪用して来た過去がほうふつとされ、宗教アレルギーが煽られる。また、仏教が異常な形で利用されたオウム真理教の例からも同様に強烈な宗教アレルギーが惹起された。確かに宗教の持つ影響力が負の方向に働いた場合の被害の甚大さには恐れを感じる。だから、環境保全の議論に関連して宗教的自然観の必要性を説くと、往々にして相手に警戒心を持たれる場合が多いように思う。しかし、安易にこの状況を回避してはならないとも思う。
 環境保護の根幹を成す生態系・エコロジーの原点をカミ・ホトケの概念から考える「環境日本学」は他に類を見ない大変ユニークな内容である。「ゆたかさとは何なのか。」「地球はどこまで人間の諸活動を許容出来るのか」など、本質的で、かつスケールの大きな問いに答えられる思想体系に成り得ると考えている。しかし、一方で思想構築の過程では前述の様な高い障壁の問題が横たわっているのも事実だ。近代化との整合をはかりながら、その中で日本が位置するべき場所を探し出すためのひとつの作業が必要だと思う。社会学としての「環境日本学」が、この高いレベルに到達するまで、これから更に内容を深めて行く必要があると感じている。非力ではあるが、これからも環境日本学の創設に参加できれば幸甚である。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №20 [文化としての「環境日本学」]

山と川と、少年の目と
小松均物語

                              詩人・「地下水」同人  星 寛治

  比叡(ひえい)の岩肌に結んだ露が
  槍の樹下のせせらぎとなり
  高野川の清流となる所
  京、大原にぼくはきた、
  はるか
  悠ないのちを刻んだ家並が
  寄り添うように脈を打つ
  
  現世のかなしい性(さが)や、葛藤や
  魂の痛みを抱いたひとが訪う
  ふしぎな谷沿いの村、
  苔むした三千院の静謐、
  古事を秘めた寂光院の薄明り、
  その境内にたたずんで
  ぼくは川向うの集落(むら)を望む

  山裾の雑木の陰に
  小松均画伯の家はあった
  アトリエというよりは
  農家のたたずまいの棟々が
  屋敷の中に点在している
  生垣の門には
  茜雲報恩郷と大書されていた
  その傍に
   「主の体調すぐれず、面会を
     ご免下さい」
  と貼紙がされている

  けれど、気品にみちた老夫人は
  ぼくら遠来の客を招かれた
  あたりに溶け込む簡素な住いが
  日本画壇の巨匠の城なのだ。
  居間の壁に岩山が迫り
  錦鯉が躍っている

  とおい昔、
  最上川べりの寺に生れ
  二歳で父に別れ
  母の生家で育った少年が
  丁稚奉公、新聞配達、書生、
  波乱にみちた荷を背負い
  絵の道に挑んできた時空が
  噴き上げる力を擬結させる
  
  苦悶の若き画家を
  京都の地に引きつけたものは
  きっと運命の糸かも知れぬ
  大原の土を耕やし
  沢水を引いて稲をつくり
  骨太の自活の貌を彫りながら
  美の狩人の目は冴えていく

  この里にはや数十年
  動かざる石のごと土着した
  超俗の世界、
  そこにぼくは踏みこんだ。
  累々の岩塊に凝縮した
  魂のひびきがこだまとなって
  この狭い部屋に充ちてくる
  
  やがて画伯があらわれる
  和服をまとい、白髭をたくわえ
  仙人のように瑞座する
   「きのう百号の絵を仕上げて、
     院展に送ったばかりでネ」
  こともなげに静かに語る

  「いやァ、甲子園の山形勢、
  ヤキモキさせられたヨ」
  郷里に愛をにじませて
  お茶をすすめる
  八十三歳の巨匠の目は
  少年の目のように澄んでいた

  「遠くのものを近く見よ、
    近くのものを遠く見よ、」
  武蔵の兵法の目で
  岩山の一ひだも
  一木一草も見逃さず
  無我の境地で時空を執る

  そしていま、超俗の両家は
  回遊魚になり最上川に帰ってきた
  吾妻の懐深く生れ、
  置賜の野をうねる大蛇の図、
  山塊を映した四季の流れを
  生き物の垂線で描きつづける
  
  大石田の岸辺に立ち
  冬の大河に迫るとき
  画伯はきっと神に近づくのだ
  河岸にそびえる巨木に似て
  風景に同化したまま時がゆく、
  画布にふぶきがにじみ
  あの少年の目が青くもえる
 
   「もう最上峡のあたりまで描いた、
  この大きな流れが海に注ぐまで
  俺は絵筆を休めない」
  すでに河の連作は
  並べると百米を越すという、
  鍬を握り、筆を持って
  森羅万象の相貌と
  いのちの核に迫る哲人は
  河が荒海に合体するとき
  北に帰る白鳥のように
  天空を翔ぶのだろうか、
  京、大原と出羽路を結ぶ
  ふしぎな必然と混淆(こんこう)を
  ぼくは白い連山の向うに見た。

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世織書房


高畠学 №49 [文化としての「環境日本学」]

西欧思想への順化の過程と離反の前兆
[宗教的自然観の教えるところ]

                 システックエナジー研究所代表パートナー   加藤和正

 環境問題の基本構造

 環境問題は多面性を有し、かつその一つひとつが深い意味合いを持つ。解決のための議論は、大気汚染や水質汚染など限定的な領域にとどまってはならない。経済問題は勿論のこと、貧困問題や人権問題とも幅広く影響し合う広範囲な議論に至らなければならない。従って、環境問題に取り組むことは同時に「豊かさとは何か」という人類共通の問題を問い直すことにもなる。これを個人レベルで考えると、その人自身の人生テーマの追求に向かう。ここまで踏み込んで環境問題の基本構造を認識しないと、問題の解放にはならず、議論は皮相的なものになってしまう。
 もともと、環境問題は人間社会の進展すなわち近代化によって発生した。近代化とは、封建制社会のあとを受けて民が中心になって形成した資本主義の社会のことである。具体的には、西欧の市民社会が、蓄積した資本を元手にして達成した産業革命とその技術の活用による大量生産、大量消費の社会を意味する。この社会の理念のルーツはギリシャ哲学にある。基本はLogicとEthicである。Logicは合理性の追求に対して、一方Ethicはキリスト教的倫理観の普及に対して、それぞれ西欧社会の論理的な根拠になってきた。キリスト教社会は産業革命を契機とする科学技術の発展によって物質的な岨荒さを獲得し、これを糧に宣教師を通じて世界にキリスト教的道徳観を広めたのである。物質的な豊かさは西欧人以外の人々にとっても魅力的なことであったから、東洋においても同様に近代化は受け入れられた。
 だが、西欧的近代化手法には多くの矛盾が内在し、年を経るに従って、地域的展開の途中でこれが問題として顕在化したと多くの人が感じ始めた。環境破壊と宗教紛争である。解決に向かう兆候さえ見えない。これまでのやり方、すなわち西欧的合理主義の押しつけがましさではこの状況を打破するのは困難だと思う。西欧文化の賞味期限はすでに切れてしまったようにも思う。すなわち西欧的近代文明に限界性が見えてきたと言う認識だ。

 西欧思想への順化の過程と離反の前兆

 大学で金属学を学び、鉄鋼会社で働いた。仕事の多くは技術的問題の解決である。解決のためには科学的知識の修得が必須で、その基礎となるのは、日本政府が明治以来学生に課してきた洋算や理学の理解である.。日本にもかつて関孝和等の「和算」があった。また、「からくりの技術」もあった。これらは大変高いレベルにあったと聞く。しかし明治政府が教育として実際に採用したのは西欧の教育カリキュラムだった。すでに内容が体系立てられていたし、また日本が目指した富国強兵策としての鉄の製造を教育課程に有するということも採用される決め手になったのかも知れない。
 洋算や西欧的理学のルーツはギリシャ哲学にある。学習の際には常に根本理念に即した合理的説明が求められる。それ自体に問題は無いのだが、しかし往々にしてこの合理が西欧文化から見た合理主義である場合が多い。例えば機械論がその代表例だと思う。時計をモデルとし、自然をその延長と見立て、外から与えられる力によって法則に従って動く部分の集合ととらえたデカルトの思想が典型で、以後の自然観、科学観を規定した。現代ではサイバネティクスや分子生物学がその代表例である。画一性を批判されることもあるが、蒙昧主義や神秘主義に対する有益な批判として評価されて来た。私自身も社会生活の数々の場面で暖昧さを残しながら相手に了解を求める日本流のやり方には一種の仕えの感覚が透けて見え、その都度西欧的合理主義思想のさらなる徹底を願ったことを思い出す。
 反面、西欧文化の中で科学を学んできた我々日本人は、特に技術者にその傾向が強いが、どうしても思考方法が合理主義一本槍に陥る危険がある。これは、思考のフレキシビリティーを低下させ、思考の多様性も弱める。西欧合理主義の好ましくない影響は科学以外の分野でも表れる。その代表は、ベンサムが主唱し、ミルが展開した功利主義である。幸福と快楽を同一視し、「最大多数の最大幸福」を目指す考え方だ。逆に苦は悪とする。この考えのもと、快楽の定量化を図り幸福計算の形でしあわせの評価も試みた。カネを具体的な評価関数とする功利主義はその判り易さから産業革命の哲学となり、この考え方は、以降古い秩序に対する一大改革運動の礎となった。すなわち現在の営利企業の経営理念のルーツとなったのである。特に米国社会でこの傾向が極端な形で現れ、カネでカネを生み出す産業(すなわち金融業)が幅を利かせる風潮となった。この様な拝金主義一方で突き進む近代化は社会的に大きな歪みを発生させ、自然環境に対しても甚大な悪影響を与える結果を招いた。資本主義という経済哲学をベースに発展した近代社会はいま機能マヒを起こしている状況と言えよう。
 哲学者の内山節氏は 「近代へのニヒリズム」というテーマで資本主義の歴史的な限界を述べている。すなわち、今日さまざまな場面で危機という言葉が使われているが、それは人々がいまの仕組みが立ちゆかなくなっている、持続性を喪失してしまったのではないかという思いが発現されている」と主張する。たとえば経済混乱ならば一時的なもの、立ち直れば元に戻るものだが、いま人々が感じているのはそういうものとは違う。現在の経済が持続可能な能力を失っているのではないかという思いが、気持ちのどこかにある。資本主義の発展と一体になって展開してきた近代文明そのものが、歴史的な限界を示し始めたのではないか。根底に流れているのは、持続性を感じられなくなった近代のシステムに対する一種のニヒリズムである。そうだとすると、資本主義で発展してきた西欧文明国が合理主義を盾に提案して来た「生物多様性」や「持続可能な社会」とは何なのか、これらは単なるうわべだけのことではないのか、大いに疑問が残る。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №19 [文化としての「環境日本学」]

はたちのあなたに

                             詩人・「地下水」同人  星 寛治

  はたち
  なんとはりつめたことばだろう
  朝もやをついてひびきわたる
  トキの声のように
  ぴりりと全身をひきしめる

  はたち
  なんと歓びみちたいのちだろう
  めくるめく光の渦に
  野をかける風さえふるえ
  川は喚声をあげてはしる

  はたち
  なんと不安にゆれる時だろう
  未知なる世界のいざないに
  ためらいもかなぐり捨てて
  ひたむきに飛びこむあなた

  はたち
  なんとかけがえない年だろう
  たった一度の節目に立って
  過ぎてきた軌跡をたどり
  あらたな旅立ちを決意する

  ぼくらの青い地球がそうであるように
  深く燃えたぎる火を宿しながら
  地殻に年輪を刻むあなた
  森、草原、海原、
  耕す緑の大地、
  そしてゆかしげな街並

  その生きている球形は
  はるか宇宙のかなたからは
  きらめくサファイヤに似るという

  ぼくらのふるさと
  この水明のたかはたを
  みどりの星のひとみにしたい
  らんまんの花明り
  乳と蜜の流れる
  豊穣の野に立てば
  あなたには見えくるだろう
  ひとすじの道が

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世織書房


前の20件 | 次の20件 文化としての「環境日本学」 ブログトップ