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高畠学 №53 [文化としての「環境日本学」]

主体的に「精神的辺境生」を生きる意志 1                                                              [“ひと”を育んだ風土] 

                                             西村美紀子

 バスを降り立った私の目に飛び込んできたのは、高畠の里山と田んぼ、小川に屋敷林であった。関西の田舎で育ち、長く米国で生活し、帰国後東京の住人となった私にとって、今回の山形訪問は、忘れかけていた「ふるさと」との再会になったのかもしれない。そんな旅での人・食べ物・自然との新たな出会いは、しまい込んでいた思い出とともにその土地のイメージを決定づけてしまうことがあるが、私の場合も、高畠行きの直前に甦った懐かしい記憶、高畠での経験、そしてその後の東京での経験という三つの出会いが、山形の風土が育んだ山形びとに対する強烈なイメージを形づくることとなった。
 第一の出会いは、二〇余年前の、月山のふもとで農民によって見事に演じられる「黒川能」との出会いである。長年能を舞うことを趣味にしていた祖母の影響で、京都や大阪の舞台で演じられる能や狂言を観るようになっていた私は、芸能としての能の成立史に興味を持ち、また鑑賞の助けにと仕舞を習いだしたばかりだったが、たまたま黒川の能演者の家に生まれた知人に教えられた、五流の能とは違った黒川能の姿に強く心惹かれた。近代以降の農村環境の激変に堪え、村人自らの意志によって、戦時中も中断することなく、四〇〇年以上守り継がれてきた農耕の神事能である黒川能と、それが自然暦の一部となっている黒川という場所自体に魅せられたのである。黒川能は月山の項から神をお迎えして二月一日・二日に行われる迎春の祭り「大祇祭」、五月の黒川春日神社「例祭」、七月の出羽三山神社の豊作祈年魂しずめの儀式「花祭り」、二月の「新穀感謝祭」と農耕暦の節目ごとに奉納される。とりわけ迎春の大祇祭は黒川の里の人々がひと月前から準備に入る一大行事で、全国各地から熱心な能楽ファンが詰めかけるそうである。
 実は、すっかり忘れていたこの黒川能のことを思い出したのは、原剛先生が高畠行きの前に我々塾生に次のようにおっしゃった時だった。「高畠病に気をつけて下さい。高畠から戻った人は口々に高畠のことを周りの人に話したがり、再び高畠を訪れずにはいられなくなるのです」。この言葉は、ある著名な能楽研究者が自戒の意味を込めて発したという警告、「黒川へは行かぬ方がよい。行けば皆黒川に淫する」を即座に連想させたのである。
 これは単なる偶然ではなかろう。第二の出会いとなる高畠という場所は、神の宿る里、日本の農村の原風景であるといわれる。そこでは村人が春に祖霊神を里宮に迎えて豊作を祈願し、秋の祭りで収穫を感謝し、薪や炭、山菜や何より農耕に欠かせぬ水という恵みを与えてくれる里山に感謝し手入れを絶やさない。神の息吹の感じられる白然を損ねることなく、作物を食する人を損ねることなく収穫を得るために、皆であれこれ試行錯誤し、土と対話しながら有機農業を行う。そこここに建てられた神社仏閣では飽き足らぬと見えて自らの手で石を切り出し、石仏を刻み、そのものに命が宿っているかのような形状の石に草木塔を刻んで、あらゆるものの生命に感謝し祈りを捧げるのである。

 近代以降、生命や自然や伝統文化を蔑ろにして押し進められた開発の結果疲弊しきった都市の住民が高畠病にかかるのにはちゃんとした理由がある。そしてそれは都会人が農民祭事黒川能とその能を守り育てた黒川の里にのめり込む理由とも相通ずるのである。聞くところによると、黒川能が農民によって能という日本の伝統芸能を連綿と継承してきたことの意味を考察し、昭和三四(一九五九)年に『黒川能』という研究書によってその真価を最初に世に問うたのは、高島町有機農業研究会のリーダーで農民詩人として知られる星寛治氏が人生の師と仰がれる、野の思想家、真壁仁氏であったという。

『高畠学』 藤原書店


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