日本の原風景を読む №15 [文化としての「環境日本学」]
早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長 原 剛
海青く波静かなり
渚に浮かぶ 昇天石は
いく度か殉教の血でもて洗はれ
七十余柱のみ霊は
万斛の恨みを抱いて
此處に眠る うしわしきの森よ
雨よ降れ夜よ暗かれ
昭和五十七年 晩秋
平戸市長山鹿光世
沈黙するキリスト。語らずとも心をなぐさめる永遠の海。「あまりに碧い海」に神を視ることができたであろう先人たちの、それはかけがえのない原風景ではなかっただろうか。
―人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです
根獅子の集落は、海沿いの狭い路をはさみ、ひしゃげたように軒を連ねる。「天国」に憧れざるを得なかったのであろう、かっての人々の暮らしの厳しさを今に伝えている。
入り江の奥に教会がつつましく連なるこの島で、筆者は祈る。少女の感動を他の人々にも架け継ぎたいと。
厳しい弾圧下で、生死を賭して信仰を守り通した人々は「潜伏キリシタン」と呼ばれる。」一八六五年、開国後の潜伏キリシタンたちは、再渡来していた宣教師と長崎の大浦天主堂で歴史的な会見を遂げ信仰を表明する。キリスト教史に残る「信徒発見」の大きな出来事だった。
勢いづいた信徒の動きを恐れ、弾圧と摘発が再発する。しかしヨーロッパ諸国が強く抗議し、一八七三年、明治政府は禁教の高札を除き、キリスト教は解禁された。
それを契機に長崎の潜伏キリシタンは二つの異なる道をたどった。カトリックに復帰し、教会を建造し、神に祈りを捧げる信者(多数派)と、カトリックへ復帰せず、禁教時代の信仰形式を守る「かくれキリシタン」(少数派)である。
「日本人がその時信仰したものは、基督教の教える神ではなかったとすれば…‥・」。
カトリックに復帰せず、しかし禁教時代の信仰スタイルを継続したのはなぜか。
近代日本の宗教の一形態を示しているこの原風景の一端は、「日本独自の信仰のかたち」と表現する他はない。
背を没するだんじゅくの繁みの暗闇の底で、かくれキリシタンの末裔たちは「沈黙」を守って消え去ろうとしている。
教典である「聖書」の記述に照らしてみても、その「沈黙」の根拠を見出すことが困難な「日本独自の信仰のかたち」である。
『にほんの「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店
日本の原風景を読む №14 [文化としての「環境日本学」]
早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長 原 剛
平戸島根獅子-殉教の浜
碧い海と神
海-キリスト者たちの原風景
『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店
日本の原風景を読む №13 [文化としての「環境日本学」]
早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長 原 剛
温泉好きの神々
荒ぶる海神
キンメダイの湘
巨石に刻まれた歴史
≪コラム≫ 舟霊を祭る
日本の原風景を読む №12 [文化としての「環境日本学」]
早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長 原 剛
野口雨晴を想う
シャボン玉 とんだ
雨情とシャボン玉を飛ばす少年の像を前に「シャボン玉」(中山晋平作曲、大正十一年)を合唱するツアーの人々に、シャボン玉が陽にきらめきながら降りそそぎ曲が流れる。野口雨情記念館は、六角堂から陸前浜街道を南へ約一六キロ、磯原温泉の浜辺にある。
赤い靴 はいてた 女の子
「一番人気は赤い靴です。詩に秘められた実在の少女の悲しみを知り、皆さん雨情の詩を口ずさみ、合唱になり、立ち去り難いようです」(館員・松川美佐さん)。
萄黍畑(もろこしばたけ)
童話作家の浜田広介はこの詩を「日本詩歌の絶唱」と評し、深い共感を寄せた。
―雨情は晩秋の農村農家のおもむきと、人の世にある、まぬがれたい運命の人間像とを、短章にして刻んだのである。感傷もなく、説明もなく、作者の自然によせる郷愁と、人間に向かって送る同情とが、なんと深く、えらびだされたことばのうえにすえつけられたことであろうか。
「こうして土の上にしっかり踏ん張り、土の上で仕事がしたい。文明が進んでしまって、どっちを見ても、ビルやコンクリートぽっかりでやんす。私ら人間が自然と仲良くできるところもほんの少しになってしまいやんした。今しみじみとやさしく包んでくれるのは、この土の香りの大地だけでやんす。私の歌もこの土の香りいっぱいの、ふるさとの自然の中から生まれたんでやんすよ」(「萄黍畑」への雨情のコメント、大正九年)。
自らの原風景への痛切な回想なのであろう。
『日本の「原風景」を読む~危機の時代に」
日本の原風景を読む №11 [文化としての「環境日本学」]
早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長 原 剛
六角堂とアジアの伝統思想
日露戦争さなかの明治三十八(一九〇五)年、天心はなぜ自ら設計して六角堂(国登録有形文化財)を作ったのだろうか。
アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなわち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明と、ヴェーダの個人主義をもつインド文明とを、ただ強調するためにのみ分っている。しかし、この雪をいただく障壁さえも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遺伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである。(岡倉天心『東洋の理想n
明治三十八年、日露戦争のさ中、六角堂にこもった天心は、執筆中の『茶の本』に記した。「人類はいま、富と権力を求める巨大な闘争に粉砕され、大荒廃を繕う存在の出現を待っている」と
大観、波を拙く
西洋美術主流に転じた東京美術学校(現・東京芸術大学)の校長職を解かれ、明治三十一(一八九八)年、天心は在野の「日本美術院」を結成した。門下生の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らが院の拠点五浦に移り住み、日本美の表現、創作活動を展開する。椿の浦に陣取った大観は、躍動する眼下の海景の描写を試みる。「海に因む十題 波騒ぐ」は、黒松が枝を張る岩礁を波涛が噛む瞬間が力強く描かれていた。「五浦海岸の波音」は、日本美術の拠点になった歴史的な景勝地上して「日本の音風景百選」に選ばれている。
『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店
日本の原風景を読む №10 [文化としての「環境日本学」]
関連して記した英国の作家ロレンス・ダレルの言、「人間は遺伝子の表現というよりは、風景の表現である」を想起したい。黒潮・土佐のいごっそう、阿蘇・熊本の肥後もっこす像が思われる。
茨城県北茨城市の五滴海岸に岡倉天心、熊本県水俣市の不知火海には石牟礼道子、静岡県下田の石廊崎には修験道者役小角(えんのおずる)、長崎県平戸島の根獅子(ねしこ)の浜には宣教師フランシスコ・ザビエルの魂が宿る。いずれもトポスの特別に強い海辺である。
これらの海景に共通しているのは、時の社会風潮に抗い、政治権力によって〝追放″された者とその同伴者たちの抵抗の拠点であることだ。
天心は芸術・絵画、石牟礼は文芸・小説、役小角は宗教・修験道、ザビエルは禁じられたキリスト教をもって社会風潮と権力に抗った。背景にはこれら抵抗者たちの、社会への強力な影響力をおそれ、追放を試みた時々の権力の意向がある。
大方の人心は、今日、追放された側についている。潜伏キリシタンの遺跡が、世界文化遺産に選ばれたのはその一例であろう。
「屈原」の日本画家横山大観、『苦海浄土』の作家石牟礼道子、石廊崎の断崖に住んだ役小角、遠藤周作の小説『沈黙』に記されたキリスト教への思いは衰えることなく、人々を現場に挽きつけ、勢いを強めているように思える。時代相というべきか。
太平洋の外海に対する五浦海岸、不知火海の入り江に沿う水俣、間断ない大波が岩礁を噛む黒潮の石廊崎、五島灘があくまでも碧い根獅子。いずれの風景もまことに清浄で美しい。欧米の多くの海岸が荒涼として、陸地の終わりを思わせるのに対し、本篇に記した四か所の海岸はそのいずれにも、ここから陸地が始まる、端々しさがうかがえる。「瀟洒」「跌宕」「美」を日本風景の特長と讃えた地理学者志賀重昂の『日本風景論』(明治二十七年)が思われる。
横山大観、石牟礼道子もその作品によって、風景に宿り人の心をも領するメッセージを表現することで、社会から失われたかけがえのない価値の復活を願ったのかもしれない。
北上する1R常磐線に沿って、白砂の浜と紺青の海がすっきりと一直線に連なる。
大津港のあたりで、優美な砂浜は黒松が茂る断崖と岩礁の海に一変する。「日本の渚百選」の海岸遊歩道を経て岬の公園をめぐると、入り江の岩棚から海に突き出したベンガラ朱色の五浦六角堂が現れる。二〇一一年三月十一日、東日本大震災の津波で流失した六角堂は、県内外から寄せられた基金で翌年四月十七日に再建された。
六角堂再建の目標は、天心の思いを込めた創建当時の姿に復元することだった。
四回の海底探査で建物の三分の二が破片状で回収された。しかし、堂の頂、宝珠に「片の水晶(仏舎利の代わり)を蔵した他は新品が用いられた。
いわき市の山林主は六角堂建立一五〇年に合わせ、樹齢約一五〇年、樹高四三メートルの太郎杉を二本提供した。杉の木の芯(赤身)は腐れにくく、潮風にさらされる六角堂に適している。
六面体の堂の大窓の板ガラスは、アメリカ産で、製法からガラスに独特のゆがみがあった。新六角堂にもイギリスから輸入したゆがみが特徴の大ガラスがはめこまれた。ガラス戸越しに天心が眺めていたであろうレトロな波の風景が、いま訪れる人の人気を集めている。
六角堂の朱色の塗料はベンガラ(紅殻)。桐の油を溶剤に、岡山県成羽町の塗師が伝統の技でインド伝来の深みのあるベンガラ色調を再現した。
堂の中央に、栗材を用いた六角の炉が設けられた。東側、太陽が昇り来る離れ磯に、高さ一七〇センチ、重さ二トンの雪見灯篭を配置、「茶室としての六角堂」が完成した。灯篭は御影石の表面を真壁の石職人がノミだけを用いて削った気品漂う作品だ。
設計から材料、建築まで、六角堂は「かけがえのない五浦風景」に寄せられたオールジャパンの資源と知恵の表現と言えよう。
日本の原風景を読む №9 [文化としての「環境日本学」]
黒沢峠
「雨混じりの風が、窓の紙の破れ目から吹き込む中で、煙にむせ返りながら、指先を囲炉裏で温めているのは、わびしいものです」(『日本紀行』)。黒沢峠(山形県小国町)の険しさにもまして、集落の人々の惨めな暮らしぶりにバードはたちすくんだ。
明治十七年、新道の新潟-山形線が開通、黒沢峠道は廃道となった。
良寛和尚、直江兼続、西郷吉之助、そしてイザベラ・バード、原敬。黒沢峠を越えた人たちの足跡を思い、その記憶を後世に伝えようと昭和五十五年、集落の二一戸がこぞって「黒沢峠敷石道保存会」を結成、旧道の発掘、復元作業を始めた。
「峠を越えたバードの達成感はどれほどであったか。その勇気を思い、集落が力をあわせて歴史の記憶を蘇らせようと自発的に作業を始めました」。黒沢峠敷石道保存会の保科一三会長は顧みる。
共感は広がり、二千人を超す高校生やボランティアが加わる。幅二メートルはどの胸つき八丁路はところによって二メートルもの土砂に埋もれていた。ブナの森を縫い辛うじて旧道の痕跡が残っていた。五年半の作業で四〇センチ四方ほどの砂岩三六〇〇枚を敷き詰めた峠道が現れた。「作業を終えてバードの旅路の達成感を思いました。この土地に生きる力を若い人たちに伝えたかった」。保科さんの言葉に力がこもる。「峠に立てば一三六年の時間を超えて、バードの苦労と感動を私たちも分かち合うことが出来ます」。
黒沢峠路は文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた越後街道にあって、「これほど美しく特徴ある街道は『歴史の道百選』の中でも唯一のもの」と高く評価されている。
十月恒例の「黒沢峠祭り」は二八回を数えた。lR米坂線小国駅から三・六キロ、峠まで二時間半のトレッキングに東京、千葉、京都、神戸からも常連が加わる。
高安犬と犬の宮
「熊がちょくちょくおれの小屋に来て、山神サマの方さ、ずぅーと下がってえぐなヨ。ぶっかることも、あっこでナ。ンでも、おだがえ、わがってえっから何もしね。会えだくなっと、来んナだ、へ」(熊が時々、私の小屋の脇を通って神社の方へ降りて行く。顔を合わせてすれ違うこともあるけどそれまでよ。両方とも何もしない。お互いによく分かっているから何もしない。会いたくなると来るんだ。」
椿は作家戸川幸夫が直木賞を受賞した『高安犬』のモデル、四〇頭を仕留めた熊内の名人吉蔵こと椿義雄の孫である。
椿が暮らす高安の集落は、幻の日本犬・高安犬のふる里だ。家人に急を知らせ椿の命を救った猟犬は、既に姿を消していた高安犬の血筋を引く勇敢な日本犬だった。「犬張子を思わせるガッチリした体つきの、戦闘的な狩猟犬」(『高安犬物語』)は犬の宮に祀られ、参拝者が絶えない。
杉の巨木が天を圧する岩石の参道を辿ると、山の中腹に権現造りの拝殿と本殿が鎮座している。高安犬の伝説に絡む「犬の宮」南無六道能化地蔵尊である。
愛犬の願い事や冥福を祈る写真、メッセージが、拝殿にぎっしり供されている。近くには、これまた住民を救った伝説の猫をまつる「猫の宮」が。現金代わりに使える商品券の「ワン券」「ニャン券」も町内で流通する。
七月に「全国ペット供養祭」が村の鎮守である犬の宮で行われる。
大宮別当林照院(天台宗)と猫官別当清松院(曹洞宗)の住職が読経、二井宿語り部の会会員が昔話を語る。
ばあちゃんの野菜
今年で四九年間、平さんは自分で作った野菜を和田小に届け続けている。自給野菜組合には今、八人が加わる。「とよさんが一生懸命育ててくれた野菜はとても美味しいです。おかげで私は野菜が大好きになりました」(和田小・平百恵)。
子どもたちから山ほど届く礼状を「何十年もしまってあるので、字が薄れてきて」。時には返事を届けることも。
初夏、月曜の給食メニューは白ごまとバターで味つけした、かって米沢藩の救慌食だったウコギ炊き込みご飯。垣根などに植えられた野草ウコギの小さな新芽を一つずつ摘みとる。
組合のまとめ役、平ふみゑさんは五十歳のとき、母まささんから引き継いだ。「子どもたちに美味しい野菜を食べさせたい、と畑で汗を流していた母の姿を思ってのことです。」
組合が発足をした当時九百人を数えていた子どもたちが、一七〇人に減ったのが気がかりだ。ともあれ、自給野菜組合の試みは街全域の小中学校に広がりつつある。学校農園と合わせ、給食材料の自給率が五〇パーセントに達した小学校もある。
高橋聡校長が、この三月に転任した教員が洩らした言葉を明かした。「私の価値観が変わりました。野菜を届けるおばあちゃんたちは、生きていくのに必要なことを全て自力で成し遂げます。それこそ真に素晴らしい人間と思うようになりました」。
日本の原風景を読む №8 [文化としての「環境日本学」]
日本人の美意識の源
蛍に魂を奪われて
全校児童三九人の「大運動会」に沸く
『日本の原風景を読む~危機の時代に』 藤原書店
日本の原風景を読む №7 [文化としての「環境日本学」]
文化としての頂の灯 - 高畠 1
いくつものトンネルで奥羽山脈を越え、東北・山形新幹線は高畠駅へ着く。山形県東置賜郡高島町。最上川が北へ流れ、蔵王、飯豊、吾妻の山並みが東、西、南へ連なる。一八七八年、イザベラ・バードが「東洋のアルカディア」、「エデンの園」と記した米沢平野の山沿いに高畠町はある。土地の人々が「まほろばの里」と呼ぶ美しい町だ。
置賜は国のまほろば 菜種咲き
若葉茂りて 雪山も見ゆ (結城哀草果)
まほろばとは『古事記』などに記された「まほら」、丘や山に囲まれた稔り豊かな住みよい所を意味する。
七月に入ると、里山の田んぼにへイケ蛍、山あいにはゲンジ蛍が飛び交い、水辺では「キュルルルー」、カジカが涼しげに鳴く。
一九七三年、農薬と化学肥料を多投する農法に危険を感じた二十代の農民三八人が、農民詩人星寛治さんを指導者に有機無農薬の稲作りに踏み切る。奥羽山脈の直下、「クマ出没」の旗があちこちに翻る中山間地稲作の行く末を有機無農薬農法に托した決断でもあった。余剰米の処理に行き詰まった政府が、米の生産調整(減反)を始めた年である。共感する首都圏の消費者がコメやリンゴを買い支えた。コメの値段は蛍が住める環境の保護費込みで、四四年間変わることなく六〇キロ三万五千円で取引されている。平均的な米価の三倍に近い。「環境支払」の原型だ。有機無農薬の稲作り、支援する都市の消費者と手を結ぶ生産者・消費者提携活動は一九七三年、高畠和田地区から始まり全国へ広がった。
奥羽山脈の直下、高島町の和田地区は、一九七四年『朝日新聞』に連載され、大きな反響を呼んだ有吉佐和子の『複合汚染』の取材現場となった。有吉がその味わいを激賞した紅玉リンゴの樹を星さんは今も大切に育てている。
「有機無農薬農法とは、地上に生きるすべての生命に優しく接触し、かかわっていくことです」。星さんはそう語る。
蛍の灯は、大地にいのちが蘇ったことを伝える自然のシグナルなのだ。一九八九年、星さんは町の教育長に推された。全ての小・中学校に田んぼと林を贈り、耕す教育を始めた。志は今もしっかり受け継がれている。
築二五〇年、堂々たる民家を「民俗史料館」とし、ここを拠点に東京、大阪の著名な大学がこぞってゼミナール合宿を開き、星さんの講義を聴いた。都会からの援農者たちの集いの場にもなっている。その庭の一隅に、「子供に自然を、老人に仕事を」と刻まれた有機無農薬農法の指導者一楽照雄の石碑が。
一六六四年、米沢藩は江戸幕府から半領削封を受け、以来屋代郷(現在の高畠)は幕領地となり同時に同藩の預地となった。上杉鷹山による改革がおこなわれる以前の米沢藩は厳しい重圧政治を行い、年賀の滞る貧農は取り囁す年貢徴収第一主義をとった。悪政と言われた重税や専売制も加わり、屋代郷の農民は米沢藩支配を嫌い、代官が直接支配する幕領地を望み、しばしば米沢藩からの離脱運動、一揆へと打って出た。
町立二井宿小学校は学校農園で生徒たちが作る野菜類を用い、五〇パーセントを超す高い給食自給率で知られる。校庭の一角から巨石に「酬恩碑」と刻まれた石文が見下ろす。農民一揆の先頭に立ち、処刑された肝煎り高梨利右衛門をたたえる碑である。巨大な高畠石の碑が役人に倒される度に 仕民は権力や上からのお仕着せ的な政策に対してしばしば自治、自律ともいうべき特性を発揮した。自らよく考えて行動し、潮流に逆らっても信ずる道を進む気質を住民が培ってきた。戦後の高度成長期に多くの農山村が荒廃していく中、とりわけ高畠和田地区の農民有志は自給、自活を掲げ、地域社会に根ざした有機無(減)農薬運動を点から面状に展開し、「たかはた食と農のまちづくり条例」の制定(平成二十年)へ到る。
日本の原風景を読む №6 [文化としての「環境日本学」]
桑の葉を一枚一枚採り、蚕の状態によっては、葉の芯を除いて包丁で葉をみじん切りにして一日六回与えなくてはならない。蚕は四回眠り脱皮し続ける。桑の葉を食べなくなったらまゆをつくる藁細工に糸を吐いてサナギになる。それを乾燥処理する。とりわけ女性たちは大忙しで、養蚕集落には米沢や福島から手伝いが入っていた。バードは女性たちのそのような姿を生き生きと描いている。
旧米沢最上街道にさしかかると、それまでの幅一・二メートルの道路はいきなり道幅七・五メートルに。しかも両側に側溝があり、電信柱が続いている。降ってわいたような近代化途上の世界に出会う。
行く先々のバードにあてがわれた部屋は、しばしば隅々まで蚕に占領されていた。当時の国際市場へ、日本の唯一の輸出産業が養蚕だった。ブナの森林をまとった連山は、頂にことごとく水神を祭り、豪雪の山岳に発する水は田をうるおし、水田稲作社会を支えている。
バードの旅から一四〇年を経た今もアルカディア、置賜盆地はまごうことなく「日本の花園の一つ」であり続けている。
厳しい自然に対してたゆまぬ努力を重ね、はたらきかけてきた暮らしの知恵が、アルカディアとなってこの土地に表現されていた。飯豊町萩生神社恒例の「荒獅子まつり」(八月十六~十七日)では、村相撲を勝ち抜いた大関が神の権化荒獅子に挑む。
「時に民を苦しめた神や殿様に村人が戦いを挑む。立ち向かう。何度やられても立ち向かい、立ち直る。東北人の魂がそこに生き続けています」(後藤寺平飯豊町長)。
東北のアルカディア風景は人々のなお語り尽くせぬ思いと厳しい情念とを秘め、私たちに日本人の魂の在りかを語りかける。
「今もその風景は変わっていません。ただしバードが讃えた理想の楽園、楽土とは成り立ちが、歴史が異なります。水に不安がある土地の散居集落では、水源近くに本家を、下流に分家を配し、家ごとに用水堀をめぐらせ、水尻に残飯を流し鯉を飼いました。飢饉に備え、ウコギの生垣は葉を食用に、強風と吹雪に備え屋敷の西側にバンノキ、シオジの林を、さまざまな果樹を南に配したのです」 (後藤町長)。
「勤勉であること、そして食べ物を分かち合わないとこの土地では生きていけなかったのです。農業を大切にして厳しい自然界で助け合い、生き抜いていく結(ゆい・共同農作業)のようなルールがしっかり根付いてきました。限られた田畑を『鋤でなく絵筆で』ていねいに耕さざるを得なかったのです。自然と共に生きる生活の流儀です。」 (原田俊二川西町長)。
しかし鍛えられた旅行作家バードは、むしろ人々の礼儀正しさと親切心、そしてなによりも心の奥ゆかしさにうたれる。
手の子(てのこ)(飯豊町)の馬逓所で、女たちは暑がるバードをうちわで一時間もあおぎ続け、謝礼のお金を断った。「そればかりか彼らは菓子を一袋包み、また馬逓職員はうちわに自分の名を書いて、私に受けとれというのです」。バードはイギリスのピンを手渡し、「私は日本のことを覚えている限り、あなた方のことを忘れません」とお礼を述べた(『イザベラ・バードの日本紀行』)。
「よぐござったなし(ようこそいらっしゃいました)」。優しく、懐かしい方言が今日も「アルカディア街道」に飛び交う。
飯豊町助役をつとめた菊池直さんが著した『置賜弁方言辞典』は上下二巻、その補筆版が五〇〇ページを超す。英語に巧みなモダンボーイ通訳伊藤だったが、果たして置賜の方言を正しく、聞き取ることが出来たのか、バードへの微笑ましい追憶である。
日本の原風景を読む №5 [文化としての「環境日本学」]
西南戦争の翌年、明治十一年(一八七八年)七月十三日、英国の高名な女性旅行作家イザベラ・バード(当時四十六歳)が阿賀野川伝いに険しい峠路を徒歩と馬で乗り越え、新潟県境から山形県小国町にたどり着く。快晴の宇津峠に立ったバードは眼下に広がる米沢平野の景観の「気高い美しさ」に心を奪われ、欧州の人々が憧れる楽園、エデンの園、東洋のアルカディアと絶賛する。今から一四〇年の昔、近代化以前のこの地の夏の日に、バードは何を見たのだろうか。
「エデン」とは人類の始祖が住んだという楽園、旧約聖書に記された「アルカディア」は、ギリシャのペロボネソス半島の中央部、高山を巡らせた地味ゆたかな隔絶された楽園である。美しい田園風景の英国に育ち、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイをすでに旅していたバードが、なぜこれほどまでに山形米沢平野(盆地)の風景に共感を抱いたのだろうか。
いずれも原題は『日本の未踏の地(Unbeaten Trucks in Japann)』である時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 上巻』(講談社)、高梨健吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)を携え、米沢街道から糠の目街道を経て、あるいはJR米坂線から奥羽本線(山形新幹線)伝いに、小国、飯豊、川西、米沢、高畠、南陽を縫って「アルカディア街道」をゆっくりたどってみよう。
「好天の夏の日、雪を冠した連峰は陽光を受けてぎらぎらと輝き」(『日本紀行』)「日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった」(『日本奥地紀行』)。
眼下を最上川が北へ流れている。「東洋のアルカディア」、理想郷を、バードは江戸から明治へ、彼女の英国をモデルに近代化へ向かおうとしていた東北の一隅に発見した。
米沢の平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町赤湯があって、申し分のないエデンの園で、「鋤ではなく絵筆で耕されて」おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。(『日本奥地紀行』)
米沢平野’南腸盆地)は日本の花園の一つである。木立も多く、潅漑がよくなされ、豊かな町や村が多い」(同書)。当時の農民たちは小作人であったが、一戸の耕地面積は現在の倍強の約四ヘクタールと広かった。その上、鬼面川扇状地の一帯は美田で知られる。現在でも水田一〇アール当たり一二俵(七二〇キロ)を収穫する(全国平均は一〇俵弱)。バードは「圧迫とは無縁-東洋的な専制の元では珍しい光景である」、と記している。キリスト教徒バードは、そこに旧約聖書に記された人類の始祖たちの楽土、エデンを思い浮かべる。農民たちは小作農であったが、この土地では地主から圧迫されず、〝自分の土地”を自由に耕し、自立して暮らしていたと思われる。
日本の原風景を読む №4 [文化としての「環境日本学」]
なぜ、今イザベラ・バードなのか。既に存在しない、近代化直前の日本人の多彩な営みを、その綿密な自然の風景描写とともに読み取ろうと努める動きが、バードブームの基本にうかがえる。この時代の地域社会の、普通の人々の日常の暮らしを日本人自身が記録することがほとんどなかったからである。さらに一連のバードキャンペーンの核心にあるのは、失われ、損なわれた「日本人の魂」「ふる里の営み」を顧みようとする意図ではないだろうか。
それらは国家による殖産興国、富国強兵の国策、急激な近代化政策とは莫逆の地域住民の領域である。
バードの旅の作法にも注目したい。バードについて多くの著書がある米沢市在住の作家、伊藤孝博さんは次のように指摘する。
「バードは旅行する世界を、文献で調査して、深く知り、あらかじめ旅の対象を勉強して、開眼していくのではなく、旅の最初にあるがままの自分を置く。自分の人生に旅を重ね、世界に出会いその場その場で自分にとりこんでいく。そこで自分に出会って行く。旅をしながら自分に親しみ、自分の内面性に対していく。自分と出会っていく道程が『日本奥地紀行』の記録ではないだろうか」
それは商品化された旅ではなかった。
さいわいバードの旅路に描かれた「日本奥地」の、具体的な地名が連続して記述されている東北路で、今でもかってあったであろう風景の残像をとらえることができる。
「イザベラ・バード感動の旅」は、既に世界への旅、とりわけロッキー山脈やチベットなど秘境への単独旅行を重ねていたバードの旅路の一部をたどり、彼女が過去の旅の経験と比較して、かっての日本のどのような風景を心に留めたのか、私たちの関心に連なるバードの視点を紹介する。
バードは高畠で、明治政府の山形県令三島通庸による大規模な国道建設と電柱が連なる日本の近代化の風景を目撃する。現代のバードへの高い関心の背景には、近代化で得たものと失ったもの、とりわけ私たちが感じている漠然とした不安感、落ち着かなさの源はなにか、を理解したいとの望みがあるのではないだろうか。現代高畠の風景は、それらが何に由来しているのか、その一端を私たちに語りかけているように思える。
高畠は一九九四年八月八目、筆者が『毎日新聞』の敗戦五〇年特別社説「生きる」に書いた「宮沢賢治の理想を求め!まほろばの里に共生する農」の取材現場である。ひき続き一九九八年から二〇〇八年まで、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科で筆者が担当したゼミナール「環境と持続可能な発展」の、さらに二〇〇八年以降は早稲田大学環境学研究所早稲田環境塾のそれぞれの調査研究、合宿の場でもある。塾叢書『高畠学』(藤原書店)にこの間の試みをまとめた。
「持続可能な社会の発展」の原型(prOt?宅の)を模索するため高白田を訪れた塾生たちは、人々の積年の営みが表現されている高白田の風景に、「内発的な社会発展」の原型像を共通して読み取っていた。「内発的発展」は本書の全体に通じる視点でもあるので、本書を理解していただく手がかりとして夏目漱石の内発的発展論を紹介しておきたい。
- 西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾か仙れて花弁が外に向かうのを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉をつけた以後の日本の開化は大分勝手が違います。
- 今の日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。私の外発的と云う意味はこれでほぼ御了解になったろうと思います。
- 現代日本が置かれたる特殊の状況によって吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。
明治四十四年の社会状況の分析とは思えない。現代日本人のたたずまいに通底する漱石の透視眼である。「現代日本の開化」は高畠の人々の営みと自然と文化、すなわちこの土地に表現されている風景を解読する参考になるであろう。
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日本の原風景を読む №3 [文化としての「環境日本学」]
しかし、日本社会は3・11から九年を経た二〇二〇年の現在、いまだに世直し(復興)の理念を見出し得ていない。おおいかぶさるように新型コロナウイルスによるハンデミックが地球規模に拡がっている。社会はいわば海図なき漂流に陥り、人心は右往左往している。そのさ中に、文化の基層に発し、自己確認の手がかりともなる風景を読み解き、探求する第四の風景論が、日本人の内面的な欲求として待望されている。
何によって第四の風景論は論じられ、その認識は共有されうるのであろうか。その解への手がかりを得る試みを、私たちの精神と美意識形成のルーツである、文化の基層が表現された原風景を訪ねることから始めたい。そして日本人とは何か、風景の現場でアイデンティティ(自己)の確認を試み、文化に根ざす広範で揺るぎない共感と心構えとによって、世直しに向かいたい。事の成否はひとえに、人々の心構え、覚悟の総和にかかっている。法も制度も企業の社会活動も、本物であるためには、携わる人間の強固な心構えを基盤としなければならない。「強固な心構え」とは文化に根ざした共感であり、場所に根ざし、人間存在の基体となる、これだけは譲れない、「かけがえのない価値」への自発的な認識である。
塾は奥羽山脈の直下山形県高島町和田と、北海道釧路湿原に隣接する標茶町虹別で、地域の人々と親しく交わり、環境とは何か、現場での実践に学んできた。高畠は有機無農薬農法と生産者・消費者提携の原点で、作家有吉佐和子の『複合汚染』の取材現場でもある。標茶では摩周湖に発しオホーツク海へ至る西別川河畔での「西別コロカムイの会」によるシマフクロウ百年の森つくり」と協調してきた。根釧原野開拓農家の苦闘を描いた開高健の『ロビンソンの末裔』の現場に近い。本書の主張点と骨格は高畠と標茶での実践を裏付けとしている。
「水俣湾、二つの原風景」「アイヌの神、シマフクロウへの共感」「蘇る宮沢賢治」「宮沢賢渦の海」「3・日と魂の行方」の各篇は、いずれも早稲田環境塾の研究フィールドでの当事者の講義と取材に基づいて新たに書き加えた。「潜伏キリシタンの『あまりにも碧い海』は筆者が五〇年間、ほとんど毎年釣り目的で訪れている長崎県平戸、生月の島々で得た実感と知見とに基づき記した。
写真は筆者と行動をともにしてきた早稲田環境塾塾生、写真家・佐藤充男氏の撮影による。
日本の原風景を読む №2 [文化としての「環境日本学」]
「これらの作家たちは、鮮烈で奥深い〝原風景〟を持っている。自己形成とからみあい、血肉化した、深層意識ともいうべき風景なのだ。彼らは絶えずそこにたち還り、そこを原点として作品を書いている」(『文学における原風景』集英社、一九七二年)。
一九九四年十月十三日、大江健三郎さんがノーベル文学賞の作家に選ばれた。大江さんは愛媛県松山市に近い内陸部の小さな村、喜多郡大瀬村(現・内子町)に生まれ育ち、作品にも四国の谷間の集落がしばしば登場する。『東京新聞』によれば、受賞に沸く地元の人たちは「ふる里の森や川などの自然に寄せる熱い思いが、大江文学の原点と受け止めている」。
経済学者で『農の美学』(論創社)などの著書を持つ勝原文夫は、個人の原風景の中には純粋に〝国民的な原風景″と呼ばれるべきものが重層的に共存していると指摘する。
-国民的原風景が形づくられるには国民的な伝統も大きく影響する。日本人は農村の風景を直接に〝故郷″という形で〝原風景″とするばかりでなく、農村に直接故郷を持たない者も、弥生時代から日本人が水稲農耕の民であった伝統をとおし、農村の風景を原風景となしうる。 (『農の美学』)
けいこ笛田はことごとく青みけり
ざぶざぶと白壁洗う若葉哉
二〇一八年夏、高校野球選手権で準優勝した秋田県立金足農業高校の選手たちが胸を反らせて歌う校歌(近藤忠雄作詩)は新聞、TVによって繰り返し紹介され感動をもたらした。農の営みが日本人の記憶の原点にきざまれているからであろう。
霜しろく 土こそ凍れ
見よ草の芽に 日のめぐみ
農はこれ たぐいなき愛
志賀重昂の『日本風景論』は日清戦争(明治二十七~二十八年、「八九四~九五年)が起きて間もない明治二十七年十二月に刊行され、国家意識高揚期の青年たちに迎えられた。
志賀は日本風景の特長を、科学的な面から四つに要約した。
気候海流の多変多様、水蒸発の多量、火山岩の多さ、流水の浸食激烈である。
さらに感覚的な面から三つの特徴を指摘した。
清酒(すっきりあか抜けている)
秩宕(てっとう・奔放、堂々としていて細事にかかわらない)
美(美しく立派なこと 感覚を刺激して内的快感を呼び起こすもの)
銀行員、登山家小島烏水(うすい)の『日本山水論』は、日露戦争(明治三十七~三十八年、一九〇四~〇五年)のさ中(一九〇五年)に刊行された。日本で初の本格的な登山のすすめ論であり、風景をかたち作る自然生態系の解説も試みた。山岳修験道に発する日本とキリスト教に由来する欧米との自然観の比較から、風景政策、風景地計画にまで論は及んだ。詳細な一覧表により、山岳を自然(科学)と人間(歴史、人文科学)の諸要因が統合された営みの場とみなし、「山岳とは芸術なり」の卓見に至る(第二章「日本山嶽美論」)。
林学博士上原敬二の『日本風景美論』は、太平洋戦争中の昭和十八年(一九四三年)に刊行された。上原は「信仰の対象とし、敬仰の標的とした霊山に対して人間として『征服』という文字を使うのはそれこそ自然冒涜である。人に対しても自然に対しても征服思想を抱く問は大成しない」と主張している(総論4「自然と人」)。しかし志賀、小島の論に比べると皇国史観を明示し、国土を根源とした愛国心の発露を激しく主張している。上原の風景論は国際的に追い詰められた後発資本主義国日本の窮状を反映し、社会がゆとりを失った状況を反映しているように思える。
三つの風景論は、いずれも文化としての日本列島の風景美、独自性を讃え、ひいては戦局に配慮してナショナリズムの強調に到る内容であった。
日本の原風景を読む №1 [文化としての「環境日本学」]
ニューデリーから列車で一〇時間、カシミールに近い西北インドの街パタンコットへ。万年雪のヒマラヤ山脈ダウラグル山地へ向け、信号機が一つもない道を三時間飛ばすと、標高五〇〇〇メートル級の山脈が壁となって覆いかぶさってきた。車の登攀力が限界に達した谷間の急斜面に、宗教集落ダラムサラがへばりついている。
インタビューに先だって、亡命政府からダラムサラの要所を訪ね、チベット仏教の思想と実践を学ぶように求められていた。私は五日間ダラムサラに滞在し、二〇年ぶりという大雪に雪崩が頻発するこの地の風景と息詰まる思いで対した。
寒さで眠れない早暁、闇の奥から怒涛が押し寄せるかのような音響がホテルの頑丈な石壁を越して伝わってきた。
音源を確かめようと、崖っぷちの凍てついた雪道をたどると、岩山の頂にあるダライ・ラマ宮殿の寺院の境内に到った。
袈裟をまとってはいるものの、上半身裸に近い二百人ほどの僧侶たちが、吹抜けの大広間で星がまたたくヒマラヤの雪の稜線に向かい、腹の底から発する声量で読経に熱中していた。同時刻にダライ・ラマは独り宮殿で沈思黙考の時を過ごすという。
祈る僧侶たちとダライ・ラマ師によって共有されている、夜明けのヒマラヤの荘厳極まりない風景に、私は深い感動を覚えた。内なる潜在意識が動いた、というべきか。
チベット人たちは靴の底革をかじりながら飢えに耐え、ヒマラヤの峠を越えインド領に逃げ込んだという。万年雪を纏ったヒマラヤ山脈の厳粛な風景は、チベット仏教徒の心のよりどころ、原風景なのであろう。
連載第一回目を、秋田県羽後町に伝わる西馬音内の盆踊りの風景から始めた。
約七百年の間踊り継がれてきた、死者と生者が年に一度再会する日本の盆踊りの原風景である。
五穀豊穣を願う女性の踊り手がまとう「端縫い衣装」は、代々家庭に所蔵されてきた綿布、端切れを四、五種類、色鮮やかに左右対称に配して縫い上げる。優美に流れるような踊りの、深くかぶった編み笠、秋田美人の白いうなじが夜の闇にひときわ鮮烈に浮かぶ。対する黒覆面の「彦三頭巾」は、あの世から里帰りした故人たちの衣装である。
お嘩子のがんげ(甚句)は「お盆恋しや、かがり火恋し、まして踊り子なお恋し」と歌いだされる。現世の悲運を悼み、来世の幸福を願う「願生化生の踊り」が「がんげ」の語源だという。
華やかで生気あふれる「端縫い衣装」の踊り手に、黒覆面に藍染浴衣の亡者たちが親しく交わり踊る景観は、その由来を知るとき、たとえひと時の廉の途上であれ、そこに日本の、北山北の風上と抜き差しならず結びついた原風景を見出し、共感に巻き込まれていく自分に気付いた。
西馬音内盆踊りは、国の重要無形民俗文化財「盆踊りの部」の第二号に選ばれている。毎年八月十六日から十八日まで開催される盆踊りには一五万人ほどが訪れる。
西馬音内の盆踊り
高畠学 №63 [文化としての「環境日本学」]
環境保護には知的エリートが必要 2
中国共産党機関紙「光明日報」記者 馮 水鉾
中国には多くの知的エリートがいるが、そのほとんどが現実主義の精神に乏しく、田畑の調査、時代に参与する精神、公共のために問題を解決する精神が欠如し、農村であろうと都会であろうと、一時的居住であろうと定住であろうと、常に、自分自身と時代・地域・事柄を切り離し、小さな影響でもそれを受けることを恐れ、時代の渦に巻き込まれることを恐れ、あらゆる事柄の当事者・参与者となることを恐れる。自分に関係のあることに関わりたがらず、自分に関係のないことには更に関わろうとしない。すばらしい現象を見ても関わらず、不公平なことを見ても首を突っ込みたがらない。総じて言うと、自分の手を汚さず、時代から遠く離れ、自然と隔絶するということが、私たち知的エリートの除き去ることのできない遺伝子である。
時に、とてもおかしいと考えることがある。大学は公共のものであり、研究所も図書館も学術的刊行物も公共のものであるというように、社会はこれほど多くの資金を使って公共事業を行っているのだから、知識と知恵を十分に集結させる権利があり、その能力を活用してそれらの公共資源を人間の身に投入することで〝公共知識エリート〟をつくり出すべきである。残念ながら今日の中国では、実際の知的エリートは知識を身に着けた後、かえって利己的に、そして萎縮し閉鎖的になり、他者に背を向けてしまっているのである。
著名な環境保護作家・徐剛が書いた『梁啓超伝』の中で、彼のひとつの思想に、「なぜ彼と同じ時代の海外留学から国に帰ってきた人たちは、中華民族の運命が強烈に表現されることに注目しないのか? なぜ勇敢に革命の宣伝者や指導者になろうとしないのだろうか? 〝梁啓超〃 のように〝地元のために尽くす″という、国家や民族の運命のために奔走し力の限りを尽くすことがあるのだろうか?」というものである。梁啓超は当時、〃海外で学び国に戻ったエリート″として金を稼ぐことに忙しかった。近年の〝海外で学び国に戻ったエリート″もほぼこのような特徴があり、当然ながら彼らは以前と比較し非常に満ち足りている。普遍的にこのような考えが全ての知的エリートに広がった。破壊された環境を代弁するような知的エリートは少なく、困っている民衆のために奔走するような知的エリートも少ない。自分の身や利益を省みず、自然のための公共事業や社会のための公共事業に力を注ぐ知的エリートがどれだけいるだろうか。全く参与しないというのは不可能なことであり、知識の道義であろうと、個人の良心からであろうと実際関わらざるを得ない。しかし参与が多くなることでの面倒を嫌い、更に多く参与することで消耗することを懸念する。また、あたりにはこれほど多くの休養をとれる温室があり、リラックスして眠ることのできる温床があり、多くの賞賛の言葉を受け、甘い蜜を吸うことができ、平穏な故郷で空想をめぐらすことができる。このように、自然を対岸の火として眺め、一山離れたところに牛を放ち、すだれを隔ててお見合いをし、靴の上から足を掻く、こうして自分の身の安全を守るのである。
知的エリートの〝公共性″の欠如は、恐らく中国の環境保全事業の促進を難しくする重要な原因の一つである。彼らの発言が必要な時、彼らは発言せず、或いは悪人の手先になって悪事を働き、悪人を手助け、悪事を働く。一方で専門家の看板を掲げ、人としての良心に背いて自らの身を立てる。
水杉(メタセコイア) - 星寛治先生及び日本の友人へ
二つ、三つ、四つ人類の村落の間に
空が大地と情感を交わす処に
硬い岩が海へ流される前に
貴方の六〇年間で醸し出した汁液を人々が撒き散らした
そして、この大地に存在するあらゆる柔らかい成長と繋がった
一緒に繋げば遥かに我々を超えてゆく
雀に庇護を与え、蛍の幽かな光を揺らして
神の翼下にかれらの棲家を造り
烏たちは戦を止めた
この世に常にこのような樹があり
他所の樹と一緒に立ち並びたい
この世に常にこのような樹があり
人類が誕生する前を奔走し、人類が絶滅した後に枯れてゆく
この世に常にこのような樹があり
割れ裂けた大地をしっかりと縫い合う
この世に常にこのような樹があり
化石のように強き信念を抱きぬく
この世に常にこのような樹があり
命で家を支え、また傍で守り続ける
この世に常にこのような樹があり
行き先にその根を留めておく
二〇〇八年六月二八日 日本東京にて 馮 水鉾
『高畠学』 藤原書店
高畠学 №62 [文化としての「環境日本学」]
環境保護には知的エリートが必要 1
中国共産党機関紙「光明日報」記者 馮 水鉾
私たちが山形県高島町に行き有機農業を視察したのは、一人の詩人がいたからである。
高度経済成長の時代にこの土地の農民たちは気がついた。日本の急速な工業化は農業と農村を席巻し、農業は一種の工業へと化す - という問題である。土地は商・工業資本にコントロールされ、農民は農業労働者と化す - 彼らは自分たちの地元で〝農業労働者〟となるか、或いは都会に出稼ぎに行くかである。土地は尊厳を失い始め、農民も尊厳を失い始める。
詩人・星寛治氏は敏感な心でこの問題を捉えた。彼は自分の地元の三八人の若者を招集し、「高島町有機農業研究協会」を立ち上げた。彼らは伝統農業の尊厳を回復させたい、古くからの農村文化を継承していきたい、と考えた。そして田畑を健康で活力のある状態に保ち、村の自然、村人たちの率直さ、臨機応変さ、調和、お互いに親しいこの社会の特徴を保護していきたいと考えた。
有機農業は難しい農業である。農薬と化学肥料を使わず、土地が本来持つ生産力に依存する。作物自身の被害に対抗する力は確かに低い。化学肥料はやはり農業を便利で容易なものにしてくれ、重い労働を軽くし、利益を大きくする。一方有機農業は農民たちを重い労働のなかに再び戻した。当時の農林水産省は高畠での試みと粘り強さをとても煙たがった。当時の政府は農業の工業化を一心に考えていたからである。
星寛治氏の詩人という肩書きは彼自身を大きく助けた。彼の書いた詩は東京の文化界でも知名度があり、このことから彼らの村で生産された作物は、都会の消費者との消費提携の形態を獲得した。これらの人々には環境保全グループの人や文化界の先進的思考の持ち主たちを含んでいた。これらの消費提携は彼ら農業従事者を大きく助け、彼らの再生産を保証する利益をもたらすものとなった。
一九七四年、著名な作家、有吉佐和子が『複合汚染』という本を書いた。著書では星寛治氏の故郷がモデルとなっており、彼らの粘り強い有機農業への取り組みと社会のなかで遭遇した苦悩が描かれている。この本の内容は、当初、新聞紙面での連載から始まったもので、当時の日本社会に与えた影響は非常に大きかった。新聞に掲載されて以来、原剛教授のような鋭い環境問題を追う記者は、日本の有機農業の発展経緯を追跡取材し始め、日本の有機農業がすでに全国化している現在も一途に追跡し研究を行っている。
一九七四年、日本のある代表団が中国を訪問し、団員のなかの一人に中村という人物がいた。彼は、〝三八人の若者″のなかの一人である。星寛治氏は中国を訪問したことがあり、当時の彼の肩書きは〝農民詩人″であった。日本の有機農業の代表的村となった高畠が〝メッセージの強い発信能力″があるのは全て星寛治氏の存在と強い関係がある。一九七九年、星寛治氏の故郷高畠町では「町民憲章」が作られ、星寛治氏もこの憲章の製作者の一員として、この憲章の第一条に自然保護と伝統文化の保護を強調した。
三十数年かかって、日本の有機農業は現在の規模にまで発展した。一人の人間が行動を起こすことだけで社会全体にもかなり重要な作用を及ぼす。星寛治氏は有機農業を始めるために、〝柔軟な土地〟から〝健康な食糧〟を育て、その富力と文化力を回復させ、田畑が経済を支えると同時にこの土地の伝統文化を継承し、農業に質の高い文学性をもたらした。その頃、天の人物が冷静にその様子を見つめていた。菊地良一氏である。化学の方面の専門家である彼は、三八人の若者を心配そうに見ていた。有機農業は老人、女性に対し、たくさんの重労働を課しているからである。彼にはフェミニズムの思想があり、女性はあらゆる虐待を受けるべきではないと考えていた。そこで彼は一種の毒性の低い農薬を発明し、それは、ただ一度その農薬を撒けば田んぼの雑草を除去し、作物自身の抵抗力も強化するといった所を持っていた。このことから、高畠の有機農業は二種類のタイプに分けられた。タイプ一として純粋に有機無農薬栽培されてできた米は六〇キログラム三六〇〇〇円で売れる。菊地良一氏の発明した農薬を一度使用したタイプだと、六〇キログラムの米を二六〇〇〇円で売ることができる。ちなみに、有機農業米ではない場合は一六〇〇〇円程度である。彼の発明は多くの人々を有機農業に参加させやすくした。
『高畠学』 藤原書店
高畠学 №61 [文化としての「環境日本学」]
グリーン・ニューデイール農業を培え 1
博報堂ディレクター 水口 哲
法制度の力
有機農業研究会の設立から三四年目の二〇〇七年夏、遠藤さんに話を聞いた。「年をとるとよ、もう体力任せに除草や除虫はできない。手で草を取る、虫を潰すのが有機農業だから、木陰一つないカンカン照りの田んぼに、四つん這いになっての作業はつらい。体力の衰えをカバーする有機農業用の道具や栽培方法が必要なんだが。ところが、日本の役所も企業も、研究開発に目もくれない」。
〇七年は、有機農業推進法ができた年だった。「これで少しは変わるかな」との遠藤さんのつぶやきを胸に、翌年、創立会員の一人渡部務さんの田んぼを訪ねた。もともとやっていた「合鴨農法」の隣の田んぼでは、「二回代掻き法」が始っていた。最初の代掻きで、土中に残る雑草の種子を発芽させる。それを二回目の代掻きで土中に埋めた後に、田植えを行なう。「合鴨より除草効率がいい」と、渡部務さんが言う。
法律が出来てから、「農業試験場の〝変わり者〟がちょくちょく来て、種々の農法を教えてくれるようになった。二回代掻法もその一つ」と言う。
星さんも、法制度の役割に言及する。「草の根だけでは、普及に限界がある。山形県でも、今年度(〇八年)から有機農業基本計画が制定された。公的推進力で、普及が促進される」。
計算して自然をつくる農業へ
「次の目標は?」との問いに、渡辺格・慶大名誉教授(生命科学)の発言を紹介してくれた。渡辺氏は、二〇年はど前、「農業技術を、生命世界を豊かにすることに使うべきだ。産業とは別に、生物そのものをつくることを仕事として、それを社会が認めるようにならなくては」と言っていたそうだ。
有機農業の世界で、「東の星寛治、西の宇根豊」と言われることがある。その宇根さんには正に、『「百姓仕事」が自然をつくる』という著書がある。また、「田んぼの恵み調査」
を全国で展開する中で、次のような数字を明らかにした。「田んぼ一〇アールが〝つくる〟生物は、オタマジャクシ二三万匹。ミジンコ三三九五万匹。ユスリ蚊一一二万匹。タイコウチ二二匹。平家ホタル三二匹。タニシ二八七○匹。トビ虫二一万匹。薄葉黄トンボ一一五○二匹。秋アカネ二二一○匹。ヤマカガシ一・九匹」。
グリーン・ニュ-ディールの農業
温暖化対策と経済対策の一石二鳥策として、昨年秋に発表された「緑の仕事」(国連環境計画、ILOなど)は、「自然をつくる農業」を、有望分野として挙げている。具体的には土作り、節水農業、減農薬栽培、水を回して使う水管理事業、小規模土木、自然再生の仕事などである。それぞれの、投資額と雇用効果も数字で出している。
日本には、星さんや宇根さん、水俣の吉本さんなど、素晴らしい実践家がいる。彼らは詩人でもあり、感性に訴える能力も高い。国際会議で彼らの活動を紹介すると、膝を乗り出して「英語で送ってくれ」と言われることが多い。つまり、世界に通用する〝コンテンツ〟はある。
しかし、彼らの活動を計量化し、全国や世界レベルでの政策にくみ上げたうえで、税金や市場メカニズムを使ってダイナミックに展開するところが、国として弱いのではないだろうか。
緑の〝アポロ″計画
国連・気候変動枠組み条約の締約国会議のバリ会合(COP13、〇七年)で、温暖化の現状把握、将来予測、緩和策、適応策、資金案は、すべて「測定可能、報告可能、検証可能」でなければならない、という決議がされた。
これを踏まえ欧米では、様々な指標づくり、スキーム作りが猛烈な勢いで行なわれている。気候科学、生態学、工学などの科学者から計量経済学者、人間行動学者、政策担当者までが動員されていて、気候変動の〝アポロ計画〟を思わせる。そうした土台の上に、排出権取引の欧米統一市場やWTO(世界貿易機関)でのCO2関税が、始まろうとしている。
かつて大航海時代から近代に入る過程で、欧州は、株式会社制度や国有銀行制度を案出し、大規模にお金と人を回す仕組みを作った。それをテコに、豊かな先進地アジア・アフリヵを抜き去った。同時期、幕府は倹約令という精神運動を繰り返していた。
それから数百年たった現代、〝炭素本位制″、〝生物多様性本位制″という〝異空間″がつくられつつある。歴史は繰り返すのだろうか。
自由貿易ルールのより一層の貫徹と同時に、炭素や生物多様性のバンキング、ボローイング、オフセット、バジェットなどの経済的仕組みが、欧米主導でつくられ、市場経済にビルトインされつつある。
環境日本学への道
そうしたなかで、地域の自然・人間関係・文化を守るには、ベースにある地域の自給経済、共同経済の正統性を世界の市場経済のなかに、理論的・実証的に位置づけ、認めさせる作業が必要だと思う。そこでは、欧米と対等に議論できる環境計量経済学が欠かせない。日本の「感じる文化」、東洋の「統合する文化」に加え、欧米の「数える文化」も磨く。それが、自然・人間・文化の三つの環境を育む環境日本学への道ではないだろうか。
『高畠学』 藤原書店
高畠学 №60 [文化としての「環境日本学」]
グリーン・ニューデイール農業を培え 1
博報堂デイレクター 水口 哲
有機農業の誕生
一九七二年の暮れ、山形県高畠町農協の営農指導員だった遠藤周次さん(当時三二歳)は、職場に置いてあった「協同組合研究月報」に衝撃を受ける。「農薬は、死の農業への道である。これからは、農薬に頼らない農業、儲からないが損もしない農業を目指せ」と書いてあった。「眼から鱗がおちた」。農家に病人が増え、土が変わってきた理由が分かった。
遠藤さんは六〇年代に町の農協に入って以来、近代化農業の先兵として、効き目の高い農薬や化学肥料を農家に普及していた。「農薬使用に公害意識は無く、近代化だと思っていた」と言う。
「月報」発行人の一楽照雄氏に教えを請うべく、星寛治さんらと東京に向かった。一楽氏は、全国農協中央会の常務理事を経て(財)協同組合経営研究所理事長に就任し、七一年に日本有機農業研究会(農林中金ビル内)を設立していた。若い農民には雲の上の存在だった。が、若さと切迫感から突き進んでいった。
七三年の六月に彼を町に呼ぶと、九月には、高島町有機農業研究会を四一名で発足させた。伝統的に青年団活動の盛んな地域でもあったので、その仲間たちが集まった。
土づくりの力
「彼らの存在が特異なのは、平均年齢二七歳というのが示すように、ものごころついてから、彼らは化学肥料と農薬を使った近代農業しか知らない人たちだということである。未知の農業、新しい農業を文字通り開始したのだった」(有吉佐和子『複合汚染』)。
「初めは変わり者集団といわれ、モデルなしの手探りの実践を積んできた」(星寛治)。「化学肥料、農薬、除草剤などを使わずに、有機質肥料だけを施し、土づくりを基本とした」(同)。「三年目、空前の冷夏が襲ってきた。東北地方の冷害は決定的で、地域の作況は半作以下であった。そんな中で、ふしぎなことに有機農業に取組む会員の田んぼだけが、黄金色の稔りを見せた」(同)。
八〇年から八四年まで五年続きの冷害でも、有機の田んぼは平年作を確保した。これらの経験は有機農業で育てた作物が、異常気象に強い抵抗力を持つことを実証した。
しかし、理由が分からないままだった。そこで中林達治・京都大学教授(土壌生物学)に質問した。「良く肥えた土の一握りには、ミミズとか目に見える生物だちだけでなしに、
微生物が数億から十数億の単位で生息している。その生命活動のエネルギーが、温かい土の体温を生成する」との答えを得た。試行錯誤の実践が、科学的合理性をもっていたことを確信できた。一〇年の歳月が経っていた。
協同経済を生む自給経済
農村社会が本来持っていた「豊かな自給の回復をめざしての出発だったので、その産物 - 虫食いや不揃いの - を消費者に供給するという発想はまったくなかった」と星さんは言う。
しかし、冷害を乗り越えた三年目の夏、首都圏で消費者運動を熱心に続けている若い主婦のリーダーの訪問を受けた。『複合汚染』以来、安全な食べものを求めて、本物の野菜や有機栽培米の共同購入を目差していた消費者たちだった。彼らとの「提携」という市場外流通が、七〇年代半ばから始まった。
顔の見える 〝小さな食管制″
食管制度の時代だったが、自主流通米の制度が打ち出されたばかりでもあった。その合法的なルートを経由して、「〝提携〟といういわば〝小さな食管制″を通して、都市と農村が結びついた」(同)。後に、フランスや米国の有機農家にも「Teikei」は広がった。
「提携」は、「畑と食卓を結ぶ顔の見える関係づくり」でもあった。七〇年代は世界的に、顔の見えない単一品種・大量栽培のモノカルチャー化が進んだ時代でもあった。そのなかで、「多品種少量生産でも自立できる」(星)農業経営は一見、時代に逆行するものでもあった。
有機米の「提携」はやがて、消費者が除草など生産活動に参加する形態を生んだ。自給経済が、協同経済を作り出し始めたともいえる。
八〇年代に入ると、地域に根を張る活動に力を入れた。八六年には、農家組合員を倍増させる。また首都圏の消費者グループとの交流の拡大をきっかけに、スーパーや生協、米穀会社、造り酒屋、味噌醤油の醸造元などに販路が多様に広がっていった。
さらに若手中堅の農民が機関車となって地域ぐるみの活動が活発になるにつれ、首都圏の大学のゼミが訪れるようになる。九二年に「まほろばの里農学校」が開校すると、様Zマナ夢や目標を抱いて町にやってくる人が全国から増えた。これがきっかけで高畠に移住する人は八○名を超えた。
『高畠学』 藤原書店
高畠学 №59 [文化としての「環境日本学」]
止まったままの時計
名嘉芙美子
初めて訪れた高畠は、二十一世紀の日本に実在する桃源郷であった。
東京で生まれ育った私には圧倒的に感じられる豊かさが、そこにはあった。見渡す限りに囲み連なる山々、優しい田園風景。そこで呼吸をする度に、癒しという流行の言葉では表しきることのできない、何か失ったものを取り戻していくような思いがした。
表面的には豊かに見えても心は貧しく、何かが違う、不自然なことをしていると感じながら過ごす日々だった。街へ出れば、誰かと微笑みを父わすこともなく、熱く魂をぶつけ合うこともなかった。思わず頭を垂れる、深く神聖な気持ちになることも忘れていた。少し飛躍するが、このように不安とストレスが蔓延する社会に生きていては、いくらエコが叫ばれてはいても、環境問題の改善が難航していることも無理はないとまで思ってしまう。他人や、他の生物を思いやる余裕が持てないからだ。息苦しさを、感じていた。
高畠では、自然と人とが、優しく向き合い、共に生きていた。多くのキーパーソンを生み出し、持続可能な共生型地域社会・内発的発展の成功例を示してきた高畠の場所性には、
どのような仕組みがあるのか。
そこに存在するのは、五感に冴え渡る自然の豊かさから発展し、人の豊かさと文化の豊かさとで回る三角ループの構造なのではないかと考えた。
人間の五感に訴える大自然のエネルギーは人々を祈らせ、心身の健康をもたらす、そこに高畠に生きる人々の根本的な豊かさが生まれる。このような人たちが生きる社会に、豊かな文化が形成されていく。
それは有機農業の発達や、命を耕す学校教育、浜田広介の遺した作品の数々、星寛治先生の強く心に染み入る言葉の感性、今回の合宿でお話を伺った人たちに代表される多くの
キーパーソンがこの土地から輩出されていること等に、如実に表れている。高畠で作られる栄養豊富な有機野菜は、学習能力や文化感性を上げる効果もあるという。
草木塔にも、自然と人間の間係性が覗える。自然、へ「頂きます」と感謝し、崇拝する心を見て、その説明をきいたとき、周りの田園風景は明らかに違って見えるようになった。より感動的に、神秘的に、魅力的に心に訴えかけてきたのである。そう思っていたら、バスに戻った途端、原剛先生にずばりそれを言われてしまった。
「自然へ祈る心は、人間を豊かにする」
これらの豊かさは、高畠の人達の確固たるアイデンティティを形成し、そこで更に強い人間が作られる。
この人間文化の豊かさが、有機農業などの共生社会を通じて再び自然へと還元されていく。そしてその自然の豊かさが、また人々の心身を豊かにする。それがまた、豊か共生社会文化を形成する。その繰り返しの輪こそが、高畠をまはろばの里と成しえた構造なのではないか。
これは早稲田環境塾の理念とも合致する考え方である。
早稲田環墓は、「環境」を自然、人間、文化の二要素の統合体として認識し、環境と調和した社会発展の原型を地域社会から探求する。
(第一講座テキスト三頁より引用)
高畠から帰ってきた後に、この環境認識の理念を読み返してみたら、この塾の第一講座に設定された土地が高畠であったことがすんなり理解できた。
では私がこの三角構造の始まりだと考えた、五感に冴え渡る自然の豊かさとは具体的にどのようなものか。
まず視覚から感じるものは圧倒的である。町を囲む緑は荘厳で、同時にとても優しかった。共生農業の田畑や果樹園からも、自然と生物に対する慈しみがにじみ出ていた。暗がりの中、三六〇度どこを向いても瞬いていた、蛍の灯り。澄んだ夜空に差し込む星明り。これらの風景は、まっすぐに人々の心と体に響く。
まだある。呼吸をするたびに感じた、高畠という土地の空気の甘さ、やわらかさ。二井宿小学校に入った途端、爽やかに香った、校舎の樹のにおい。頂いたお水、米、山菜、そば、さくらんぼ、りんごジュース、お酒などは感動してしまう程の美味しさで、味覚からも高畠の豊かさを強く感じた。
そして真夜中に響く、ウシガエルの合唱の心地よさ。
月明かりの下、裸足で踏みしめた草地の、やわらかい夜露の感覚。石のごつごつ。ヒメボタルを捕まえて、手の平にそれがいる、ささやかな命の感触。
地元の方々はもっともっと土と農業と高畠と触れ合って生きているのだろうと思えば、この豊かな自然を全身で受け止めることから回りだす「高畠=まはろばの里」サィクルは極めて自然で正直であることのように感じられた。
ただ、私が見たのは現在の高畠であり、高畠とそこに生きる人々が苦難の歴史を乗り越えて今に至ることは、星さんの詩集を拝見しても明らかである。しかしこの高畠の豊かさの構造が、困難にも打ち勝つ人々と社会を作っていったことは間違いないのではないだろうか。
話が止まらないそば打ちの先生は、深い教養があり、主張があり、確かなアイデンティティとユーモアがあった。口と一緒に動く手はキビキビと気持ちのいい働きぶりで、そばがみるみる変化していく様はまるで芸術の様であった。「このそば打ちは今まで誰一人も失敗したことがない。誰にでもできます。皆さんも、もうプロです。先生です」と惜しげなく言う明るさと優しさに、頭が下がった。
そば教室にかけてあった大きな時計は、止まっていた。私達が泊まった資料館にかかっていた時計も、二つのうち一つは動いていなかった。
高畠の人達は皆とても親切で、生き生きとしていた。
最後に私事で恐縮だが、私は高畠で初めて十割そばというものを知り、その美味しさに感動した。しかし周りの方々や、帰ってから母親から聞いたところによると、一般的な十割そばとはボソボソとしたものであるらしい。
高畠のホンモノの十割そばを最初に食べることで贅沢な舌を身につけたことを誇りに思い、これからはことあるごとにそれを自慢していこうと思っている。これも、タカバク病の症例の一つかもしれない。
『高畠学』 藤原書店