SSブログ

海の見る夢 №54 [雑木林の四季]

              海の見る夢
        ―Wanna Be Startin Somethin ―
                  澁澤京子
       
 ~人生は芸術を手本にしない。質の悪いテレビ番組を手本にするんだ。~ウディ・アレン

 社会の「分断」ということが言われているけど、今起こっている「分断」はかつてのように、議論の余地のあるイデオロギーの対立ではなく(最初に結論ありきの予定調和な議会は政治にはよくありそうだが・・)あるいは、国会答弁のように話がかみ合わないまま、むしろ他人に対する無関心、そして無知なための偏見から起こった「分断」じゃないかと思う。セクハラにしても、LGBDにしても、その言葉だけに反応する人がすごく増えたような気がする、個人というものは千差万別で、そうした言葉でひとくくりにできないものだと思うが、何でもカテゴリーに分類して「わかったつもり」になることを偏見というのである。

自身を顧みても、偏見は自分の苦手な人間に対して持ちやすい。つまり親しみを感じる人よりも、相手のことがよくわからないので勝手にネガティブに決めつけてしまうのである・・イメージと文字情報のみのインターネットは、偏見のような「わかったつもり」の万能感を人に与えがちなのではないだろうか?そして、特に日本では他人に無関心かというと、無関心なのは他人の意見や業績であり、他人の私生活や動向、ゴシップやスキャンダルには、興味津々なのである。

「Wanna Be Startin Somethin」はマイケル・ジャクソンの曲で、パパラッチを風刺したもの・・パパラッチじゃなくとも、詮索好き、醜聞好きの人間は結構世の中には存在する。悪い噂は、時として相手から社会的地位や仕事を奪うほどの暴力に変貌する事がある・・悪意のある噂は、そうした暴力性を常に秘めているのである。

マイケル・ジャクソンは生前、小児性愛などの疑惑など黒い噂を立てられていたし、今、ハリウッドでも次々と映画監督や俳優が追放されている。最近、ピカソの価格が暴落したのも、なんと生前のピカソの女性関係と女性蔑視にあるという・・いくらなんでもこれは行き過ぎでは?モラハラ、セクハラ、パワハラなどの被害者の声を取り上げる#Me Too運動には賛成である・・伊藤詩織さんの「睡眠薬使用」による暴行(これはひどい事件だと思う、複数による暴力、脅し、あるいは未成年への性行為など不可抗力のものはもちろん、セクハラというより犯罪であって告発されてしかるべきだろう。しかし、不可抗力のものではないセクハラになるとケースバイケースで、極めて慎重な判断が必要になってくるんじゃないだろうか・・

モラハラを行使する側はたいてい弱者・被害者の立場をとり、道徳を盾にして相手を追い詰め、相手を破滅させたり、思い通りにコントロールしようとするのが目的。あるいは、受動的攻撃性といったらいいだろうか・・弱者であることを武器にした受動的なものなので一見、攻撃に見えないところが厄介なのである。最近の「受動的攻撃性」のいい例は、ウィシュマさんの死を支援者の責任にすり替え、支援者を糾弾した某国会議員などに見られる。

ちなみに、ウィシュマさんがたとえば白人女性だったらこんなひどい扱いを受けただろうか?という疑問もおこる・・自分も同じ有色人種でありながら、アジア、アラブ、アフリカ系の人を差別する日本人もいるからだ。ベトナム人技能実習生が、ひどいいじめを受けていたのは記憶に新しい。人種と関係なく、世の中には優秀だったり、善良だったり、あるいは浅はかだったり・・つまり様々な個人がいるだけじゃないかと思うが。

怖いのは、今の#Me Too運動に便乗して、自分にとって都合の悪い人間の評判を落とすために、明らかに悪意のある噂、あることないことを吹聴するような酷い人間もいる、ということだ・・香川照之さんへのバッシングも、まるでリンチのようだったが、今回の、歌舞伎役者の猿之助さん一家を追い詰めたのは、まさにスキャンダル好きのマスコミや、バッシングを止めるどころか平気で煽るような、世の中の風潮かもしれない。

それにしても、芸能人や芸術家、ミュージシャンは全員、石部金吉のようなお堅い人間じゃないといけない、ということなのだろうか?(それって面白いだろうか?・・)別にセクハラを擁護するわけじゃないが、世の中全体がまるで風紀委員のように潔癖、クリーンになることを危惧しているのである。そうなると、逆に水面下でますます悪質な性犯罪が増加するだけじゃないだろうか。

それより、重要な問題は、他にたくさんあるだろう、まずクリーンでオープンにしてほしいのは政治。世襲議員が多く(ここは歌舞伎と似ているが)、不透明な政治資金の使い方(内部告発が必要だと思う)、オリンピックや国葬などのイベントが好きで「お体裁だけ整える」といった中身のなさ、都合の悪い学者を平気で排除したり(研究費も削減)、目先の利益ばかり追求し、既得権益は守られたままなので改革とは程遠く(これこそ老害だろう)、人間よりも企業や組織が当たり前のように優先され、都合の悪いジャーナリストは排除され、統一教会の問題はいつの間にかうやむやにされ、こんな国では希望も持てず、少子化になるのも無理はないと思う。イエスマンの、周囲の顔色ばかり窺う社会では当然モラルは崩壊する・・あまりに理不尽が多すぎるのである。若者、子供の貧困問題、日本の治安が悪化し、それにも関わらず防衛費は増額され(また税金が上がるのでは)・・マスコミの報道は芸能人のスキャンダルより、こうした重要な問題を優先して報道してほしいものだ。2023年の今、日本の報道自由度は世界ランク68位、韓国、中国よりもずっと低いのである・・民度が低いと思われても仕方のない順位だろう。

何が善であり、何が悪であるのか、それこそ社会や法、文化,慣習によって違ってくる相対的なものだ。そうした基準のない今の時代は、他人に流されやすくなり、ネットやニュースを見て、「みんなが悪いというものは悪いのだ」式の判断が起こりやすくなる・・そうすると、本当に追及すべき悪を見逃してしまうのではないだろうか。権力はいくらでも、大衆の目をそらすために、誰かを叩くニュースを流すだろう。

~「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」
                               ヨハネ8・3~

思春期の頃、毎朝の礼拝の時間にいつも先生のお説教を聞かず、聖書をむさぼるように読んでいたが、ある日、この章を読んで考えている時に、いわゆる社会ルール(法)と宗教倫理が違う次元のものであることにはじめて気が付いたのである。姦淫した女は石打ちの刑で殺されてもいい時代に、イエスは、一人の女に石を投げている民衆に語ったのである「他人の姦淫を大勢で糾弾する己の姿をとくと観よ」ということか・・もちろん、イエスは姦淫を肯定しているわけじゃない。しかし、一人の女を集団で非難しリンチする人々に、そうした行為は正義どころかむしろ野蛮であると呼びかけたのである。

社会的慣習や社会の「法」という相対的なものでは必ず零れ落ちてしまうものがある、それを救うのがおそらく神の「法」だろう、あるいは、カントのいう「自律」的な人間であるということだろう。キリスト教において、個人主義と博愛主義は結びつき、さらにカントの「君は‥人間性を手段としてではなく、目的として使え」となるのである。社会的な慣習以外の、自分なりの倫理基準をしっかりと育てて、人ははじめて自律的な成熟した人間になる。周囲に影響されやすく、他人の動向をキョロキョロと伺う他律的な人間ばかり増えればこうした複数から起こる集団リンチはいつまでもなくならないだろう・・つまり、「自律的」であるためには他人の痛みに対する共感能力と想像力、そして柔軟さが必要なのである。あるいは、「生」というものを深く体験した人間は、自分の中にそうした「核」をしっかりと持つのである。

悪質なセクハラ、モラハラ、パワハラは実際に存在するし、どんどん被害者は声を上げるべきと思う。しかし、それが過熱すればリンチのようになる、あるいは、事実かどうかわからない噂も混合している場合もある、中には都合の悪い人間の評判を落とすために故意に流された悪質なものもあるだろう。(菅政権の時、前川元文部次官に対して実際にあったように)花見の会だの、オリンピックやG7に浮かれ、本当に重要な問題は見て見ぬふり、今の日本社会は多様性社会とは正反対の方向に向かっているような気がするのだが・・

かつて三島由紀夫は「空虚な‥空っぽの‥日本人」と述べたが、まさに、金銭や損得、自己利益のために汲々として生きる、今の、中身のない空っぽの日本人のことだろう。空虚から逃れるためにスマホにかじりつき、人間関係はすべてビジネスのように利害関係で割り切り、夫婦の関係ですら経済だけでつながる事の多い日本人。まるではりぼてのような「美しい日本」。派閥や人間関係につまらないエネルギーが使われ、個人の良心や意志というものが押しつぶされてしまうような政治の世界は、他人の意見・業績には関心を持たず、人というものを肩書などの表層的な部分でしか判断できない日本社会の反映されたものだろう。平等というと、他人の足を掴んで引きずり落とすことであり、他律的で何のヴィジョンも持たず、自己保身のための処世術だけ長けた人間が頭角を現すようでは、社会はいつまでも閉塞感に覆われたままだろう。第一、異常気象など様々な問題が山積みになっているこれからの時代を、一体、処世術だけ長けた人間がどうやって乗り切っていくのだろうか?

「‥べらべらしゃべるほど無粋じゃありません。」とセクハラ報道の取材を拒否した歌舞伎座裏の老舗和菓子屋のご主人。このご主人の態度は実に清々しい。「粋」という言葉は花街や歌舞伎役者などから生まれたもの。いくら芸能人とはいえ、他人の私生活のあれこれを詮索するなどは、まさに「野暮」であり、「下世話」な人間のやることだろう。日本人が本来持っていた、美意識と結びつく思いやりというものはとっくの昔に失われてしまったのだろうか?キリスト教やカントがなくとも、日本人には倫理でもある洗練された美意識が、かつてはあったのである・・

ウディ・アレンの「人生は芸術ではなく、質の悪いテレビ番組に似ている」は、今の日本にピッタリの表現かもしれない。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。