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夕焼け小焼け №17 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

兵隊ごっこ~味原小学校

            鈴木茂夫

 昭和12年(1937年)8月、父・広蔭は大阪商船(現・株式会社商船三井)本社に転勤となった。船はこの年の4月末に竣工したばかりの高砂丸(9347トン)、台湾航路専用だ。
900人の乗客を収容する。
 私たちは午前11時に基隆港で乗船した。社員は 2等にのれた。固定のベッドが2つ、臨時のベッドが1つあった。新しいペンキの匂いがした。
 司厨長が腕を奮って日本食を提供する。それまでに食べたことのない料理が嬉しかった。 大きな2本煙突から力強く石炭の煙を吐いて進んだ。2日後の午後1時に門司に到着、午後5時に出港、翌日の午前10時に神戸に到着した。
 新しい住居は大阪市天王寺区味原町。最寄りは国鉄鶴橋駅だ。味原尋常小学校の正門前に、父の妹の栄枝が祖父母と同居して鈴屋文具店を営んでいた。小学校の裏手に3階建ての長屋があり、1階に4間、2階に3間、3階に1間あった。そこが奇妙な新居だった。

 味原小学校の1年級に編入。担任は小柄な女性の北原先生、歯切れの良い大阪弁を話す。
 「あんた、ランドセルに入ってる教科書出してみ」
 私の教科書はみんなが使っているのとは違った。
 「それは台湾総督府のものや。ここは日本内地やからな。文具屋さんで買うておいで」
 私は教室を出て、鈴屋文具店に駆け込み、叔母の栄枝に教科書をそろえてもらった。
 級友が話している言葉がよくわからない。
 昼にはそろって弁当を開く。私の母が作った弁当を見た担任の北原先生は、
 「あんた、奇妙なもの食べとるな。なんやのそれは」
 「ビーフンです」
 「そんな細切れ、台湾で食べてたの。机にぼろぼろこぼしてるやんか」
 私を取り囲んでいるた級友が笑った。
 学校を変わると、なによりもその土地の言葉を覚えることが肝心だ。私にとって大阪弁は難解だ。頭の中が熱くなった。
 基隆の双葉小学校で、シナを相手に戦争が始まったと聞かされていた。シナ事変というのだ。授業が終わると級友が
 「今夜もみんなでやるさかいにな」
 と口々に言い交わしていた。
 夕食がおわると、玄関の扉が開けられ数人の声で、
 「すずきー、遊ぼ、兵隊ごっこヤルンやでー」
 誘いの声だ。急いで外に出る。仲間に入れてくれるのだ。私は同じクラスの小隊の兵士にされた。「露営の歌」が戦闘開始の合図だ。

   勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄たてずに 死なれよか
   進軍ラツパ 聞くたびに瞼に浮かぶ 旗の波

 男子は竹竿や玩具の小銃を、女子は寝巻の帯を持って、20数人の小学生が集まる。
 「あそこの角が敵の陣地や。みんな攻撃はじめ」
 命令したのは級長さんだ。名前はまだ知らない。
 道に伏せて、銃を構えて射撃の気分だ。
 「突撃」
 起き上がって「ワーッ」と突っ込んでいく。誰かが、
 「うーんやられた」
 と叫んで倒れ、お腹を抑える。負傷したのだ。
 「しっかりしいや」
 従軍看護婦の出番だ。女子は走り寄って、シャツとベルトを開いてお腹を露出させ、帯を巻きつけてかいがいしく手当てしてくれた。私も、
 「うーん」
 と叫んで倒れる。
 女子がお腹を優しくさすってくれるのは快感だった。
 一番先を行く勇敢な子もいたが、私はいつも負傷した。
 授業が終わる午後3時過ぎ、学校前の道路からすこし入った路地で笛が鳴る。
 紙芝居のおっさんが自転車でやってきたのだ。自転車のハンドルの前に紙芝居の枠、後ろの荷台にお菓子の入った引き出しが積んである。
 紙芝居の参加料に応じて、見物する位置、お菓子の種類が変わる。私は大急ぎで家へ帰り、母から10銭もらってきた。10銭だと割り箸に水飴を巻き付けたのがもらえて、一番前の位置が指定される。最も安いのは3銭。短冊形の塩こんぶ3枚と後ろにいちするのだ。
 20人ほどの子どもたちが集まると、紙芝居の開幕だ。
 「何から始めようかな」
 おっさんの呼びかけに、
 「怪傑黒頭巾にして」
 おっさんは、ニッコリして、怪傑黒頭巾の表紙を取り出す。

    時は幕末、江戸の街、天文長屋に住む三葉と珠三郎の姉弟は曲芸師。二人は育ての親から死に際に、実の父親が捕えられている江戸城の急所が描かれた絵図面を受け取ります。この絵図面を巡り、二人は狙われるようになります。

 しょぼけたおっさんは語り始めるとしぶい口調で、見物を魅了する。私は紙芝居の面白さに夢中になった。
 町のあちこちで出征兵士を送り出していた。シナ事変が片付かず、戦場は拡大しているのだ。多くの人に臨時召集令状が配達される。礼状が赤色の紙だから赤紙といわれる。宛名人の氏名が記され、指定の日時に、指定の陸軍部隊に出頭せよと命じてある。運賃は部隊が負担する。
 召集令状が来ると。祝・何々君と書いた幟が家の前に立ち、玄関先の机には酒や饅頭にするめを小さく切って並べられていた。本人の勤め先の人,学友、隣近所の人、愛国婦人会、在郷軍人会の人たちが集まった。在郷軍人は現役を離れふだんは、それぞれの仕事についているが、出征軍人を送る際は軍装して活動する。
 軍歌「日本陸軍」が歌われる。
   
    天に代わりて不義を討つ 忠勇無雙の我が兵は 歡呼の聲に送られて
   今ぞ出で立つ父母の國 勝たつば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ

  軍歌は勇ましいが、出征する本人は悲壮な顔だ。見送る妻は涙している。
  本人は見送りの人たちを前にして、
 「私もこのたび、応召することとなりました。一人の日本人として名誉なことであります。お国のために命を捨てる覚悟でおります」
 誰もが拍手し、万歳を叫んだ。
 在郷軍人が「出征兵士を送る歌」の音頭をとる。

  わが大君に召されたる  生命いのち光栄はえある朝ぼらけ
  讃えて送る 一億の歓呼は高く 天を衝く いざ征ゆけ つわもの 日本男児!

   応召する本人を先頭に、隊列が近くの駅までつづく。
 出征する多くの人を見送った。本人と家族は嬉しそうな顔をしていなかった。
 戦死して白木の箱に収まって帰宅する人も目にするようになった。戦死者は靖国神社に祀られる。戦争には多くの命が消えていたのだ。
 出征した夫や父の無事を祈って、主婦や母が街頭に出て、千人針や千人力を多くの人に求めるようになった。
 上本町6丁目の大軌デパート(現・近鉄デパート)の前で、道行く人に協力を求めていた。白木綿の布に、赤い糸で一針結び目をつけるのだ。千人力は、力の文字を書き込む。これを腹巻きのようにして身につけていると、戦死することもなく、無事でいられるという民間信仰なのだ。誰もが一針寄せていた。
 大軌デパートの店内には、前線の兵士に送る慰問袋も並ぶようになった。
 12月13日、朝礼で校長先生が、日本軍は約20万の兵力を動員して攻略作戦を展開、数万の戦死者を出したが首都南京を占領した。戦争が終わるかもしれないと話された。盧溝橋でシナ軍と日本軍がちいさな衝突をしたのが本格的な戦争に燃え広がっているのだ。
 南京陥落でシナを統治している中国国民党の政府が、和平を求めるのではないかという期待というか希望から、この祝賀行事になったのだろうか。小学1年生の私には、そんなことはまるで分からない。勇敢な日本の兵士がシナ軍を打ち破ったのはおめでたいと理解していた。
  翌14日、さらにお祝いの提灯行列があるとのこと。
 わが家も夕食が終わると家族3人で鶴橋駅近くに出かけた。大勢の人だかりがしている。在郷軍人の旗が立っているところで、提灯を渡された。提灯に火を灯す。
 千日前通りに出ると、提灯を振りながら行列が通りを上本町方向に続いている。

    思へば今日の 戦闘に 朱に染まつて にっこりと 笑つて死んだ 戦友が
   天皇陛下萬歳と のこした聲が忘らりょか

「露営の歌」が聞こえてくる。指揮者がいるのでもない。時折、万歳の声が上がる。誰の顔にも喜びがあった。この後、国土が焼かれ、戦いに敗れるとは誰も予期していない。
 ただ一度の提灯行列だった。


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