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高畠学 №57 [文化としての「環境日本学」]

『もののけ姫の世界で』 1

                                              関谷 智

 一日目の夜、星寛治さんの軽トラックの荷台で、私は興奮して喋り、歌い、ライトに照らされては漆黒の暗闇に消えゆく農道をちらちら眺めやっていた。高畠についたのはその日の午前中であった。雨が心配されていたが晴れ男原剛先生のおかげでからりと晴れた青空に迎えられた。最初にお会いした星先生の物腰穏やかで、それでいて透き通った瞳に芯の強さを感じさせる姿は、講演の内容もさることながら、高畠の入り口は星さんであると感じさせるものがあった。高畠に入った私たちは、清流に棲む生き物がもつ川の息づかいのようなカジカ蛙の鳴き声に耳をそばだて、森のいのちが美しく漂い舞う光を、驚きをもって見守った。手にとった小さないのちの光はほんのり暖かく、くすぐったかった。昼間に見たぽつねんとした草木塔の姿が、姫と呼ばれる森の小さなホタルのいのちに重なった。小さいけれどその力のもつ抗いがたい力と魅力は、人々の心をつかんで離さないという点で、高畠に到着してからの出来事は、私の日常では経験し得ないことばかりであり、私は一種異様な興奮に包まれていたのである。それは一方では高畠の人々の、よそ者を迎え入れる暖かな態度や、今時の若者のコミュニケーションには切っても切り離せないファーストフードとは全く違う野菜主役の料理によるものであった。食べ物には機械の切なさではなく、人間の手の感触があった。人間の繋がりとでも言ったものだろうか。しかし他方では、私の興奮の要因として、何か自分の座っている和田民俗資料館の畳の部屋を越えて、その外に広がる田んぼの稲の風にこすれる音や、その中に棲む蛙や水蟷螂、そして森の木々の間をうごめく動物たちの息づかいがあった。大きな大きな生き物たちの命の渦の中に自分の存在を溶け込ませていた。都会で生まれ育った私にとって、子どものころに一番記憶に残っているものは、空が黄金色になるまで夢中になって蝉を追いかけたことや、家族でキャンプに行ったときに見た、夜の森で樹液に群がる虫たち、地面を這う蟻を捕まえて観察した経験である。想い出は土や草の匂いと常に一緒にある。決してコンクリートのビルやゲームソフトから生まれるものではない。そしてこの子ども時代の記憶がふと、高畠でよみがえってきた。私の興奮は、そして高畠病と呼ばれる愉快な興奮症状は心の中にしまわれていた大切な思い出のひもがほどけてゆくことにあるのかもしれない。これは言い換えるならば、大地の霊性を感じることであるといえよう。
 大地の霊性などというといささか神秘めくが、それは古代アミニズムの中にあり、またそれ以上のものでもある。山川草木、地上におけるものはなんでも神々のよりどころであるというのが日本の神道に見られるアミニズムであるが、それが今日地球全体が有機的な生命体であるという認識に再生されつつあり、環境問題を考えるうえで大前提として思想的な形成をなしつつある。そこでは人間は大地の霊性に敵対するものと位置づけられてきた。これを日本人の感性に刻み込むように訴えかけたのが、宮崎駿監督の映画『もののけ姫』である。私は高畠から帰ってきて、取り憑かれたようにこの映画を観た。映画の冒頭で流れるテロップには「昔、この国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々が住ん
いた」とある。そして生と死をつかさどる「シシ神」や人問に恨みを晴らそうとする動物の怨念がなす、「タタリ神」、モロや乙事主といった動物種を代表する神がみがいる。豊かな森にしか生息しない木霊も、重要な位置で描かれる。森は人の手の届かぬところで驚くほど豊かな生命の循環を持っている。ところがこの世界に神をも恐れぬ人間が踏み込み、森を焼き、動物を殺し、森にいのちをもたらすシシ神の首さえもぎ取った。宮崎氏は映画の中で「怖いのはもののけよりも人である」と人間の女頭に言わせている。神すら睥睨した人間にとってもはやしめ縄や鳥居などは畏怖の対象ではなくなったのであり、むしろ人間の都合のいいように形を変えていった。
 高畠において、しかし、私が感じたのは人間と森との共生関係である。農薬を使わず合鴨を使う農法や、ほじくって手に取ると柔らかく暖かな畑の土を作るミミズや微生物を大切にする、化学肥料を使わない野菜栽培。草や木の中でさえ神を認め、観音岩を大切に保存する信仰心の強さ。それが高畠の大きな魅力の一つである。

『高畠学』 藤原書店


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