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多摩のむかし道と伝説の旅 №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
             ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-3
                   原田環爾

29-14.jpg29-15.jpg かに坂にはこんな話がある。昔、宝蔵院の近くにおみよという女の子がいた。ある日、親戚でもらった柿を持って帰ってくると、男の子が川で捕えた沢蟹を焼いて食べようとしていた。おみよは沢蟹がかわいそうと思い、柿と交換して沢蟹を助けてやった。沢蟹は嬉しそうに去って行った。さらにしばらく行くと、今度は大きな蛇が蛙を呑みこもうとしていた。おみよは蛙を助けたい一心で、もし蛙を逃がしてくれたら蛇の嫁になってもいいと言った。29-16.jpgそれを聞いた蛇は蛙を離し、3日後におみよを迎えに行くと言って去って行った。家に帰ったおみよからその話を聞いた両親は大変驚き、蛇が家の中に入ってこないよう戸や窓に釘を打ち付け隙間がないようにした。1日、2日たち、3日目の夜、戸をたたく音がする。覗くと金色の目をした気味悪い男が立っていた。蛇男がおみよを迎えに来たのだ。ところが蛇男は戸を開けようとしたが開かない。騙されたとわかった蛇男は怒り狂って真っ赤な口を開け大蛇に変身し、家に絡みついて尾で家を叩き潰そうとした。もはやこれまでと思った時、大蛇のとてつもない叫び声が聞こえ、やがて静まり返った。恐る恐る外へ出てみると、そこに巨大な蟹が大蛇をズタズタに切り裂いていた。蟹はやがて小さな沢蟹の姿に戻ると、多摩川へ向けて坂を下っていった。いつか助けた沢蟹が恩返しをしたのだ。それ以来、いつしかこの坂は「かに坂」と呼ばれるようになったという。
29-17.jpg 玉川上水沿いの静かな雑木林の道に入る。程なく加美上水橋の袂にくる。橋の左手は福生加美上水公園の入口になっている。公園はここから次の新堀橋まで細長い雑木林で覆われた段丘で構成されている。この福生加美上水公園の入口の左の段丘下に沿って玉川上水の旧掘の遺構が残されている。旧堀は先の宮本橋のすぐ上流の屈曲点辺りからこの先の新堀橋のすぐ上流50mの辺り迄の間であったと言われる。なお、この段丘は新堀を掘削した時に生じた残土を積み上げた築堤という。ところでなぜ改修が必要であったのか。玉川上水は羽村から四谷大木戸まで総延長43km、それに対する高低差はわずか90m。水を自然流下させるには水路を武蔵野台地の尾根筋に沿って開削する高度な技術が必要だ。その水路の最初の障害は羽村堰で取水した水を、如何にして河岸段丘を乗り越えさせるかにある。開削当時の旧堀は多摩川堤の内側に沿って築堤し、その間を通水しながら少しずつ段丘を這い上がらせ、宮本橋あたりで最初の段29-18.jpg丘を上りきったという。しかしながら、度重なる出水で築堤はしばしば決壊し通水に支障をきたしたので、天文5年(1740)北側に長さ約613mほどの新堀を開削し付け替えたのだという。なお、上水が武蔵野台地の尾根筋に完全に上りきるのは、西武拝島線の玉川上水駅付近であるという。
 加美上水公園内の旧堀跡を辿り、行き着いた所で段丘崖を上がると園内の尾根筋となる。尾根筋を上水に平行に進むとやがて下って公園の北29-19.jpg端に至る。そこは新堀橋の袂で、傍らの小山の頂に金毘羅宮の小祠がある。古い書物にある神明山とはこの山のことを指すのであろうか。新堀橋の下流50m付近が旧堀と新堀が合する所と言われるが、目視する限りではその痕跡は何も認められない。更に進むと左側遠くに多摩川を垣間見ることが出来る様になる。やがて雑木林から抜け出て視界が開け、行く手に再び鮮やかな桜並木が見えて来る。福生から羽村に入ったのだ。
 普段はほとんど人影もないほど静かな堤の道なのだが、桜の季節の土日ともなれば、色々な出店が出て大賑わいになる。昔薬師堂があったという堂橋の袂を過ぎ、羽村大橋の下をくぐり、羽村橋の袂を過ぎると、第三水門の施設の横にでる。ここは玉川上29-20.jpg水の水を取水して狭山丘陵にある村山貯水池(多摩湖)に送水しているのだ。やがて左手に多摩川に架かる羽村堰下橋を見ると間もなく前編の終着点の上水公園に到着する。公園の休憩所からは青梅・奥多摩の山々を背景に大きく湾曲する雄大な多摩川の流れと、玉川兄弟が起死回生の思いで開削した羽村堰を眼下に望むことが出来る。傍らには昭和33年造立の取水堰に向って指差す玉川兄弟像が立っている。後世の人々にこれほどの貴重な水と雑木林と輝かしい歴史を残してくれた先人の偉業にただただ心から感謝したい。
 江戸時代の羽村堰は投渡し堰、第一水門、吐水門、第二水門などから構成されている。蛇籠や牛枠で制御した水流を堰とめて第一水門で取水し、第二水門を経て玉川上水路に通水していた。第一水門と第二水門の間には吐水門があり、必要以上に取り込ん29-21.jpgだ水は多摩川へ戻す仕組みになっていた。また堰の一部は筏が通行出来るだけの水路が確保されていた。今の羽村堰はもちろん当時の堰とは異なり、堅牢な建材・構造になっているが、基本構造、原理は同じで、今も現役の投渡し堰だ。洪水時は堰を払って強大な水圧から水門が破壊するのを守る仕組みになっている。公園先端の小橋は第二水門上の橋で橋上からは第一水門や吐水門を眼下に眺めることが出来る。
29-22.jpg 羽村の堰の開削工事と言えば檜原白倉の鬼源兵衛の伝説が思い出される。鬼源兵衛は大岳山の申し子と言われ、子宝に恵まれなかった両親が、大岳神社にお百度踏んでようやく生まれたのが源兵衛という。小さい頃から毎日麻糸を一本づつ増やしては引っ張り切る修行をしていたため、ついには満願の日に八百貫の大岩を麓から大岳山の頂上まで引っ張29-23.jpgり上げたという。源兵衛のゆるぎ岩と呼ばれるのがそれだ。羽村堰の開削工事の折、幕府は各村々から多数の人夫を徴発したが、檜原にも当然のこと割り当てが下った。困り果てた村の衆を見て、源兵衛は自分一人で十分と、村を代表して工事に参加した。役人はたった一人で来て、しかものんびり稗餅を食っている源兵衛を見て腹をたてたが、やがて源兵衛はむっくり立ち上がると、やおら傍らに生えていた青竹を引き抜いて、指で潰して引き裂き襷掛けにするや、持ち前の怪力で河原の大岩を取っては投げ取っては投げして、9人分の人夫の働きをしてしまったので、役人は腰を抜かして驚いたという。ただ面白いことに彼の怪力は大岳山が見える所でないと力が発揮出来なかったとも言われている。なお、源兵衛は架空の人物ではなく、実在の人物であったらしく、檜原村助役を勤めた大谷氏は源兵衛の子孫という。
29-24.jpg 睦橋から羽村堰までの前編の桜道の旅はひとまず終わりとする。第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば玉川水神社がある。東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられ、明治26年名を玉川水神社と改められた。水神社としては最も古いものの一つだ。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。(この項つづく)


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『知の木々舎』第357号・目次(2024年3月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

妖精の系譜 №70                 妖精美術館館長  井村君江
 イエイツと妖精物語の蒐集 2
石井鶴三の世界 №252                 画家・彫刻家  石井鶴三
 広隆寺・阿弥陀 2点  1957年
西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№124 美術史研究家 斎藤陽一
 明治開花の浮世絵師 小林清親 7 
   「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化
浅草風土記 №22                    作家・俳人  久保田万太郎
 隅田川両岸 1
子規・漱石 断想 №5                子規・漱石愛好家  栗田博行
 よのなかにわろきいくさをあらせじと
      たたせるみかみみればたふとし(再校・補筆 2024.3.1)
武蔵野 №2                           作家  国木田独歩
【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №128                   俳句 こふみ会     
 「立春」「日向ぼこ」「鱈」「手袋」
郷愁の詩人与謝蕪村 №25                 詩人  萩原朔太郎
 秋の部 2
読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №179               川柳家  水野タケシ
 2月21日、28日放送分
【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №301                          BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年3月のおすすめ番組(下)
海の見る夢 №73                                   渋澤京子
  柳宗悦のラブレター  
住宅団地 記憶と再生 №31   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 ベルリン・ヘラースドルフ地区の団地 
地球千鳥足Ⅱ №43            小川地球村塾村長  小川律昭
 マツタケ狩り奥義
山猫軒ものがたり №35                    南 千代
 炎 1
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №221      岩本啓介
 空知川橋梁水鏡
夕焼け小焼け №32                      鈴木茂夫
 テニスコートを復興、そして弁論  
押し花絵の世界 №199                               押し花作家  山﨑房枝
 「桜のスマートフォンケース」   
赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №53       銅板造形作家  赤川政由
  「私には伝えたい琴がある」I have somethibg to tell
多摩のむかし道と伝説の旅 №122               原田環爾
 西多摩の多摩川河畔の桜道を行く 2
国営昭和記念公園の四季 №148
 ヨウズイセン 花木園

【代表・玲子の雑記帳】               『知の木々舎 』代表  横幕玲子

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妖精の系譜 №70 [文芸美術の森]

イエイツと妖精物語の蒐集 2

       妖精美術館館長  井村君江

 イエイツはダブリン郊外のサンディマウントに生まれたが、イギリスでの生活が長く、一時バリリイに建つノルマン様式の石の円塔を改造し定住しようとしたが、再びアイルランドを離れパリで生涯を終えている。しかし彼の遺体は再びアイルランドに帰り、ベン・バルベンの山が見遣かせるスライゴーのドラマクリフの墓に永眠している。スリユツス森やロセッス岬、ギル湖のイニスフリーの島やクールの湖を詩に歌っているように、どこにいてもイエイツの心は幼時から晩年にいたるまで、母方ポリクスフエン家の故郷スライゴーの地と、つねに密接に結びついていたのである。

 月の光の波に照る
 ほのかに暗い砂の上、
 遠いはるかなロセッスで、
 夜どおし踏むは足拍子
 揺れる昔の踊り振り、
 手に手をつなぎ見交して、
 月が隠れてしまうまで、
 あちらこちらへととび跳ねながら、
   空っぽの泡を追いかけまわす。
 この世は辛いことばかり、
 心配事で眠れもしない、
 そんな嘆きはよそにして。
 こちらにおいで!おお、人の子よ!
 いっしょに行こう森へ、湖(うみ)へ
 妖精と手に手をとって、
 この世にはお前の知らぬ、
 悲しい事があふれている。
                  (イエイツ 『盗まれた子供」より)

「ロセッスの北の端には砂浜と岩場と草地の小さな岬がある。そこは妖精が出没する淋しい場所だ」とイエイツは『ケルトの薄明』の中で言っているが、この詩の背景は、ロセッス岬であり、スリユッス森や、カー谷になっている。妖精たちがたわむれ踊るのはこのスライゴーの土地になっており、イエイツにとってまさに「妖精の国」そのもの、「心の憧れる国」になっている。「悲しい事のあふれるこの世」パリやロンドンの都会にあっても、つねにこの他は憧憬の地となっており、人々をいざない導いていきたい思いにかられる妖精の国にさえなっているようである。この詩で、イエイツは人間をさらっていく妖精のような役割も廠わぬように思われる。
 「スライス・ゴーにある森、ドゥー二ィ・ロック村の上に茂る森や、ペン・パルベンの川にかかる滝をおおう森、そのあたりを歩くことは再びないと思うが、夜ごと夢を見るほどわたしには親しみ深いものである。クールの森は夢に現われないが、わたしの心と深く結びついているので、わたしは死んだ後も、長いことそこを訪れることになると固く信じている」。
 クールは作家グレゴリ夫人の館があったところで、イエイツはしばしば滞在し、森の木の下道を散策したり湖の白鳥を眺めながら、グレゴリー夫人やエドワード・マーティンらとアイルランドの神話や、英雄物語の蒐集について語ったり、アベ・シエターの文芸劇場の構想を練ったりしていた。彼らが自分たちの名前をナイフで刻んだ木が、今でも庭の片隅に残っている。スライゴーの土地に対するイエイツの執着の強さ、死後の魂の輪廻に対する信念が、右の言葉からよくうかがえてくるようである。
 幼時期、イエイツは父が画家の修業のためロンドンに出たので、祖父母に預けられ母方の故郷スライゴーで過ごした。
「召使いがわたしたちの生活の多くの郡分を占めていました。かれらは天使、聖者、バンシー、妖精たちと親しくつき合っていてよく知っており、とてもうまくいっているようでした」と、姉のメリーは思い竪語っているが、イエイツも「本当にたくさんの話をわたしは聞いています……、世の中はまるで奇怪なものたちと不思議なことでいっぱいでした」と、言っている。
 叔父の家の召使いで、字は読めないが透視力(セコンド・サイト)を持っていたらしいメアリー・バトルが語る魔女たちの話や、雨もりする小屋に住む老人パデイ・フリンが出会った、水をはね返すバンシーの話などは、幼いイエイツの心を異教の神々や超自然のものたちと自在に交流する神秘な古代人の魂の世界に触れさせ、苦熱の世界へと誘ったようで、ある時期彼は真剣に呪術や魔法を使える人になろう と思っていたようである。こうした傾向が、後年一方では口碑伝承の採請記録と編纂の仕事へ、一方ではマダム・プラバツキーの心霊学会や「黄金黎明会(ゴールド・ドーン)」の会員となったり、神智学(テオゾフィ)に興味を向けていき、この方画でも晩年の妻の自動記録(オートグラフ)をまとめた『ヴィジョント など有意義な本を著したことは容易にうなずける。従ってイエイツの民間伝承物語の蒐集編纂は、単なる民俗学者(フォークロリスト)の仕事ではなく アイルランドの⊥地や自然への愛、上着の人々や自分の民族的ルーツを見つめようとする必然からの営為だったといえよう。
 少年期の大半をスライゴーやバリソディア、ロセッスで過ごしたイエイツは、それらの十地の′人々も家族や彼をよく知っていたので、よそ者には警戒して話さない妖精の物語(シーン・スギール)を語ってくれたという。ある時は円型土砦近くの義の茂る藁ぶき岸根に住む老婆に、泥炭(ビーツ)の香りと煙の中で、流れのほとりで経惟子の洗い手(ウヲッシャー・オブ・シェラウド)に会った話を聞き、海辺で網を干す老人の口から岩に坐るメロウと会った話を聞いた。そうした物語話者(ストーリー・テラー)の典型的な一人としてスライゴーの′パディ・プリンという農民の年寄りの名前をイエイツはあげている。その時代には各地方に、こうした近在の村々の伝説や物語を語り継いでいる者が農村や漁村に多くいて、冬の夜など火を囲み一堂に会したときには、もし誰かが他の人たちと異なった話の型を知っているときには、皆それぞれ自分の話を暗唱して聞かせ、意見を出し合って話を一つに統一し、今度はそれと違った話を知っている者もその決めに従わねばならず、そうして物語はローソクの火が燃えつきるまで一晩中、語り続けられた ― というような物語伝承の実際の模様が『アイルランド地方誌』に見出せる。そうした物語の口碑伝承を生涯の仕事とした人たちをシャナヒー(Seanehaithe)と呼ぶが、プラスケット島に住んでいたペイグ・セイヤーズという老女がすぐれたシャナヒーであって、四〇〇近くの話を暗唱しており、ファー・ジャルグやプーカ、メロウなど妖精たちと人間との交渉や、妖精の棲み家の呪文などの物語を泥炭の炉辺を国む人々の前で、ゲール語特有のリズムで歌うように語って聞かせてくれたという。
 セイヤーズ夫人は一九五八年に八五歳で亡くなり、その一人の老女の死と共に「アイルランド民族の歌の宝庫が沈黙の底に沈んでしまった」わけであるが、最近までこうした語り部が立派な職業としてアイルランドには存続していたことがわかろう。古代アイルランドには神話や英雄伝説、同の歴史的出来事を語り詠う吟唱詩人たちがいて、バード〈Bard〉とかフィラ(File)とか言われ、民族の遺産と国家的出来事を後世に語り伝えていた。ドゥルイド僧の中に、立法、医術、占星、行政を行う者と共に吟唱詩人がいたわけであるが、彼らは地位が高く支配階級に属し、王や貴族の功績を歌う詩人たちであったため、シャナヒーこそが】股の人々の間にあってその生活と心情とを代表的に語り継いでいく詩人だったのである。詩人はもう‥つの世界を垣間見ることができ、その他界消息を言葉で表現し語る能力のある人として、アイルランドでは昔から人々の尊敬を受けていたが、今日でもなおそうであり、私がダブリンで会った詩人も、自分はバードの後継者の一人であると言い、詩人としての誇りを持ち、人々に尊敬されていた。そして彼はアイルランド民族の過去を集約して歌い、現代英語を使ってもゲール語の響きとリズムは、自然に崩れないのだと自信を持って語っていた。こうして古代より語り伝えられてきた民間伝承物語の数多くの記録は一つに蒐集され、手記原稿の形のまま、王立ダブリン協会に保存されていたが、現在ではユニパーティ・カレッジ・ダブリンの民俗学科に保管されている。
 アイルランドの人々にとってこうした記憶の中に生き、幾世紀にもわたって語り継がれていった妖精物語は、実生活の一部であり、妖精の国はつねに自分の存在の背後に在り、日々の生活の中で現実より生々しく、恐ろしいがしかし美しい不可視のヴェールの背後に、いつでも垣間見られる世界の一部であるらしい。この目に見えぬ民族の文化は、時代を経ていくにつれて絶えず更新されてきたのであろうし、文明の普及とともに妖精信仰(フェアリー・スギール)は希薄になっていったであろうが、今日でもなお、アイルランドに住む人々は妖精の存在を信じており、これもまた最近のことであるが、あるダブリン人が、パンシーの泣き声を、子供の時分に父親と一緒にはっきり.と聞いた、という不思議な体験を私に話してくれた。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №252 [文芸美術の森]

隆寺・阿弥陀2点 1957年

         画家・彫刻家  石井鶴三

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広隆寺・阿弥陀 1957年 (175×136) 
1957広隆寺(講堂)阿弥陀.jpg
広隆寺(講堂)阿弥陀 1957年 (175✕136)

************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №124 [文芸美術の森]

          明治開化の浮世絵師 小林清親
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                   第7回 
      ≪「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化≫

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 小林清親は、江戸から東京へと移り行く風景を、「光の変化」の中にとらえようとした画家でした。
 前回は、小林清親が「朝の光」のもとに描いた作品を紹介しましたが、引き続いて、「一日の光の変化」をとらえた作品を鑑賞していきます。

≪午後の光≫

 まず「午後の光」をとらえた作品をひとつ。

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 これは、午後の光の中の「赤坂紀伊国坂」を描いています。坂道の、日の当たるところと影に沈む部分とを描き分けていますね。

 江戸時代、この坂の西側、この絵では右側に、広大な紀州徳川家の屋敷があったところから「紀伊国坂」と呼ばれました。現在、右手にはホテル・ニューオオタニがあります。左側に見える水面は「弁慶堀」です。
 坂の上から、下のほうを見下ろす構図で描かれており、下に広がる家並みは、現在の赤坂界隈。

 さりげない一枚ですが、一日がゆったりと穏やかに過ぎていくことを感じさせて、しみじみとした味わいを生んでいます。

≪黄昏どき≫

 とりわけ、光がドラマチックに変化する「黄昏どき」は、小林清親の「光線画」の重要なテーマでした。
 下図は、そのような黄昏時を描いた1枚です。

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 小林清親が明治13年に制作した「橋場の夕暮れ」

 描かれているのは「橋場の渡し」。浅草・浅草寺の北にある橋場と、対岸の向島とを結ぶ渡しです。
 夕立の後でしょうか、空にはまだ雨をもたらした雲が複雑な陰影で表わされている。雨上がりの空には虹が現われ、今しも、一艘の渡し船が、虹のかかる対岸に向かって漕ぎ出して行く。

 清親は、水平線を思い切って下の方に低く設定し、画面の4分の3を「空」が占めるという大胆な構図をとっています。この空と雲との陰影に富んだドラマチックな描写こそ、この絵のみどころ。雨上がりの湿った空気感さえ感じられる、味わい深い作品です。

 小林清親の絵に繰り返し登場するのが隅田川とその界隈の風景。
ゆったりと流れる川と、その上に広がる空は、刻々と変化する光を反映して、さまざまな表情を見せる。そのような幼少年時の視覚体験が、清親の光に対する繊細な感受性を育んだのでしょう。

≪暮れなずむ空≫

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 この絵の舞台は、隅田川の両国界隈。向うには両国橋が見える。
 手前には、河岸の浸食を防ぐための「棒杭」(ぼうぐい)が沢山描かれる。ここは「千本杭」と呼ばれたところ。川面には、釣り糸を垂れる船が。

 このあたりは、墨田川東岸から西に両国橋を望んだ風景なので、日没直後の残光が照らす、暮れなずむ空の美しさを描くことが清親のねらいでしょう。
 水面のきらめきの描写もまた繊細で美しい。木版画なのに、水彩画のような味わいが感じられる。
 構図上、注目すべきは、手前の棒杭をきわめて大きく描いているところで、真ん中の一本などは、橋よりも高く、空に屹立する姿に描かれる。
 このように、近くのものを大胆なクローズアップでとらえ、遠景を小さく描くことによって、深い奥行き感が生まれる。この描法は「近接拡大の技法」と呼ばれ、晩年の歌川広重が連作「名所江戸百景」の随所で使った手法です。

 広重は、これに加えて、近くのものの全景を描かず、大胆に切断して「部分」だけを提示するという「切断画法」を同時に用いることによって、絵画的な強さを生み出しました。

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 上図の右の絵は、歌川広重晩年の連作「名所江戸百景」の中の「亀戸梅屋舗」です。
 梅の古木を前面に大きく「クローズアップ」でとらえ、しかも古木の上下・左右を大胆に「切断」(トリミング)することによって、奥行きが深まるだけでなく、力強い絵画となっています。ゴッホがこの絵の斬新な構図と力強さに魅了されて模写していますね。

 普通、浮世絵の「風景画」のジャンルでは、風景の広がりを表現するために「横長」サイズの画面に描くことが多かった中で、広重は、「名所江戸百景」シリーズをすべて「縦長」サイズとしました。そして、風景画には不向きと思われた「縦長」画面を逆手にとって、インパクトのある斬新な「風景画」を生み出したのです。その時に使ったわざが「近接拡大」と「切断」の技法でした。

 広重の作品は、清親の幼いころからその脳裏に摺りこまれていたと考えられるので、この「千本杭両国橋」を描く時に、ほとんど無意識のうちにそのイメージが作用したように思えます。

 次回もまた、小林清親の「東京名所図」シリーズの作品を鑑賞します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №22 [文芸美術の森]

隅田川両岸 1

        作家・俳人  久保田万太郎

       吾妻橋

 浅草に住むわれわれ位の年配のものは、吾妻橋の、いまのような灰白色の、あかるい、真ったいらな感じのものになったことをみんな嘆いている。なぜなら、かれらの子供の時分からみつけて来た吾妻橋は、デコデコの虹梁をもった、真っ黒な、岩畳(がんじょう)をきわめたものだったから。……見るからに鬱然たる存在だったから。
 ということは、雷門に立って遠く東をみるとき、つねにその真っ黒な、岩畳をきわめたもの、か、その鬱然たる存在か、郵便屋のまえの大波のかなたに、せせッこましくその行く手を遮っていたのである。……そんなにそれが、そのせせっこましさが、かれらに、浅草めぬきの部分の「名所的風景」を感じさせたことだろう。……
 勿論、この場合、「かれら」という言葉の代り仁「わたくし」という言葉をつかってもすこしもさし支えないのである。

       一銭蒸汽

 勿論、いまは、「一銭蒸汽」ではない。そして、経営者が変わったことによって、船の恰好も、いまでは昔と全く違ったものになっている。……が、「一銭蒸汽」とそう呼んだほうが、船の恰好の違ったいまなお消えないその、存在についてのゲテな感じをはっきりさせていいのである。           
 吾妻橋の袂から出て、かの女は、言問により、白髯橋により、水神により、鐘ヶ淵により、汐入によったあと、千住大橋に到着し、再びそこから同じ航路を吾妻橋へと引返すのである。が、それにしても、東京のあらゆる交通機関のなかで、かの女ほど、わびしい、さんすいな感じをもつものはないだろう。……その乗客層からいっても、その発着所の所在感からうっても……
 以前はしかし、白髯橋という発着所はなかって。その代りに小松嶋という発着所があった。そしてその小松嶋のつぎが鐘ケ淵で、鐘ヶ淵のつぎがすぐ千住大橋だった。……その時分、冬になると、その小松嶋の発着所のまえにも、鐘ヶ淵の発着所のまえにも、枯葦(かれあし)のむれが日に光りつつ、しずかに、おりおりの懶(ものう)い波をかぶっていたのである。……その感傷に触れたいばかり、二十代のわたくしは、用もないのにしばしばかの女を利用したのである。‥‥‥

       隅田公園

 隅田公園の土曜日の夕方ほど男と女の、……くわしくいえば、若い会社員と、それに準じた年齢の事務員との一対ずつのもつれ合いつつ歩いているところはないだろう。……と、しみじみそう感じられるほど、かれらは、おたがい同士、無知であり、ほしいままである。……雨の降らない七月の未の.風のない、曇った空の下でのぱさぱさに乾いた芝生、真っ白に埃をかぶった値込み、それらのまた、何んとかれらに無関心なことよ。……しかも、そこには、河に沿った柵のそとのスロープに、浴衣がけの一人の若い男あって、しきりにそのとき尺八をふいているのである。……上げて来ている湖の、かれのなげ出したその足の下に、しきりに塵芥を運びつつけていることでも、かれは、かれの耳にはさんだ、バットの吸いかけとともにことことくすべてを忘れ切っているのである……それほどかれは夢中でふいているのである。……

        隅田公園

 隅田公園の売店で何を売っているか御存じですか?

 西瓜。
 ラムネ。
 うで玉子
 塩せんべい。
 キャラメル。

 以上かそのおもなろものであります。……蜜パンと焼大福のないことを残念におもいます。……
 所詮は浅草といところの、西瓜であり、ラムネであり、うで玉子であり、塩せんへいであり、キャラメルであります。……

        今戸橋

 聖天山(しょうてんやま)の工事の出来上らない限り、今土橋について何かいうりは無駄である。……が、それにしても、山谷堀のお歯黒といってもない水のいろについてだけは哀しみたい。
 今戸橋塵芥取扱所。
 そうした掲示をもった建物が……トボンとした感じの建物が、真っ黒な、腐ったその水にのぞんで立っているのである。そして、そのまえに、一号から十二号までの塵埃車が。
出勤命令を待つ犬の如く忠実に、しかも油断なくならんているのである。
 とはいうものの、問もなく、そこから十足とはなれない日本堤署今戸橋巡査派出所の裏に……すずかけの葉をその前面に茂らせたコンクリートの交番の裏に、手ずさみの朝顔の蔓のつつましく伸びているのをわたくしはみいだした。……そして、その蔓のさきに、みえない夕月のほのかにやさしいかげをわたくしぼ感じた。

『浅草風土記』 中公文庫


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武蔵野 №2 [文芸美術の森]

武蔵野 2

            国木田独歩
     二

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷しぶや村の小さな茅屋ぼうおくに住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
 九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌きらめく、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気すいきを帯びてかなたの林に落ちこなたの杜もりにかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野やにみつ、浮雲変幻ふうんへんげんたり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端ほったんとして、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
 九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
 同二十一日――「秋天拭ぬぐうがごとし、木葉火のごとくかがやく」
 十月十九日――「月明らかに林影黒し」
 同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出いで野を歩み林を訪う」
 同二十六日――「午後林を訪おとなう。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
 十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
 同十八日――「月を蹈ふんで散歩す、青煙地を這はい月光林に砕く」
 同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑まじゆ。小鳥梢こずえに囀てんず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟こうぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
 同二十二日――「夜更ふけぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
 同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
 同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐なつかし」
 同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久とこしえの夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
 同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳そびゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面たおもに水あふれ、林影倒さかしまに映れり」
 十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
 同二十二日――「雪初めて降る」
 三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日――「今朝大雪、葡萄棚ぶどうだな堕おちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒よさむの凩こがらしなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
 同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭しょうとう針のごとし」
 二月八日――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
 三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
 同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁のがれし」

『武蔵野』青空文庫


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郷愁の詩人与謝蕪村 №25 [ことだま五七五]

秋の部 2 

             詩人  萩原朔太郎


おのが身の闇(やみ)より吠(ほ)えて夜半(よわ)の秋

  黒犬の絵に讃(さん)して咏(よ)んだ句である。闇夜(やみよ)に吠える黒犬は、自分が吠えているのか、闇夜の宇宙が吠えているのか、主客の認識実体が解らない。ともあれ蕭条(しょうじょう)たる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤独に耐え得ぬ、人間蕪村の傷ましい心なのであろう。彼の別の句

愚ぐに耐えよと窓を暗くす竹の雪

 もこれとやや同想であり、生活の不遇から多少ニヒリスチックになった、悲壮な自嘲的(じちょうてき)感慨を汲(く)むべきである。

冬近し時雨(しぐれ)の雲も此所(ここ)よりぞ

 洛東(らくとう)に芭蕉庵を訪ねた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拝し、自分の墓地さえも芭蕉の墓と並べさせたほどであった。その崇拝する芭蕉の庵(いおり)を、初めて親しく訪ねた日は、おそらく感激無量であったろう。既に年経て、古く物さびた庵の中には、今もなお故人の霊がいて、あの寂しい風流の道を楽しみ、静かな瞑想(めいそう)に耽(ふけ)っているように見えたか知れない。「冬近し」という切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に対する無限の思慕と哀悼(あいとう)の情が含まれており、同時にまた芭蕉庵の物寂(ものさび)た風情が、よく景象的に描き尽つくされている。さすがに蕪村は、芭蕉俳句の本質を理解しており、その「風流」とその「情緒」とを、完全に表現し得たのであった。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №179 [ことだま五七五]

    読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆2月21日、28日放送分

         川柳家・コピーライター  水野タケシ


川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
2月21日の放送です。
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しゃまさんの川柳文庫「ビタミンS」を手に!! 

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから↓
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・・https://youtu.be/1D0qe0XCf7g?si=JvlmKZGtLfGLyZoI

 あさひろさんのボツのツボ
「だとしても騒ぎすぎでしょ8センチ」(すみれ柳王)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は175の投句がありました。ありがとうございます!
・嫁小言「わかったわかった」聞かぬ義父(ちち)(大名人・ポテコ)
・脱け殻の様な布団に泣く夜明け(矢部暁美) 
・お洒落して主(ぬし)より目立ちお犬様(ゆかいな仲間) 
・義理と言いもらったチョコはハート型(恋愛名人見習い・名もなき天使) 

☆タケシのヒント!
「当ラジオ万能川柳の人気者の1人、名もなき天使さん、初めての秀逸です。おめでとうございます。『う〜ん
女性の心はわかりません』と句の余白にメッセージ。現在進行形の恋愛模様、臨場感がありますね。」

・ムズムズと律儀に来たな花粉症(名人・キジバト交通)
・花粉症生ゴミよりもティッシュの山(ココナッツ) 
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横須賀市市民大学の様子

・大臣の器でないとわかる人(柳王・東海島田宿) 
・sojiさん覚醒前夜二刀流(名人・パリっ子) 
・自民党おれも欲しいよ還付金(じゅんちゃん) 
・北の熊どういう最期迎えるか(シゲサトシ) 
・ため息がお金になればいいのにな(名人・大和三山) 
・主力車は軽でも罪は重たいぞ(名人・まご命) 
・ファンブック次号は4句載る快挙(大名人・高橋永喜) 
・繋がって繋がって又繋がった(大柳王・けんけん) 
・ 20度を超えて2月にボケの花(柳王・はる)
・コイバナのジャンル確定天使さん(遊子) 
・うろたえちゃあかんあかんとうろたえる(名人・翔のんまな) 
・一番星隣の星で僕はいい(柳王・恋するサボテンちゃん)
・こだわりは何なのだろうもうバツ2(とんからりん) 
・髪型でやってる感を出す総理(柳王・アンリ) 
・おっぱいにあせもが出ちゃうまだ2月(柳王・かたつむり)
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・年取ると大切なのは友ばかり(名人・居酒屋たつみ)
・卵ない生活にもう慣れちゃって(大名人・ワイン鍋) 
・半分こする相手いるあたたかさ(なつ) 
・詰め替えをするのはいつも同じ人(柳王・ぼうちゃん) 
・裏金の次のニュースはボランティア(大柳王・里山わらび) 
・独りだよ生まれるときも死ぬときも(大柳王・平谷五七五)
・社告出て新聞を買い占め回り(しゃま)
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・第二ボタン卒業式で逆ナンパ(ナンパも名人・soji) 
・ 句ができぬこれはビタミンS不足? (柳王・荻笑) 
・支持ないが粛清がないだけましか(大柳王・入り江わに) 
・岸田サンだんだん哀れに見えて来た(名人・のりりん) 
・納税の呼びかけまずは党内で(大柳王・ユリコ)
・どうやって帰る日決める白鳥は(柳王・咲弥アン子) 
・マツケンに負けぬ衣裳でコンサート(大名人・じゅんじゅん) 
・パンイチでいたいくらいの暑さです(名人・わこりん)
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わこりんのサインとわこりんの好きな自作川柳(美ら小雪さん提供)

・ 一割台しょぼいバッター替えられず(柳王・フーマー)

◎今週の一句・義理と言いもらったチョコはハート型(名もなき天使) 
◯二席・裏金の次のニュースはボランティア(大柳王・里山わらび)
◯三席・ため息がお金になればいいのにな(名人・大和三山)

【質問リターンズ】
川柳の公募が最近たくさんありますが、落選した句を他の公募に出してもいいものなのでしょうか?
私は、推敲して読み直してから応募することはあるのですが、
元々の発想が同じだとどうしても類句になってしまいます。師匠の考えをお聞かせください。

【編集後記】
政治ネタが燃え盛っています。
確定申告のシーズン、政治とカネには本当に腹が立ちますね。
「熱しやすく冷めやすい」と言われがちな私たちですが、
この熱い怒りは次の選挙まで絶対に忘れずにいましょう。(水野タケシ拝)

〇2月28日の放送
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むせました〜(涙)
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やさしいかたつむりさん、ありがとう!m(__)m
放送の音源・・・https://youtu.be/8oRGx4Sysos


 あさひろさんのボツのツボ
「調べてみてやっと分かったABC」(名もなき天使さん)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は179の投句がありました。ありがとうございます!
・プロ目指し海越え学ぶスラッガー(新名人・せ・ら・び)
・手探りの恋は駆け引き武者修行(矢部暁美)
・コロナ禍でひっそり消えた友ひとり(とんからりん)
・孫娘なかなかのハンサムボーイ(ゆかいな仲間)
・大谷の明るい話題聞き飽きた(東孝案)
・カブったと言って揃いのモノ渡す(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・最高値オレの暮らしに変化なし(シゲサトシ)
・健康はラジ川投句ナンパ爺(名人・まご命)
・恋バナに聞き耳立てる熟女会(大名人・やんちゃん)
・ミサイルが落ちた村にも梅ふふむ(名人・バレリア)
・寒暖差おじさんギックリイタタタタ(名人・金星玉三郎)
・スマホ画面広告の×小さくて(柳王・ぼうちゃん)
・卓球の未来明るい15歳(柳王・はる)
・公開か非公開かでああのん気(柳王・東海島田宿)
・もう誰も乗せてやれない新幹線(大名人・高橋永喜)
・しゃまさんに近づくように句集買い(名人・居酒屋たつみ)
・月裏でひとり焼肉かぐや姫(柳王・恋するサボテンちゃん)
・花粉症医者もくしゃみが止まらない(名人・翔のんまな)
・クラス替えポニーテールは前の席(遊子)
・「お先へどうぞ」レジ譲られただけ春(大柳王・すみれ)
・わこりんちゃんサイン下さい飾ります(柳王・かたつむり)
・植物も自律神経乱れそう(大名人・ワイン鍋)
・人間は神にも悪魔にもなって(大柳王・平谷五七五)
・ばあちゃんの自慢を暗記してる孫(大柳王・入り江わに)
・最高値遠く見上げる岸田株(大柳王・里山わらび)
・アンコールみんなで歌うろくでなし(大名人・じゅんじゅん)
・ 13になったらトマト食う多分(名人・わこりん)
・ググったら知り得て嬉しアサギマダラ(名人・くろぽん)
・十回は荻笑さんのところ聞き(しゃま)
・たつみさんお祝いします誕生日(ナンパも名人・soji)
・もし私花が咲くならきっと今(大柳王・けんけん)
・プーチンが「プーチン」やめれば来る平和(大名人・不美子)
・ちょっとだけじらし季節は春になり(名人・のりりん)

☆タケシのヒント!
「2月も終わり、ということで、春らしく明るく楽しい一句を秀逸に選びました。『もう少しで』という時が一
長く感じるんですよね。」

・しゃま・わこりん・アン子今週LEVELアーップ!(柳王・咲弥アン子)
・ 横ちんと友を呼んだらざわつかれ(大柳王・ユリコ)
・温もりを感じる美女の尻の後(全裸川柳家・そうそう)

◎今週の一句・ちょっとだけじらし季節は春になり(名人・のりりん)
◯二席・「お先へどうぞ」レジ譲られただけで春(大柳王・すみれ)
◯三席・公開か非公開かでああのん気(柳王・東海島田宿)

【お知らせ】
「貧困さんいらっしゃいなら出れるのに」「貧困さんいらっしゃいなら出れるのに」
「会社ではなくて変えたいのは上司」「会社ではなくて変えたいのは上司」
「ダイエットほうれい線を二重にし」「ダイエットほうれい線を二重にし」
の川柳で知られ、このラジオ万能川柳でも大人気の作家に一人、しゃまさんが、
仲畑流万能川柳文庫40「ビタミンS」を刊行しました!!
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【編集後記】
24日(日)から花粉症で目がかゆい、かゆい!!
私を含めて、そんな方も多いのでは??
でも、まだ、今シーズンの1パーセントの花粉しか飛んでいないとか。
この先一体どうなっちゃうの!?(涙)助けて~~!!(水野タケシ拝)
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」  http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2024-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-3-15

◆3月に入ると株価は上昇し4日には史上初めて4万円台を記録しました。その後いくらか値下がりがありますが、日本経済 が確かな業績をあげていることを反映しているといわれます。

生活者にとって春最大の話題は春闘による賃上げです。
日本最大の労働団体・連合(日本労働組合総連合会・組合員約699万1千人)は、1月24日、月額平均1万4000円の賃上げ要求を打ち出すと共に3月13日を集中回答日としました。
今年の春闘は労使共々に賃上げの必要性を認めています。そこで大手企業では集中回答日をまたずに「満額回答」が相次いでいます。  

集中回答日を含めてこれまでに判明している大手企業の一部の状況は次の通りです。

トヨタ自動車年間一時金7.6月、日産自動車月額18000円年間一時金5.8月,
ホンダ13500円、年間一時金7.1月、マツダ16000円、年間一時金5.6月、
三菱自動車17500円年間一時金6.0月、日立製作所13000円年間一時金6.17月、
パナソニック13000円年間一時金・業績連動、東芝13000円年間一時金・業績連動、
三菱電機13000円年間一時金5.8月,日本製鉄35000円年間一時金・業績連動、
FEスチール30000円年間一時金業績連動,JAL15000円年間一時金・業績連動、
ANA11000円年間一時金・業績連動 (以下省略)

中小企業や非正規雇用で働く人たちにも賃上げの勢いを行き渡らせ、持続的な賃上げを実現できるかどうかが問題です。
そのためには原材料費や人件費などの上昇分を元請けの大企業に対して価格転嫁しやすい環境を整えることが重要です。
賃上げで個人消費が活発になり、経済の好循環が実現することがなによりも望まれます。

年金生活者の私には、賃上げ効果の波及はありません。.目に余る物価高に生活費の切り詰めを迫られる毎日ではありますが……

◆斉藤陽一さんの『京都ルネサンス』の第一部、伊東若冲の講座が終了しました。西洋美術研究家の視点からの解説が面白く、月に一度、会場の三光院に通うのが楽しみでした。印象に残ったいくつかをご紹介しましょう。

30枚の『動植綵絵』の中でも最もよくしられるているのは「群鶏図」です。

13羽の鶏がそれぞれ、向きを変えて描かれ、見る者は鶏たちの赤いトサカを彷徨って視点が定まりません。心理学者の北岡明佳氏によると、赤い色は火などを連想させ、人間は本能的に赤に集中するのだそうです。

比較されるのがダヴィンチの「モナリザ」です。モナリザを見る人は誰もが彼女の口、一点に集中するのです。

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遠近感のない画面に望遠レンズをとおして迫ってくるような距離感、不思議なシュールな絵画の世界は現代アートに通じる、斬新なデザインです。これは西洋が20世紀になって獲得したものでした。

「薔薇小禽」は紅白の薔薇が目の醒める華やかさでえがかれ、乱れ咲く花々の中に一羽の小鳥がとまっています。

なだれ落ちる、跳ね返る、乱舞するのは、溢れるような薔薇の生命力です。一つとして同じ表情の花はありません。そして、小鳥が眺めている先には若冲画! 若冲のあそび心が見えます。

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「池辺群虫図」は画面に70種の虫が描かれた楽しい絵です。
食べる側と食べられる側、反復して描かれた蛙のなかに一匹だけ異なる蛙がいる、生まれたばかりの命を表すオタマジャクシたち、草木国土悉皆成仏の仏国土を表した曼荼羅虫図です。

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とがった貝、大きく口を明けた会、渦巻貝など、眺めるたびに発見のある「貝甲図」もまた貝曼荼羅です。描かれた140種の貝の中には当時の日本人にはなじみのない南洋産の貝もあります。これは若冲と交流のあった、大阪の教養人、木村蒹葭堂の影響かと見られています。彼は酒造家であり、生物悪者でもありました。若冲や若冲と交流のあった相国寺の大典和尚が、当時の関西の知識人のネットワークに組みこまれていたことは、講座のはじめに学んだことでした。

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「老松白鳳図」は太陽に向かって鳴き声をあげる純白の鳳凰が描かれています。 

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金色に輝いて見える鳳凰の羽根は実は金色をつかっていません。    
黄土と呼ばれる黄色の顔料を裏にぬり、その上に黒をおいて、表の白と、黄色と、隙間から見える黒の絶妙なバランスによって黄金色をだしているのです。金を使わずに金色の効果を追求した若冲マジックとも呼ばれるものです。
雄の鳳凰の表情はなぜかなまめかしく、写実を旨とする若冲の作品の中では得意な絵だといわれています。

虫や貝ばかりでなく若冲は魚も描いています。  
住まいのあった錦市場の魚を子細に観察して描いたと思われるこの絵にはプルシャンブルーがつかわれています。プルシャンがプロシャをさすことからベルリン藍と呼ばれました。北斎が富嶽36景に用い、のちに広重ブルーと呼ばれるようになった「ベロ藍」は、実は日本では若冲が最初につかったのでした。

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「動植綵絵」最後の一幅は「紅葉小禽図」。570枚のモミジが描かれています。
赤くなる前のミミジ、今が盛りの真っ赤なミミジ、盛りが過ぎて黒ずんできたモミジ。
モミジは一つずつ異なる色彩で描かれ、よく見ると、紅葉した葉は後ろから光を浴びて、明るい絵がうまれました。
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混ぜれば混ぜるほど黒に近づく絵の具に対し、光は混ぜれば混ぜるほど白に近くなります。西洋の印象派の画家たちよりも半世紀も前に若冲は絵の具の宿命に気づいていたのでした。

なぜ光にこだわったのか。人の目には見えなくても仏には見えると言い、動植綵絵すべてを釈迦三尊像とともに寺に寄贈した若冲は、あらゆるものに光がいきわたる世界を仏に見せたいと思ったのではないでしょうか。

鮮やかな色彩が印象深い若冲は実は水墨場の分野でも傑出した描写力を発揮しています。そのほか、枡目画き(モザイク画)、拓本画など、さまざまなジャンルに飽くなき挑戦をつづけました。晩年は明暦の大火で住居を失い、深草の黄檗宗の石峯寺の門前で暮らし、寛政12年(1800)、85歳で生涯を閉じました。当時としては相当の長命でした。寺には若冲の彫った五百羅漢が残されています。


◆三光院の弥生のお膳は菜の花のおすもじでした。

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ごま豆腐のくずとじ  
まだまだ寒いこの季節に体を温めて
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菜の花のおすもじ とあられのお吸い物     
菜の花漬けを中に入れた海苔巻き おすもじは御所言葉でおすしのこと


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BS-TBS番組情報 №301 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年3月後半のおすすめ番組

                     BS-TBSマーケティングPR部

新時代の歌姫!丘みどり熱唱SP~演歌・ジャズ・洋楽からJ-POPまで

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3月19日(火)よる9:00~10:54 
☆令和の歌姫、丘みどりのコンサートの模様を余すところなくおとどけ!

天才民謡少女として注目を浴び、高校生でアイドル歌手デビュー、さらに演歌歌手と再デビューして開花したその歌人生は今、あらゆるジャンルの作品を歌いこなす歌姫として結実している。
日本全国津々浦々の大ホールでのコンサートも満員にする人気の丘みどりが、昨年初挑戦した都心のライブハウスでの公演。
そこでは、日本のポップスや洋楽をはじめ、実力を問われるジャズやシャンソンまでを見事に歌い上げ、耳の超えた観客に真っ向勝負を挑んだ。

この番組では、ボーカリスト・丘みどりを堪能する、この特別なシークレットライブに加え、プラチナチケットと言われる王道演歌の大ホールコンサートの模様、さらには彼女の歌人生を追うVTRとを合わせて、令和の歌姫の実力と魅力を紐解いていく。

憧れの地に家を買おう

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3月22日(金)よる10時~10時54分 
☆物件購入を本気で考える武井壮が、世界移住を夢見るゲストと夢を語ります!

#67 ベトナム・ホーチミン

今回の憧れの地は、ベトナム・ホーチミン。東洋のパリと呼ばれる古い建築と高層ビル群が同居する活気ある商業都市。最初に紹介されたのは、ヨーロッパのような美しい街並みの中にある、ラグジュアリーな4階建てタウンハウス。グランドピアノが置いてある4階の部屋は他の階より天井が高く、インドシナ風建築によく見られるドーム型天井です。ジム、屋外ラウンジ、テニスコートまで共用施設が充実。次に紹介する物件は、現在建設中の新しい街に建つお手頃物件です。日本のマンションよりも窓が大きい為、部屋全体が明るく、広く感じられる造り。ホーチミンに移住した日本人は、YouTuberとして活動し、映画にも出演している人気者。最後に登場する物件は、エンタメ満載のリゾートアイランド、フーコック島にある、プライベートビーチ付き物件。ヨーロッパ風の内装でオシャレなシャンデリアが使用されています。

MC:武井壮 ゲスト:三浦大輔

こども音楽コンクール

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3月30日(土)よる11時~11時30分
☆“音楽を身近に楽しむ”というコンセプトのもと、1953年にスタートした小学校・中学校が対象の音楽コンクール。

今年度はコロナ禍の影響が色濃く残る中、全国949の小・中学校から2万1053人が参加。小・中学校それぞれ6つの部門(重唱・合唱・重奏・合奏第1・合奏第2・管楽合奏)で「文部科学大臣賞」受賞校が選出されました。
「文部科学大臣賞」受賞校と「審査員特別賞」受賞校には、
3月2日(土)、東京オペラシティ コンサートホールで行われた「文部科学大臣賞授賞式・記念演奏会」で賞状が授与されました。番組では当日の模様をお送りします。・
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海の見る夢 №73 [雑木林の四季]

    海の見る夢
         -柳宗悦のラブ・レター―
                    澁澤京子

 アインシュタインとフロイトの往復書簡『人はなぜ戦争をするのか』で、アインシュタインの質問に対し、フロイトは戦争を抑制するものとしてまず「文化」を挙げ、「知性を強めること」と「攻撃本能を内に向けること」が人にとって最も重要であると答えている。昔、この本を読んだときはピンとこなかったけど、ヘイトスピーチ、差別と暴力のあふれる今読み返してみると、フロイトの言っていることは実に正しい。

飢餓状態に追い込まれ、やっと届いた小麦粉に群がったパレスチナ人を撃ち殺す(100人以上が亡くなった)イスラエル兵士の残虐な行動と、ヘイトスピーチに共通するのはまさに「知性の欠如」と外に向けられた「攻撃性」以外の何物でもない。今のイスラエル兵士が、まるでターミネーターのような非情さを発揮し、ヘイトスピーチが虚勢や嘲笑の形をとるのは、彼らが人を見下すことによって、辛うじてあるかなきかの己の優越心を保とうとするからだろう。(それが集団化すると暴力に)逆に今のパレスチナの人々が、優れた人間性を見せるのは、民族性もあるのかもしれないが、彼らがすべて奪われた無防備な状態に置かれているからではないだろうか。

それでは「知性」とは何だろうか?

・・・日本が神の国において罪深いものとして見られる事は、私の忍び得ることではない、私は日本の栄誉のためにも、我々の故国を宗教によって深めたい。私は目撃者ではないとはいえ、様々な酷い事があなた方の間に行われたのを耳にする時、私の心は痛んでくる。それを無言のうちに堪え忍ばねばならないあなた方の運命に対し、私は何を言うべきかを知らない。~『朝鮮の友に贈る書』柳宗悦1920年

韓国映画やドラマを見て気が付くのは、時々セリフにハッとさせられるような詩的表現が多いこと。少女の交流を描いた『わたしたち』ユン・ガウン監督や、『それから』ホン・サンス監督、『ペパーミント・キャンディ』イ・チャンドン監督などを観ると、こういう繊細な、人情の機微や人の痛みを表現できる韓国っていったいどういう国なんだろう?と思う。晩年、詩人の茨木のりこさんが朝鮮詩を原語で読みたくて、韓国語を勉強し始めた気持ちもわかるような気がする

朝鮮の陶磁器や仏教美術を通して、朝鮮半島の人々の繊細さと芸術性のレベルの高さに魅入られたのが柳宗悦。エッセイ『朝鮮の友に贈る書』が書かれたのはちょうど朝鮮半島の3・1独立運動を日本総督府が弾圧したころのことで、関東大震災が起こり朝鮮人虐殺があったのがその三年後になる。日本人の朝鮮人に対するむごい扱いと差別を人づてに聞き、いたたまれない思いで書いたのだろう。この美しいエッセイは、目の前に置かれた李朝の器を通して朝鮮の人々に語りかける、柳宗悦の熱烈なラブ・レターである。

支那もすぐに降伏すべしと思ひ足らんが、案外長く抵抗する―朝鮮も後には追々苦情を申し立て我に背くあらん。自分ばかり正しい、強いと言ふのは日本のみだ。世界はさう言わぬ。                     ~『氷川清話』勝海舟
この頃、人が世に処し事に従う様子を見ると、その目的とするところは自己の利益を得るためかそうでなければ名誉権威を求めることであって、精神誠意国を想い、道を行うものは甚だ稀である。                 ~嘉納治五郎

柳宗悦は1889年、東京・麻布で藩士の家に生まれた。叔父が嘉納治五郎、母方の父が勝海舟と懇意な関係にあり、のちのバーナード・リーチ、河井寛次郎等との交友関係も含み、宗悦の植民地主義に抵抗する思いや今でいう人権意識の高さは彼を取り巻く人間関係の影響が大きかった。勝海舟は日清戦争にも強固に反対し、日米修好通商条約が不平等なまま、朝鮮半島を植民地化して不平等を押し付けることにも反対し、好戦的な薩長を頂点とする新政府とは対立していた。(今の自民党の欧米には弱腰、その逆にアジア諸国を見下すといった構図はこのころからあったのか・・・)勝海舟は、欧米列強の植民地化に対抗するには、中国、朝鮮半島、日本とアジアの国でお互いに共存、連帯するしかないと考えていたのである。勝海舟の構想していた「儒教文化圏構想」。それは、その後の仏教がベースになっている西田幾多郎の大東亜共栄圏構想とも、国家神道がベースの八紘一宇とも違う。植民地化した朝鮮半島に神社を建立し、日本語教育を押し付けることになったのは、道義的世界統一の理念を示したのは神武天皇という、田中智学の八紘一宇思想によるもの。勝海舟は、儒学者である横井小楠から影響を受けていたため、そうした誇大妄想的な国粋主義や差別による排他主義とは無縁だった。

昔、朱子学と陽明学の本を集中して読んだことがあって、「用」とか「体」とか禅で使われる言葉が頻繁に出てきた事を覚えている。陽明学のほうが「頓悟」(一気に悟る)で、朱子学が「漸梧」(次第に悟る)に似ていたと把握している。禅は陽明学と似ているが、横井小楠が重要視したのは、陽明学の主観主義ではなく、朱子学の「格物致知」であり、合理性と客観性だった。中国の易姓革命(能力主義)は日本では無視され、世襲制になったが、横井小楠は、日本の血縁世襲制度を批判し、能力主義を奨励した。易姓革命の理論では幕府のみならず万系一世も否定されてしまうが、横井小楠は日本人には珍しい純粋な思想家であり妥協がなかったためか、暗殺された。(日本人は、状況に応じて適当に周囲に自分の意見を合わせるご都合主義者が多く、特にそうした修正主義の長州人には小楠のことは到底理解できないだろう、と勝海舟は述べた)また、横井は日本の政治の本質は「鎖国主義」とも、批判している。彼は西洋のキリスト教に対抗できるのは、儒学しかないと考えていたのである。横井小楠は利他を説くキリスト教をとても評価していた。
~参照『横井小楠』松浦玲著

横井小楠の日本批判はとても鋭く、今の日本にもそっくりそのまま当てはまる。「血縁世襲制度」「鎖国政治」と言えば、世襲議員が多く、派閥のことばかり考え、自己保身のことしか頭になく、大衆受けのパフォーマンスしか考えない与党を連想させるし、興味の対象が内向きで視野が狭く、うちわの人間関係や物事に拘泥しがちの日本人の欠点もよくとらえている。利益第一の欧米のやり方は「仁」ではないと批判し、また、ヨーロッパの植民地政策も「仁」の観点から批判し、さらに「開国」を主張した横井小楠。彼は徹底的に朱子学を学ぶことによって道義とともに近代的合理性をも身につけていた。勝海舟は、頭の切れる横井小楠を「天下第一流」と絶賛した。

『幕末の水戸藩』山川菊栄著によると幕末のころには、無学で乱暴な武士、屋敷に押し入り主人を切り殺して書庫の本に火をつける荒くれもの、農家にお金を無心に行く武士、また武士でありながら占い師を信用するなど、堕落した武士やならず者の多い物騒な時代だった。世の中が混乱し、今の言葉でいうと「反知性主義」と暴力が蔓延していたのだろう。  

横井小楠から影響を受けた勝海舟や嘉納治五郎も極めて近代的、合理的な判断力を持っていた。勝海舟は蘭学を学び咸臨丸でアメリカに渡っているし、フェノロサに教わった嘉納治五郎はヨーロッパに遊学している、二人とも儒教の合理精神をベースにした欧米文化に対する理解力を持っていたため、土着的な血縁主義や排他主義にはならなかった。嘉納治五郎も平等思想の持主で、学習院院長に任命された三浦梧楼(長州藩)の国粋主義や階級意識の強さとは反りが合わず、三浦による朝鮮の閔妃暗殺事件をきっかけに学習院を辞職、外遊に出る。~参照『柳宗悦と朝鮮』韓永大 

・・今の外交家のする仕事は、俺の目には小人島の豆人間が仕事をするように見えるのだよ。
                            ~『氷川清話』    

新政府の外交が目先の事しか見えてない、と批判する勝海舟だが、西郷隆盛の人物はとても高く評価している。朝鮮征伐ではなく、礼節正しい外交をと主張した西郷は、大久保らと対立し辞職した(これが西南戦争につながる)当時からアジアに対する「弱腰外交」を嫌う、故・石原慎太郎のような好戦的、タカ派の日本人が多かったのだろうか。道義を重んじた横井小楠。新政府に対して批判的だった嘉納治五郎と、勝海舟。彼らの「仁」を大切にする考え方は、今の、法を無視した何でもありの時代に生きていると、逆にとても新鮮に見えてくる。

・・こうして書いてみると、日本人の本質は幕末のころから大して変わっていないんじゃないかという気もするが、裏金問題を起こしても平気で開き直る、すれっからしの今の自民党議員と比べるのは、さすがに維新政府の人々に対して失礼というものだろう。

そうした二人の影響を受けた柳宗悦。柳宗悦の自宅は朝鮮人の出入りが激しかったので、周りには常に特高の監視があったが、少しもひるまずに宗悦は朝鮮を擁護し、日本政府による同化政策や日本人による人種差別に徹底的に抵抗した。

‥ある国のものが、他国を理解しようとする最も深い道は、科学や政治上の知識ではなく、宗教や芸術の内面の理解だと思う。~『朝鮮とその芸術』

相手の国の文化や芸術を尊重できない人間は、自国の文化・芸術の良さも結局わからないだろう。柳宗悦が朝鮮李朝の磁器を通して知ったのは朝鮮の人々の温かさと寂しさであった。知性というのは、そうした柔らかな感性をベースにして生まれるものだと思う。

幕末、明治、大正時代と違い、私たちはいくらでも情報を入手できる時代に生きている。恵まれた状況にありながら、SNSの悪意あるデマや噂に安易に飛びつくのではなく、つまり、勝手に決めつけたりせずに、まず、白紙になって相手のことを理解しようとするのがフロイトのいう「知性」なのではないかと考える。

※最近、You tuberとして人気ある、30歳になったばかりの若いバックパッカー、バッパー翔太君のファンでよく見る。バックパッカー特有のブロークンな英語でいろんな国のいろいろな人にインタビューしてゆくのだが、その質問の仕方や対応が、どんな人に対する時も彼のリスペクトが感じられて、感じがいい。天然の天真爛漫さで、ロスのギャングだろうがホームレスだろうが、メキシコ国境やインド、インドネシアの未開民族、どんな場所に行っても、相手の懐になんの抵抗なく飛び込んでいく。しかも、番組最後に語る彼の感想が、毎回なかなか深い。インドネシアに世界中のゴミが押し付けられていることも、アメリカのラストベルト地帯に住む人々のことも、ゴミの問題から貧困と格差の問題まで彼のレポートで知った。元々の素質もあるが、おそらく彼の「知性」をはぐくんだのは学校ではなく、彼が今まで出会った世界中の多くの人々なのだろう。こういう生きた知性を持つ若者にどんどん出てきてほしいと、もう二度とバックパッカーというハードな旅ができなくなった年寄りは思う。バックパッカーにはリスクは伴うが、その代わり安宿でいろんな国の大学生と話しをしたり、現地の人と話す機会が多いので、若かったら手軽なパックツアーに参加するのではなく、バックパッカーになってほしい。

若い時の、いろんな人とのいろんな出会いはその人の「知性」となり、また一生の宝物になるだろう。



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住宅団地 記憶と再生 №31 [雑木林の四季]

ベルリン・ヘラースト地区の団地

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

全棟にエレベーター付設、バルコニーの拡張

 通路側から見える部分では、玄関回り、バルコニーの改修、エレベーターの付設などが、わたしの関心の的だった。それらはいずれも改修を際立たせるかのように非常にカラフルに彩色されていて、微笑ましくなった。,
 あとで気がついたのだが、わたしはベルリンの団地で片廊下式住棟をみた記憶がない。すべて階段室型である。旧東ベルリンのどこの団地でも中層住宅のエレベーター付設工事がすすめられている。終わっているといえようか。
 エレベ一タ-はごく簡易な造りで、住棟に接合している。車椅子ともう一人がようやく乗れる程度の狭い機種だが、高齢者や障かい者対策ならあれで十分で、各階のフロアーに止まる,。それにくらべ、わが公団住宅がごく一部の既存住棟に追築しているエレベーターは建屋と住棟を廊下でつなぐ方式をとり、もっと「立派」だが、階段室の踊り場止まりで、入口トアまではまた階段の上下が必要であり、だからだろうが隔階止まりにしている。金をかけるわりに不便である。エレベーター付設は本体とは独立の設備とみなし、接合型の造りは建築法税上認められないのだそうである。
 エレベーターの新設にあわせて玄関回わりを改修し、デザイン、色彩によって玄関ごとの個性化が見られる。
 バルコニーを拡張し、ロッジア風に改造して生活空間としての利用価値を高める工夫をしている。それぞれに花を飾り、道ゆく人たちの目を楽しませてくれる。よく確かめなかったが今になって、あれはバルコニーをロッジア風化して一部屋増築にしたほか、バルコニーのなかった側の外壁をぶち抜いてばるこにーを設置したのでないかと、自分の撮った写真を昆ながらそんな気がしてきた。バルコニーの改造等は、エレベーターの付設は別として、どの住棟でも行われているわけではない。全体から見ればまだ一部である、住民合意の形成、工事予算の都合等でおそらく10年、20年と時間をかけての長期計画だろうし、改修の方式、デザイン等も変わっていくのだろう。
 外から見ただけでもかなり大胆な改修をしているのだから、内部の階段室や室内の改造にはさらに興味深い。
 大胆な団地改造といえば、その手法に減築、さらには住戸の撤去もあるのだろうが、わたしが歩いたこの地区には高層の滅築も長い住棟の分断も気づかなかった。空き家は目についた。空き家の窓には、直径40センチはどのオレンジ色の丸い紙に「ミ一テ・ミヒ(私を借りて)と連絡先の電話番号を書いた貼り紙がしてあるからわかる。わたしの住む団地には階段によっては10戸に4戸、5戸の空き家があるから、窓にこんな貼り紙をしたら、どんな見世物になるか、異常な眺めであろう。
 2019年9月に再訪したさい、ミーテ・ミヒの貼り紙は見あたらなかったし、この地区では新築工事さえ見かけた。古い住棟を除却した跡なのか空地だったのかは分からない。地下車庫つきの家族壇住宅149戸の建設と標示している。へラースドルフを歩いてわたしが気づいた団地の現状である。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №43 [雑木林の四季]

マツタケ狩り奥義
       小川地球村塾村長  小川律昭

 毎年八月末にはコロラドにマックケ狩りに行きたくなる。趣味といってしまえはそれまでだが行きつけになって六年に及ぶ。
 降雨量の影響で全然採れない年もある。今までのところ確率は五十%である。にもかかわらず、その時期が来ると行きたい衝動に駆られるのは何故だろう。青年時代、田舎で秋になるとキノコ狩りに行っていた。種々のキノコを採ったがマツタケは一回だけだった、あの見つけた時の快感が今でも脳裡に残っていて、郷愁も含めて忘れられないからだと思う。探ったものを食べることにはそれほど興味はない.

 この地のマックケ狩りの出は、海技二〇〇〇メートルぐらいの唐松林の中である。実際、一人で山に入って探し出すのだが、湿地で別のキノコが生えているような場所にマツタケも生えるのだ。もちろん、コロラド駐在のマックケ狩り大先輩から教わったから言えることだ。時期は八月終わりから。暑かった夏の気温が下がって摂氏一九度ぐらいになってから生え出す。
 山に入れば二時間をめどに探すのだが、ただ下を見て歩いているだけではそう簡単に見つけることは出来ない。まずありそうな場所の選定から始める。直径二五センチぐらいの松ノ木の周辺一・八メートル以内の乾燥した場所か、小さな尾根を形成しているところを地面をなめるようにじっくり探すのだ。日当たり確率四〇%の場所がいい。一本見つかればその周辺四メートルに渡ってリング状に点在して生えている。木の根元にもたまにはある。後はしゃがみ込んで根気よく見つけ山すことである。初めの一本を見つけるのがポイント、それは地面の松葉がこころもち膨れ上がっているところ、その松葉の下をかき分けると鎮座まします。大きく膨れ上がったところは別のキノコだ。よくよく見れば松葉がなくても地面が割れている箇所にもある。地面三~六センチと結構深いところにあるから、キノコの周辺を掘らないとうまく採れない。
 山は下から登って行く方が見つけ易い。下からだと透かすように見上げられるから膨らみもわかり易いし、大きなマックケなら傘の裏が見える。だが大抵虫が入っており、茎も柔らかくて駄目だ。だがその周辺をなめるように探すことに意義がある。一本あればそれが呼び水と思えばよい。必ず沢山あるはず。誰も採っていないところなら一箇所で十~十五本はかたい。
 次のポイントは鹿の糞がかたまってあるところ。松ノ木周辺に彼らが掘った後の穴があいている。ヤツらは匂いで嗅ぎ分けているから間違いはない。その困りを探すことである。最後に人が円周状に採取した後に、遅れて生えたものを前述の要領で狙う。この場合多くは望めぬが二、三本なら探れる。結論として松ノ木の下、この辺で一休みしたいようなところ、キレイで木陰から日もさし、小尾根のある乾燥した斜面に生える確率が大きい。

 いずれにせよマックケ狩りは山をドンドン歩くのではなく、地面を透かし、なめるようにゆっくり歩いて、落ち葉上の膨らみを見つけ出すことである。男性より女性の方がゆっくり歩くし集中力があるから向いているかもしれない。ここにはマツダケが必ず生えているのだ、という信念を持つことが大切である。
                    (二〇〇一年九月)
『万年青年のための予防医学》 文芸社

 

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山猫軒ものがたり №35 [雑木林の四季]

炎 1

             南 千代

 能ヶ谷川での釣りが解禁になった。川は三年おきに禁漁と解禁をくりかえす。これまで、川をのぞき込んでは魚が泳ぐのを「早く大きくなあれ」と眺めているしかなかったのだが、いよいよ釣ることができるのだ。
 といっても、釣りは子どもの頃以来である。敵は渓流の女王であるヤマメ。さっそく、釣りの名人である時次郎さんに教えを請いに行った。時さんは、この川の管理を任されており、禁漁中に釣りをしている人を見かけると、葵の御紋のごとく漁業組合の監視員証を見せるのが自慢である。
 明日から解禁というその日、時さんの顔はイキイキと輝いていた。懇切ていねいに釣り万を教えてくれ、おまけに釣竿ひとそろいを貸してくれた。翌朝、夜が明けるのを持って川へ降りた。いた、いた。ヤマメが泳いでいる。泳いでいる口元に釣糸を垂れるのだから、釣れないわけがない。またたく間に五匹釣れた。まだ小さな一匹は、キャッチアンドリリース。
 必要以上に釣ることはない。すぐに家に引きしけて竹串に刺し、囲炉裏で焼く。まず一匹を山猫軒の主である黒猫のウラに献上し、残り三匹を私たち二人と絵筆で食べる。うまい。身は引き締まっていて、透き通るように白い。
 この日の朝は和食。玄米ご飯にフキノトウの味噌汁。まだほんのり温かい産みたて玉子に。たくあえ、梅干し、材料から梅干しにいたるまで、すべて自家製のいつものメニューに、久々の新鮮な魚がついた豪華版である。
 この春からは、田の近くに新しく二反の畑も始めることになっていた。地元の人たちと親しくなると、畑地の話は向こうからいくらでもやってきた。
 高齢者の多いこの集落では、耕していない田畑が多い。耕してはいなくても、周り近所の迷惑を考えると草刈りなどの管埋はきちんとしておかなくてはならない。作物を作るための草刈りならまだしも、ただ放置しておくだけの土地の手入れは、精神的にもかなり辛い。
 きちんと作物を作り、管理し、周りの百姓たちともトうブルを起こさずうまくやってくれる人なら、ただでも貸したいと思っている土地の人は少なくない。が、いったん貸して返してほしくなったときなどに、面倒がおきるような人だと困る。だから、どこの誰ともどんな人ともわからない最初からは、ふたつ返事では貸さない。もっともだと思う。家の場合と同じだ。
 そういう点では、私たちは紹介者もいて、ほんとに恵まれていた。「三キロの近くに借りられることになった佃は、元は田んぼだったリ、土砂を埋め立てた地であったりと、それなりに開墾や石除け等を行い、畑にするまでのきつい作業はあったにせよ、向うから「使ってくんねえか」と言われるのは、ありがだいことであった。
 冬の間に、借りることになった畑の開墾はすませておいた。玉川村をはしめ、あちこちに少しずつ間借りしていた小さな畑は返した。今年からは、まとまった畑で存分に野菜を作ることができるのだ。
 ギヤラリイの方では、ひさ子さんの作品展を開催している間に、次々に新しい企画が生まれてきた。この町の出身だというので訪ねてきてくれたのは、バロックリュートなどの古楽器奏者である立川さん。夫の古くからの友人であるジャズベーシストの井野さんもやってきた。
 すると、山猫ギャラリィは今度は猫の目のように早変わりして、コンサート会場に。数十個の椅子は、太い丸太を総動員。時には囲炉裏端お座敷ジャズのスタイルで。古い家は、建具を外せば大広間になり、七、八十人と予想外の人数を受け入れてくれる。
 鶏のコケコッコーやヤギのメエメ工、犬のワンワン、蝉しぐれ、とアドリブ参加もあり人も楽器も動物も風も、今、ここにあるすべての状況と生をひっくるめての、山猫ライブである。
 やろうとしさえすれば、ほんとになんでもやれるものだ。生越町に住む若手作家たちで、
合同展をやろうという話も持ち上がった。地元作家の作品を、地元の人々にも観てほしい。第一回目の参加作家は十一人。絵画、彫刻、染色織物、陶芸、草工芸、写真、金属、木工などジャンルもさまざまだ。
 「この町にも、こんなにいろんな作家がいるんですね。自分の町を何だか見直しちゃった」
 町の駅東に住む中川さんが言った。.読女は、牛乳パックの回収などリサィクル活動をこの町で地道に着実に続けている人で、借りているこの家の遠戚にあたる人でもある。うれしかった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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夕焼け小焼け №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

テニスコートを復興、そして弁論

                    鈴木茂夫
 
  惟信中学の5年生になり、学業の成績も落ちついた。そこでテニスをやりたいなと思った。私は高雄中学に入学して庭球部に入り、一学期間は愉しくラケットを振っていた。内地でもやりたい。
 級友に尋ねると、戦時中にテニスコートは掘り返して芋畑にしたという。体育の桜井義高先生が運動場に面した木造平屋教室の横ならコートにしてもいいよと言われた。
 自作してもいいのだ。図書室にあったテニスの規則集で寸法を調べた。全長23.77m、幅10.97m、巻き尺で計ってみると現場は十分な広さがある。体育の物置の隅にいくつものレンガがあった。テニスコートに使っていたもののようだ。
 授業が終わると、私は作業にかかった。それを見ていた級友の桑子君が、一年生の時、テニスをしていたからもう一度やりたい、手伝うと言ってくれた。2人でまずベースラインを決める。何事なのだろうと見物していた数人がさらに手伝いに加わった。
 センターライン、サービスライン、センターマーク、シングルスライン、ダブルスラインとポイントにレンガを埋め、ポールを立て、ネットを運んできて張った。ラインマーカーに白石灰を入れ、白線を引いた。やったぞと歓声が上がる。2時間たらずでコートは完成した。
 桜井先生が庭球部の成立を認めてくれた。
 桑子君はじめ手伝った連中も、庭球部に入るという。私たちのテニスは軟式(現・ソフトテニス)だ。1年生から4年生まで、約20人が集まった。
 電停のそばの惟信堂文具店のおばさんが、Futabayaのラケットがあるよという。みんなでそれを購入した。
   
  翌日からはやばやと登校、練習をはじめた。 戦争でテニスなどをしている閑はなかった。誰もが思うように球を打てない。笑いながら球を拾う。
 練習を重ねると、少しずつ球の打ち合いらしくなってくる。
 テニスコートに面する教室には、新しい学制による港区立の西港中学(学校統合により消滅)の生徒が入った。男女共学だ。窓に群がって私たちを眺めている。見物のいることで、気合いが入る。
 朝の授業開始前の時間、昼の昼食時間、放課後、テニスは愉しかった。

 小原重二君が教員室から書類をもらってきた。
 愛知県中学校弁論大会の要項だ。
 昭和22年11月2日(日曜日)午前10時より
 会場は名古屋市公会堂第7集会室(150人収容)
 参加・愛知県内の中学校
 弁士・各校1名
 弁論時間5分
 私に、服部、増井、小原の4人組が顔をそろえた。
 「弁論大会でるのはどうだ」
 「やったことはないが、面白そうだぜ」
 「英語の授業で、フォックス先生が力を入れたのは、シェイクスピアのジュリアス・シーザーだった。シーザーを殺したブルータスの演説、これもなかなかいい。そしてその後に話したアントーニオの演説は、なおよかった」
 「小原、君が出ろよ」
 「僕は人前できちんと話したことはない。だがやってみよう」
 「それじゃ、何を話すんだ」
 「新憲法ができただろ、その時、天皇をどうするかと議論になった。国体護持と天皇制打倒と意見が2つあった。俺は憲法第一条を憶えてい。『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』これがそうだ。話はいろいろあって結局はこの条項になっている。つまり国体護持で落ちついた。それが世間の意見だよな。だからな、天皇制打倒でやると、目立つだろ。それでいくのはドウだ」
 「それは共産党の意見じゃないか。それでいいのか」
 「良いか、悪いかじゃない。まあ言えばな、国体護持は名古屋の常識。天皇制打倒は少数意見だから注目を浴びる。」
 「天皇制の欠陥というか、悪い点には何がある」
 「何せ国民統合の象徴だからな、責め立てる問題点を洗い出すのは難しいぜ」
 「天皇は金持ちだ」
 「何なの、それは」
 「膨大な御料林があるそうだ。」
 「御料林は皇室財産となっていた森林のことだ」
 「江戸時代に幕府や諸藩が支配・管理していた山林を明治憲法のもとで、皇室財産に編入したんだよ。今は国有財産に移されているとか」
 「その山林を問題にした議論があるが、天皇と直接にどう関係するかは分からない」
 「戦時中、俺たちは天皇が大元帥であると言われた。」
 「軍人勅諭は暗記していたからな。勅諭の前文に『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』とあった。そうだとすると敗戦の責任者は天皇になるだろうが」
 「戦争を企画し、軍隊を派遣し、作戦を行ったのは軍人だぜ。天皇は軍人の報告を聞いていただけだ」
 「天皇は戦争犯罪人だという声がアメリカにあるそうだ」
 「日本にいるアメリカの最高指揮官ダグラス・マッカーサーはそんなことを何も言っててないぞ」
 「天皇について悪いという意見は、そんなところかな。小原、この話し合いをもとにして原稿をつくってみてよ」
 「分かった。やってみよう。でもそんなに論点はないから、長くはつくれそうにないな」

 本番当日、私たち4人は会場にいた。
 参加しているのは、愛知一中、明倫中学、熱田中学、昭和中学、津島中学、中川中学、東海中学、金城学院、市立第2高等女学校,県立第1高等女学校、南山中学など20数校。
 弁論の題名には、こんなのがあった。
学校で民主主義を学ぶ。個性を活かす学習を。平和を愛する学校。私たちは人権を大切にする。
 参加校は弁論で話すのだが、聴衆として反応もした。拍手をおくったり、声援するときもあった。

 県立第1高等女学校は、「民主主義に学ぶ」としていた。
 「アメリカの独立は、イギリスの過酷な植民地支配に対する現地住民の戦いでした」

 東海中学の番だ。題名は「天皇はあこがれの中心」としている。
 弁士は海部俊樹君と呼ばれてゆっくりと演壇に立った。原稿を開き、水差しからコップに水を注ぎ喉を湿してから、口を開いた。通る声だ。
 「新しい憲法が生まれました。新しい憲法に親しむにはどうすればよいでしょうか。憲法は文字で書かれています。文字で書かれてはいますが、国民精神が結晶して表現されているものであります。その憲法の芯になるものは、何でありましょうか。それは日本の国体であります。国体とは天皇をあこがれの中心とする国民の心のつながりであります。これを元にして国があるのであります。私たちの国体に関する考えは変わっていないのです」
 海部は会場を見回し、落ちついて語る。
 天皇を国民の憧れの中心とするのは保守派の見方だ。大多数の国民考えと言ってもいい。制限時間を充分に活かして話し終えた。
拍手が湧いた。私もそう思う。この人はまぎれもない雄弁家だ。

 惟信中学の番がきた。
 「天皇制に替わる民主体制を」これが題名だ。小原重二が演壇に立った。
「天皇家という 一個人・特定一家が国民統合の象徴となっているのは、民主主義と人間の平等とはならばない。天皇家という皇室一家は,日本の象徴という立場から退いてもらい、国民が選ぶ代表者が象徴ではなく、国の元首になってほしい。また天皇は、日本の軍隊の大元帥として位置していた。敗戦の責任は天皇にもある。その責任から言っても、天皇は退位されたほうがよい」
 小原の声は低かった。聴衆から「ブー」という声も聞こえた。予想通り、天皇制打倒は人気がない。私たちは評価の結果を待った。
 最後の弁論が終わって,成績の発表。
 東海中学は1位、優勝だ。
 われわれは東海中学のところへ行き、
 「優勝おめでとう。立派な弁論でした」
 笑顔で迎えた海部俊樹が、
 「いやあありがとう。僕がうちの学校の弁論部をつくつたの。みんなで苦労してきたけど、優勝は嬉しい。これからも頑張ります」
 僕たちはそれぞれ自己紹介し、握手して分かれた。

 これが海部俊樹さんとの初めての顔合わせだった。
 あくる昭和23年春、私たちが新制高校の3年生になったとき、海部さんは中央大学の角帽をかぶって広小路を歩いていた。
 翌昭和24年春、私が早稻田大学に入学。当時大学が所有していた甘泉園で、海部さんは早稻田大学雄弁会の一員として、発声練習をしていた。
 お互いに見かけると、やあと声をかけ話し合った。
 昭和35年(1960年),第29回衆議院議員総選挙で、全国最年少議員として当選。取材のために国会へ行くとよく顔を合わせた。
 昭和49年(1974年)、三木内閣の官房副長官に。
 昭和51年(1976年)、福田内閣の文部大臣に。
 平成元年(1989年)内閣総理大臣に。
 海部さんが出世の階段を上るにつれ、顔を合わせるのもまれになった。
 東海中学の海部ですと挨拶した海部さんの風貌は鮮やかに記憶している。
これにひきかえ、私たち惟信中学の弁論部は、一度だけの大会に出場、二度とこれを続ける興味はなくした。だから惟信中学に弁論部が存在したと誰も理解していない。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №221 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

空知川橋梁水鏡・根室本線・東鹿越駅~金山

            岩本啓介

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かなやま湖に流れ込む空知川橋梁の「山桜の紅葉」を撮る予定が、『水鏡の紅葉&列車』も綺麗で、急遽変更し、撮影しました。

2023年10月14日15:14

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押し花絵の世界 №199 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「桜のスマートフォンケース」

               押し花作家  山﨑房枝

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自宅に咲いた河津桜を押し花にしました。
ソメイヨシノが咲く前に、一足早く春を届けてくれるピンクの可愛い花びらを、スマートフォンケースにアレンジしました。
仕上げに花びらや金箔を散らして、ゆらゆらと風が流れているようなイメージで作りました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №53 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

私には伝えたいことがある I have maney thngs to tell

          銅板造形作家  赤川政由

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「青梅老人ホーム」
介護老人保健施設西粟京ケアセンター 青梅市友田

少女がおじいさんに「お話しして」とせがんでいる。おじいさんは、私には伝えたいことが沢山あるんだよ」と胸を張って言っている。老人は子とも達に、様々なことを伝えなければならないと思う。老人ホームの皆さんも、務めてお話しして下さい、との願いを込めた。


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