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住宅団地 記憶と再生 №16 [雑木林の四季]

11.シラーバルク団地Siedlung Schillerpuk(Wedding Bristolstr.,Oxforder Str.,Wind-sorer Str,ua.13349 Berlin) 2
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

平屋根、平行住宅、「戸外住空間」

 タウトとヴァグナーがシラーバルク団地に賭けた住宅改革の実践の象徴として、平屋根の実現、住棟の配置、「戸外住空間」概念の創出をあげることができる。
 いまも見るドイツの風景といえば三角屋根の家並みである。この伝統的な様式にたいし、タウトは早くから平屋根の優位性を主張し、実現のため苦闘してきた。「一体に屋根は平らにした方が費用も廉く、そのうえ効果も大きいのであるが、しかし1924~28年頃は、そのため相当に論争を巻き起こさざるをえなかった」といい、ブリッツの馬蹄型団地について回想している。
 タウトと同時に、おなじフリッツロイター通りの反対側にも別の団地が建設中だった。「向こうの住宅は尖がった破風と張出し隅室をとりつけ、屋根の勾配も急な浪漫的な感傷味のある造りであって、費用も僅かではなかったが、われわれの方は屋根も平らで、きわめて簡単な構造であったから、費用もそう高くはなかった。ところがベルリン市当局は、向こうの建築の浪漫味がたいへんお気に召したとみえ、われわれの屋根を取り替えるように命じ、もう現場には屋根組みができあがっているのに、警察まで動かして工事の進捗を妨げようとしたのである。当時われわれの建築監督長であったマルテイン・ヴァグナー博士は市当局や警察などには眼もくれず、どんどん工事を続行させた。(中略)1928年にようやくベルリン市長を平屋根派に改宗させた」(タウト全集第5巻、273ページ)。
 平屋根が経済的とはいえ、それに調和する、とくに窓、扉、バルコニー等々の設計をしめし、建築主、事業者に納得させなければならない。タウトのファルケンベルクも三角屋根だったし、ベルリン最初の本格的ジードルングといわれるヴァグナーが建設したリンデンホーフも平屋根ではない。シラーバルク団地で初めて全横平屋根が実現した。同時に進行中のブリッツの団地は馬蹄形住棟と団地外周のフロント住棟などは平屋根だが、タウトが妥協したのか内側の住棟は三角屋根である。平屋根こそが「モダニズム」様式を象徴する重要な指標の一つなのであろう。ファルケンベルクとブリッツの一部をのぞき、それ以後世界遺産団地はすべて平屋根となった。
 さらにシラーバルク団地が明確に方向づけた住宅改革実践の象徴は「並行住宅」の試行である。1920年代はじめまでは、典型的にはベルリン中心部の「賃貸兵舎」といわれる集合住宅のように、中庭をかこんで敷地の四辺に隙間なく中層の建物を建てめぐらす様式が支配的だった。タウトは建設コスト上の理由だけでなく、人間居住のあり方として「平行住宅」の思想を今後のあるべき方向と考えていた。しかし「シラー公園そばの建築のさいの1924年当時にはまだ全面的な賛同を得るにいたらなかった」と書いている(タウト全集第5巻、287ページ)。
 そこでタウトは妥協をし、中庭をかこむ様式にしても建物の配置を開放型にし、中庭と道路、外部環境とつなぐ空間をひろげた。各住棟そのものをデザイン・色彩で個性化するとともに、外部環境のなかに配置し、団地内に自然をとりこむ様式への転換を試みたのである。実際に建築されてみると、施主にも居住者にも理解し満足してもらえたとタウトは回想している。
 タウトの「並行住宅」の設計思想は新しい「戸外住空間」概念と密接にむすびついていた。タウトがシラーバルク団地で明確に打ちだし、ユネスコも高く評価したのは、この概念の実践である。自家の窓辺、バルコニーとか庭園だけでなく、家屋とともに「屋外をも内にふくむ空間」を居住空間ととらえる。太陽や風、木立ちや緑の環境、音響がそこの住む人びとにあたえる快適、安らぎ、居心地のよさ、等々の感情も居住に不可欠の要素とみて設計図を書いた。
 各戸に浴室とキッチン、バルコニーもつき、洗濯は共同で最小IDK40㎡の狭さだが、団地のなかには中庭が、まわりは団地面積の数倍はあろうかと思える広大なシラー公園と緑ゆたかな教会の敷地にかこまれている。これらを全体として統一的に見ての評価が「世界遺産」につながったのであろう。
 タウトは「新しい民衆住宅のために-ベルリンの新しい建築芸術のために」をスローガンに、住戸の規模は違えても統一規格をもとに多様な所得層が入居する新しい時代の賃貸住宅建設をめざした。しかし実際には、かれが意図した階層には家賃が高く、当初の入居者は多くが高度な熟練労働者、ホワイトカラー、官吏、組合役員等であり、芸術家や知識人も住んでいた。
 協同組合(員)が主体の建築のせいもあろうが、団地には社会民主党貝が多く、共産党員も目立ち、「赤ボスの城」とよばれていた。ある棟は組合幹部に割り当てられていたとか、共産党の支部があって公然と宣伝活動をし、1927年にはKPDの赤色戦線戦士同盟の年次集会が開かれるという状況だった。ナチス時代には住民の多くが追放、投獄、強制収容所送りとなり、新しい借家人にいれかわった。しかし、平屋根をヒトラーの美学にあわせて伝統的な様式にとりかえる計画は、実行せずじまいだったという。
 第2次大戦で空爆をうけ一部は被壊されたが、1951年にブルーノの弟マックス・タウトによって修復・再建された。54年からはハンス・ホフマンが第3段階として新しい住棟を建設したことは前述した。原型どおりへの復元がはじまったのは1991年である。元どおりとはいえ、テーゲル空港に近く、騒音防止の必要から窓はボックス型の二重窓にして外見を保った。はかに材料の入手、経済的理由から完全には復元できなかった部分もあるが、中庭の再整備をふくめ2004年には団地の復元、保護は完了した。
 団地からの帰り、シラー公園に沿って広がるクラインガルテンを見た。各自思いおもいに野菜、草花、果物を栽培している。それぞれに小屋を建て、肥料や農機具等の置き場、そこで休息し昼寝もできる。道路沿いの立て看板には、菜園利用者どうしの集会や収穫祭のお知らせが貼ってあった。ここのクラインガルテンは比較的質素で狭く、それでも1区画30Id以上はあろうかと思えた。別の地域で立派な住宅ともいえるロッジ、何百平米もの農園をもつクラインガルテンを見たことがある。まさに大都市でありながら自然のなかでの生活である。

『受託団地 記憶と再生』 東信堂



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