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山猫軒ものがたり №20 [雑木林の四季]

さよなら、小野路 3

             南 千代


 家捜しは、他にも続けた。
 豚小屋に移る前から、家を捜しに通っていた地がある。埼玉愚の越生(おごせ)町だ。以前、夫のスタジオでアシスタントをしてくれていた山口さんが、地元に帰って町唯一の写真館を継いでいた。
 空いている家もあるにはあり、見て回ったり、山口さんを介して地元の人に頼んだりもしていたが、ここならと思う家にも、まとまりそうな話にも出合えなかった。
 再び出かけ、以前訪ねた人たちに近況報告をしたり、新たに情報があったら連絡をと頼んで回った。
 家捜しでは、どこでもほんとに多くの人の世話になり、時間を割いてもらい、面倒をかける。私たちもいつかは、受けた親切を多くの人に返していきたい。
 そろそろ、鬼無里村の雪も溶け始めただろうか。北村さんに電話を、と思っていたところに山口さんから連絡が入った。空いている家が一軒見つかったとのこと。きっそく車を走らせた。空家を教えてくれたのは、以前から頼んでいた、山口さんの奥さんの実家である。場所は、町でも山間部の龍ケ谷地区。
 初めてその家を見た時、「あ、ここだ」と私は思った。私たちが、ここに住むのは当然のように自然に感じられた。まだ家の中も知らず、家主にも会っておらず、貸してくれる気があるものやらもわからず、こちらの欲張りな理想に叶う所かどうかも考えず。とにかく、この家が新しい山猫軒になるのだ、と思ってしまった。なぜだろう。周囲をひと周りしてみよう。
 「ぜひ、借りたいんだけど、持ち主に連絡がとれるだろうか」
 家主は、神奈川に越していると言う。庭では、夫が、同行してくれた山口さんにすでに頼んでいる最中だった。
 持ち主に貸す意思があるかどうか、紹介者を通じて打診してもらう。家の中を見るために鍵を借りてもらう。世話にならなければならないことは、まだまだあり、私たちは後日出直した。
 家は、相当古い。まだ、囲炉裏、かまどが残っているこぢんまりとした家だ。三月とはいえ、何年も空家だった屋内は、寒く冷たく暗い。私は土間に立ち、ひと目ぐるりと内部を見渡すと、安心してすぐに表に出た。
 会うことができた家主は、親切にはっきりと責任を持って、この家の難点を挙げた。
「ほんとにいいんですか。この家は冬場は全く陽があたりませんから、住むにはかなり厳しいですよ。ここが気に入られたのならお貸しするのはかまいませんが、夏場の別荘代わりにお使いになったらいかがですか」
 この地で生まれ育った人が言うことばである。私たちは考えた。が、そのことを気にはしながらもやはり借りることにした。家のすぐ横の柚畑を、鶏を飼うための敷地として地元の地主が貸してくれることになったのも大きな理由だった。養鶏がやりたくて棟していた引っ越し先であったから、その条件に叶う地であれば、他のことは我積できる。
 隣の柚畑には、冬でも陽が当たる場所がある。夫はそこに鶏舎を建てるつもりであった。鶏舎を完成させないことには、引っ越しできない。小野路から越生まで車で片道三時間近く。夫は、為朝をお供に時間を作っては、鶏舎造りに通った。
 仕事の合間に往復五、六時間かけ、通いながらの鶏舎造りは遅々として進まず、完成の頃には秋が終わろうとしていた。

 「いつ引っ越す? 冬は厳しいって言ってたから、春にする?」
 聞いた私に、夫は答えた。
 「いや、冬の間に引っ越そう。そうすれば、後は暖かくなるだけだから、ラクだ」
 なるほど。
 「じゃ、せっかくだから、新年を新しい地で迎えない?」
 こうして、十二月十五日。私たちは、小野路に別れを告げることになった。大家であったばあさん宅にもあいさつに行った。
 「そうかい、よかったな。短けえ間だったけんどよ。こっちも世話になったな。遠くなってもたまには遊びに寄ってな」
 ばあさんが涙をこぼすので、悲しくなった。私は、このばあさんのことは、一生忘れない。
 数十羽の鶏や、犬、猫、ウサギたちが騒々しく乗り込んだ軽トラックは、まるでブレーメンの音楽隊のようだ。別のトラックには椎茸のほだ木や、中古の耕運機やクワなど百姓道具を。幼鶏を育てるバタリーなどまで積み込み、数台のトラックを連ねての引っ越しは、我ながら、難民移動か、開拓民のイメージである。塩田さん家族、清水飼料の清水さん、五日市の吉沢さんなど、みんなが、総出で加勢に来てくれた。
 新しい山猫軒をめざし、私たちは越生へと出発した。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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