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海の見る夢 №57 [雑木林の四季]

          海の見る夢
         -夜のガスパールー
                 澁澤京子

    ~おお夜!おお生気を与える暗黒! ~ボードレール

 ずいぶん前に、友人Sと京都旅行に行ったときのことだ。鞍馬神社から鞍馬山を登り貴船神社まで下りて、夕食ににしんそばを食べたことがあった。川床料理の季節がとっくに過ぎた晩秋の夕方は暮れるのが早い。真っ暗な山道をバス停まで小走りに歩いている時、ふと、京都には漆黒の闇というものが存在する、と思ったことがあった。まさに漆黒の闇のように、背後に山の気配があった。それは東京にはすでに失われた、古い都市にしかない独特の闇といったらいいだろうか。京都や奈良、高野山あたりの関西のうっそうとした自然と、関東近辺の自然とはぜんぜん雰囲気が違う。関西の山には、いまだに天狗のような魑魅魍魎が息を殺してひそんでいそうな、古色蒼然とした神秘的な雰囲気があるのである・・京都がいつも観光客に魅力的なのは、他の土地にはない、こうした漆黒の「闇」をいまだに抱えているからだろうか。

関西の人が京都弁、大阪弁を大切にする気持ちもわかるのは、標準語に比べるとずっと人間的な柔らかさを持っていて、洗練されているからだ。(義太夫の稽古は、まず、生粋の大阪弁の習得からはじまるという)

爛熟した都市文化から、デカダンスが生まれる。19世紀末パリの、ボードレールの「悪の華」の闇の対極にあるのは、地中海的なギリシャ的な煌めく陽光だが、そうした「闇と光」というくっきりとした二項対立ではなく、京都の闇と対になるのは、ぼんぼりの灯りのような、今にも消えそうなほのかな明るさで、闇と光の境界線があいまいであり、その闇はトンネルのように無限に続いてゆく感じなのである。

そしてまた、女性性と男性性の境目をあいまいに生きた、甲斐庄楠音の絵にも底知れぬ無限の闇がある。

はじめて甲斐庄楠音の絵を知ったのは、久世光彦さんのエッセイだったと思う。二人の少女が向かい合って日本舞踊を踊っている絵で、背景は吸い込まれそうな漆黒の闇。すごく怖いのである・・怖くてグロテスクだけど、なぜか目を離せなくなるのは、蕭白の絵と同じ。京都近代美術館から甲斐庄楠音の画集を取り寄せてみたが、やはり不気味な絵が多い・・不気味なのに、なぜか魅入られてしまうのである・・

甲斐庄楠音。お公家さんの家に生まれ、子供の頃は京都御所で育つ。京都一中を中退し、美術学校に通い、日本画ではめきめきと頭角を現すが、『穢い絵』と酷評され(酷評したのは土田麦僊らしい)日本画壇からは追放され、やがて溝口健二の映画の時代考証、着物のデザインや着物の着付けを担当するようになった。(何しろお公家さん出身なので、着物のデザインにも着付けにも抜群のセンスを持っていて、彼のデザインした『雨月物語』「溝口健二監督」の着物はカンヌ映画祭で評判となる)

You tubeで拝見した井上章一さんのお話によると、甲斐庄楠音の若いころの京都では、お公家さんや老舗の大店の家のお坊ちゃんはほとんどが大学に進学しなかったという、中学を卒業したらあとは適当に家で勉強して家業や家を継げばいいということで、要するに、生計をたてるために男子が就職する習慣というものが、その頃の京都のブルジョワ階級にはまだなかったのだ(歌舞伎に出てくるような、生活力のない若旦那がまだ結構いたのだろう)・・甲斐庄楠音には、そうした出自と関西独特の文化背景があった。

それにしてもあの異様な感じは何だろう?やはり、実物を見てみないとわからない。東京駅ステーション美術館で開催されている「甲斐庄楠音の全貌展」を観に行く。画集では知っているが、実物を見るのは初めて。着物の微妙な色合いとか、画集より実物のほうが断然美しい。「幻覚」「島原の女」「舞ふ」など不気味な絵も展示されているが、色彩の美しさのほうが圧倒して画集で観るほど怖い感じはない。「肌香(はだか)」とは甲斐庄の造語らしいが、本当に女の脂粉の匂いが漂ってくるような皮膚の質感と艶めかしさなのである。女形に女装した甲斐庄のたくさんの白黒写真も展示してあった。お雛様のような瓜実顔の美少年だった若き甲斐庄には、女装がとてもよく似合う。

・・美人画のすべては男に詩想された女である。女を描くために描かれた女である。女そのものの心のうちに溶け込んで、女の純粋な姿なり情なりを、あるがままに現はしたもの歌麿の如きは無い。・・「浮世絵を見る」甲斐庄楠音

歌麿を尊敬していた甲斐庄は、女を内側から描くために女装した・・彼の描く女が、圧倒的に艶めかしく、そしてまたグロテスクなのは、あくまで「あるがまま」の女を描いたからだろう。甲斐庄の絵には、聖なるものと同時にグロテスクも描いてしまうカラヴァッジョにも通じるものがある。グロテスクでエロティックでありながら、際どいところで下品にならないところも、カラヴァッジョに似ている。

岸田劉生の「汚いものは汚いまま描く」は当時の日本画ではまだ通用しなかったのだ。

展示された作品の中でもひときわ存在感があったのは、彼の母親の肖像画だった。いかにもお公家さんらしい長い顔立ちとふくよかな体系・・(東山千栄子に似ている)その肖像画を見ただけでも、甲斐庄が母親の大きな存在に圧倒されていたことがよくわかる。

・・何者かにひれ伏して祈りたい心、何者にも反抗して荒れ狂ひたい心、この二つの心が絶えず私の生活を苦悩さす。私の絵がともすれば暗くなったのは、これに起因しているようである・・甲斐庄楠音

あえて「穢い絵」と言われるような日本画を描いたのも、甲斐庄の日本画壇に対する反抗だったのかもしれない。新藤兼人のエッセイによると、溝口健二は酔うとサディスティックに、甲斐庄をいじめたが、そのたびに甲斐庄は、言い返すこともせず、決して怒ることもせず、ぬらりくらりと溝口健二の攻撃をひたすら受け身でかわしていたらしい。もしかしたら、溝口健二は、甲斐庄の性格の複雑さとつかみどころのなさに、イライラしたのかもしれない・・私は甲斐庄のそういう態度に、千年以上も細々と続いたお公家さんの古い血の、決して正体をつかませないしたたかさというものを感じるのである。(反抗心と従順)そうした矛盾は同時に、古い都に生きる京都人のしたたかさでもあるのかもしれないが。

2019年に京都撮影所で発見された甲斐庄のデザインした着物も今回展示してある。斬新な洒落たデザインで、彼が子供の頃に過ごした京都御所近辺の華やかな雰囲気を連想させる。何冊ものスクラップブックも展示してあって、切り取った好きな写真が貼りつけてある。三島由紀夫、ボンドガール、ショーン・コネリー、高倉健、外国人女性の水着写真が多いが、加賀まりことオードリー・ヘプバーンの横には「妖精」という文字が貼ってあった。

小さいころから歌舞伎と文楽が好きで芝居に通い詰めたという甲斐庄。女装趣味は、芝居好きとも関係があって、実際に素人歌舞伎にも出演していた。子供の時から南座に通っていたので行く度に「坊ん、おいでやす」といい場所に案内され、女形の雀右衛門のファンだったという。

彼の絵の持つ独特の闇は、京都という古い街の持つものであり、彼の古い血筋にあるものであり、そしておそらく歌舞伎からくるものでもあるのだろう・・歌舞伎の明るい舞台の裏側には、なぜだか深い闇が果てしなく広がっている感じがするのだ・・

猿之助事件で、その存続まで危ぶまれはじめた歌舞伎。そもそも歌舞伎という芸能が、文部省推薦のような健全なものではなく、成熟した退廃的な、エロティックでグロテスクな美を持っているものなのだ。修身の教育的効果を狙った文部省唱歌よりも、童謡のほうが芸術的に優れたものが多いのは、やはり子供の歌に「道徳」を盛り込むことを拒絶したからではないだろうか。

ナチスは「退廃芸術」としてモダニズムや現代美術を追放したが、日本の場合「セクハラ」で古典芸能も、芸能もつぶしてしまうんだろうか?

「美しい日本」と言いながら、実は日本の伝統芸能なんかどうでもいいと思っているとしか思えない。歌舞伎や文楽、落語といった伝統芸能を支えてきた江戸時代の庶民のほうが、今の日本人よりもずっとセンスがよくて分別も持っていたのではないか、と思う。

ロマン主義で、怪奇趣味のあったラヴェルの「夜のガスパール」は甲斐庄楠音にふさわしい。ロマン主義者がそうであったように、甲斐庄楠音は完全な「夜の住人」だったのだ。都会から闇が消えれば、ロマンもまた消えてゆくのではないだろうか。

※澁澤さんのインク「チル」をさがしています。
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住宅団地 記憶と再生 №17 [雑木林の四季]

12.ブリッツの大団地(馬蹄形団地)GroBsiedlung Britz(Hufeisensiedlung)(Britz.Fritz.Reuter-Allee,Husung,Onkel-Braisig-Str.u.a.12359Berlin)


       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 アレキサンダー・プラッツ駅からU7で約30分、パルヒマーアレ一駅を地上に出ると眼前にブリッツの大団地(馬蹄形団地)があらわれる。公共交通の駅に近く、歩いてもすぐというのは、ここだけではなく世界遺産の6団地すべてに共通している。アクセスの便もユネスコ評価のポイントの一つであったにちがいない。
 この地はベルリンの南東部にあたる。1924年にベルリン市が大団地の建設にのりだし、資金援助を決定すると、ゲハーグ社はブリッツの旧騎士領の土地を購入し、25年から30年にかけて29ヘクタール余に1,963戸を建設した。設計はブルーノ・タウトとマルテイン・ヴァグナ一、屋外設計はレベレヒト・ミッゲである。ベルリンはもともと沼地に発達した都市であり、タウトはブリッツの原生の地形と自然を活かし、真ん中に池のある大きな窪地をめぐって馬蹄形に住宅建設をし、その特徴を団地名にした。
 まず目につくのは、城塞のような長い建物。パルヒマ一通りと交差して南北にはしるフリッツロイター通りに沿って西側に、屋根裏部屋の見える3階建て、鮮やかな赤褐色の建物が城塞のように、一駅手前のブラシュコアレー駅近くまでつづく。その距離1キロメートルはあろう。その中間に途切れて蹄鉄の開口部にあたるところが団地の入口になっている。入口から見下ろす窪地が大きな中庭となって、両端から白亜の3階建て住棟が馬蹄形に円弧をえがき、団地のシンボルとしての威容をしめす。その西には、団地第3の象徴、「ヒューズング」と呼ばれる東西に長い菱形の庭園を型どって2階建て連続家屋が並んでいる。団地を取り巻く大通り沿いと馬蹄形の建物はすべて平屋根の3階建てアパートあるいは3階建て住宅の連続住棟、その内側を含める2階建て長屋は、出窓のある三角屋根で、各戸に個人専用の庭がついている。
 断っておくが、わたしが見て回ったのは、パルヒマ一通りとフリッツロイター通りにかこまれた、馬蹄形住棟と菱形庭園のある区画だけで、記述もかぎられている。世界遺産には、これら両通りの反対側にある2区画もふくまれる。

 赤いフロント
 フリッツロイター通りに面した3階建てアパート住棟は「赤いフロント」とか「チャイナの城壁」と呼ばれている。建物からは30はどの階段塔が張りだしていて城塞を思わせ、血の色にも似た外壁からも、なにか挑発的な感じをうける。1920年代のドイツでは、さきにシラーバルク団地の平屋根にかんして引用したタウトの証言にあるように、建築の保守とモダニズムをめぐる抗争は激しく、論争の域にとどまらなかった。現にタウト設計の馬蹄形団地とまったく同時期に、しかも通りの反対側に保守派のエルンスト・エンゲルマンとエミール・ファンクマイヤー設計のドイツ住宅設振興協会DeGeWbによる団地建設が進められていた。「赤いフロント」は、タウトのこれに対決する鮮烈なメッセージ、建築近代化のデモンストレーションだったとし痺れると、そうかもと思えるが、学術上の証明はないようだ。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №27 [雑木林の四季]

生きて埋め込まれた修道士が呼んだ
   ~ラトビア共和国~

         小川地球村塾塾長  小川彩子

 タリンからの高速バスがラトビアの首都リーガに入ると、赤松と白樺の林が延々と続く。
タリンでの宿探しに懲りてここではバス発着所のインフォメーションに入り紹介を頼んだだが翌8月21日は首都リーガの創設記念祝日であり、この国の独立記念日。ホテルはこの国でも5つぐらい満杯で、結局不便な街外れの新ホテルを紹介されたが、「祝日のためトラムもバスも2日間無料だ」と教えてくれたのは有難かった。
 ホテルは遠かったがトラムが公園の真ん中の、白樺並木すれすれに通る風情は素晴らしかった。降りて道を訊いた人は親切で、かなりの道のりを楽しそうに案内してくれた。ホテルも格安で親切、覚えやすい名の受付「アンタ」さんの助けで以後の旅の情報入手、ダゥガヴア川への入り日が眺望できる部屋を頂いた。地の利を得られないホテルも悪くない乗り物無料のお蔭で首都リーガを縦横無尽に乗りまくった。近くには建物正面に彫像が浮き出たユーゲントシユテール建築群通りがあり、赤や青の煉瓦に喜怒哀楽を表す人面、獅子その他の獣面や女性像等が装飾された高い建物が並んでいる。素晴らしさに口を開けて歩いていたらフランス人男女が近づき日本語で自己紹介した。九州大学で日本語を学んだと言う。彼らと日本語で話しつつ、彫像建築も見逃さないよう上を向いて歩いた。
 リーガの中心、市庁舎広場に来ると守護神ローランド像の向こうに、目が覚めるように美しいブラックヘッド会館がある。明るい煉瓦色の正面に人物像の彫刻群と彫金細工の大時計。これは数百年の歴史を持つ建物だがドイツ軍の空襲で破壊され、近年完璧に再建されたというもの。旧市街を大切に保存するリーガには溜め息の出る美しい広場が沢山ある。
ドウマ広場も溜め息広場だ。ここでリーガ大聖堂を見上げていたら「小川さん!」と声がした。エストニアの長距離バスの切符売り場で会った、ブラジルから来たK夫妻だった。
あの時立ち話で私たちの知人(夫の会社の後輩)と友だちだとわかり、ブラジルでの再会を約して別れたのだが、ここで私たちを見つけてくれたのだ。お互い休みなく動き回っている身、よくも同時刻にすれ違ったものだ。「この大聖堂には昨夜大統領が来てドウマ広場は一晩中お祭り騒ぎ、ビール片手に過ごした」と興奮していた。私たちは寿司屋に入り、この広場と大聖堂を眺めてひと時を過ごした。この夫婦とはバルト三国で予期せず計3回も会ったのだ。波状に花を植えて川を表現したリーヴ広場も溜め息の広場、近くには屋根の上に尻尾を逆立てた猫が立つ家もあり、その下で人々がビールを楽しんでいる。独立を祝う立派な行列が、騎馬隊を先頭に民族衣装で街の通りという通りを練り歩いていた。
  聖ペテロ教会で塔に上がってリーガを見晴らしてから17世紀の城壁の門をくぐり、ゴシック建築の聖ヨハネ教会へ。悲しい修道士の物語に引き寄せられて。この教会には日本の人柱に似た伝説がある。日本では橋をかける時に安全のためと信じて地中に人を生き埋めにした時代があった。この地でも教会建築時、生きた人間が壁に埋め込まれれば教会の安全性が維持されると信じられ、2修道士が応募、壁の外側には食べ物を放りこまれる穴があった。しかし彼らは長くは生きられなかった。煉瓦の壁に口を開いた哀れな修道士の顔面がある。この口を開いた修道士が「もっとここに居てー」と呼んでいるようで後ろ髪をひかれた。その近くに人だかり…‥・。なんと動物たちの彫像「ブレーメンの音楽隊」だった。あれ? ここはドイツじゃあないのになぜここに草臥れたロバ、犬、猫、鶏がいるの?
 ドイツを抜きにしてラトビアは語れない。ラトビアには長期にわたりドイツやソ連に交互に侵攻、駐留、占領された歴史があった。私が生まれた頃以後の歴史だけ辿って見ても、1940年ソ連軍がラトビアに駐留、塊偏(かいらい)政権樹立、大量流刑、次にドイツ軍がバルト三国に侵攻、占領し、大量のユダヤ人が強制収容所へ。1944年再びソ連軍がドイツ軍にとって代わりラトビアを占領し流刑再開、と目まぐるしく支配者が変わったのだ。
 私が故郷で土手滑りを楽しんでいた幼児の頃、このような苦しみを重ねていたのだ。1991年8月21日ラトビアは独立した。この記念日を挟んで3日間、私たち夫婦はこのきれいな街でお祭り気分のおすそ分けを頂いて過ごしたのだった。
                     (旅の期間‥2011年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎



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山猫軒ものがたり №20 [雑木林の四季]

さよなら、小野路 3

             南 千代


 家捜しは、他にも続けた。
 豚小屋に移る前から、家を捜しに通っていた地がある。埼玉愚の越生(おごせ)町だ。以前、夫のスタジオでアシスタントをしてくれていた山口さんが、地元に帰って町唯一の写真館を継いでいた。
 空いている家もあるにはあり、見て回ったり、山口さんを介して地元の人に頼んだりもしていたが、ここならと思う家にも、まとまりそうな話にも出合えなかった。
 再び出かけ、以前訪ねた人たちに近況報告をしたり、新たに情報があったら連絡をと頼んで回った。
 家捜しでは、どこでもほんとに多くの人の世話になり、時間を割いてもらい、面倒をかける。私たちもいつかは、受けた親切を多くの人に返していきたい。
 そろそろ、鬼無里村の雪も溶け始めただろうか。北村さんに電話を、と思っていたところに山口さんから連絡が入った。空いている家が一軒見つかったとのこと。きっそく車を走らせた。空家を教えてくれたのは、以前から頼んでいた、山口さんの奥さんの実家である。場所は、町でも山間部の龍ケ谷地区。
 初めてその家を見た時、「あ、ここだ」と私は思った。私たちが、ここに住むのは当然のように自然に感じられた。まだ家の中も知らず、家主にも会っておらず、貸してくれる気があるものやらもわからず、こちらの欲張りな理想に叶う所かどうかも考えず。とにかく、この家が新しい山猫軒になるのだ、と思ってしまった。なぜだろう。周囲をひと周りしてみよう。
 「ぜひ、借りたいんだけど、持ち主に連絡がとれるだろうか」
 家主は、神奈川に越していると言う。庭では、夫が、同行してくれた山口さんにすでに頼んでいる最中だった。
 持ち主に貸す意思があるかどうか、紹介者を通じて打診してもらう。家の中を見るために鍵を借りてもらう。世話にならなければならないことは、まだまだあり、私たちは後日出直した。
 家は、相当古い。まだ、囲炉裏、かまどが残っているこぢんまりとした家だ。三月とはいえ、何年も空家だった屋内は、寒く冷たく暗い。私は土間に立ち、ひと目ぐるりと内部を見渡すと、安心してすぐに表に出た。
 会うことができた家主は、親切にはっきりと責任を持って、この家の難点を挙げた。
「ほんとにいいんですか。この家は冬場は全く陽があたりませんから、住むにはかなり厳しいですよ。ここが気に入られたのならお貸しするのはかまいませんが、夏場の別荘代わりにお使いになったらいかがですか」
 この地で生まれ育った人が言うことばである。私たちは考えた。が、そのことを気にはしながらもやはり借りることにした。家のすぐ横の柚畑を、鶏を飼うための敷地として地元の地主が貸してくれることになったのも大きな理由だった。養鶏がやりたくて棟していた引っ越し先であったから、その条件に叶う地であれば、他のことは我積できる。
 隣の柚畑には、冬でも陽が当たる場所がある。夫はそこに鶏舎を建てるつもりであった。鶏舎を完成させないことには、引っ越しできない。小野路から越生まで車で片道三時間近く。夫は、為朝をお供に時間を作っては、鶏舎造りに通った。
 仕事の合間に往復五、六時間かけ、通いながらの鶏舎造りは遅々として進まず、完成の頃には秋が終わろうとしていた。

 「いつ引っ越す? 冬は厳しいって言ってたから、春にする?」
 聞いた私に、夫は答えた。
 「いや、冬の間に引っ越そう。そうすれば、後は暖かくなるだけだから、ラクだ」
 なるほど。
 「じゃ、せっかくだから、新年を新しい地で迎えない?」
 こうして、十二月十五日。私たちは、小野路に別れを告げることになった。大家であったばあさん宅にもあいさつに行った。
 「そうかい、よかったな。短けえ間だったけんどよ。こっちも世話になったな。遠くなってもたまには遊びに寄ってな」
 ばあさんが涙をこぼすので、悲しくなった。私は、このばあさんのことは、一生忘れない。
 数十羽の鶏や、犬、猫、ウサギたちが騒々しく乗り込んだ軽トラックは、まるでブレーメンの音楽隊のようだ。別のトラックには椎茸のほだ木や、中古の耕運機やクワなど百姓道具を。幼鶏を育てるバタリーなどまで積み込み、数台のトラックを連ねての引っ越しは、我ながら、難民移動か、開拓民のイメージである。塩田さん家族、清水飼料の清水さん、五日市の吉沢さんなど、みんなが、総出で加勢に来てくれた。
 新しい山猫軒をめざし、私たちは越生へと出発した。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №284 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年7月のおすすめ番組(上)

       BS-TBSマーケテイングPR部

令和にっぽん!演歌の夢まつり 2023

283令和にっぽん演歌の夢まつり2023.jpg
2023年7月11日(火)よる9:00~10:54

☆歌謡界の重鎮から気鋭の若手まで、日本の歌謡シーンの最前線を走る歌手らが総出演!
  ここでしか見られない夢のコラボレーションも実現!!

出演
前川清/由紀さおり/水森かおり/市川由紀乃/丘みどり/竹島宏/大江裕/辰巳ゆうと/新浜レオン/朝花美穂/田中あいみ

2002年のスタート以来、全国に“日本のこころ” 演歌の素晴らしさを届けてきた夢の競演コンサート「にっぽん演歌の夢まつり」。
2023年は、20周年を記念し例年よりさらにパワーアップした出演者および演出をお楽しみください!
♪星のフラメンコ(新浜レオン)
♪雨の御堂筋(田中あいみ)
♪北の漁場(大江裕)
♪瞼の⺟(朝花美穂)
♪四つのお願い(由紀さおり)
♪北の蛍(丘みどり)
♪星の砂(市川由紀乃)
♪百万本のバラ(竹島宏)
♪あの鐘を鳴らすのはあなた(水森かおり)
♪長崎は今日も雨だった(前川清)
ほか

関口宏の一番新しい中世史

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毎週土曜ひる12:00~12:54

☆わたしたち日本人は、どのような選択を重ね、歴史を刻んできたのか。
  「もう一度!近現代史」「一番新しい古代史」に続くシリーズ第3弾!

出演
関口宏
加来耕三(歴史家・作家)
大宅映子(評論家/大宅壮一文庫理事長)

「一番新しい古代史」に続く新シリーズ。
時代は、古代国家から中世社会へ。 
現代社会に通じる「日本文化の基礎」が形成された「中世史」を覗きに行こう。
解説者は、歴史家の加来耕三氏と、評論家で大宅壮一文庫理事長を務める大宅映子氏。
平安京へ遷都された「平安時代」から、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏が滅びる「戦国時代の終わり」までを紐解いてゆく。

▽7月1日(土)
#64「~室町時代~ 織田信長の躍進!武田信玄と上杉謙信対決・川中島の戦い」

▽7月8日(土)
#65「~室町時代~ 信長の下剋上!西国では毛利が覇者へ」

▽7月15日(土)
#66「~室町時代~ 信長が天下取りへ”尾張統一”」(仮)

ねこ自慢

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毎週水曜よる11:00~11:54

☆ウチのニャンコが一番かわいい!日本各地で「ねこ自慢」インタビュー!! 

ねこの、ねこによる、ねこのための猫バラエティー。
ねこを飼っているお宅を訪れ「ウチのニャンコが一番かわいい!」という飼主さんにインタビュー。存分にその猫愛を語っていただきます。
もちろん愛する「自慢のねこ」もたくさん登場。
ねこがもつ特有のかわいらしさに思いっきり癒されてください。
最後は飼主さんが撮影した写真の中から、この1枚というベストショットを発表してもらいます。
ねこの良さをとことんまで味わい尽くす猫まみれの番組です。

▽7月5日(水)
リポーター:U字工事 田中要次
MCネコ(声):緒方恵美 
ナレーション:三田ゆう子
今回は俳優の田中要次さんが、お巡りさんが飼っている「駐在所の看板猫」をリポート。
また、U字工事の2人は外国人にも大人気の「猫と住めるシェアハウス」を紹介。

▽7月12日(水)
レポーター:サンシャイン池崎
MCネコ(声):緒方恵美 
ナレーション:三田ゆう子
サンシャイン池崎が生け花が似合う猫の写真撮影に挑戦!
そして、ミルクボランティアのお仕事も体験する。
器用に引き出しを開けるイタズラ好きの猫や、動物病院が運営する安心の猫カフェも紹介!


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海の見る夢 №56 [雑木林の四季]

      海の見る夢
           ―ビワの実―
                  澁澤京子

 ジョージ・フロイドさん(米)が警察によって暴行され亡くなったのは記憶に新しいが、公務員による暴力はアメリカだけの問題じゃない。ウィシュマさんの死により、ようやく日本の入管施設の職員による暴力や暴言、監禁、いじめなどが明るみになってきた。インターネットの暴言が匿名性により過激になったように、なぜか入管施設の職員も匿名で働いているらしいが、それも余計暴力的になる一因になっているという・・

入管収容され自殺したクルド人男性、体調不良でも病院に搬送されず亡くなったベトナム人男性、強制送還させようとする職員に首を押さえつけられ空港で圧死したガーナ人、やはり病院に搬送されずに亡くなったカメルーン人、2005~2019年まで自殺を含め亡くなったのは17名。大声で腹痛を訴えれば(職員に迷惑かけた)と「不良」に認定されたり、歩けなくなり車いすに乗るほど衰弱していたウィシュマさんを入院させなかった入管。女子の独房には監視カメラがついていて、入浴や排せつまで映し出されるようになっているという・・こんなところに監禁されたら、精神的におかしくなるのは当然だろうに。

セクハラ、いじめ、暴言や暴力が頻繁に行われているようで、入管のルポを読んでいると本当に胸が悪くなってくる。「快適な場所だったら、早く日本から出て行かないから」と平気で追い出すための嫌がらせを正当化する職員もいるという。しかも、本国に送り返すときもその費用は自己負担・・そこには「人権」なんて上等なものはまったく存在せず、動物以下の扱い。本国で迫害され、生きるか死ぬかの思いをして逃げてきた難民、あるいはウィシュマさんのように日本の子供に英語を教えたくて来日し、パートナーのDVからなんとか避難してきたのに、保護されるどころか、さらに精神的にも肉体的にも迫害され追い詰められる・・まさか、日本の入管施設でこんな陰湿なイジメが行われ虐待死もあったとは・・しかも対象は、本国に送還されれば殺されるかもしれない、行き場をなくした弱い立場にいる人々なのである。メディアは、なぜこういう重要な問題を取り上げないのだろうか?今度の法案が通る事により、さらに本国に強制送還される外国人が増え、おそらく死亡者も出てくることを考えると全くやりきれない・・LGBT法案にしても、そもそもマイノリティの人権を守るための法案なのにそれを嫌う人々の権利??・・・・もう、むちゃくちゃな主張が平気でまかり通るのが今の国会。「自分の都合」と「自分の視点」しか持てない、想像力の欠如した人間が増加したとしか思えないのである。マイノリティの痛みというものは想像すらできず、自分の事のことしか頭にないのだろう。「同性愛を嫌う権利だってあるはずだ」という小学生並みの屁理屈で、それを法案で通すのだからあきれるしかない。(差別する人間って、明らかにその存在が多様性社会に反するのでは?)

こういう単純さで、法を自分都合で捻じ曲げてみたり、・・つまり他人や状況、具体的な物事の全体をつかむ能力の著しく欠如した単細胞人間が増えたとしか思えないのである。昨今の社会の分断と対立には、この「単細胞人間」の著しい増加が深く関係していると思う。単細胞な人間はどうでもいい細部にこだわり、全体を見渡す広い視野を持てない。全体を把握できないと、人間関係でも自分の都合しか考えられず、他人の都合や状況などは完全に無視される、要するに他人のことにも社会にも、基本的に無関心なのである・・

安倍(とその仲間たち)長期政権の弊害は大きい。彼のようなタイプの権威主義的人間は、仲間や身内の言い分は、どんなに滑稽な主張でも真面目に取り入れるが、それとは反対の意見にはいきなり耳が聞こえなくなるか、そもそも理解すらできないので無視・・になるのである。意見の内容などどうでもいいのであって、理性的な判断力を持てず、自分が影響力を揮える支配被支配の人間関係しか結べない。目上からの命令には従順にこなすことができるが、自分の考えや判断力というものはほとんど持てず、依存心が強く徒党を組むのが好きで集団になるや強気になり、そのくせ、一対一の対立になると案外大人しく、しかし、仲間の勢いを借りるといきなり傲慢になるような人物だが、入管にもそうした(個性のない)権威主義的人物が多いのだろうか。相手の立場が弱いとみるや、いきなり居丈高になったり、ヤクザのように暴言を吐いたり、暴力的になるのは得てしてそうした(田舎代議士なんかにいそうな)人物である。概して、普段は温厚な人物として通っている事が多いのである。もちろん、良心的な職員だって少なくないだろう、しかし、権威主義的人間は「親分―子分」的な支配被支配の集団を構築するのが得意で、小さな集団の中では往々にして、絶対的な影響力を持つ。

安倍長期政権の下、世の中にますます増加したものは(最初に結論ありきのみせかけ議論)(都合の悪い人間には汚名を被せる)(あからさまな論点ずらし)(ごまかし)(開き直り)(不都合な事実の隠ぺい)(都合が悪くなると誰かに責任をなすり付ける)(多数は力なり)(憶測と勝手な決めつけ)(短絡思考)・・などの悪習だろう。入管施設での事件は、決して、入管施設内だけの問題じゃないのであって、それを取り巻く世間の風潮とも関係が深いのだと思う。実際、(不都合な事実の隠蔽)のために、自殺者(赤木さん事件)まで出したではないか・・

表面的には温厚な日本人の、その裏側にある陰湿な暴力が浮き彫りにされているのが、この入管施設じゃないだろうか。アブグレイブ刑務所でイラク人捕虜を虐待した米兵は、ほとんどが生活のために軍隊に入った教養のない下層階級の人々だったが、入管施設の職員はおそらく大学を出た、表向きはごく普通の日本人だろう。経済的にさほど困窮しているとも思われないが、入管者への差し入れも職員が横領するケースもたびたびあるという・・

アメリカの差別は顕在化することが多く、差別問題として取り上げられやすい、また不正などを告発する勇敢なジャーナリストも多数存在するが、日本人の隠蔽された差別・暴力のほうが、見えにくい分だけ余計に厄介だと思う。そしてその差別は決して欧米人ではなく、私たちと同じアジア系、アラブやインド、南米やアフリカ系の難民という弱者に向けられるのである。実際、日本で難民認定されやすいのがウクライナ難民なのは、世界中のメディアで大きく取り上げられているからだろう。それに反してミャンマーなどアジア系、アラブ系、アフリカ系になると途端に態度を変えて厳しくなる日本の入管。そしてメディアは見て見ぬふり・・なのである。(この問題を取り上げるのは良心的なごく少数のジャーナリストだけ)メディアで取り上げられることが少なく、また、弱腰なので、調子に乗った国会議員がウィシュマさんの死の責任を支援団体の責任に姑息にもすり替えたり・・もういい加減、ごまかしはやめて自国の負の部分にも目を向けたらどうか。そうしないと経済が停滞しているうえに、ますます日本は民度もモラルも低い後進国になってゆくだけではないか・・「寄らば大樹の陰」の「大樹」そのものがすでに力を失いつつある今日この頃、個人が自覚して立ち上がるしかないのではないかと思う・・

イギリス46%、カナダ56%、アメリカ30%、フランス19%、ドイツ26%・・そして、なんと、たった0・4%というのが日本の「難民認定率」である。(2019 UNHCR)
ヨーロッパでは難民をめぐってさまざまな問題が起こっているが、たった0・4%の日本では、「多様性」どころか難民問題以前で、入管施設の職員の対応のひどさや、維新の梅村みずほ議員の愚かな発言など、つまり、この国の遅れているというよりは、ほとんど存在しないに等しい「人権」意識が大きな問題なのではと思う。なぜこんなに認定率が低いかというと、「犯罪者が紛れ込んでいる可能性があるから」という弁解らしいが、しかし、たった0・4%・・・むしろ、入管職員の行為のほうが酷い人権侵害、犯罪にあたるのではないだろうか。そもそも入管のルーツは法務省→戦前の特高になると聞いて、「・・なるほど」と思ったが。

同じ日本人ですら、ブラック企業では平気でこき使われるほどだから、日本の技術を習得に来たアジア系外国人がひどいいじめを受けたのは想像に難くない。木材で殴られ、犬の首輪をつけられて引き回されたベトナム人技能実習生・・残業代たった300円で一日中こきつかわれパスポートも貯金通帳も雇い主が取り上げ不当に労働させていた栃木県のいちご農家「とちおとめ事件」、トイレに行く度に「一分15円」を外国人労働者から搾取していた某大手自動車メーカー(愛知)の下請け業者・・とにかく、こうして書いているだけでも気分が悪くなってくるのはその内容があまりにも「野蛮」で「幼稚」しかも「陰湿」なおぞましいものであるからだ。まさに、文化果つるところの住人といった感じで、秘境に住む未開民族や裸族のほうが、まだずっと人間らしくて上品だろう。こうしたいじめや隠れた暴力・セクハラ・パワハラを行う彼らのほとんどは、表向きはごく普通の大人しい「日本人」と思うと実に不気味なのである・・個人のプライヴァシーをまるで見せしめのように公共に晒すかと思うと、本当に重要な、不都合な事実は平気で隠蔽する日本人・・何が重要で何が重要じゃないかの区別くらいはつけてほしい。ジャニーズを問題にするのなら、いじめや虐待事件を起こした中小企業の雇い主、日本人従業員の集団による「隠された暴力」も問題にしたらどうなのか。こうしてみると、戦時中の朝鮮人慰安婦の扱い、関東大震災の時のデマによる朝鮮人虐殺はさぞかし残酷で悲惨なものだっただろう・・としみじみと思うのである。
                          参考『国家と移民』鳥井一平
                            『ルポ 入管』平野雄吉

いつも、私は家にいる時、『ビルマの竪琴』の水島上等兵のようにインコを肩に乗せているが、インコを肩に乗せていたら不思議なご縁で、ミャンマー難民のための食事作りのお手伝いを頼まれ、週に一度、森の中の修道院に通うことになった。軍事政権の圧政に苦しんでいるミャンマーの人々。政治批判しただけで大学生が死刑になる国・・仏教国ミャンマーの人々は切実に言論の自由や民主化を求めている。しかし、今の日本は、とてもじゃないけど民主主義国のお手本にはなれないだろう、というのは、自民党の麻生太郎などが、ミャンマーの軍事政権と無神経にもつながったりしているからだ・・日本の政治家には、目先の利益しか見えないんだろうか?

最近の森の中の修道院で過ごす時間は、私にとって貴重な癒しの時。まだ若いミャンマーのお母さん、小学校一年の男の子K君、妹のYちゃんの二人が、人懐っこくて、とにかくかわいい。難民のために毎日駆けずり回っている若いMさん、年配の日本人シスター、韓国人シスター、フィリピン人シスター、みんなそれぞれ国籍も年齢もバラバラなのに、仲の良い家族のように食卓を囲み、生活しているのである・・善良な人が集まると、国籍も年齢も全く関係なく、黙っていても家族のような温かい関係になるのだな、と感動する。その中にいることがとてもうれしくて、ボランティアしているという気持ちはまったく起きず、まるでもう一つの温かいファミリーができた、という感じなのである・・

常に一人で静かに神に向かい、決して自分を見失っていないシスターたちと一緒に過ごしていると学ぶものは大きい。逆に、世の中には、いかに自分を見失ってごまかしている空虚な人間が多いかにも気が付く・・自分の芯というものをしっかりと持っている人たちが他人の心や痛みにも敏感な人が多いのは、芯を持つことによって全体を把握する能力を持てるようになるからだろう。

子供たちが寝る時間が、私が帰る時間。玄関から門まで暗い森の道を送ってくれた韓国人シスターが突然「あ、澁澤さんに渡すものあった・・待ってて」と言って、また家の玄関に戻っていった・・しばらく暗い門で待っていると、ようやく姿を現したシスターが私に渡してくれたのは、庭でとれたたくさんの小さなビワの実だった。なんだか小さな灯をたくさんもらったような温かな気持ちのまま、私は帰宅したのであった。

           

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住宅団地 記憶と再生 №16 [雑木林の四季]

11.シラーバルク団地Siedlung Schillerpuk(Wedding Bristolstr.,Oxforder Str.,Wind-sorer Str,ua.13349 Berlin) 2
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

平屋根、平行住宅、「戸外住空間」

 タウトとヴァグナーがシラーバルク団地に賭けた住宅改革の実践の象徴として、平屋根の実現、住棟の配置、「戸外住空間」概念の創出をあげることができる。
 いまも見るドイツの風景といえば三角屋根の家並みである。この伝統的な様式にたいし、タウトは早くから平屋根の優位性を主張し、実現のため苦闘してきた。「一体に屋根は平らにした方が費用も廉く、そのうえ効果も大きいのであるが、しかし1924~28年頃は、そのため相当に論争を巻き起こさざるをえなかった」といい、ブリッツの馬蹄型団地について回想している。
 タウトと同時に、おなじフリッツロイター通りの反対側にも別の団地が建設中だった。「向こうの住宅は尖がった破風と張出し隅室をとりつけ、屋根の勾配も急な浪漫的な感傷味のある造りであって、費用も僅かではなかったが、われわれの方は屋根も平らで、きわめて簡単な構造であったから、費用もそう高くはなかった。ところがベルリン市当局は、向こうの建築の浪漫味がたいへんお気に召したとみえ、われわれの屋根を取り替えるように命じ、もう現場には屋根組みができあがっているのに、警察まで動かして工事の進捗を妨げようとしたのである。当時われわれの建築監督長であったマルテイン・ヴァグナー博士は市当局や警察などには眼もくれず、どんどん工事を続行させた。(中略)1928年にようやくベルリン市長を平屋根派に改宗させた」(タウト全集第5巻、273ページ)。
 平屋根が経済的とはいえ、それに調和する、とくに窓、扉、バルコニー等々の設計をしめし、建築主、事業者に納得させなければならない。タウトのファルケンベルクも三角屋根だったし、ベルリン最初の本格的ジードルングといわれるヴァグナーが建設したリンデンホーフも平屋根ではない。シラーバルク団地で初めて全横平屋根が実現した。同時に進行中のブリッツの団地は馬蹄形住棟と団地外周のフロント住棟などは平屋根だが、タウトが妥協したのか内側の住棟は三角屋根である。平屋根こそが「モダニズム」様式を象徴する重要な指標の一つなのであろう。ファルケンベルクとブリッツの一部をのぞき、それ以後世界遺産団地はすべて平屋根となった。
 さらにシラーバルク団地が明確に方向づけた住宅改革実践の象徴は「並行住宅」の試行である。1920年代はじめまでは、典型的にはベルリン中心部の「賃貸兵舎」といわれる集合住宅のように、中庭をかこんで敷地の四辺に隙間なく中層の建物を建てめぐらす様式が支配的だった。タウトは建設コスト上の理由だけでなく、人間居住のあり方として「平行住宅」の思想を今後のあるべき方向と考えていた。しかし「シラー公園そばの建築のさいの1924年当時にはまだ全面的な賛同を得るにいたらなかった」と書いている(タウト全集第5巻、287ページ)。
 そこでタウトは妥協をし、中庭をかこむ様式にしても建物の配置を開放型にし、中庭と道路、外部環境とつなぐ空間をひろげた。各住棟そのものをデザイン・色彩で個性化するとともに、外部環境のなかに配置し、団地内に自然をとりこむ様式への転換を試みたのである。実際に建築されてみると、施主にも居住者にも理解し満足してもらえたとタウトは回想している。
 タウトの「並行住宅」の設計思想は新しい「戸外住空間」概念と密接にむすびついていた。タウトがシラーバルク団地で明確に打ちだし、ユネスコも高く評価したのは、この概念の実践である。自家の窓辺、バルコニーとか庭園だけでなく、家屋とともに「屋外をも内にふくむ空間」を居住空間ととらえる。太陽や風、木立ちや緑の環境、音響がそこの住む人びとにあたえる快適、安らぎ、居心地のよさ、等々の感情も居住に不可欠の要素とみて設計図を書いた。
 各戸に浴室とキッチン、バルコニーもつき、洗濯は共同で最小IDK40㎡の狭さだが、団地のなかには中庭が、まわりは団地面積の数倍はあろうかと思える広大なシラー公園と緑ゆたかな教会の敷地にかこまれている。これらを全体として統一的に見ての評価が「世界遺産」につながったのであろう。
 タウトは「新しい民衆住宅のために-ベルリンの新しい建築芸術のために」をスローガンに、住戸の規模は違えても統一規格をもとに多様な所得層が入居する新しい時代の賃貸住宅建設をめざした。しかし実際には、かれが意図した階層には家賃が高く、当初の入居者は多くが高度な熟練労働者、ホワイトカラー、官吏、組合役員等であり、芸術家や知識人も住んでいた。
 協同組合(員)が主体の建築のせいもあろうが、団地には社会民主党貝が多く、共産党員も目立ち、「赤ボスの城」とよばれていた。ある棟は組合幹部に割り当てられていたとか、共産党の支部があって公然と宣伝活動をし、1927年にはKPDの赤色戦線戦士同盟の年次集会が開かれるという状況だった。ナチス時代には住民の多くが追放、投獄、強制収容所送りとなり、新しい借家人にいれかわった。しかし、平屋根をヒトラーの美学にあわせて伝統的な様式にとりかえる計画は、実行せずじまいだったという。
 第2次大戦で空爆をうけ一部は被壊されたが、1951年にブルーノの弟マックス・タウトによって修復・再建された。54年からはハンス・ホフマンが第3段階として新しい住棟を建設したことは前述した。原型どおりへの復元がはじまったのは1991年である。元どおりとはいえ、テーゲル空港に近く、騒音防止の必要から窓はボックス型の二重窓にして外見を保った。はかに材料の入手、経済的理由から完全には復元できなかった部分もあるが、中庭の再整備をふくめ2004年には団地の復元、保護は完了した。
 団地からの帰り、シラー公園に沿って広がるクラインガルテンを見た。各自思いおもいに野菜、草花、果物を栽培している。それぞれに小屋を建て、肥料や農機具等の置き場、そこで休息し昼寝もできる。道路沿いの立て看板には、菜園利用者どうしの集会や収穫祭のお知らせが貼ってあった。ここのクラインガルテンは比較的質素で狭く、それでも1区画30Id以上はあろうかと思えた。別の地域で立派な住宅ともいえるロッジ、何百平米もの農園をもつクラインガルテンを見たことがある。まさに大都市でありながら自然のなかでの生活である。

『受託団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №26 [雑木林の四季]

受難の夏

     小川地球村塾村長  小川律昭

 二か月不在、シンシナティに帰って一週間になるというのに、何とやるせなく心のいらつく毎日だったことか。発生している問題を次々と解決しないことには、何も手につかない。せいぜいインターネット上の旅記事を読むのと、夕刻蛍の乱舞を見るだけが楽しみとは。

 自動車のエンジンがかからないことは予期していたがそれに加えて注意ランプが点灯して修理の催促、ディーラーに三回往復して修理費八六五ドル支払った。バッテリーは、充電してもすぐ放電してしまい取り替えねばならない。今回の修理は翌日に及んだので私を家まで送ってくれたが、迎えは当方が連絡しないと自動的には来てくれなかった。

 次は家の空調修理。あいにく三五度の熱波が来ており、ニューヨークでは三九度で死者も出る暑さ。窓を開け放しても二階で三〇度、階下で二六度、絨毯がなま温かい。修理屋には私の英語の発音の関係で、電話で用件を通じさせるのに大変苦労した。結局「オガワタダアキ」は聞き取ってもらっていなかった。とにかく三回督促し、約束の早朝が十二時を過ぎてもまだ来ない。やっとビトウウィーンの連絡は入ったが、何時と何時か時間は聞き取れない。やっと来て修理を終えたはいいが、大きなアルミ製のフィルターをもとに戻すことを忘れて、お金だけ二二ドル要求して帰ってしまった。後で気付きその取り付けを頼んだが返事はなく、催促の上結局翌日の朝ということで、またまた家で待機せざるを得なかった。時間のロスばかり。

 その次はケーブル‥アレビ受信の再契約。これは隣のスーザンに頼んだので約束の時間通りにやって来た。機器は新しく取り替えた。また以前からの懸案であった、コミュニティーが補修した歩道の請求書、二三六ドルが二枚もあって一枚は間違いではないか、と指摘したのだが、何の連絡もなかった。隣家は請求書など来てないというので、一枚は隣宛の請求書に違いない、と確信していた。その後、最後のインボイスで支払いを通告、不在であったため期限オーバーで罰金一三%、とまったく馬鹿にしている。オフィスに行って掛け合い一三%を取り下げてもらった。隣の請求書の間違い云々は図面で説明してくれた。

 その他自動車保険の解除連絡、インターネット・プロバイダーとの再契約を取りやめて、ワイフの大学・UCの無料インターネットに切り替えるなど本当に大変だった。バッテリー不良による車のエンジン始動はトリプルA(二三一頁参照)とスーザンに二回ずつ来てもらった。
 自動車はバッテリーの購入の要あり、コンピューターもメールで日本語はうてるが印刷は二重写し、と問題は完全には解決していない。

 その間の食事はろくなものを食べていない。味噌汁とハム類、佃煮そして葉っぱ類だけの一日あたり六ドル(七五〇円)であった。それにくらべて浪費した額は一二〇八ドル、約十五万円、一体何のためにここでの生活をしているのかわからなくなった。ジェット:フグ(時差ぼけ)で身体はガクガクだというのに。あほらしくなった。
(一九九九年七月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社



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山猫軒ものがたり №19 [雑木林の四季]

さよなら 小野路 2

          南 千代

 しばらくして。青山三丁目の交差点で、カメラマンの北村さんにバッタリ会った。彼は、都内から引っ越し、長野の山深い鬼無里村に住んでいた。戸隠高原の近くだ。自然の写真を撮っており、時々現像などのために都内に出てくる。互いに近況を話しているうちに、家捜しに彼の村に来ないかということになった。空いている家がありそうだと言う。
 ちょうど明日、あさっては仕事がオフ。翌日、村に帰る北村さんを車に乗せて、夫と私はさっそく鬼無里(きなさ)村に同行することにした。
 早朝出発。中央自動車道を走り、一般国道で松本、大町市を抜け、白馬から東に向かって鬼無里村に入る頃には、日はもうすっかり暮れていた。主要幹線道に雪はなかったが、村に入るにつれ、通は雪や氷となった。北村さんの家は、村の奥、山の上にあるという。
 山道の雪は、すでに三十センチを超え、なお深さを増しっつある。あと四、五キロで家に着くという所まできたとき、チェーンをつけたランドクルーザーのタイヤが急を坂道に、ついにストップしてしまった。車で道を通る人は誰もいないというので、私たちは車をそこに置いたまま、山の上まで歩くことにした。
 雪はヒザの深さをとうに超え、あたりには家一軒見あたらない。北村さんに、なるべく手間をかけないようにと、抱えてきたおにぎりやたくさんの食糧を抱えて夫と私は、北村さんの後をついて歩き始めた。月が山の上からキリリと白く光り、雪の夜道を照らしてくれている。
 さすがに艮野だ、山湖さもスケールも壇う.私は喜んで営むむが.山間「ざろふ雷管かl分けて坂道を進まなくてはならないので、ふつうの地面と勝手か違う。
 そのうち、北村さんの後をついていくのが精いっぱいとなり、やがて、彼の背中が先に遠くなり始めた。一本道では迷うこともないと思ったのか、北村さんは、後ろもふり向かずにどんどん歩いていく。
 ついに、下を向きっぱなしの顔を時々起こして、彼のほとんど黒いシルエットとなった姿を捜して方向を確かめなくてはならなくなった。甘えっ子の為朝だけを連れてきていたのだが、為朝も先に行ってしまった。
 夫は、途中で、親切にも私の荷物も引き受けて運んでやると言い張ったため、私よりはるか後ろを歩いており、時々声をかけたが、その距離も声をかけられる近さではなくなり、道はくねくねと曲がっていたので、やがてふり向いても見えなくなった。
 四、五キロの道を二時間以上もかけて歩き、ようやくの思いで灯りのともった家に辿り着いた。家は、あたり一番の高みにあるようだ。開けた目の前を見渡すと、蒼い無彩色の山々が、震えるように透明な空気の下に在る。雪が月灯りに反射して、まるで精度の高いグラニュー糖のように、サラサラと光っている。夫が、ゆっくりと上がってくる姿が下に見えた。為朝がしっぽをふりふり、灯りのついた家から迎えに出てきた。
 北村さんは、古い大きなカヤぶきの家を借りていた。何日か留守にしていた家を暖めようと大きな囲炉裏(いろり)に火を燃しつけている。そのために、私たちより早く歩いたのだった。長靴の中で靴下はビショビショだ。
 温かい風呂が何よりのごちそうと、風呂に火をつけてくれたが、風呂釜の中が凍っていたのか、しばらくするとバーンといって釜が爆発して壊れ、風呂はなしとなった。囲炉裏端で、持ってきたメザシや煮物をつまみながら酒を飲むが、体はなかなか暖まらない。
 具体的に空いている家があるわけではなかったが、時間をかけて地元の長老に会ったり、捜したりすれば見つかりそうだった。
 翌朝、卓を何とかしようとまた山を下る。車は、燃料の軽油が凍ってしまい、動かなかった。役場の車で引っ張ってもらい、軽油が溶けるのを待って私たちは帰路についた。動物たちがいるので二人で出かけた時は、一泊が限界である。再度、後日時間を作って、夫が出直すことにした。
 その後、夫は冬の間に二度ほど鬼無里村を訪ね、やっとあの家なら貸すのではないかと土地の人が言う空家を見つけてきた。しかし、村を離れている家の持ち主は、雪が溶ける頃にならないと山へやって来ないという。私たちは、鬼無里村に春が訪れるのを、待つことにした。
 友人がいる村なら、何かと心強い。長い長い長いトンネルの向こうに、ようやく展望が開け納めた気分である.といっても、欄りられると決まったわけではない.

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №283 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年6月のおすすめ番組(下)

      BS-TBSマーケテイングPR部

バックパッカー世界さすらいメシ

282.jpg
2023年6月19日(月)よる11:00~11:54
2023年6月26日(月)よる11:00~11:54

☆イケメン俳優2人がバックパック一つで世界のグルメを求めて放浪!?

出演
駒木根葵汰
樋口幸平
駒木根葵汰と、樋口幸平の二人が、バックパック一つで、まだ見ぬ世界の絶品メシを求め、旅にでます。二人が目指すのは、海外版グルメサイトで高レビューのグルメ。
日本でも食べログなどレビューサイトがあるように、海外にもグルメサイトが多数存在しており、地元の人たちのグルメ選びに日々、利用されております。今回の旅では、各国で使用されているグルメサイトの情報を元に、まだ見ぬ激ウマグルメを探します。
舞台は、多民族国家で様々な文化が根付くマレーシア。都市によって歴史や文化が異なる地で、それぞれ別の町を訪れ、激ウマグルメを探します。とはいえ、リュック一つで放浪するバックパッカーの旅。限られた旅の資金の中で、食費はもちろん、移動にかかる交通費、そして宿泊費などをやりくりする必要があります。しかも宿もすべて一人で探す過酷な旅。高レビューグルメを食べるため、移動手段を節約したり、時には激安すぎる宿で眠る日も……!?
異国の地でのさすらいの旅…どんな出会いが二人を待っているのか。そして海外版グルメサイトだからこそ見つけられる、激ウマグルメとは。新感覚の旅&グルメ番組「バックパッカー世界さすらいメシ」お楽しみに!

麺鉄 ~メン食い鉄道 絶景の旅~

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2023年6月25日(日)よる9:00~10:54

☆鉄道大好き芸能人が、各路線と沿線の魅力を紹介しながら「駅メン」を堪能!

特別編#8
「新緑の静岡編~東海道本線・岳南電車線・大井川鐵道&天竜浜名湖鉄道・遠州鉄道編~」

出演
六角精児
市川紗椰

今回の麺鉄は、六角精児さんと市川紗椰さんがそれぞれ新緑の季節の静岡で麺と鉄道の旅を楽しみます。
六角さんは、三島駅をスタート。まずは駅ホームの立ち食いそば屋で、日本一美味しいと言われるコロッケそばをいただきます。地元名物・三島コロッケとそばの組み合わせはどんなお味でしょうか?
東海道本線に乗車して西へ進み、吉原駅で下車。ここから岳南電車に乗車。富士市の工場街を走るローカル鉄道は、天気が良いと全ての駅から富士山が見えるのですが、今回は果たして…?
そして、岳南原田駅では、無人駅をそのまま麺屋にしたお店に訪問。鉄道ファンには嬉しい駅舎の中での食事と、天ぷらなどをたくさんトッピングするスタイルに六角さんも大満足。
翌日は、静岡県の大井川沿いを走るレトロな鉄道、大井川鐵道に乗車。鉄道ファンなら一度は訪れたい湖上に浮かぶ絶景駅・大井湖上駅では、鮮やかな緑に囲まれた大パノラマに圧倒されます。
さらに、国内唯一のアプト式列車に乗り換え、険しい山道の山岳鉄道ならではの魅力を楽しみます。終点・井川駅に到着した六角さんは、肌がスベスベになるという「美女づくりの湯」で汗を流し、地元で採れた山菜の天ぷらが乗ったざるそばをいただきます。まさにこの季節にしかいただけない一杯を堪能しました。
一方の市川さんは静岡駅からスタート。駅ホームにある立ち食いそば屋で、隠れた人気メニューのチーズそばに挑戦。和と洋のマリアージュに市川さんの感想は?
その後東海道本線で西へ向かい掛川駅で天竜浜名湖鉄道に乗り換えます。駅舎を利用した飲食店が多く、鉄道ファンはもちろん一般の旅行客にも人気の路線です。のどかな田園風景を楽しみながら、最初に訪れたのは遠江一宮駅。有形文化財の駅舎でいただくのは、本格的な手打ちそばで、田舎そば独特の香りとコシを楽しみます。
続いて訪れた天竜二俣駅では、扇形車庫や転車台など、貴重な鉄道遺産を見学して市川さんのテンションがアップ。こちらの駅舎では、昔ながらの中華そばをいただきます。懐かしい味に市川さんの箸が止まりません。
西鹿島駅から遠州鉄道に乗り換え。車窓にうつる浜松市の風景を楽しみつつ、徳川家康ゆかりの浜松城に到着。新緑が眩しい日本庭園を散策した後は、抹茶をいただき和の世界に癒されます。
再び天竜浜名湖鉄道に乗り換え、途中、ロープウェイで浜名湖を一望し、最終目的地、新所原駅に到着。まさに、目と胃袋を楽しませてくれる鉄道旅でした。

名曲をあなたに うた恋!音楽会

282名曲をあなたにうた恋音楽会.jpg
2023年6月27日(火)よる9:00~10:54
※月1回放送

☆歌姫、由紀さおりとビタミンボイス、三山ひろしが司会の音楽番組。
  華やかな歌い手達による心を奪われる、歌に恋する2時間!

司会:由紀さおり、三山ひろし
ゲスト:大川栄策、岩崎良美、辰巳ゆう

ゲストは大川栄策、岩崎良美、辰巳ゆうとが登場!
「うたのレジェンド」では、演歌を中心に数々の名曲を世に送り出した作曲家・市川昭介と日本のポップス界、歌謡界を代表する作曲家、都倉俊一を特集。
豪華ゲストのスペシャルコラボも盛りだくさん!
番組の最後は「由紀さおり このうたをあなたに」。スガシカオ作詞の国民的グループSMAPの名曲「夜空ノムコウ」をスペシャルアレンジで披露!
▽大川栄策♪「男って辛いよな」「さざんかの宿」
▽岩崎良美♪「涼風」
▽辰巳ゆうと♪「心機一転」「絶唱」
▽市川由紀乃♪「海峡出船」「ひと夏の経験」
▽三山ひろし♪「初恋」「昨日・今日・明日」
▽由紀さおり♪「鳳仙花」ほか


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海の見る夢 №55 [雑木林の四季]

                  海の見る夢
          -埴生の宿―
               澁澤京子

    未だ生きている目に菜の花の眩しさ~小津安二郎

 『東京物語』を観る。若い時よりもずっと心にしみじみとくるのは、年取ったせいだろうか?若い時にはわからなかったことがよくわかる、何度観ても新な発見があるのは、やはり名作だからだろう。長女役の杉村春子や長男役の山村聡(設定40代)より、老夫婦役の東山千栄子(設定68歳)に自分の年齢が近いことに何よりも衝撃を受けたが・・笠智衆は年取った役をやっていても日常で座禅を行っているかのように、姿勢がいいのに感心する。目も表情も、まるで坐禅の後のように澄んで晴れやか。そしてまた、『東京物語』の原節子は清楚で、輝くばかりに美しい。入江たか子、高峰三枝子、高峰秀子と、原節子の同時代の美人女優は結構いるが、原節子は別格で、俗っぽさというものがまるでなく、自分が美人だということに気が付いてない風の、何か宗教的な、聖なる雰囲気すら漂う。着物を着てうつむいている17歳の原節子の写真がある。その骨格の美しさといい、本当に聖母マリアのようだ。

しかし、原節子自身は、小津安二郎の映画の自分の役柄が好きじゃなく、黒澤明の『わが青春に悔いなし』や、木下恵介『お嬢さん乾杯』の役が好きだったという。つまり、小津安二郎の映画にあるような控えめで受動的に生きる女性や、「聖処女」などではなく、『わが青春に悔いなし』のヒロインのようにはっきりとした自我と強い意志を持って生きる女性や、『お嬢さん乾杯』の没落した華族の娘のように、自分の気持ちに正直に生きる能動的な女性が好きだったのだろう。

原節子は17歳のデビュー間もなく、来日していたドイツ人監督に日独映画のヒロインに抜擢され、ヨーロッパやアメリカを巡回し、有名な俳優や監督に会っている。原節子は日本人から見ると、堂々とした、ギリシャ彫刻のような西洋的な美しさと伸びやかな肢体を持っているが、『制服の処女』の美女、ドロテア・ヴィークと一緒に写っている写真では、とても華奢に見える。やはり、日本の可憐な少女といった感じなのである。まさにギリシャ彫刻のように堂々としたドイツの女優たちと比べると、逆に、日本人的な華奢なかわいらしさが目立つのだ(ディートリッヒは原節子の頭をなでたらしい)原節子の気品ある美しさは、欧米でも絶賛された・・原節子という人は、佐藤春夫の小説に出てきそうな、雑木林の中の小さな洋館、壁づたいに薔薇が這っていて出窓とテラスが突き出し、家の中の暖炉の前には大きな犬が寝そべっているような・・そういう古い洋館に住んでいそうな感じなのである。

日本的でもなく、西洋的でもなく・・たとえば、富士屋ホテルや奈良ホテルなど、昔からあるクラシックなホテルには日本でもなく西洋でもない、一種の無国籍な雰囲気が漂っている。日本人から見たら西洋的だが、西洋人から見たらむしろ日本的な・・『ビルマの竪琴』で、隊長の指揮のもと演奏される曲は「埴生の宿」「庭の千草」「峠の我が家」など、アイルランド民謡やフォスター作曲に古めかしい文語調の歌詞のついたものが多い。「この道」「からたちの花」「ペチカ」など北原白秋作詞の無国籍な雰囲気の唱歌が生まれたのもこのころ。明治末期~大正生まれの日本人にとって、思わず口ずさむ唱歌にはこうした(日本でもない、西洋でもない)曲が多かったのだと思う。『ビルマの竪琴』は徴兵された教え子たち(大正生まれ)から聞いた話を元にして、竹山道夫が創作した話だが、旧日本兵たちは水島上等兵の竪琴で「埴生の宿」を聞いて、日本を想う・・大正時代に生まれた日本の若者にとって故郷を思い出す懐かしい歌は「埴生の宿」や「庭の千草」「峠の我が家」であり、白秋の「からたちの花」や「ペチカ」、あるいは「早春賦」だったのである。大正生まれの原節子も、こうした西洋風の唱歌を子供の時から口ずさみ、「赤い鳥」を読んで育ったような、のどかな雰囲気がある。原節子の日本的でもあり、西洋的でもある美貌は、そうした大正時代の日本の無国籍な文化を象徴するかのように思えるのである。

原節子の代表作に『青い山脈』(今井正監督)があって、女子校で民主主義を啓蒙する英語教師の役は、のびのびした原節子に似合っているが、このテーマ曲は原節子にはあまり似合わない。監督の今井正は(服部良一作曲 西條八十作詞)のこの曲を使うことを躊躇したが(三拍子系の明るいシャンソンのような曲を望んだ)、結局この歌が使われることによって映画は大ヒットした。確かに原節子には『お嬢さん乾杯』で流れる灰田勝彦の「薔薇をあなたに」のようなシャンソン風の明るい音楽のほうがよく似合う。(この映画では佐野周二がとてもいい)「青い山脈」のメロディには、やはり敗戦後にヒットした「リンゴの唄」の曲にも通じる、なんともいえないもの哀しい曲調で、その独特の諦念と、センチメンタリズムを感じさせるメロディは戦後の日本の歌謡曲や演歌~中島みゆきまで、今でも引き継がれている。西條八十は日本民謡の研究をしていたし、服部良一は、どういうメロディが日本人に一番受けるかをよく知っていたんじゃないだろうか?そして映画だと、敗戦後の、日本人の諦念と成り行き任せの侘しさを描いた傑作が、成瀬巳喜夫の『浮雲』じゃないかと思う。

  「・・他人同士だって、もっと温かいわ・・」~『東京物語』

『東京物語』は、戦後の、壊れてゆく日本の家族を描いた映画である。尾道から上京してきた老夫婦に対し、医師である長男(山村聡)、美容院を経営している長女(杉村春子)は忙しさを口実に年老いた両親に対してそっけない。一番優しくもてなしたのは、戦死した次男の嫁(原節子)。葬式がすむと、長男も長女も仕事を口実にさっさと帰っていく。次男の嫁も仕事があるのだが、一人残される笠智衆の身を案じて残る。末っ子(香川京子)が、兄や姉たちの自分勝手を批判すると、「‥でも、誰だって大人になれば自分の生活が一番大事になってくるのよ」と原節子は優しく諭す。原節子は六畳一間の狭いアパート住まいだし、兄の家も姉の家もそれほど余裕はなく狭い。その頃の東京の劣悪な住宅事情というものがこの映画を観るとよくわかる。敗戦後、日本人が心の余裕を失い、自分のことで精いっぱいになっている感じを映画はよくとらえている。現実的なちゃっかり者、それでいて涙もろい女の典型を演じる杉村春子にはリアリティがあり、杉村春子は他の小津映画でも、他人を勘ぐって悪口を言うのが好きなおかみさん役などが実にうまく、まるで原節子を引き立てるかのような対照的な存在になっている。

~歴史を忘れた人間は自らの根源が神にあることを知らない~

笠智衆が次男の嫁(原節子)を「あんたはいい人だ」と褒めて再婚を薦めると、原節子が「あたくしはずるいんです・・時々(夫のことを)忘れているんです・・」と激しく号泣するシーンがある。小津安二郎の映画の多くでは、死んだ人の存在がとても大きい。『父ありき』では笠智衆が昔、自分の受け持っていた教室で亡くしてしまった教え子(責任を感じて笠智衆は教師をやめる)の存在がある、そして、『東京物語』では、画面には登場しない戦死した次男の存在がとても大きい・・小津の戦死した仲間たちの面影と重ねているのだろうか・・ベンヤミンの「戦争をしないためには、戦争について語り続けることだ」という言葉を連想するが、『東京物語』という映画は、戦争のことはすっかり忘れ、高度成長期の波に乗りはじめた日本人に対する、小津安二郎の静かな抵抗があるのかもしれない。

個人的に原節子の印象が一番強かったのは黒澤明の『わが青春に悔いなし』。原節子の父親は大学教授で、京大の「滝川事件」の教授がモデルとなっている、原節子の恋人・父の教え子(藤田進)のモデルになっているのはゾルゲ事件の尾崎秀実。ロイド眼鏡をかけている藤田進は尾崎秀実というより、思想犯で特高に捕まり獄死した戸坂潤に似ている・・

尾崎秀実は「昭和研究会」の一員であったが、戸坂潤は「唯物論研究会」を組織し、師である西田幾多郎の「世界新秩序の原理」を批判した。「世界新秩序の原理」は「大東亜共栄圏構想」の元となった思想で、西田の仏教からくる全一思想は個の存在よりも全体を重視するため、必然的にファシズムになるという批判。~「日本イデオロギー論」戸坂潤 カール・ポパーは、プラトン思想が全体主義につながりやすいと批判したが・・

尾崎秀実とゾルゲ事件については孫先享さんの『日米開戦へのスパイ』が面白かった。ドイツは日本とソ連を戦わせようとけしかけていたが、近衛内閣のブレーンである尾崎秀実は同盟国ナチスドイツのそうした圧力に抵抗していた。戦争にイケイケだった東条英機や松岡洋右たちはそのため近衛内閣とは対立した・・ゾルゲはソ連のスパイとしてドイツ大使館に入り込み、ソ連に情報を流すことで日ソの戦争は何とか回避することができる・・しかし、ゾルゲと尾崎秀実の逮捕と死刑によって、近衛内閣は崩壊する。つまり、近衛内閣を崩壊させるために、ゾルゲと近衛のブレーンだった尾崎秀実の二人は汚名を着せられ死刑にされたんじゃないか、というものでとても説得力がある。近衛内閣が崩壊し、日本はそのまま日米戦争に突き進んでゆくのである。こう見ていると、日本の政治家は国家戦略より、むしろ国内的な人間関係の権謀術策に優れているのでは?と思ってしまうが・・

『わが青春に悔いなし』で、原節子演ずる幸恵は、気持ちが高まってくるとムソルグスキーやショパンなどをいきなり情熱的に弾き始める、激しい気性の娘。父の教え子である糸川(藤田進)を追いかけて上京するが、シャイなのでなかなか声をかけられない。やっと結婚することができて束の間の幸せを味わうが、夫がスパイであったため、妻である幸恵も特高に拷問される。やがて釈放されるが、家族が止めるのも聞かず、幸恵は死刑にされた夫の故郷に行く決心をする。夫の故郷の農村では、スパイの家族だということで、老いた両親は村八分にされて、家に閉じこもっている。村人たちの嘲笑と嫌がらせをものともせずに泥だらけで農作業に黙々と一人取り組む幸恵。モンペを履いて顔が日焼けしてもなお原節子の美貌は輝いていて、おそらく、原節子は幸恵のような意志の強い女性を理想としていたんじゃないだろうか。そして、原節子には、そうした一途に生きる人の清らかさがあるのだ・・女性解放運動や社会主義運動の盛んだった大正時代、平塚らいてうのような女性運動家や、与謝野晶子のようにスケールの大きな自由な女たちがたくさんいた。女性の社会進出が始まって、実際、小津映画でも、ヒロインはたいてい、タイピストであるとか秘書であるとか職業婦人の設定になっている。

小津安二郎の映画の中では、死者が見えない重要な登場人物となっている、小津安二郎にとって過去を「忘れない」ことは倫理であり美学だったのかもしれない・・黒澤明は「滝川事件」と「ゾルゲ事件」を取り上げることによってもっと直接的に戦争を批判した。亡き息子がスパイだというだけで村八分にされるように、間違った情報を妄信して間違った方向に一斉に流れてしまった日本人を批判したのだ。そうした日本人の集団化する野蛮は、漱石の時代からたいして変わらない。もちろん、「集団化による暴力」は決して日本だけの問題ではなく、近代化とともにポピュリズムははじまった・・大衆は政策のことよりも、ただのイメージや、派手なパフォーマンスやスキャンダル、あるいはユダヤ陰謀論など単純なものに飛びつくのだ・・そして政治家は大衆に受けようと心を砕く・・(何の戦略性もなく、国内で大衆受けした松岡洋右の国連脱退とか)

17歳の時、ナチスドイツと日本の日独同盟の国策映画のヒロインに抜擢された原節子が、その後ドイツの圧力に抵抗した尾崎秀実の恋人役を演じるというのは興味深い。ゾルゲの手記を読むと、スパイに必要なのは情報収集だけじゃなく判断力が重要で、その点、尾崎秀実はとても優秀な人物であると評価している。また、日本人も中国人も欧米に比べて噂話を好むので情報を収集しやすいとか、多くのドイツ人は実は日本人よりも中国人を好むとか、日本の警察は細部にこだわりすぎて大局をつかめないとか、さまざまな人物の特徴と、全体の人間関係の中でそれぞれがどういう役割であるかを分析しているあたりスパイの手記というより論文のようで、ゾルゲが洞察の優れた人間であったことがわかる(実際、ゾルゲは日本人研究のために万葉集、源氏物語など膨大な日本の古典を読破していた)

世界革命を夢見る、レーニン派であったゾルゲは、すでにスターリン体制になったソ連に戻っても殺されるだけだった。ドイツを裏切り、ソ連にも帰れず、祖国を失ったゾルゲは日本で処刑されるしかなかった。

  ふるさとの空の青さよ、静けさよ
  なんで心に かう沁みる      西條八十

故郷とはいったい何だろう?と考える。自分の生まれ育った土地や懐かしい場所は、年月によって様変わりしてしまう。故郷とはもしかしたら幻想なのだろうか?

  「・・古くならないことが新しい事だと思うのよ。」~『宗方姉妹』

古風な姉・節子(田中絹代)と現代的で奔放な妹・満理子(高峰秀子)と、姉の夫・三村(山村聡)の三人が一緒に暮らしている。姉夫婦の関係は冷えていて、三村と仲の悪い満理子は因習にとらわれ夫に忍耐している節子に離婚をすすめ、節子の昔の恋人であった田代としきりに会わせようとする。節子は、バーを経営して生計を立てている。節子は芯の強い古風な女で、誰にも愚痴はこぼさない上に、失業中の夫に絶えず気遣うようなところがあるので、満理子は常に歯がゆい思いをしている。「姉さんの生き方は古いわ」という満理子に対し、「じゃあ、いったい、何が新しくて何が古いというの?」と問い返す節子。「新しいって何なのかしら?古くならないことが新しい事だと思うのよ。」とさらに節子は続ける。しかし、自由奔放に生きる満理子には、姉が離婚しないのが不思議でならない・・満理子は父(笠智衆)の家を訪れて「姉さんの生き方と私の生き方はどっちが正しいかしら?」と質問する。父(笠智衆)の答えは「どっちも正しい。」である。そして「自分の好きなように生きたらいいよ。」と優しく諭す。「女の生き方」というのは、古風とか新しいとか、どちらも流行のような表層的なものに過ぎない、ということだろう。屋根の向こうの空を流れる雲の映像が美しい。何もことさら「日本人」を意識しなくとも日本人であることに変わりはないように、古いとか新しいとかに関係なく、自分自身なのであって、それぞれが与えられた生を生きるしかないのである。

節子はついに離婚を決心するが、三村は有る晩、自殺のような不可解な死に方をする。そのため、節子は昔の恋人である田代に別れを告げて一人で生きる決心をする・・三村の死により、三村は節子にとって決して「古くならない」人になってしまった、それは節子にとっては、これから長いこと背負わなければならない暗い十字架であったが・・

無常迅速
もう一度中学生になりたいなあ  小津安二郎

晩年の小津映画には、中学時代の同級生の仲良しが集まって酒を飲むシーンが多い。そして料亭の女将をからかう感じが、年取ってもまるで中学生のように他愛ない。軍隊時代の友人もよく登場し、軍歌もよく出てくる・・最も理解しあえる親友だったという、山中貞夫※を戦争で失ったことは、小津にとって相当な痛手だった。元来、人の好き嫌いの激しかった小津は、自分の好きな友人はとても大切にした・・出征して南方で死線を潜り抜けてきた小津安二郎にとって、何でもない日常の「生」こそが、輝かしいものであることがよくわかっていただろう、そして平凡な日常の裏に、戦死した友人を、常に十字架のように背負っていたんじゃないだろうか?小津安二郎の映画では、死は唐突にやってきて日常を切り裂くが、それでも日常は淡々と続いていく・・誰もいない静かな室内の風景の映像がたびたび出てくるが、あれはまさに、死者の目から見たこの世の風景ではないだろうか。そこには乾いた静けさがあって、だから小津安二郎の映画は、通俗的なメロドラマにはならないのかもしれない。

※戦死した山中貞夫の遺作となった『人情紙風船』はリストラされた武士の話で、昔、身につまされるような思いで観たことがある。


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住宅団地 記憶と再生 №15 [雑木林の四季]

11.シラーバルク団地Siedlung Schillerpuk(Wedding Bristolstr.,Oxforder Str.,Wind-sorer Str,ua.13349 Berlin)

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 事業主はベルリン貯蓄建築協会、ブルーノ・タウトが設計、住宅協同組合ゲハーグ社が建設した。期間は1924~30年、1953~57年。敷地面積は4.6ヘクタールである。
 ファルケンベルク団地の建設は、第1次大戦にさしかかり構想の中止をよぎなくされ、、建設費の制約ばかりか設計にたいする官憲の介入さえあったことはすでにのべた。タウトがはじめて本格的なジードルングの建設にとりかかったのは、その10年後であった。
 ドイツは第1次大戦後の危機をのりこえ、1924年には「相対的安定期」にはいったとはいえ、間近に29年の世界大恐慌、33年ヒトラーの権力奪取がせまっていた。しかしこの短いヴァイマル期にあって、世界ではじめて憲法に居住保障を国家の義務と規定し、その具体化をめざしてベルリン市政は、低所得者層に健康で衛生的な住宅を大量供給する政策を進めた。敗戦後、首都ベルリンは労働者が急増し、ロシア革命の影響もあって労働運動はもりあがっていた。これに呼応して建設当局は、非営利事業主への公的助成を強化し、タウトなど若い建築家の協力を得て、1,000戸規模をめざし集合住宅建設にのりだした。
 シラーパパ/ク団地の建設は、ベルリン市にとって、もちろんタウトにとって初めての画期的な挑戦であった。

 ミッテ区の北端にある。わたしが訪れたのは2010年1月7日、厳寒のなか小雪が舞っていた。宿泊は旧東ベルリンのシェーンパオザー・アレー駅近くだったから、環状線Sバーンのヴェデインクで乗り換え、U6のレーベルグ駅ド車、歩いて10分たらず、広大なシラー公園を横切ったところにあった。公園のまわりに茂った木々は雪におおわれ、団地に近い片隅に水遊び場もある遊園地が見えた。この公園は1909~13年に造成され、ベルリン初の公園「フォルクス・バルク(民衆公園)」といわれている。その一部に、あるいは隣接して1924年から団地が建設された。その向こうには、森林かと思える聖ヨハネ教会のこれまた広い敷地があった。
 団地は北西から南東に長い長方形をなし、ダブリン通り、ブリストル通り、バルフス通り、コーク通りにかこまれ、なかはオックスフォードで通りで2つの街区に分かれている。北側の街区はさらにウインザー通りで仕切られ、両ブロックとも3階建て4棟がそれぞれ道路沿いに中庭をかこみ、四隅を開けて四角に並んでいる。この街区は第1段階として1924~28年に建設された。南側には1929~30年に3階建て7棟が道路に沿ってコの字型に建てられ、第3段階にその中庭にあたる敷地に建設される予定だったが、1929年の大恐慌で中断された。1950年代になって4階建て3棟が、タウトのコンセプトトをうけついだハンス・ホフマンの設計で建てられ、完成をみた。この3棟は同じ団地内でも世界遺産には登録されていない。
 シラー公園に隣接してそのまま団地名とし、この地域一帯の通りをイギリスの都市名から名づけている。余談だが、地域の通り名を詩人とか都市など同系の名づけをする理由は何かあったのだろうか。その地域が人びとの記憶に残りやすいのは確かである。
 雪景色のなかに平屋根、赤褐色の煉瓦づくり、3階建てに低い屋根召浦部屋つきの長い住棟がブリストル通り沿って連なり、シラー公園から眺めると、城郭のようだ。そのたたずまいは、一瞬アムステルダムの建物を思わせ、東京駅丸の内側の色調を連想させる。タウトは1920年代はじめにオランダに旅行し、J・J.Pアウトから大きな刺激をうけたという。タウトの平屋根、赤煉瓦、ファサードやバルコニーのデザインはアムステルダム派の影響なのであろう。
 外壁の赤煉瓦と階段吹き抜けの白い縁どりのコントラストをはじめ、陽射しをいっぱいにうけ鉢植えも楽しめるよう壁面に間口を最大限切りひろげたバルコニーの造作や張り出し窓の意匠と色彩のバリエーションに、住む人たちの競演する草花がくわわり、各棟をみごとに飾りたて個性化している。この建築構造と彩色そのものが装飾でもあり、さらなる装飾は必要ない。
 中庭は芝生、ところどころ低木の植栽があって、見通しがきく。各戸の玄関は中庭側にあり、外部から中庭にはいる通路には鉄格子の扉がついていた。
 団地をとりまく緑の環境、環境を活かした住棟の配置、中庭と通路等とともに、各戸の室内、間取りの設計にも興味がわくが、この目で見られないのが残念である。
 タウトにとって、建設費を節倹し家賃を安く抑えることは至上の条件だが、そればかりでは住居は貧相なものとならざるをえない。この制約と矛盾のもとでも、住居をよりよくする解決策(生存ミニマムのための住居)をつねに求め、生活様式は将来どのような方向に進むのか見極めなければならない。タウトは室内の間取りにかんして「最小単位として浴室、便所、台所は欠かせない。家賃をなんとか工面できる程度に抑えるためには、居間をいかに使いよいものにするか」と述べ、居間の配置、台所や廊下との関係、間仕切りのしかたについての論考を「住宅経済」誌に掲載している(『ブルーノ・タウトと現代』、191ページ)。
 かれはさらに、個人と共同体、社会との関係の変化を見据え、たとえば食料について、主婦の社会進出を想定し、材料の購入、調理、食事そのものの「社会化」についても論及している。本来の住居が担うその他数多くの機能の共同化、図書館、集会室、ホール等々の設置とその方向性の実現をジードルングのなかに見出そうとしている。小窓のみえる屋根裏部屋は当初、共同の洗濯場、乾燥室として設計されていたようだが、その現われの一つなのだろう。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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地球千鳥足Ⅱ №25 [雑木林の四季]

6個代払って4個残したら?
   ~チェコ共和国~

      小川地球村塾村長  小川律昭

  バックパッカーとして訪れたプラハ、現地で買った地図を頼りに空港から市内へ、そしてヴアーツラフ広場の一角に宿を取った。あれから10年になる。華やかでシックな感じの街の情景に魅せられて、再び立ち寄った。
 街はきれいになったが大きくは変わっていない。カレル橋に至る迷路は、相変わらずごみごみしていて賑やかであった。丁度、プラハ・マラソンの行われた日で、ヨーロッパ各国から参加者が集まっており、旧市庁舎前が終着点、応援者やお上りさんで混雑していた。
ぶらぶらと店を冷やかしているうち、とある一軒の店でチェコ・グラスが気に入った。ビール用に丁度よい形、大きさ、軽さで、彫刻が美しい。店員は6個セットでないと売らないと言う。半端は売れ残ってしまうから当然だろう。だが旅の途中であり持ち回ることは大変だ。「2つ欲しい、荷物になるから」と尋ねた。「そうですか。それなら2つ持ち帰って4つを店に残してくれればあなた方のことをいつまでも思い出します」と。
 なるほど……。嫌味ではなくとてもフレンドリーに聞こえた。素晴らしいアイデアだと感心はしたが支払うのはこちらだからその店を切り上げた。冗談とも本気ともつかぬとっさのジョークにチェコ人の気持ちの余裕とプライドが感じられ、目先のことしか考えない日本人の一人として余韻の残る言葉だった。
 思い出すことがある。還暦を過ぎた熟年夫婦を2組シンシナティに招き、アメリカ西部から東都へと広範囲にわたって案内したことがある。食事をする時には「アメリカでは一皿の量が多いから食べ切れん、半分で充分だ」と言って夫婦で1人前しか注文しなかった。
 食事ごとにそうだった。世話になったお礼という名目のレストラン招待があったが、私ども夫婦に対してもl人前であった。1人前を2人で分けて頂くご招待は初めてであった。気持ちに余裕がなかったのか、自分たちの慣習に従ったのか。
 ところでプラハのグラス屋に立ち寄ったこの日、夜行でポーランドのクラクフに向かい、列車内で集団スリに持ち金のほぼすべてをもぎ取られてしまったのだ。なくす運命にあったお金、あの時チェコ・グラスを買っていたなら、それは今も我々のビール・タイムを豊かにしてくれたであろう。あの店員さんにも一生我々を思い出して頂けたものを‥…。きめ細かな彫刻を施した深いワイン・カラーのグラスだった。手にし損ねたグラスは永遠に美しい。   (旅の期間一2003年 律昭)


柳も身もだえカスピの街
  ~アゼルバイジャン共和国~

      小川地球村塾塾長  小川彩子 

 「火の国」と呼ばれるアゼルバイジャンの首都はバクー、「風の街」という意味だ。カスピ海から強風が吹きつける。海岸公園の松はすべて西向きに平行に傾き、美しい。予約していた「ノアの箱舟」ホテルは高い城壁に固まれた旧市街の中にあったが、窓外の柳は朝な夕な大枝ごと乱舞していた。6人の受付は皆美男でフレンドリー、日本人客は私たちが最初だった。「日本とアゼルバイジャンはアルタイ語族で親近感を覚える」と共通点を強調、すぐに全員が日本語の会話を覚えて挨拶しだした。
 この城壁の中では強風のみならず数々の出会いが渦巻いた。古くから「火の国」の石油を求めてやって来た隊商が通ったというシエマハ門をくぐるのは楽しく、隊商宿や世界遺産もある旧市街は安全でほっとする素敵な場所で、老いも若きも津波見舞いを口にした。
「日本人? バクーを案内してあげます」と、何人からこの言葉を聞いたことだろう。
 ところで、日本人には親切なこれらの人々が「ここにアルメニア人が歩いていたらきっと殴り倒す」と言うので驚いた。隣国アルメニアの中にアゼルバイジャンの飛び地がある。
 「なぜ?」とホテルの受付で夫が尋ねると、暫く仲間と顔を見合わせ躊躇した後、意を決して話しだしたことは、アルメニアとの悲しい関係、というより憎しみに近かった。アルメニア人による虐殺事件の年号と地図を書き示しっつ、「故郷を追われ、両親とバクーに出て来た」のだと言う。受付のアゼルバイジャン人2人が話すところによると、「飛び地の理由だが、もともとその一帯はアゼルバイジャンだったが、ソ連の後ろ盾でアルメニアに取られ、僅かの地のみ飛び地として残ったのだ。隣国アルメニアとは紛争の歴史が長く、虐殺記念日もある。現在も国境が閉ざされたままなので、飛び地は同じ国なのに直接行けずイランを通って大回りするのだ」と。我々もアルメニアからグルジア(現・ジョージア)経由でこの国に来た。帰国後歴史書を紐解いてみたが、アルメニアにも言い分があるかもしれない。兎に角ソ連主導の試みは破綻、コーカサスの人々の心は分断されたままである。カスピ海の風は木々も人心も身もだえさせている。
 長く産出して来た石油は一時枯渇しかけたが、カスピ海の海底油田が開発され、天然ガスもあり、「火の国」の名を維持している。岩の切れ目から炎が噴き出しているという「燃える山」ヤナル・ダグを見に行った。炎は強い風の中で燃えていた。何百年前から燃え続けている火であろう。揺れる炎の中にゾロアスター教徒や来襲したアラブの人々、遊牧民、ロシア人などの顔が垣間見え、重なり合っては消えていく、誠に幻想的な炎であった。
         (旅の期間一2011年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎



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山猫軒ものがたり №19 [雑木林の四季]

 さよなら、小野路 1

             南 千代

 家捜しは、相変わらず続いていた。が、田舎暮らし第二ステップを実現できそうな場所は、なかなか見つからない。ただ豊かな環境がありさえすれば満足できた、小野路の最初の山猫軒に比べ、今度は暮らしに対する具体的なプランがあったからだ。
 まず、数百羽の鶏を放し飼いできる土地が、家のそばにほしい。水田、畑が借りられる土地柄。天然での茸栽培ができる気候環境。動物をたくさん飼いたいので、人里離れていること。川や湖など、水の流れもできれば近くに。家は、貸し家で。しかも、カメラやコピーの仕事も、まだやめるわけにはいかないので、都心にも通える日帰り圏内の地……。
 ずいぶん欲張りな話だが、理想としてはこれらの条件を持ち、時間を作ってはせっせと田舎を回っていた。
 多摩方面では見つかりそうにないとなると、捜す範囲を広げた。埼玉の秩父地方から房総半島、山梨の大月方面などまで。友人、知人のつてを頼る、村の役場や世話役に会って紹介を受ける、雑誌などで不動産情報を得て訪ねる、などなど。とにかく足を運んだ。
 情報を得て二人で出かけるときには、楽しみに車を走らせ会話も弾むのだが、帰りはほんとに家か見つかるだろうかと不安と疲れで、お互い無口になる。そんなパターンが月に数回、もう一年も続いている。
 カメラとコピーの仕事も続けながら田舎に暮らす、というのは、やはり無理なのだ。これまでの仕事にこだわらない方がよいのかもしれない。体さえ健康なら、どこででも何をしてでも働ける。また、養鶏が軌道にのれば、最低限度の現金収入は得られるに違いない。
 私たちは、そう考えて福島の只見地方や岐阜の郡上八幡あたりにまで足を伸ばした。夫の郷里である京都や、私の故郷である宮崎にも帰り、親戚に頼んだ。が、親たちはせっかくの職業を捨ててまで鶏を飼いたいと思う、私たちの希望をどこまで信じていたのか、信じていなかったのか。依然として、よい話はなかった。
 友人のお兄さんが千葉の館山でタクシーの運転手をしていると言う。職業柄、土地情報に詳しい。横須賀からフェリーで金谷に渡り、お兄さんと落ち合い、心あたりを案内してもらう。南房総の風景は、山には常緑広葉樹、海岸線にはフェニックスやはまゆうと、宮崎によく似ていた。海もあり山もある。こんな所に住めたらいいな。
 家捜しは、不動産物件を訪ねるわけではない限り、最初から空家に出会えることは少ない。まず、環境や土地を見る。間に入ってくれる人も、人を介してであるから、こちらの希望や意思がわからないと、捜しょうもない。
 間に入った人か、仮に私たちをよく知っていたとしても、「次は.実際に土地に使む人が私たちを信用してくれないと簡単に家など紹介はしない。田舎では、紹介者は、いわゆる保護者と同じだ。もし自分が紹介した者が、ムラや地域で問題でも起こすような人間だと、文句を言われたり、迷惑をこうむるのは紹介者である。
 頼まれたほうが余程の博愛主義者なら話は別だが、間に立つ人が、地元でかなり信用や力を持っていたり、また、依頼者が大金持ちか有名人でもない限り、人とナリとがわからない者には、仮に空家があっても最初からは教えない場合が多い。
 訪ねて一度目は、最初から貸家があると思わず、土地と顔合わせのために行く、とぐらいに考えておいた方がよい。というのが、このところ延々と家捜しを続けている私たちが得たことだった。
 海辺の家、山の家から自分の親戚まで訪ね、友だちのお兄さんは、仕事が休みの日だというのに、丸一日を私たちのために費やして心あたりを案内してくれた。
 午後から曇り始めた天気は、夕方になって雪に変わってきた。お兄さんに心から礼を言い、都心経由で戻ることにした。具体的な情報が出そうな時は、また連絡をくれると言う。
 帰りは、雪のためにひどい交通渋滞である。ようやくの思いで、山猫軒にたどり着いたときはすでに真夜中であった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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台湾・高雄の緑陰で №35 [雑木林の四季]

 どうなる、来年の台湾総統選挙

      在台湾・コラムニスト  何 聡明

台湾では來年1月13日に総統選挙が行われる。与党民進党は元台南市長と行政院長を務めた現副大統領の頼清徳を候補に立てた。野党中国国民党は現新北市長候友宜を候補に、2019年8月に発足した民衆党は党首で元台北市長の柯文哲が立候補したので、来年の総統選挙は三候補鼎立の選挙になる。

若し民進党の頼清徳が当選すれば現総統蔡英文の対内外政策が受け継がれるほか、更に台湾主権の維持が強調されるであろう。若し中国国民党の候友宜が当選すれば台湾の主権を多少犠牲にしてでも中国共産党と和解する政策を取るであろう。民衆党の柯文哲は常に自分のIQの高さを鼻にかける機会主義者で蝙蝠型政客であるので当分当選できないが、自党支持者のほか一部元民進党と元国民党支持者の協力を得て、国会である程度の席次を維持すれば、中国国民党候補の総統当選にあわせて中国国民党と連合政府を組むであろう。若し民進党候補が当選し、政治目標の異なる民衆党との連合政府を受け入れなければ、民衆党は同じ野党同志の中国国民党と組み、国会で民進党政府に難癖をつけ続けるであろう。

総統選挙に勝利した政党は同日に行われる立法委員(国会議員)選挙で総席次113席の過半数を越える席次を獲得せねば政党の政策を有利に運用できないので、国会で過半数の席次は不可欠である。

さて、来年1月13日の総統選挙と立法委員選挙の結果がどうなるかは予断できないが、台湾の前途が掛かる選挙であることに違いはない。
                  2023年5月22日


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BS-TBS番組情 №282 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年6月のおすすめ番組

      BS-TBSマーケティングPR部
 
沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集

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2023年6月13日(火)よる9:00~10:54

☆「ザ・ベストテン」「レコード大賞」など貴重映像で綴るスーパースター・沢田研二のすべて!

1970~80年代、日本の音楽シーンが隆盛を極めていた時代。沢田研二は、そのど真ん中に君臨し続けたウルトラ・スーパースターだった。
1960年代後半からGSバンド「ザ・タイガース」「PYG」のメンバーとして活躍。1971年にソロデビューし、以降、日本のトップ・ミュージシャンとして活躍。ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。日本レコード大賞をはじめ数々の賞を獲得した。
そのポップな楽曲の数々は常にヒットチャートのトップを飾り続け、妖艶かつ奇抜なコスチュームの数々は常にテレビの話題となった。
俳優として映画、舞台などにも数多く出演。近年では映画「土を喰らう十二ヵ月 」(2022年)で「第96回キネマ旬報ベスト・テン」主演男優賞、「毎日映画コンクール」で男優主演賞を受賞。「キネマの神様」(2021年)で急逝した志村けんの代役として主演を務めたことも記憶に新しい。
またミュージシャンとしてライブ活動も精力的に続けており、2022年7月からライブツアー「LIVE2022ー2023『まだまだ一生懸命』」を開催中。 6月25日(日)にはツアーファイナル&バースデイライブを「さいたまスーパーアリーナ」で迎える。
半世紀以上に渡って、ミュージシャン・俳優として活動を続けるジュリー。
当時の音楽シーンにおいて、まさに「特別な存在」だったジュリー。
しかし現在、視聴者がテレビで彼が歌う姿を見る機会はない。
番組では、「輝く!日本レコード大賞」「ザ・ベストテン」をはじめ、TBSが所蔵する音楽番組のアーカイブから沢田研二の歌唱映像をできる限り数多くご紹介することをメインテーマに構成。ザ・タイガース時代の曲から、ソロ2曲目「許されない愛」、レコード大賞 大賞受賞曲「勝手にしやがれ」、「ザ・ベストテン」1位獲得の「サムライ」「ダーリング」「カサブランカ・ダンディ」など、さらにライブで披露している近年の楽曲も含め、現時点で30曲近くある候補楽曲のなかから、今後ラインナップを決定していく。
さらに、テレビ番組の共演者や当時の関係者へのインタビューも予定。
当時「ジュリーは特別な存在」だと誰もが言い、そこに理由はなかった。
ウルトラ・スーパースターのカリスマ性をもちながらも、その人柄は決して尊大でなく、偉ぶってもいない、常識的な折り目正しい人物だった。
なぜ、ジュリーだけが特別だったのだろうか──?
この番組を見れば、その理由がわかるかもしれない。

ステキな犬物語

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2023年6月5日(月)よる11:00~11:54

☆犬にまつわる様々な物語をワンコ大好き芸能人と一緒に楽しむ“オンリーワン”の番組

出演:関根麻里、岡部大(ハナコ)

MC2人が都内の人気ドッグカフェを訪問。
看板犬たちと触れ合いつつ、全国各地で取材した笑いあり涙ありの犬物語をじっくりと味わう。
かつて犬を暮らし、今は犬飼いたいモード一色のMC2人のトークも楽しむ。
▽どんくさすぎる……でもそれが可愛い!チャウチャウ犬の愉快な日々とは?
▽全飼い主の夢が実現!?ボタンで話すワンコ
▽人間に捨てられた犬が、人間を救う災害救助犬へ──
▽お年寄りの最期に寄り添う看取り犬

クイズ!薬丸家のSDGs生活

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2023年6月3日(土)よる6:30~7:00
※毎月第1土曜放送

☆薬丸パパとその家族がSDGsを少しずつ学びながら、地球の未来について楽しく考える持続可能なクイズバラエティ!

出演:薬丸裕英、ナダル(コロコロチキチキペッパーズ)、岡田結実、山内あゆ(TBSアナウンサー)

#19「東京SDGs探し!下町リバークルーズ」
今回の薬丸家は、東京・日本橋から「東京SDGs探し!下町リバークルーズ」と題して東京の川を巡りながらSDGsを学んでいきます。
水路の案内役は、東京の川だけでなく地形にも詳しいスペシャリストの皆川典久さん。
日本橋川から神田川、隅田川を経由して小名木川へと続く東京の街を川から見る楽しさを皆川さんが薬丸家の皆に楽しみながら教えてくれます。
そして、何と言っても東京の川にはSDGsな秘密が山盛り!
いったい、どんなSDGsな川巡りが展開されるのか、乞うご期待!


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海の見る夢 №54 [雑木林の四季]

              海の見る夢
        ―Wanna Be Startin Somethin ―
                  澁澤京子
       
 ~人生は芸術を手本にしない。質の悪いテレビ番組を手本にするんだ。~ウディ・アレン

 社会の「分断」ということが言われているけど、今起こっている「分断」はかつてのように、議論の余地のあるイデオロギーの対立ではなく(最初に結論ありきの予定調和な議会は政治にはよくありそうだが・・)あるいは、国会答弁のように話がかみ合わないまま、むしろ他人に対する無関心、そして無知なための偏見から起こった「分断」じゃないかと思う。セクハラにしても、LGBDにしても、その言葉だけに反応する人がすごく増えたような気がする、個人というものは千差万別で、そうした言葉でひとくくりにできないものだと思うが、何でもカテゴリーに分類して「わかったつもり」になることを偏見というのである。

自身を顧みても、偏見は自分の苦手な人間に対して持ちやすい。つまり親しみを感じる人よりも、相手のことがよくわからないので勝手にネガティブに決めつけてしまうのである・・イメージと文字情報のみのインターネットは、偏見のような「わかったつもり」の万能感を人に与えがちなのではないだろうか?そして、特に日本では他人に無関心かというと、無関心なのは他人の意見や業績であり、他人の私生活や動向、ゴシップやスキャンダルには、興味津々なのである。

「Wanna Be Startin Somethin」はマイケル・ジャクソンの曲で、パパラッチを風刺したもの・・パパラッチじゃなくとも、詮索好き、醜聞好きの人間は結構世の中には存在する。悪い噂は、時として相手から社会的地位や仕事を奪うほどの暴力に変貌する事がある・・悪意のある噂は、そうした暴力性を常に秘めているのである。

マイケル・ジャクソンは生前、小児性愛などの疑惑など黒い噂を立てられていたし、今、ハリウッドでも次々と映画監督や俳優が追放されている。最近、ピカソの価格が暴落したのも、なんと生前のピカソの女性関係と女性蔑視にあるという・・いくらなんでもこれは行き過ぎでは?モラハラ、セクハラ、パワハラなどの被害者の声を取り上げる#Me Too運動には賛成である・・伊藤詩織さんの「睡眠薬使用」による暴行(これはひどい事件だと思う、複数による暴力、脅し、あるいは未成年への性行為など不可抗力のものはもちろん、セクハラというより犯罪であって告発されてしかるべきだろう。しかし、不可抗力のものではないセクハラになるとケースバイケースで、極めて慎重な判断が必要になってくるんじゃないだろうか・・

モラハラを行使する側はたいてい弱者・被害者の立場をとり、道徳を盾にして相手を追い詰め、相手を破滅させたり、思い通りにコントロールしようとするのが目的。あるいは、受動的攻撃性といったらいいだろうか・・弱者であることを武器にした受動的なものなので一見、攻撃に見えないところが厄介なのである。最近の「受動的攻撃性」のいい例は、ウィシュマさんの死を支援者の責任にすり替え、支援者を糾弾した某国会議員などに見られる。

ちなみに、ウィシュマさんがたとえば白人女性だったらこんなひどい扱いを受けただろうか?という疑問もおこる・・自分も同じ有色人種でありながら、アジア、アラブ、アフリカ系の人を差別する日本人もいるからだ。ベトナム人技能実習生が、ひどいいじめを受けていたのは記憶に新しい。人種と関係なく、世の中には優秀だったり、善良だったり、あるいは浅はかだったり・・つまり様々な個人がいるだけじゃないかと思うが。

怖いのは、今の#Me Too運動に便乗して、自分にとって都合の悪い人間の評判を落とすために、明らかに悪意のある噂、あることないことを吹聴するような酷い人間もいる、ということだ・・香川照之さんへのバッシングも、まるでリンチのようだったが、今回の、歌舞伎役者の猿之助さん一家を追い詰めたのは、まさにスキャンダル好きのマスコミや、バッシングを止めるどころか平気で煽るような、世の中の風潮かもしれない。

それにしても、芸能人や芸術家、ミュージシャンは全員、石部金吉のようなお堅い人間じゃないといけない、ということなのだろうか?(それって面白いだろうか?・・)別にセクハラを擁護するわけじゃないが、世の中全体がまるで風紀委員のように潔癖、クリーンになることを危惧しているのである。そうなると、逆に水面下でますます悪質な性犯罪が増加するだけじゃないだろうか。

それより、重要な問題は、他にたくさんあるだろう、まずクリーンでオープンにしてほしいのは政治。世襲議員が多く(ここは歌舞伎と似ているが)、不透明な政治資金の使い方(内部告発が必要だと思う)、オリンピックや国葬などのイベントが好きで「お体裁だけ整える」といった中身のなさ、都合の悪い学者を平気で排除したり(研究費も削減)、目先の利益ばかり追求し、既得権益は守られたままなので改革とは程遠く(これこそ老害だろう)、人間よりも企業や組織が当たり前のように優先され、都合の悪いジャーナリストは排除され、統一教会の問題はいつの間にかうやむやにされ、こんな国では希望も持てず、少子化になるのも無理はないと思う。イエスマンの、周囲の顔色ばかり窺う社会では当然モラルは崩壊する・・あまりに理不尽が多すぎるのである。若者、子供の貧困問題、日本の治安が悪化し、それにも関わらず防衛費は増額され(また税金が上がるのでは)・・マスコミの報道は芸能人のスキャンダルより、こうした重要な問題を優先して報道してほしいものだ。2023年の今、日本の報道自由度は世界ランク68位、韓国、中国よりもずっと低いのである・・民度が低いと思われても仕方のない順位だろう。

何が善であり、何が悪であるのか、それこそ社会や法、文化,慣習によって違ってくる相対的なものだ。そうした基準のない今の時代は、他人に流されやすくなり、ネットやニュースを見て、「みんなが悪いというものは悪いのだ」式の判断が起こりやすくなる・・そうすると、本当に追及すべき悪を見逃してしまうのではないだろうか。権力はいくらでも、大衆の目をそらすために、誰かを叩くニュースを流すだろう。

~「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」
                               ヨハネ8・3~

思春期の頃、毎朝の礼拝の時間にいつも先生のお説教を聞かず、聖書をむさぼるように読んでいたが、ある日、この章を読んで考えている時に、いわゆる社会ルール(法)と宗教倫理が違う次元のものであることにはじめて気が付いたのである。姦淫した女は石打ちの刑で殺されてもいい時代に、イエスは、一人の女に石を投げている民衆に語ったのである「他人の姦淫を大勢で糾弾する己の姿をとくと観よ」ということか・・もちろん、イエスは姦淫を肯定しているわけじゃない。しかし、一人の女を集団で非難しリンチする人々に、そうした行為は正義どころかむしろ野蛮であると呼びかけたのである。

社会的慣習や社会の「法」という相対的なものでは必ず零れ落ちてしまうものがある、それを救うのがおそらく神の「法」だろう、あるいは、カントのいう「自律」的な人間であるということだろう。キリスト教において、個人主義と博愛主義は結びつき、さらにカントの「君は‥人間性を手段としてではなく、目的として使え」となるのである。社会的な慣習以外の、自分なりの倫理基準をしっかりと育てて、人ははじめて自律的な成熟した人間になる。周囲に影響されやすく、他人の動向をキョロキョロと伺う他律的な人間ばかり増えればこうした複数から起こる集団リンチはいつまでもなくならないだろう・・つまり、「自律的」であるためには他人の痛みに対する共感能力と想像力、そして柔軟さが必要なのである。あるいは、「生」というものを深く体験した人間は、自分の中にそうした「核」をしっかりと持つのである。

悪質なセクハラ、モラハラ、パワハラは実際に存在するし、どんどん被害者は声を上げるべきと思う。しかし、それが過熱すればリンチのようになる、あるいは、事実かどうかわからない噂も混合している場合もある、中には都合の悪い人間の評判を落とすために故意に流された悪質なものもあるだろう。(菅政権の時、前川元文部次官に対して実際にあったように)花見の会だの、オリンピックやG7に浮かれ、本当に重要な問題は見て見ぬふり、今の日本社会は多様性社会とは正反対の方向に向かっているような気がするのだが・・

かつて三島由紀夫は「空虚な‥空っぽの‥日本人」と述べたが、まさに、金銭や損得、自己利益のために汲々として生きる、今の、中身のない空っぽの日本人のことだろう。空虚から逃れるためにスマホにかじりつき、人間関係はすべてビジネスのように利害関係で割り切り、夫婦の関係ですら経済だけでつながる事の多い日本人。まるではりぼてのような「美しい日本」。派閥や人間関係につまらないエネルギーが使われ、個人の良心や意志というものが押しつぶされてしまうような政治の世界は、他人の意見・業績には関心を持たず、人というものを肩書などの表層的な部分でしか判断できない日本社会の反映されたものだろう。平等というと、他人の足を掴んで引きずり落とすことであり、他律的で何のヴィジョンも持たず、自己保身のための処世術だけ長けた人間が頭角を現すようでは、社会はいつまでも閉塞感に覆われたままだろう。第一、異常気象など様々な問題が山積みになっているこれからの時代を、一体、処世術だけ長けた人間がどうやって乗り切っていくのだろうか?

「‥べらべらしゃべるほど無粋じゃありません。」とセクハラ報道の取材を拒否した歌舞伎座裏の老舗和菓子屋のご主人。このご主人の態度は実に清々しい。「粋」という言葉は花街や歌舞伎役者などから生まれたもの。いくら芸能人とはいえ、他人の私生活のあれこれを詮索するなどは、まさに「野暮」であり、「下世話」な人間のやることだろう。日本人が本来持っていた、美意識と結びつく思いやりというものはとっくの昔に失われてしまったのだろうか?キリスト教やカントがなくとも、日本人には倫理でもある洗練された美意識が、かつてはあったのである・・

ウディ・アレンの「人生は芸術ではなく、質の悪いテレビ番組に似ている」は、今の日本にピッタリの表現かもしれない。

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住宅団地 記憶と再生 №14 [雑木林の四季]

Ⅲ ベルリン
 -ブルーノ・タウトと6つの世界遺産団地
 
       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

10.田園都市フアルケンベルク Gartenstadt Falkenberg(Bohnsdorf. Akazienhof,  Am
Falkenberg,Gartenstadtweg,12524Berlin)

 ベルリンの東南部、S8バーンのグリューナオ駅前からブルーノ・タウト通りをしばらく行くと、前方はやや丘状になっていて、フアルケンベルク通りに出る。右折するとすぐ団地のアカーッイエン・ホーフ街区の入り口である。
 ニセアカシアの並木道をはさんで2階建て、高さに変化をみせる三角屋根の、長屋形式やアパート形式の住宅ブロックが、間を隔てて並んでいる。中庭の小道を奥にすすむと、ガルテンシュタット通りの両側に、2階に屋根窓のある、しかし各戸の規模も建築様式もさまざまなミックス住棟が、ふしぎなリズムと統一性をみせている。両街区で総戸数は127戸、敷地面積は4・4ヘクタール。
 小規模な団地で一見まとまりを感じさせながら、戸別にみると、おなじ住棟でも住宅規模をはじめ、外壁も玄関扉や窓枠などの細部も意匠は多様をきわめ、その文章表現はわたしの手に負えない。その上さらに見るものの目を奪い、錯乱させたのち魅入らせるのは、建物全体に非対称的にはどこされた彩色の鮮やかさ、豊かさだった。窓枠と十字の桟は白色で統一されていたように思う。外壁の明るい赤褐色、深く濃いブルーが印象的だった。それに緑色、黄色、黄土色、オレンジ色、.黒色も。この団地がまさに「絵具箱ジードルング」といわれる所以である。
 フアルケンベルクの住宅の様式は、それ以降の団地に比べると、建設費節倹のため各戸の面積はせまく(40㎡台が多い)、親格化されて間仕切りも画一的だが、その制約のなかで設計に多様なデザインを駆使し、住棟の列にも変化をつけ、色彩の魔術をくわえて視覚的なリズムと楽しい刺激を与え、連続する住戸ごとの個別化を演出している。住民の「わが家」意識をつよめるにも必要な手法なのであろう。この団地はさまざまな面で多分に実験的な設計に思えた。
 と同時にわたしには、この「絵具箱ジードルング」に魅入りながら、こんな疑問が去来した。タウトは生来絵画への志をいだきつづけ、色鮮やかな自筆の画帖も残している。表現主義者といわれたかれが、強烈な色彩を放つことに不思議はない。ならばなぜ、タウトはのちに1933年5月3日、敦賀港に着くと翌4日の自身の誕生日には桂離宮を訪ね、その「簡素・静閑」とともに、「彩色も装飾もない材料の美しさ」をたたえたのか。ついでにいえば、ベルリンで1万2000戸もの集合住宅群を建設しながら、日本では鴨長明の『方丈記』のドイツ語訳(英訳から)を試みる気になったのか。
 だが、その謎解きはすぐに忘れて、小雨降るなかをわたしはいつまでも離れがたく小さな団地のなかを歩き回っていた。住棟は中庭に接し、その区画は各135~600㎡弱といわれる。中庭には菜園があったり、さまざまな草花が咲いて住棟の色合いと競いあっている。樹種ゆたかに、果実のなる木々も配され、中庭のなかの小道は行き止まり、袋小路になっている。団地にフアルケンベルクの森は近い。
 中庭には、食料自給も考えて菜園が設計され、植えられた木々は田舎の風情をかもし、袋小路は子どもたちの安全な遊び場、住民相互のふれあいの場、コミュニティづくりを図ったのだろう。ルードヴィヒ・レツサーによる庭園設計も高く評価されている。
 タウトは1913年にベルリン貯蓄建築協会Berlmer Spar-und Bauvereinからボーンズドルフの、ダーメ川とグリューナオの森に近い75ヘクタールの広大な上地を委託され、7,500人が住む1,500戸の田園都市建設の準備にはいっていた。しかし14年の第1次大戦勃発でこの計画は中断され、構想をかえて自立した小都市の建設から大都市へ交通アクセスのよい郊外住宅地の建設に転じた。小規模な団地だけにタウトには設計思想全開の満足はあったろう。それでも、かれが日本滞在中に書いた『ジードルング覚え書』には、完成までに「堅忍不抜の闘争と無際限の談合」が必要だった経過を打ち明けており、とくにかれの彩色構図にたいする反発はつよく、その一例に、第1次大戦中本省の建築技師が、たいへん愛国的な興奮に燃え「厳粛なるべき戦時を弁えぬはなはだ不真面目な態度である。よろしく禁錮の刑に処すべし」と吐いたと記しているのは興味深い(タウト全集第5巻、279~280ページ)。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №24 [雑木林の四季]

アライグマに囲まれて

       小川地球村塾村長  小川律昭

 アメリカは動物を大事に扱うところである。ペットとしての犬、猫は当然であるが、自然に棲息する動物たちも同様だ。少なくとも危害を加えることはない。道路標識にも鹿やバイソンの飛び出し注意をよく見かける。ぶつかれば交通事故の原因にもなるからだろうが、もともと彼ら動物たちの棲家を人間が占領したのだから当然だ。その中で人々にあまり受け入れられないのがアライグマである。彼らは狂犬病を持っていたり、ゴミ箱をひっくり返して悪さをするからという。

 このアライグマたちが、林の中の我が家に餌をねだりに乗出して十年になる。定宿は我が家のテラスの下、最初は土管や木の穴であったが餌をもらうのに近くて便が良いから移住して来た。我々は長期日本に帰っていることもあり、その時は我が家の留守の様子から他所へ移り、忘れた頃にひょっこり顔を見せるのである。この近辺を徘徊しているのだろう。お立っちするしぐさは同様でも、その顔を見てワイフは名前を言えるから不思議である。その性格を観察分析しながら餌をやるからであろう。彼女は彼らが餌をねだりに来たかどうか、微かな物音でも窓外に北ことを感知する能力をもっている。喉から搾り出す徴かな声も聞き取れるらしい。

 彼らは母系家族、今はひ孫の代であり、成長すると大抵の子供が棲家を出て行くが、母になると子供を連れてやってくる。利口であったステファニーを初代として、食い意地の張ったトツド (性別不詳で男名がついた)、そして今のはその娘のメレッサであり、メレッサは子供の頃はおっとり、のろまで餌をもらうのにいつも立ち遅れていた。今、彼女は、二匹の子供を連れて来る。子供の頃と同じようにテラスの手すりの上で前足を高く上げて頂戴をする。これは祖母から伝わった芸、習性であろうが親子三代それぞれしぐさにも特徴があった。

 人間の居る部屋を求めてその窓へ自分の姿を見せ、存在を強調しながら餌をねだる初代のステファニー一家、我々の食事の部屋とは反対側のバルコニーを支えている柱を登って中の人間を確かめる。餌をやらず知らぬそぶりをしていたら、サッシのパッキングを爪でもぎ取ってしまった。油断も隙もないしつこい彼らは、家中の人間を監視していたように早朝や夕刻になると現れるのである。トツドは子供の時から敏捷で頭の良い、ずる賢い奴だっ。他のアライグマに餌を投げると、落ちたその昔で、食べている餌はそのままにし、すかさず音の方へ飛んでいって捕らえる。それを食べ終えてから、もとの場所の食べ残しを食べるのである。そのトッドに子供五匹を連れてテラスの下に住みつかれた時は、餌のパンの在庫はすぐになくなるわ、真夜中、地下で騒ぐわ大変だった。

 次の年は子供の数も減って三匹、パンを与えるとまずは全員の取り合いだが、母親であるトツドは一切れを食べながら、もう一切れは足で押さえて子供に食べられないようにする。子供が食べているものまで追っかけて行って横取りする、それはそれは欲すっぱな母親であった。親としての愛情は離乳するまでで、餌を食べるようになったら競争相手である。浅ましく思えるが、厳しい自然界に生きる子供たちを甘やかすより厳しさを身体で覚えさせているのだろう。
 今、来ているトツドの娘、メレッサは子供たちをジツと見まもり、自分に与えられたものだけを食べる。子供が食べ終えて親の食べているのを狙って取りにくれば、取られまいとして階段の下に運ぶが、追っかけられて少しは取られる。その分自分の食い量が減る。優しいお母さんだが、自然界に生きるにはその愛情が子供の独立を妨げるのではなかろうか。だが兄弟?同士は子供なりに競争し声を上げて餌を奪い合う。

 子供は厳しく育てた方が達しくなり、生存競争に勝ち、生き残るはずである。労なくしてもらえるパンの味がミミズや昆虫より、おいしいからねだりに来る習慣がついたのはあたりまえ、手なずけた人間のせいで、結果的にゴミ箱をあきることも覚えたのだろう。
 与えられるパンをお立っちして掴むしぐさは可愛く滑稽だけれど、これが燃えている赤い炭火でも多分掴もうとするだろう。それほどに人間を信じているメレッサの行動も悲しい限りだ。だが危険を察知する能力は本能的に優れていて、ちょっとした物音でも敏感に反応する。動物を良くも悪くもするのは人間のようだ。                                                                (二〇〇〇年七月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社 


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山猫軒ものがたり №18 [雑木林の四季]

栗林の豚小屋 2

            南 千代

 家捜しが緑で知り合った一人に、五日市で椎茸栽培をしている吉沢さんがいた。その彼のすすめもあり、夫は椎茸栽培を始めた。
 春になって旬を迎えたのは、玉子だけでなく、この椎茸も同様である。これまた、ニョキニョキと芽を出し、傘を開いてきた。玉子と違い、干して保存しておくことができるものの、天日干しでは天気の具合もあり、限界がある。頭を抱えてしまった。
「どうするのよ、こんなに作って。ほだ木を置いたり、菌を打ち込むときにもう少し考えればよかったのに」
 夫がせっせとほだ木を並べたり、菌を打ち込んでいたのは知っていたが、その頃私は他の仕事に忙しく、状況を子細に把握していなかった。どれだけ椎茸が出るものやら、全く見えていなかった。しかし、夫の言い分も、もっともであった。
「椎茸菌だって千個からの注文だったし、大家に杉山を借りてほだ木を置かせてもらうのに、十本や二十本というわけにもいかないだろう」
 椎茸のほだ木にするコナラやクヌギなど、広葉樹が多い小野路では、椎茸を作っている農家も多かった。ということは、地元では玉子のようにさばけないということである。
 私たちは、ない知恵をしぼった結果、店を広げて直売することにした。場所は、買手の多そうな国立市の富士見通り。カフェ・ひょうたん島の店先を借り、にわか露店を出す。自然栽培で肉厚の立派な椎茸だ。市価よりうんと安くすれば、何とか売れるだろう。売れなかったら、ひょうたん島に来た客にやってしまおう。
 その場で焼き、味見をしてもらおうと七りんと炭も用意した。これは、立川に住む友人のボンちゃんのアドバイスだ。買ってくれる人へのおまけにと、桃の花も持っていくことにした。
 ついでに、みんなに愛想をふりまく為朝も連れていき、通行人の足をとめてもらおう。あわよくば、仔犬の飼い手も見つかるかもしれない。為朝と華の間には、この春また、七匹の仔犬が生まれていた。為朝には、首に 「ぼくの子供を差し上げます」という看板を下げてやった。子犬の引き取り先を捜すのもなかなか大変だ。父犬にも少しは努力をしてほしい。
 露店を出すことなど、学生時代のバザー以来である。私たちは、ひょうたん島に着くと、緊張しながら、台を置いたり店開きの用意を始めた。
 すると、準備している間もなく、パックに計り入れるそばから売れていく。きちんと、露店らしいたたずまいが整った時には、もう三分の一ほどの量が売れていた。
 ボンちゃんや、エンちゃん、伊藤暢子さん、角張さんなど。国立近辺の友達に声をかけておいたのも功を奏した。評判も上々。はやばやと店じまいした後も、注文が相つぐほど、思いもよらぬ結果であった。
 山猫軒に帰り、テーブルの上にお金箱をひっくり返し、百円玉を十枚二十枚と数えたときの何とも言えない快感!本業での収入とは、比べようもなく微々たる金額なのだが、百円玉を積み上げながら数えていく行為には、実に、売り上げた、という説得力がある。

「近いうちに、豚の仔が産まれると思うからよ。気をつけといてくんな」
 高橋さんがそう言い、自分が来る前に膿み始めた均分の対処の仕方を、敵えて州った.二日後、猪豚の仔が産まれ始めた。
 母親の体内から、二十センチほどの赤ン坊がピョコンと出てくる。教えられた通り、全身にかぶっている薄い膜を布で取り除き、口の中をふいてやる。こうすると、オッパイの飲みがよくなるのだそうだ。高橋さんもやってきた。やがてヒョコヒョコと歩き出す。
 夜は保温してやったり、孔の飲みが憩い子には牛乳を飲ませてやったりと、何かと手がかかる。猪と豚のあいの子という改良された家畜のせいだろうか。少し育つと、小屋の中を一直線にビューツ、ビューツと駆け始めた。さすがに猪の血をひいている仔豚だ。
 大家は、ただ猪豚を飼っているのではなく、年に一度ほど肉用に出荷した。トラックに乗せて屠畜場に運ぶのだが、豚も気配を察して、なかなか荷台に乗ろうとしない。そんな時、どうするのかというと、酒を飲ませる。
 豚が酒を好きかどうか、豚に開いても答えないので正確にはわからないが、とにかく、いやがらずに飲む。そして、酒につられるのか緊張感がほぐれるのか、おとなしく荷台に乗って屠畜場へと運ばれていく。
「さようなら、豚ちゃん」
 元気でね、と言えないのが心苦しい。
 動物に限らず、さまざまな虫や鳥の習性も身近に観察するとおもしろいことがたくさんある。たとえばショウピタキ。このところ、庭においている車のサイドミラーの手前がいつも、小鳥の糞で汚れている。おかしいな、と思い気をつけていると、ある朝、それがジョウピタキのしわざだとわかった。
 サイドミラーの前を、尾を上下にふりながら行ったり来たり。クックックッと鳴きつつ、ときには鏡をつつきつつ、小一時間ほど飛び回っている。次の朝も、その次の朝も。鏡をのぞいて朝の身だしなみでも整えているのだろうか、と思ったが、まさか。
 鳥類図鑑で調べてみた。ジョウピタキは、なわばり意識がとても強く、ガラス窓に自分の影が映ったりすると、他の鳥が侵入してきたと思い、追い払おうとすることがあるのだそうな。サイドミラーに映った自分の姿を、他の鳥と間違えていたのだ。
 何しろ相手は鏡。いくら威しても逃げるわけがない。ずいぶんしつこい侵入者だと思ったことだろう。春が過ぎ、冬鳥のジョウピタキは姿を見せなくなった。来年も、またやってきてくれるだろうか。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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