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高畠学 №55 [文化としての「環境日本学」]

守の森との出会い

                                            岡市 仁志

高畠の鎮守の森を訪ねて
                    
 初めて訪れた高畠の郷は、私がこれまで思い描いてきた数十年前の日本の原風景そのものだった。思い描くといっても、私が思い浮かべるのは子供の頃観た映画『となりのトトロ』の世界といった程度で、名作とはいえアニメでしか想像できない私の貧弱な想像力に恥じ入るばかりであるが、その原風景がいまだにこの場所に残っていたことに、素直に感動を覚えた。
 私が思い描く日本の原風景には必ず神社が付随する。田畑の広がる郷に、ぽつりぽつりと鎮守の森があり、表には鳥居が見え、中に小さな社が鎮座する。ときにそれは山の麓にあったりもする。先に述べた『となりのトトロ』でも鎮守の森が重要な役割を果たしている。
 私は、行きのバスでの自己紹介のなかで、「これから行く高畠で期待することは鎮守の森を見て回ること」と言ったが今回の私にとっての目的は、まさに鎮守の森によって育まれた日本の原風景を肌身で感じることにあった。正直に申上げると、私はこれまで「環境」と名の付く学問をしたことがなく、また、昨今の環境問題についても特に専門的な知識をもって接してきたわけではなかったため、今回の高畠合宿でどれだけのことを吸収できるか未知数であった。ただ、「まほろば」とまで銘打つこの高畠の郷に、鎮守の森はどれくらい重要性を占めているかということは大変興味のある問題であった。
 神社といっても、なかには明治神官や京都、奈良などの有名な大社があるが、それは全国に約八万社ある神社の中では極僅かで、大多数の神社が神主1人で奉仕しているか、神主がおらず地域の氏子たちが守っている神社である。なかには小さな祠のような神社もある。しかし、それぞれが今もそこにあるということは、長い年月を通じてその地域の人々に親しまれ、守られてきたのであり、むしろそこに民間に息づく神道の本来の姿があるのである。
 その意味で高畠の郷は、まさに期待通りであった。あたり一面田畑が広がる中に、ぽつりぽつり、こんもりとした森が独立してある風景がいくつも見られ、しかも、その神仕の多くに、きちんと氏子によって管理されている形跡が見られた。特に「ゆうきの里・さんさん」の近くにあった神社(皇大神社)は、鳥居が新しく奉納されており、村の神社として、地域の人が神社に対し豊作を願い、感謝する、はるか昔からの姿がそこにありありと感じられた。
 日程上、ほとんどがバスの中からしか確認することが出来なかったが、鎮守の森を見るたびに、カメラのシャッターを夢中で押していた。田舎の澄んだ空気の中にある田園風景は写真を撮るのには格好の被写体だが、やはりそこに鎮守の森がないと画竜点晴を欠いてしまう。日本の原風景に神社は欠かせないとつくづく思う。

『高畠学』 藤原書店


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