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私の中の一期一会 №233 [雑木林の四季]

      世界の111か国でコロナ変異種が流行、それでも東京五輪を強行するのか
      ~国民の80%が五輪開催反対なのに、海外の観客なしでも開催に拘る~

      アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 男子プロゴルフの世界ランク1位、ダスティン・ジョンソン(米)が13日、東京五輪が開催されても参加しない意向を示したとゴルフダイジェスト・オンラインが伝えた。
 五輪のゴルフ男子大会は7月29日からの予定だが、「PGAの大きな大会の中間に五輪大会がある。日程が複雑だし、酷暑の中の移動は容易ではない」と言うのが欠場の理由である。
 言われてみれば、確かに大変だなと思う。
 全英オープンの11日後に五輪大会があり、五輪の翌週が世界選手権シリーズのセント・ジュード招待というスケジュールになっているからだ。
 PGAツアーを優先させるためにアメリカ代表を辞退することにしたと述べている。
 D・ジョンソンは2016年のリオデジャネイロ五輪でも代表を辞退しているが、あの時は現地の〝ジカ熱”への心配があり、健康上の理由からだった。
 今回もコロナ不安が一番の理由なのかと思ったがそうではではないらしい。まあ本当のところは分からないが・・・
  今月25日に福島県相馬市から聖火リレーがスタートするようだが、ランナーとして参加する筈だった著名人やタレントの辞退が、ここへきて相次いだ。
 歌手の五木ひろし、女優の常盤貴子、将棋の藤井聡太二冠、大相撲の大関正代など続々で、〝辞退ドミノ”が止まらないと報じたメディアもあった。
 2012年のロンドン・パラリンピック競泳の金メダリストで伊勢原市の秋山里奈さんも辞退した。
「五輪の開催に疑問がある」というのが辞退の理由であった。
 五輪から遠ざかる人が増えているというのに、政府やIOCは「絶対に開催する」という姿勢を変えていない。
 しかし、ホントに五輪を開催する自信なんてあるのだろうか?
 このほど大手広告代理店が緊急アンケートを実施した。
 テレビ視聴者(14歳以上)の男女900人ずつの合計1800人に、東京五輪の開催を支持するかどうかについて回答を求めた。
 年代にバラつきがあるが全体としては・・・
「積極的に開催を支持する」は7.5%で、無観客や一部開催などの「条件付き開催支持」が9.8%だった。両方を合わせても「開催を支持する」は20%にも満たない結果であった。
 一方で「開催に反対する」は70.3%に達しダントツに多かったのである。
「どちらとも言えない」が12.4%あったが、〝多くの国民はこの夏の五輪を望んでいない”ことが確かめられた。
 東京都は11日、335人の感染を発表した。前日と2日連続で300人を越えた。
 この時、ネットに「PCR拡充もダメ。ワクチンは遅い。変異株追跡はままならない。打つ手と言えば〝お願いCM”だけ。これじゃ第4波は防げない。五輪なんてこの政権にはとてもムリだ」という投稿があった。
 国民の多くがガース-政権に〝不信感”を抱き、〝不満満載”なのがネットを除いていると分かってくる。
 オリンピックを強行して、そのオリンピックが原因で更にコロナが蔓延したら、一体誰が責任を取るのだろうか?
 IOCは日本任せだろうから責任をとるかどうか分からない。
 政治家は任期切れで「俺は知らん」とソッポを向きそうだ。
 菅政権も「ご指摘はあたらない」とか何とか言ってウヤムヤにしそうではないか。
 誰も責任をとらない!・・それが安倍&菅政権の得意技だ。
 世界の111カ国で〝変異株が流行しているのが現状だ”そうだが、それでも五輪開催にこだわるなんて「日本はクレージーだ」と海外では呆れているだろう。
  21年7月23日に開会式予定の東京オリンピックまであと4カ月に迫っている今。首都圏のコロナ感染拡大は収まる気配が見えてこない。
  一時より感染のスピードは衰えたようにも見えるが、日本でも変異種による感染があちこちで確認されていて、楽観したくてもその根拠を見つけにくい状況が続いている。
 その中で、ガースー政権は、海外からの観客受け入れを見送る方向で五輪の調整に入った。
 五輪組織委の橋本聖子会長は、有観客での開催は「安全・安心が保たれる実感が国民になければ難しい」との見解を示し、観客の受け入れは3月25日までに決断を下すことに決めたと表明した。。
 英ロンドンタイムズ紙などは、リチャード・パリー編集長が「五輪大会は中止すべきだ」という厳しい主張を発信している。
 この夏、東京に海外から大勢のアスリートが集まるオリンピックは、コロナの感染を広げてしまう可能性がある。
 コロナ感染拡大のリスクは、日本だけでなく世界にとっても大き過ぎるリスクになると主張した。
「開催に向けて突き進む日本は、〝止められない暴走列車”に等しい。しかし、世界最大の都市で開く4週間のイベントは〝明白に中止すべき”である」と強調。
 ロンドンタイムズは1月にも、日本の政府与党の情報として政府が内密に〝東京五輪中止を決定した。2032年に東京五輪開催プランが水面下で進行中・・」という特ダネ記事を報じていた。
 日本政府は、この報道を直ちに否定したが、火のないところに煙は立たないから・・・
 また、米ワシントンポストは「海外からの観客は禁じられる可能性が高い。国内の観客も人数制限することになりそうだ」と伝えている。
 海外からの観客をシャットアウトする理由は「アスリートは合宿地や選手村の大部分で隔離されるだろうが、海外の観光客は東京周辺を出歩くだろう。外来変異種への感染不安は都民を脅えさせることになるのは必定」だからだ。
 安全・安心な大会を確かなものにするには、海外の観光客を入れないことが一番なのである。
 菅政権は五輪で訪れる100万人規模の観客のインバウンド効果を期待していた。
 GoToでも分かるように。ガ-ス―首相はインバウンドを経済の起爆剤にと目論んでいたに違いない。
 哀れ、その目論見は外れたことになる。
 首相は、五輪の安心・安全について何の対策も説明しないから、五輪はコロナ禍の今、安全‣安心を脅かすものと見られているかも知れない。
 ワクチン接種を義務づけても、ワクチンを打っていれば感染しないという保障はないのだ。
 ワクチンを接種していても感染することがあり、感染すれば他人に移す懸念もあるのだ。
 だからワクチンを接種した善意の感染源が、もしあちこちにいたら都民は溜まったものではない。
 日本を含めて世界がコロナウイルスの感染拡大と戦っている最中であり、多くの国がワクチンを手にしていない。
 次々に変異するウイルスに、五輪期間中なんて関係ない。
 今夏に、安全・安心の五輪を開催しようとすることには無理がある。
  無理なら、「中止する」しかない。



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浜田山通信 №285 [雑木林の四季]

もろい鉄筋コンクリート造

         ジャーナリスト  野村勝美

 我が家のマンション団地は京王井の頭線の浜田山駅から百メートル弱のところにあり、一棟が1階に3戸、2,3階で一戸が4戸の計7戸、メゾネットタイプという。広い敷地に10棟あり、 駅前からの中心通りの両側には商店街もある。築40年、去年の夏頃から大規模修繕工事が進んでいる。一棟すっぽり足場が組まれ、網目のシートがかぶさっている。壁面に飾られている煉瓦タイルがはがれたり、継ぎ目のセメントがボロボロになったので雨水が染み込んで台風の時など天井にまで入り込んでくる。
 セメント、コンクリートというものは実は弱いものだ。鉄筋コンクリート造は半永久的なものだとばかり思っていたが、たかだか40年だ。
 浜田山の駅から西永福寄りに7、80メートル行ったところにあるイイダヤという中堅スーパーのビル(2F)は、昭和60年定礎と金属板がはめこまれているからまだ36年しかたっていないが、家主は全面建て替えで3月末から一年数か月スーパーは休業する。 
 ヨーロッパの古い建物は、ローマで見た石造建築など30年ほど前に旅行した時、いまだに使用していると言っていた。石造と鉄筋コンクリート造は全然別物だ。ヨーロッパは地震もなく地盤がしっかりしているので、2000年前の、鉄筋なしの石造建物がどっしりと建っている。
 それにしてもコンクリートがこんなにもろいとは思わなかった。タワーマンションなどどうなるのだろう。まったく人間の作るものなどロクなものはない。その最悪な物は原爆だ。そして原発だ。フクシマはどうにも手をつけられないで、現状のまま凍結させておくしかない。原爆被害の生き証人だった関千枝子さんは中山士朗君との往復書簡を残して先立った。核廃絶を訴え続けた関さんは、早大露文科卒の私と中山君の一つ年下で、毎日新聞でも一年下の入社だった。私は会社が倒産の危機に陥ったとき、肩叩きにあって退社したが、関さんはミッチーブームの取材の後退社している。彼女との繋がりは、それだけではない。『県立広島第二高女二年西組』は筑摩書房から出版されたのだが、その時の編集者は中川美智子さんというベストセラー作りの敏腕編集者だった。私は彼女と能、狂言、文明批評家として有名だった戸井田道三先生の所で知り合い、今も時折、おもしろそうな本があると推薦してもらっている。持ち込み原稿や無名の人の作品を取り上げるのは、編集者として頭の痛いところだが、『県立広島高女二年西組』が文庫となり、10刷ぐらいまで行ったのは筑摩書房のためにも良かった。私は関さんや中山君と比べると、文章といい論旨といい、ボヤけたものしか書いてこなかったので、恥じ入るばかりだ。ことしの関さんからの年賀状に「浜田山通信、怒っていますね。楽しみに読んでいます」と添え書きがあった。情けない一年先輩へのシッタ激励だった。中山君との往復書簡、実にみごとなものです。もっともっと多くの人にすすめてください。      

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BS-TBS番組情報 №230 [雑木林の四季]

BS-TBS 2021年3月のおすすめ番組(下)

                          BS-TBS広報宣伝部

脇道ヒミツのお楽しみ 盲腸線の旅

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2021年3月20日(土)よる11:00~12:00

☆大路線とは違う独自の魅力がある「盲腸線」の旅!

出演:西村和彦、山口智充

運行する距離が短く、起点・終点が他の路線に接続していない“行き止まり”の路線「盲腸線」。日本には現在、280路線ほど存在しているというが、大路線とは違う独自の魅力があり、鉄道ファンの間で盛り上がりを見せている。
番組では、全国の盲腸線で行き止まり駅まで向かう。枝分かれした路線だからこそ育まれた文化や、そこでしか見られない風景と出会い、紹介していく。

笑い!涙!感動! 博多大吉の追跡!投書物語

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2021年3月28日(日)ひる12:00~12:54

☆「投書」にまつわる心温まる物語をお届けします。

出演:博多大吉

TV、新聞、ラジオ、雑誌...。
古今東西ありとあらゆるメディアの片隅にそっと存在し続けてきた“投書コーナー”。
投書に綴られているのは、「人生の一大事」から「日常のふとした疑問や悩み」、ときには「社会への問題提起」まで、いま人々が感じている率直な気持ち、日常生活での「気づき」や「教訓」が、投書コーナーにはあふれています。
番組では気になる投書を紹介し、投書したご本人にも取材。
いったいどんな人が、どんな思いで投書をしていたのか...。
さらに気になる投書の“その後”まで。
心温まる時間を届けます。

ゴルフ3キングダム春の大感謝SP
男子vs女子vsシニア プロNo.1決定戦Ⅱ

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2021年3月28日(日)夕方5:00~6:54

☆ゴルフ界を代表するスター選手が夢の共演を果たす第2弾!男子、女子、シニアのプロゴルファーがチームを結成して対決。プロNo.1の称号はどのチームに?!

【男子プロチーム】矢野東プロ、塚田陽亮プロ、塩見好輝プロ <応援団長:レッド吉田(TIM)>
【女子プロチーム】金田久美子プロ、永井花奈プロ、北田瑠衣プロ <MC・応援団長:コカドケンタロウ(ロッチ)>
【シニアプロチーム】深堀圭一郎プロ、田中秀道プロ、桑原克典プロ <応援団長:芹澤信雄プロ>

解説:菊地智哉(「月刊ゴルフダイジェスト」編集長)

ゴルフ界を代表するスター選手が夢の共演!賞金100万円をかけて、男子、女子、シニアのプロゴルファーが3人1組のチーム戦で対決します。
男子プロチームはツアー3勝の矢野東、国内メジャー勝者の塚田陽亮、若手の塩見好輝。

女子プロチームは美女ゴルファー金田久美子、シード選手の永井花奈、初代女子ワールドカップチャンピオン北田瑠衣が参戦。
そしてシニアチームは、国内メジャーを含むツアー8勝をあげた深堀圭一郎、USPGAでも戦った田中秀道、日本プロマッチプレーを勝った桑原克典。
普段は個人で戦う選手たちがチームを組んでどう戦うのか。プロならではスーパーショットはもちろん、選手同士の作戦会議やラウンド中のトークも必見。
トップアスリートの楽しくも熱い戦いをご覧ください!





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バルタンの呟き №93 [雑木林の四季]

「九官鳥」を知っていますか?

               映画監督  飯島敏宏

 「九官鳥?」ご存じない方が殆どでしょう。近頃、全くお目にかかることがなくなってしまった、忘れられた鳥、ですから。ちなみに手元の辞書(広辞苑)を引くと、スズメ目ムクドリ科、全身が黒紫色、嘴はオレンジ、全長約30センチメートル、巧みに人語や物音を真似る。とあります。戦前、つまり、今から76年以上前の都会の街々では、あちこちの家や遊園地に吊り下げられた鳥籠の中で、人々から掛けられた声や歌を、見事に似た声色で鳴き返してみせる鳥だったのです。僕の通った小学校の、小使室(常勤用務員の部屋)の軒先にもその鳥籠が吊り下がっていて、行き帰りに声を掛けたりしたものです。クラス一番のおどけ者のBちゃんなどは、当時人気の喜劇俳優高瀬実の声色で「ワシャかーなわんよ!」なんて声を掛けたものですが、見事な声色と抑揚で、「ワシャかーなわんよ!」と返したものです。
 九官鳥と聞いて、すぐに思い当たる方は、恐らく、超高齢の方々で、「それは、鸚鵡(オウム)と、違うの?」と思われるのが大方の人、すでに鸚鵡の物まねさえ、若い人たちには忘れられてしまっているかもしれません。
   鸚鵡返しという言葉があります。相手の言ったことを、そのまま真似て言い返すことで、歌舞伎には、名台詞を書きぬいた鸚鵡石というものもあるらしい(広辞苑)のですが、それでも、良くお分かりにならなければ、ぜひ、最近の国会中継をご覧になって、閣僚や、官僚の方々の答弁をお聞きになれば、直ちに、納得がいきます。官僚が作った文章や、上司の答弁をまるで鸚鵡のように、そっくりそのまま読み上げて答弁する、あれです。昨今は、鸚鵡はいても、なかなか九官鳥にはお目にかかれないのですが・・・
 ところで、昭和一桁生まれの僕ら昭和の子は、どこかで九官鳥や、鸚鵡に出逢うと、必ずと言っていいほど、大きな声で、「オターケサーン!」と呼びかけて、「オターケサーン!」と、そっくり真似て鳴き返すのを期待したものです。なぜ「オタケサン」なのかは、知りませんが、察すると、多分、当時は、どの家庭にもざらにいた女中さん(行儀見習いのお手伝いさんの差別語)にたけという名が多かったのでしょう。それに続けて、「オバーカさん!」とやると、「オバーカさん!」と返ってきて、周りにいた人も、一緒になって笑うのです。
 国会答弁だけではなく、与論という大きな声が、ジェンダー、と言ったとたんに、大臣から官僚から委員会から、地方選の立候補者まで一斉に女性になってしまうのも、ちょっと鸚鵡返しと言った感じがするのですが。
 ところが、僕、バルタンは、鸚鵡はそうであっても、九官鳥は、ちょっと違うと申し上げたいのです。なるほど九官鳥も「オターケサーン!」と言えば、鸚鵡に負けないほどそっくりの声で「オターケサーン!」と鳴き返しては来るものの、九官鳥からは、なぜか一筋縄ではいかない感じを受けるのです。体形が、鸚鵡のように円くなく、カラスに似て瘦せ身で黒く、体色と極端に対比的な黄色い嘴も尖っていて、奥まった目には、何かの思いが潜んでいる気がするのです。この鳥が名付けられた「九官」の由来は、中国の、舜の時代に定められた九つの官の総称で、政、法、農から、汎く音曲に至る万事を司る万能という意味ですから、この鳥を、九官と名付けたのは、この鳥が、よほど巧みに人語や物音、音曲を真似たからではないでしょうか。鸚鵡には申し訳ありませんが、「オターケサーン!」と返して、あとは黙りこくって褒美に貰った豆粒を噛んだりしている鸚鵡と違って、九官鳥は、声を掛けた僕らが立ち去った後に、自分本来の持つ美しい声を思い切り大きな声で鳴くのではないか、という気がするのです。ひょっとすると、中国からやってきたこのムクドリ科の真似上手な鳥を九官鳥と名付けた人は、その声を、九官鳥が自分自身の美しい声で鳴くのを聞きつけたからこそ、この鳥の名に九官と冠したのではないか、と。
 西暦2021令和三年の今年、コロナ騒ぎと、過剰な経済競争、民族と宗教、気象変動・・・全地球が揺れています。地上、海上はおろか、宇宙にまで戦争が広がろうとしている事実に、気づかなければならない時なのです。
米英撃滅!一億一心火の玉だ!本土決戦!一人一殺!ラジオも、映画も、絵画も、文学も、歌も、ポスターも、全      国民が声をそろえて、軍国主義政権の呼びかけを、鸚鵡返しに叫んで、滅亡への道を突き進んで行きました。後方からは自国軍の銃剣で追い立てられ、上陸した連合国軍の火炎放射器と連発銃に、無手で立ち向かって殲滅された沖縄戦線の一般人、あるいは、現在も引き続いているミャンマー国軍が自国同朋の市民を無差別無容赦に撃ち殺す映像を見るたびに、もし、75年前のあの時、少年戦士として教育され、洗脳されたぼくら少国民が、鸚鵡のように声をそろえて竹やり、火叩き、鳶口で、上陸した連続速射砲や連射拳銃で装備された兵士や、陸揚げされた装甲車、戦車の火砲の掃討射撃に立ち向かっていたら・・・当然、僕の一生は終わっていました。
 鸚鵡のように、自国繁栄の為に戦争をいとわない国々と同じように鳴き返していては、危険なのです。覇権を争う戦争は、今も、身近にあります。今こそ、決して戦争をしないと誓ったわが国は、叡知を絞って、双方に非戦を説く道を選択する時ではないでしょうか。それこそが、先の首相が称え、現内閣が継承したいわゆる積極的平和主義の真髄ではないでしょうか。今こそ、宇宙にまで戦争を持ち込もうとしている今こそ、九官鳥は、自分の声で、高らかに鳴かなくてはならないのだと・・・


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医史跡を巡る旅 №85 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~パンデミック・パニック 序章

           保健衛生監視員  小川 優

延長された緊急宣言の期限まで、あと1週間。数値的には一進一退、否、むしろ反転劣勢の状況にあります。一番の懸念は、変異株の感染増加です。
3月3日に国立感染症研究所が発表した「感染・伝搬性の増加や抗原性の変化が懸念される新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新規変異株について(第7報)」によると、「VOC(Variants of Concern;懸念される変異株)はウイルスの感染・伝搬性が増加している可能性があることから、主流株としてまん延した場合には、従来と同様の対策では、これまで以上の患者数や重症者数の増加につながり、医療・公衆衛生体制を急速に圧迫する恐れがある」としています。
懸念される変異株としては現在、英国で最初に検出されたVOC-202012/01、南アフリカで最初に検出された501Y.V2、ブラジルからの帰国者において日本で最初に検出された501Y.V3の3つのタイプが注目されています。
イギリスから広まった変異株については、ジョンソン首相が、感染力が最大70パーセント高いと発言している通り、一人の感染者から何人に感染するかを数値化した実効再生産数が、従来のタイプより0.52から0.72高いといわれます。現在までの日本国内の状況では最大で1.5程度とされますから、この数値が2を超えることとなります。つまり、今までは1人の感染者が1.5人に感染させていたのが、2人以上に感染させることとなりますから、倍々ゲームで感染者が増えることとなります。
南アフリカ型、ブラジル型は、イギリス型同様、感染力が強まっている恐れがあるほか、中和抗体からの逃避性が高い、つまり従来型に感染した後でも、再感染を阻止する力がうまく効かない可能性が指摘されています。これはワクチンの効果を左右することともなります。
問題の国内のVOCの状況ですが、新規変異株症例情報(2月26日現在)と感染症発生届(3月8日現在)のデータによると、国内症例158例、検疫症例49例となっています。内訳は国内症例で英国株152例(96パーセント)、南アフリカ株4例(3パーセント)、ブラジル株2例(1パーセント)であり、国内症例において渡航歴ありは6パーセント、渡航歴無しは94パーセントでした。つまりこれらの変異株がすでに国内に入り込み、感染増加の経過が見られるということを示しています。
緊急事態宣言解除については単に数値だけではなく、こうした状況を見極める必要があり、解除後日をおかずに再発令するような事態を避けなければなりません。

あだしごとはさておき。
83号から始まった江戸のコレラ騒動記ですが、未知の新感染症という意味で現在の新型コロナウイルス感染症に通じるところがあり、当時の為政者の対応、民衆の動向など、今と対比することもできそうですので、もう少し詳しく書きたくなりました。
すでに掲載し始めた記事がありますが再編成し、お届けしたいと思います。

今現在、国内ではコレラは恐ろしい伝染病という認識はありません。もちろんワクチンをはじめとする予防法、経口補水および輸液などの治療法の確立という効果が大きいですが、むしろ公衆衛生上の観点、つまり下水道の完備という社会環境の整備により、爆発的に感染が広がる懸念がなくなったことが大きいといえます。
社会的インフラが確立していないアジア、アフリカを中心に世界では今でも毎年数百万人(最大推定430万人)が感染し、数万人(同14万人)が亡くなっています。特に幼児・小児における感染と死亡率の高さは問題で、コレラ感染と確定されない潜在的な感染者、死亡者が多数いることが懸念されています。
コレラの主症状は下痢です。学生時代、「米のとぎ汁状の下痢をみたら、コレラを疑え」と教わりましたが、まさにその通りです。下痢は1日数十回痛みを伴わず、まさにシャーという感じで、1日当たり数~10リットル、時に数十リットルを排出します。下痢により水分と共に電解質を喪失するため、脱水と同時にアシドーシスに至ります。外見上も、急激な脱水は皮膚の乾燥と弾力の消失、目が落ち込み、老人様の顔貌への変容(コレラ顔貌)、低カリウム血症による痙攣などを引き起こします。感染から発症まで数時間から数日、重症で効果的な治療がなされない場合は、発症当日あるいは数日中に死亡することもあります。なお現在日本で見られるのはほとんどエルトール菌といわれるもので、比較的症状が軽いのですが、古典コレラ菌あるいはアジア菌といわれるタイプが、上記のような重篤な症状を引き起こします。

「コレラ菌とコレラ病変」

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「コレラ菌とコレラ病変」 ~標本模型 筆者蔵

コレラが歴史の表舞台に出たのは、19世紀になってからです。もともとアジアの各地で散発的に発生していたと思われますが、1817年にベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)に端を発し、瞬く間にアジア全域からアフリカに広がり、1823年まで続きます。一地方病であったコレラが、瞬く間に世界に広まった理由の一つに、梅毒もそうですが帝国主義の台頭による植民地の拡張があります。イギリスは、1757年にフランスとのインド植民地化指導権をめぐる戦いに勝利し、東インド会社による土地支配を経て、自由貿易主義による貿易相手地域としてではなく、その土地と人間を収奪するという植民地支配に転換する途上にありました。インドで収奪された富はイギリス本国に運ばれ、そして本国から艦隊と軍隊が新たに植民地となった地域に派遣されました。こうして世界にコレラが広がりました。
これが1回目のコレラ・パンデミックと言われています。パンデミックの余波は当時鎖国中の日本にまで及びます。

文政5年(1822)、おそらく中国か朝鮮を介して対馬、下関あるいは長崎から侵入。萩、広島から関西方面に広がりました。初めて見る下痢を中心とした激烈な症状、急速な病状の悪化から死に至ることから、対馬では「見急」、豊後で「鉄砲」、芸州では「横病」、浪華の「三日コロリ」などと呼ばれました。
この時の流行では、萩城下で8月に死者は600人に近く、広島、大阪でも多くの感染者と死者を出しました。大阪では「千日の墓地に荼毘で附したもの二千八百三十一人に及び」との記録があります。昨年8月に梅田地区で再開発にあたり1,500体にも及ぶ人骨が出土した際には「墓地内の北側は石垣で区切られて一段低くなっており、土をかけたりしただけの埋葬や、穴に何人もまとめて入れた埋葬例が複数あった。発掘担当者は「疫病で一度に亡くなった人などが埋葬された区画かもしれない」と推測している」との報道もされており、先の記録を裏付けるものかもしれません。

「少彦名神社」

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「少彦名神社」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社(2002年)

大阪道修町の少彦名神社の神農祭は、文政5年に大坂でコレラが流行した際に、薬種仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を作り、「神虎」(張子の虎)の御守と一緒に神前祈願の後施与したことに由来するといわれています(神社由来)。

「五葉笹と張り子の虎」

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「五葉笹と張り子の虎」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社

明治時代になって薬事法が施行され医薬品が管理されるようになると、「虎頭殺鬼雄黄圓」を配布することが出来なくなりました。現在では五葉笹に張り子の虎と少彦名神社の御札をつけ、家内安全無病息災の御守として授与しています

「張り子の虎」

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「張り子の虎」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社

やがて9月となり、気温の低下と共にコレラ感染の勢いが沈静化したため、東海地区を最後にそれ以上東上せず、東日本には広がりを見せなかったと考えられます。当時睨みを利かせていた箱根の関所も一役買ったのかもしれません。

2回目のパンデミックは1826年に始まり、アジア、アフリカばかりかヨーロッパ、南北アメリカまで広がりましたが、幸いにも日本には侵入せず、1837年まで続きます。フランスでは、ブルボン朝最後のシャルル10世がこのときコレラにり患して死亡しています。

3回目は1840年から1860年まで20年も続き、またも世界中で猛威を振るいます。アメリカでは第11代ポーク、第12代タイラーと、2人の大統領の命を奪ったほか、イギリスの首都ロンドンでは10,000人以上が亡くなります。このとき、ソホー地区のブロードストリートではわずか2週間で700人が死亡します。患者の発生に地域の偏りがあることに気が付いた医師のジョン・スノウは発生状況を綿密に調べて、一つの井戸に注目します。多くの反対をうけながらも井戸のポンプを使えなくしたところ、急速に同地区における感染は収束しました。後の調査で、その井戸の近くに患児のオムツを洗った水を捨てたことが、この地域における流行を引き起こしたことが判明します。これが科学的な疫学調査の始まりとされ、公衆衛生の礎となります。

この時のパンデミックは安政5年(1858)5月21日、日本にも侵入し、各地に大きな傷跡を残します。次回はその道筋を追います。


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海の見る夢 №3 [雑木林の四季]

       -明烏夢淡雪(あけがらすゆめのあわゆき)―

                澁澤京子

 宮城道雄のエッセイに、列車に乗ると隣の席に座ったお婆さんがずっと浄瑠璃節を口ずさんでいるということが書いてあって、明治時代には、今のポップスや歌謡曲をくちずさむ感覚で浄瑠璃を口ずさむ人がまだ結構いたらしい。芭蕉の俳句も、謡曲からとったものが多いらしく、謡曲の一節が当たり前のように頭の中にふっと浮かんでくる芭蕉の時代の日本人も、浄瑠璃の一節が自然に浮かんできて口ずさむ明治の日本人も、今の私たちと同じ日本人でありながら言語感覚も音楽に対する感受性も相当に違ったのでは?と思う。

外国映画を観ていると、会話の中によくシェークスピアだの詩の一節をすらっと引用したりするけど、教養というより音楽のように肉体化された言葉って、おそらくどの民族にもあるのであって、そうした連続している日本語の古典を私たち今の日本人は失ってしまったのじゃないだろうか?

私は文楽を観に行っても、横に出る字幕の映像を見ないと、途中で何を言ってるのかよくわからなくなる、というレベル。演者のせいではなく、あくまで私の教養のないのが原因。高校生の時、同級生のK子ちゃんと今はなき青山van99ホールに正蔵(8代目)を聴きに行きましたが、私には猫に小判だったと思う・・義太夫の故・住大夫の本によると、義太夫を語るにはまず大阪弁を学ぶことから始めないといけないらしい、ところが住大夫の孫世代になると、大阪で育ってもちゃんとした大阪弁を語ることができない、と言うことが書いてあった。古い文化を大切にする大阪でさえそうなのだから、東京の変わり方はもっとすごいだろう・・

子供の時、祖父に「最近の若い人は濁音の発音がなんだか汚いね。」と注意されたことがあった、「ガ」ではなく「グヮ」と鼻に抜けるような発音が正しい日本語なのだそうだ。そういえば昔の本を見るとルビは「グヮ」とふってある・・漱石の小説を読むと「料簡」だの「按配」だの、祖父は使っていたけどもう使われなくなった言葉がたくさん出てくる。
永井荷風によると東京の庶民は父親のことを「おとっつあん」母親のことを「おっかさん」と呼び、少し上流階級になると「お父(とと)様」「お母(かか)様」と呼んでいたのだそうだ。

「ボキャ貧」と自称する政治家がいたけど、明治期の日本人に比べると明らかに今の日本人の方が、古典の教養がないという意味では「ボキャ貧」なのかもしれない。

~春雨の 眠ればそよと起こされて 乱れそめにし浦里は~『明烏夢淡雪』

浄瑠璃と清元の区別もつかない私が(イヨー!という掛け声があるのが清元?)もっとも粋筋の音楽である新内節について語るのもおこがましいかもしれませんが・・

山田五十鈴と長谷川一夫の『鶴八鶴次郎』を観た。いつも芸のことで喧嘩しては別れ、やっと仲良くなったかと思うとまた芸のことで大喧嘩という新内節のコンビの話。芸にかけてはプライドのある二人、決して御互いに譲りあうことができない。二人とも幼ななじみで、子供の時から一緒に音楽を学んでというところがシューマンとクララのシューマン夫婦に似ている・・
『鶴八鶴次郎』では、喧嘩別れしているうちに鶴八(女)はパトロンと結婚してしまう。鶴八という最高の相棒を失った鶴次郎はどんどん落ちぶれて・・という切ない話。高田浩吉・淡島千景コンビの『鶴八鶴次郎』のほうは、最後のシーンの高田浩吉のダメ男ぶりが哀しく、一途な淡島千景がかわいいけど、こっちの方は、山田五十鈴がいかにも芸のたつ三味線弾きという感じがかっこよく、長谷川一夫と火花を散らして喧嘩するシーンや、喧嘩のきっかけになる男と女の間の微妙な心理と二人の意地の張り合いが迫力ある。長谷川一夫は落ちぶれても陽性で華があるせいか、あまり哀しいダメ男と言う感じがしないが、たとえ女に嫌われても女の身の上をそっと思いやるという男気がかっこいい。

『鶴八鶴次郎』の鶴次郎は、新内節の岡本文弥さんがモデルとされているらしい。岡本文弥さんは1895年、東京下谷生まれ。生まれた時はまだ樋口一葉が同じ町内に住んでいた・・その頃の下谷は自然が残っていてマムシがよく出て、根津のあたりにも何軒か遊郭があったらしい。最後の吉原で新内を流して歩いていると上からおひねりが飛んできて、それが桜の木の枝に引っかかりゆすって落として拾ったのだそうだ。桜の花びらがはらはらと・・まるで歌舞伎みたいではないですか・・呼ばれて三階に上がることもあり、多くはお客と遊女の恋のBGMとして新内節を唄ったのだそうだ。

岡本文弥さんのエッセイが文章がうまくてすごく面白いのは、俳句をたしなんでいるせいかもしれない。文章にも人柄の良さがにじみ出ていて、遠慮深く控えめで、他人に恥をかかせない洗練された気遣いがあり、決して開き直ったり、人を押しのけたり、人を見下すとか、図々しく人を利用することのできないデリケートな神経の持ち主で、弱気を助け権力には反抗する、と言う江戸っ子気質。そのため戦前からずいぶん警察には睨まれていたらしい。しかし、この人はどんな状況でもゆったりと構えることのできる、心のゆとりと遊びを持った洒脱な人だったのだろう。
幸田露伴が、どんなにお金がなくても楽しめるのが本当に教養のある人だというようなことを書いていたけど、そういう意味では岡本文弥さんは教養豊かな清貧の人なのかもしれない。

・・芸の上でも日常生活でも、それこそ自分の正体というものを摑んで、それに打ち込めたらこんな幸せはないでしょう。
・・身を捨てるとは、具体的には他人に尽くすことでありましょうか。
・・芸はある一線までは誰でも行きつくことができる。それを超えることはなかなか難しくそれを超える人はきわめて少ない。(中略)その一線を超えると風格が出てくる。芸には風格がなくてはいけない。
・・戦争中、新内は色っぽいものとしていち早く虐待されましたが、害毒は色っぽくないものの中のほうにこそあとからあとから生まれたようでありました・・ 『谷中寺町・私の四季』岡本文弥

岡本文弥さんのエッセイを読んでいると思わず抜き書きしたくなる箇所がたくさん出てくる。尊敬するのは世阿弥と芭蕉だそうです。人を見る目も鋭くて、粋の世界に身を置いていると、人を見抜く目も鋭くなってくるのだろう・・

・・「夜色楼台」です。ああと思わず唸りました。写真を買いましたが原作の濃淡が出ず、凄いほどの寂しさは伝わりません。それでもその写真を見ていると何といいますか、人生の深さに触れます。こんな新内が語れたらと地団太踏みたいような焦りさえ感じるのです・・

岡本文弥さんが「こんな新内が語りたい」と言う蕪村の「夜色楼台図」。夜の闇の中に、雪景色の京都の街並みがぽうっと白く浮かんでいる墨絵。夜汽車の中から、ぽつんと遠い家の灯りを眺めているような、何ともいえないさびしい感じがある。

花柳界に長い間身を置いていると、普通の人よりもずっと生きることの寂しさに敏感になるのかもしれない。恋とは切っても切り離せない世界だけに、生きることは夢のようなものだという感覚が普通の人よりもずっと強くなるのかもしれない。




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梟翁夜話 №83 [雑木林の四季]

「我かく生まれき」 

           翻訳家  島村泰治

えぐい見出しだが、俺はこうして生まれたと云ふ述懐のつもりだ。これには乙な切っ掛けがある。如何にも八十六年の歳月が滲む小さな桐箱がそれで、寸法はセンチなら5×8×1.5、手に取れば重みはなきが如く、繁々と眺めればじわっと齢の香がする。

それは小さいながら真面目な桐箱で、表面に金箔の文字が消え掛かってゐる。亡くなった母が「臍の緒があるはずだ」と、折に触れては話していたもので、ごく最近不図したことで見つかった。金箔は文字を探り見れば、上段一行「寿」と、下段に二行「御臍帯納」、「御産毛納」とあり、分娩直後に切り取った臍の緒と産毛のひと房を収めてある。

箱の裏は枠取りがあり、細かいデータが黒ペンで書き込んである。

出生地は東京蒲田出雲町とあるから、幼時の住まいとして覚えてゐる南六郷に引っ越す前の場所で生まれてゐたやうだ。「何男女」と云ふ枠には「長男」とある。何男女とはレトロな字並びだ。(実は三つ目の女の文字は薄れ過ぎて難読なことから判読)

父母の名前枠に「父名」「母名」とあるのも古めかしい。それぞれ廿八、廿四とあり、そうか、親たちにも二十(いや廿十)代があったのかと奇妙な感慨が走る。

続いてわが姓名、島村泰治が来て生年月日から時刻まで書き込まれてゐる。昭和十年二月十七日(戸籍上の二十六日は届出の遅れから)、午前十一時四十五分。何かの掛け違ひで、早朝「四時十五分」と思ってゐたのだが、分の四十五を聞き違ってゐたことがひょんなことで分かる。

さて、その後のデータが何とも言えず面白い。目方と背の高さが貫匁と尺寸で書き込まれてゐるのだ。それぞれ〇八貫四匁、一尺六寸五とあるのを手尺で計り、生まれたばかりの己の体付きを描いて悦に入った。

枠の最後は「扱者名」と云ふ、これもレトロな字面で今なら◯◯病院か。この欄には、大森、笠原としとある。畏れば助産婦、又の名を産婆、親しみを込めて「お産婆さん」の住所氏名が載ってゐる。記憶にもないこのお産婆さんにわが臍の緒を切られたのか、と、暫し思ひに沈んだ。

いよいよわが臍の緒らとの面会である。

自分の臍の緒など見たことがある訳も無し、産毛なども想像はできても、どんなものか見当もつかぬ。体液の滴る臓器が出るはずはないが、八十六年を経た自分の体の一部と云ふだけで、不思議な興奮を覚える。

箱の中は二つに仕切られ、それぞれ和紙で包んだものが入ってゐる。すっかり乾き切っており、体液云々の懸念はない。静かに開けると肌理の細かい別な和紙が絡まった包みがある。管状の組織が二重半ほど折り曲がってゐる。臍の緒だ。

「これが俺の臍の緒か。」

これがこう繋がって、などと妄想しつつ己が世に出た瞬間の空気を探った。産婆以外の人たちの姿を想像しながら、自分という個体の誕生を目撃する世間の有様をしきりに描いてみた。乾ききった臍の緒が、気無しかぴくりと動く。

もう一つの包みには、これも二重の和紙に包まれた茶色っぽいか細い毛がひとつまみ入ってゐる。首筋あたりから採ったものだろう、二、三センチほどが、さっくり切られて収まってゐる。

あれから八十六年、百まで生きるとしてあと十四年、思えば残り僅かだ。期して時の浪費はすまいぞ、の思ひに身を引き締める。


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検証 公団居住60年 №75 [雑木林の四季]

ⅩⅢ 独立行政法人化して都市再生機構に改組
 
    国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 3.公団住宅売却・民営化に反対する公団自治協のたたかい

 閣議決定までの経過を、小泉首相が主導する改革推進事務局の提案と、これに「抵抗」をみせた官僚と政治家たちの動きに分けてたどってみる。その根底・背景には、全国の各団地自治会の結束したねばり強い活動をはじめ、国民共同の運動や世論があった。その反映が、国政舞台での「対立」や「妥協」となって現われ、政府「計画」が決められてくることを実感した。団地居住者の運動のもり上がりや世論の広がりこそが「矛盾」を露わにさせ、政治に動きをつくりだした。
 公団住宅についていえば、行革事務局は当初、ほぼ無条件に「新規建設は行わない」「既存住宅は順次売却する」方針をだしていたのにたいし、閣議決定では、「自ら土地を取得して」の建設は行わない、「居住の安定に配慮しつつ、入居者の同意を得た上で」売却に「努める」と、限定句を挿入せざるをえなかった。
 とはいえ、政府が基本方針として公団賃貸住宅の新規建設の中止をきめ、国民の居住不安をかえりみず貴重な国民資産である公団住宅の民間事業者への売却をうちだしたことは決定的に重大である。

 全国自治協は2001年6月30日、7月1日の両日、第28回定期総会をひらいた後、緊急に各自治会によびかけ、まず7月に小泉首相あて「公団賃貸住宅を公共住宅として存続させることを要請する」団地自治会の会長署名(243団地)を振出。9月11日には国会内で自治会代表者要請集会(参加87自治会150人)をひらいた。集会では朝日、NHK、TBSなどマスコミの取材をうけた。ニューヨークで同時多発テロのあった日である。その前後、地方自治協ごとに地元選出議員への要請をくりかえした。全国自治協代表は、内閣の行革推進事務局、国交省の都市公団監理官室、自民党ほか各党の政策担当者と恕談し積極的に意見をのべてきた。
 また各団地自治会は、9月、12月、翌年3月の地方議会にたいし「公共住宅としての存続」をもとめる意見書採択の陳情・請願にとりくみ、全国38議会から意見書、東京、埼玉、千葉、愛知、大阪、兵庫の9市長からは要望書が小泉首相ほか関係大臣、公団総裁に提出された。東京多摩では12市の市長から自治協機関紙にメッセージがよせられた。
 その間、各団地では「公団住宅の存続」「売却・民営化反対」と染めぬいたのぼり旗をはためかせ、宣伝学習活動をつよめた。住民の一一人ひとりが小泉首相と国会議員に万を数える要請のはがき・手紙を書いておくった。全国の団地で住まいの不安と怒りが高まるなかで全国統一行動を展開し、10月26日と12月7日の2次にわたって全国居住者総決起集会を東京・日本教育会館太ホールでひらき(参加154自治会837人、143自治会868人)、それぞれ約35万人の署名を提出し、行革推進事務局特殊法人等改革推進室、国交省住宅局、都市機構本社に要請をおこなった。集会には自民、民主、公明、共産、社民各党の国会議員が出席し、協力のあいさつに立った。
 小泉内閣が「特殊法人等整理合理化計画」を閣議決定した12月19日には、全国自治協はこれにたいする見解を発表した。またその前日の12月18日に全国自治協、日本住宅会議など住宅問題・住宅運動関係の10団体は、「国民の住まいを守る全国連絡会」(略称「住まい連」)を結成し、翌02年2月24日には緊急集会を東京・日本教育会館大ホールでひらき、931人が参加、会場から神田神保町の大通りを錦華公園までデモ行進をした。

 閣議決定にもとづき国交省は公団廃止・独法化法案づくりを急ぎ、公団は新法人設立準備にはいる一方、03年4月の第7次家賃値上げ実施にむけて動きだしていた。全国自治協は2002年6月22~23日の第29回定期総会で当面する活動方針を確認しあった。
 7月16日には全国団地自治会代表者集会をひらき、222団地13.7万世帯、32万人の署名を国交省に提出し、要請をおこなった。地方議会への意見書採択の陳情・請願、首長要望書の提出要請もつづけ、02年度にはいって新たに10市長、4市長会から小泉首相に要望書が送られた。政府の公団住宅廃止方針、公団の家賃値上げが居住者の生活不安をさらに深めるなか、9月におこなった全世帯対象の第6回全国団地生活アンケート調査結果(11月1日に発表)は、その後の活動の重要な場面で大きな役割をはたした。さらにまた12月5日の全国公団住宅居住者総決起集会にむけては全戸署名にとりくんだ。集会には各党代表も出席、会場いっぱいに148団地874人が参加した。代表団が220団地からよせられた約30万人の署名をそれぞれ都市公団総裁と国交大臣あてに提出し、集会参加者は九段下の公団本社玄関前に移動し、「本社前集会」をひらいた。

『検証 公団居住60年』 東信堂


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日本の原風景を読む №21 [文化としての「環境日本学」]

神、自然、人がまじわる安曇野-常念岳 2

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

輩出した反骨の群像

 四月、残雪の常念岳の山肌に托鉢僧の姿が現れる。読経の声も聞こえるという。有明山麓に棲み、征夷大将軍坂上田村麻呂と勇敢に戦い、敗れた「鬼」こと八面大王に仕えた常念坊が唱える念仏だと伝えられている。大王わさび農場の由来は「鬼」の胴体を埋めたと記された碑が、わさび田から発掘され、その場に八面大王神社を建立して祭ったことに由来する。
 都の征夷大将軍坂上田村麻呂は中央政府、有明の鬼こと八面大王は地域自治のシンボルだ。安曇野人の盛んな反骨精神はこうして再生されていく。
 八百年余の水田稲作史を刻む安曇野穂高町は、近代彫刻の父荻原篠山、自由民権家の松沢求策、新商人道を拓き、東京新宿に中村屋美術・政治サロン(現在の中村屋)を営んだ相馬愛蔵・黒光夫妻、反戦の自由主義者、ジャーナリストで『暗黒日記』を書いた清沢冽(きよし)、彫金工芸界の第一人者山本安曇など、日本の近代化に貢献した人物を輩出した。
 ― 欧米模倣や官僚主義、形式主義をもって権威づけた近代の主流に対し、彼らのいずれもが独創を重んじ、人間性の尊厳を強烈に打ち出しているのが際立った特色である。分野はそれぞれに違うが、俗悪を排し、清らかに厳しく、そして一途に信念を貫く人間像が共通項として浮かび上がってくる。  (『信州穂高』安曇野出版)
 彼らを育てたのは「研成義塾」の主、井口喜源治である。

良書品性の人になれ

 明治三十一(一八九八)年、穂高町東穂高に安曇野文化の揺藍になった研成義塾が開かれた。
 教師は前任の東穂組合高等小学校から転じた井口喜源治一人だった。一人で英語、数学、漢文や彼の信仰するキリスト教聖書などを教えた。「人はいかなるものになろうとも、何をしようともその前に良き品性の人になれ」「教育は『できる』『できない』というレベルにだけでなく、その子の良さ(天賦)をどう伸ばすかにある」 (塾設立趣意書)。
 研成義塾を訪れ講演した内村鑑三は、井口を「穂高のペスタロッチ」と讃え、次のように記した。
 ― 南安曇郡東穂高の地に、研成義塾なる小さな私塾がある。若し之を慶応義塾とか早稲田専門学校とか云ふような私塾に較べてみたならば実に見る影もないものである。其建物と云へば二間に四間の板屋葺の教場一つと、八畳二間の部屋がある許りである。然し此小義塾の成立を聞いて余は有明山の親々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。此小義塾を開いた意志は蝶ケ岳の花崗岩よりも硬いものであった。亦之を維持するの精神は万水の水よりも清いものである.。  (井口喜源治記念館刊『安曇野人間教育の源流』)
 井口は黙々と農村青年の教育に励み、昭和七(一九二三)年まで明治、大正、昭和の三四年間に八百人近く教え子を世に送りだした。彫刻家荻原守衛(撒山)、外交評論家清沢冽、野の思想家斎藤茂らは研成義塾とその塾生たちから学んだ。出色は明治末期から大正初期にかけ、理想郷の建設を目標に塾生七二名が渡米し、シアトル市を中心に定住し、その信念を保ち、誠実に生き抜いたことである。移住二世のゴードン平林は、第二次大戦時、日系人の強制収容所への入所を拒否し、収監された。しかし、穂高町出身の同志に支えられて連邦最高裁判所まで争い、完全無罪判決を得た。レーガン米大統領による謝罪と米政府による補償金各人二百万円の支払いを勝ち取った。
 井口の授業は教室を出て、万水(まんずい)川のほとりの草原で、常念の山々を見ながら行われた。明治三十九年荻原篠山が米国から師の井口に宛てた書簡に、風景の中の人間の暮らしと歴史をうかがい知ることができる。
 ― ああ、万水!! 凡ての己が幼き記憶は此の稗に包まれつ。己れ汝の当たりに草刈りつ、汝の清姿に面を洗いつ、汝の辺りに蛍を追いつ、汝の辺りに蛙を聞きつ、汝の辺りに月を楽しみつ。汝の辺りに己が友と夜をこめて談り明けつ、己には何時のかく曲がりてかくれ流れ行くや、此角に青柳覆ひ、彼の淵にブトさまよう様の、今明明と、居な、実は己れは汝の辺に立ちて東山(井口喜源治)の書窓に向ふて歩みつつあるかの如く感ずる也。(原文のママ)

 中島博昭は安曇野人に共通する性格の背景を指摘する。「幼い頃、常念岳を見て育った場合、本人が自覚しなくとも、水と山の魂が心の奥底に刻まれ、常念山麓を離れて暮らしても、その魂に生きるという人々がいる」(『常念山鹿』)。

『日本の「原風景」を読む~ききの時代に』 藤原書店


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はるかなる呼び声 №12 [核無き世界をめざして]

追悼の記

 突然の訃報に、頭のなかはいまだに整理されていません。
 関さんはどちらかといえば寡黙の人でした。私の記憶では、「やってみたら」と言われたことが強く思い出されます。
 その言葉にしたがってやってみて、長年つづいているのは、澁澤栄一記念財団が発行している「青淵」誌への寄稿、関さんから声をかけられて二人で始めた『関千枝子・中山士朗往復書簡」などがありますが、 '九九年五月には『原爆亭折ふし』(随筆集)を発行し、平成五年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞することができました。これは関さんにすすめられまとめたものですが、関さん自身も推薦してくれ、受賞したのです。
 この作品と関さんとの出逢いは、まったく偶然としか言い様がないものでした。
 東京の家を売り払って、別府湾を一望できる高台に移住して来たのは平成四年三月のことでした。その頃にはまだ広島ー別府間の定期航路がありましたが、それからほどなくしてその定期船は姿を消してしまいました。
 私たちが引っ越してきて間もなく、関さんが不意に「新居拝見」といって姿を見せたのは驚きでした。博多に来たついでにと、名物の辛子明太子を持って現われたのでした。   その日は、別府市内の生簀料理店に案内し、私の家に泊まってもらいました。その頃、私の妻も健在で、親しく接したのはこの時一度限りでした。それ以前、私は東京で勤めながら創作活動を続けていましたが、「薬事日報」という業界紙に長年にわたってエッセイを執筆しておりました。そして、別府に移住して来てからは、大分合同新聞のコラム欄に執筆した原稿もたまり、それらを合わせて本にしたいと思いながら暮らして居りました。そのことを知った関さんは、「やってみたら」と本にすることをすすめ、東京に戻るとすぐに西田書店に紹介し出版の話をまとめてくれたのでした。つまり、関さんの「やってみたら」のひと言から始まったことでした。
 関さんは、高校も、大学も同じ道を歩んだ二歳年下の学友でもありました。
 昭和二十五年四月、早稲田大学文学部の建物の前の校庭で、「中山さんですね」と声をかけて挨拶されたことが、現在でも強く記憶に残っています。

                  2021.3.7   中山士朗

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道つづく №6 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

冬籠

           鈴木闊郎

  冬木立天地の間を睥睨す

  籠居の埋火ちらと跳ねにけり

  凍て土を破りて芽吹くもののあり

  冬蕎麦の献上の冽高尾山

  冬籠大地喜和子のシネマ見る

         花鳥諷詠誌「駒」二〇十二年三月二二二号

鈴木闊郎氏略歴
 1933年 立川市生まれ。早稲田大学卒。(株)立川印刷所2代目オーナー。
 立川の粋人として知られた。俳誌『駒』同人。2020年没。


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №170 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

しなの鉄道   

            岩本啓介
 

国鉄の近郊型車両115系は製造から50年、首都圏から姿が消え 
第3セクターの“しなの鉄道”からの引退も近かづいているようです 

朝は墨絵の世界 

170横須賀色・黒姫~妙高高原.jpg

雪はやんでも まだ陽がささない山沿いの鉄路は墨絵の世界 
懐かしい 横須賀色にリバイバル塗装された115系は走ります 
      3月3日 10:01 

午後は鮮やかな色絵の世界
 

170線路用★黒姫~古間.jpg

雪化粧の木々 田んぼも新雪が積み増し まぶしく鮮やかな世界 
懐かしい 湘南色の115系も一段と輝いていて走ります 
      3月3日 15:39 


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押し花絵の世界 №130 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「春をあなたに」

         押し花作家  山﨑房枝

2021・3月下.jpeg
  
27cm×27cm
私の花生活No.93号 掲載作品

河津、染井吉野、枝垂れの3種類の桜を入れて桜づくしの春色のプレゼントとして仕上げました。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №58 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

     中世の軍道 深大寺道を行く 3

           原田環治

深大寺道4-1.jpg 富士街道を横切り榎ノ木通りに入る。因みに富士街道を東に200mも進めば西武新宿線の西武柳沢駅がある。榎ノ木通りは集落の中をうねうねと縫う細い街路だ。ほどなく車の行き交う新青梅街道と交差する。新青梅街道を渡り更に進むと保谷街道に出る。保谷街道を横切り泉町に入ると左手北西方向へゆるやかにカーブする。すると右手後方から関道が合流する。合流点のすぐ先に三差路があり、その一角に古びた庚申堂が立っている。堂内には青面金剛像が祀られている。傍らの由緒書によれば、この辺りは榎の木と呼ばれ、当初は江戸時代の高札場であり、上保谷村の中心であったことから、榎の木の庚申様と呼ばれたという。台石には二鶏と三猿が刻まれ、その上に邪鬼を踏みつけた青面金剛の全身像が立っている。 江戸八丁堀松屋町のいずみや三郎左衛門の作で、正徳4年11月22日(1714)武州新倉郡上保谷村の18人深大寺道4-2.jpgの講中によって造立されたとなっている。もとは6腕であったが、昭和20年(1945)、米空軍の爆撃で、向かって右2腕と左1腕が失われたという。
 庚申堂を後にして泉町の集落の中を進む。ちなみに沿道右手100mばかり入った集落の中に江戸時代中頃創建の宝樹院という真言宗智山派の寺がある。山号を慈光山と号し保谷四軒寺の一つと言われる。やがて横山道と称する道と交差する。横山道の名の由来についてはこの道筋が横山(現八王子)に通じる道筋であったからという。すなわち平安末から鎌倉時代初頭にかけて横山は武蔵七党の一つ横山党の本拠地であった。横山党は多摩丘陵(古くは多摩の横山と呼んだ)を望む八王子の横山を本拠に活躍した武士団で、鎌倉幕府草創期に重要深大寺道4-3.jpgな役割を演じた。横山道とはそんな横山から保谷を経由して新座を結ぶ古道であり、中世の武士達や軍馬はこの道筋を往還したのであろう。なお横山道に沿って北東方向へ100mも進めば沿道に寶晃院、東禅寺、尉殿神社、如意輪寺と寺社が軒を並深大寺道4-4.jpgべている。寶光院と東禅寺、如意輪寺、それに先の宝樹院を加えた四ヶ寺を保谷四軒寺と呼ぶ。保谷四ヶ寺の寶晃院は真言宗智山派の寺で正式には金輪山寶晃院明王寺という。 尉殿神社の別当寺である。東禅寺は祥高山東禅寺という曹洞宗の寺で、元は田無にあった西光寺が移転してきたものという。如意輪寺は真言宗智山派の寺で山号を光明山と号す。創建年代は不詳であるが江戸時代初期と思われる。なお尉殿神社は永正2年(1505)の創建との社伝があるが、建長年間(1249~1256)の創建とも言われる。祭神は級長戸辺命(シナトベノミコト)と天照大神。江戸時代終りまで本地垂迹思想に基づき尉殿権現と称され、水の神ジョードノを祭ったことに始まる。本地の神体は水の守護神倶利伽羅不動明王であり、垂迹(権現)の神は龍田風神の祭神級長津彦命(シナツヒコノミコト)と級長戸辺命の男女二座という。
 横山道を越えると街路は一段と狭くなり、左に直角に折れて数10m進めば南北に走る、いささか広くなった谷戸住吉通りに入る。おそらくここで元の深大寺道の道筋に復したものと思われる。ひばりが丘中を右にやり、小さな住吉第4公園を右にやりすごすと、やがて東西に走る広い車道に出る。前方には背の高いマンションが望見できる。西武池袋線のひばりが丘駅の界隈に来たのだ。車道を渡りうねうねと道なりに進むと、ほどなく高層マンショ深大寺道4-5.jpgンの裏手に丁字でぶつかる。左へ折れて50~60mも進めばひばりが丘駅へ向かう都道112号線に出る。右折して通りを北に採れば正面がひばりが丘駅で、左右に西友やパルコ等賑やかな駅前のビル群が現れる。
 駅の西側のパルコ前で踏切を渡り「ひばり銀座商店街」の路地に入る。賑やかな商店街を抜ける辺りにミラーのある辻がある。その辻を右折した後再び北へ向かう通りに入る。通りは西東京市を離れ東久留米市と新座市の都県境に沿う道となる。集落を抜けるとやがて広い県道234号線に合流する。合流点の左50mばかりの所にこんもりと鎮守の森に覆われた小さな浅間神社がある。合流点に戻り、S字状に蛇行する県道を右へ100mばかり進んでヤオコーのある丁字路帯で再び北へ向かう深大寺道4-6.jpg通りに入る。通りに入ると程なく沿道左に古びた堂宇がある。中には馬頭観音の文字塔1基と刻像塔1基がある。刻像塔の台座には栗原と刻んであることから、この辺りの栗原村の講中が造立したものであろう。用水路のある集落を抜けると前方に橋が見えてくる。黒目川にかかる神宝大橋だ。橋上から黒目川の上流に目をやると支流の落合川が合流している様子が望見出来る。因みに黒目川は都立小平霊園内の遊水池「さいかち窪」を水源とし、小刻みに蛇行しながら東流する。一方落合川は黒目川の支流で南沢緑地の4箇所の湧水を水源に北東方向へ流れ、深大寺道4-7.jpgこの神宝大橋のすぐ上流で黒目川に合流している。合流後の黒目川は新座市南部を蛇行を繰り返しつつ流れ下り、朝霞市に入って新河岸川へ注いでいる。
 神宝大橋を渡ると右手路傍に小さな堂宇がある。中には摩滅した庚申塔が1基納められている。栗原では庚申塔が多く、その多くが三叉路に立っていた。村内に流行病等が進入しないように村の三方に祭られたのが始まりだという。戦前までは庚申の日に住民が集まって一晩中お祭りをしたというが、今はその風習はなくなってしまったとのことだ。(つづく)


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論語 №116 [心の小径]

三六二 子のたまわく、人の己を知らざるを患えず、己の能(よ)くするなきを患う。

           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「人が自分を知らないことを心配するな。自分に知られるだけの他力の脳力のないことを心髄せよ.」

 これは孔子様がいつも言われることで、外にも同趣旨が三カ所に出ているが 二六・八〇・三九四)、いちいち文句がちがう。

三六三 子のたまわく、詐(いつわ)りを逆(むか)えず、信せられざるを億(はか)らず、そもそも先ず覚(さと)る者はこれ賢か。

 古註に「逆は末だ至らずしてこれを迎うるなり、億は末だ見ずしてこれを意(おも)うなり。」とある。今日の「先覚者」という言葉はここから出ているのだろうが、多少意味がちがう。ここの先覚はむしろ「直感」というような意味。

 孔子様がおっしゃるよう、「人が自分をだましはせぬかとこちらからあらかじめ迎えてかかったり、人が自分を疑って信用せぬのではないかと取越苦労したりしないで、正心誠意に人に接しながら、しかも相手のいつわりや疑いが鏡のごとくこちらに映るようになったら、それこそ賢人というものだろうか。」

三六四 微生畝(びせいほ)、孔子に謂(い)いていわく、丘(きゅう)よ、何ぞこの栖栖(せいせい)たる者を為すか。すなわち佞(ねい)を為すことなからんや。孔子いわく、敢えて佞を為すにあらず、固(こ)を疾(にく)むなり。

 「微生畝」については、荻生徂徠が「何人たるかを知らず。けだし亦(また)郷先生にして、孔子において先輩たり。何ぞや、その孔子を名いうを以てなり。」と言っている。人生を超越して独り高しとする老荘者流であろう。

 微生畝が孔子に向かって、「丘よ、何だってそんなにアクセクしているのか、いたずらに弁を好むきらいがあるではないか。」と言った。孔子が風に柳と受け流して、「イヤ弁を好むわけではありませんが、独善にこりかたまって世間を白眼視することがきらいだものですから。」

 天下を憂え生民を愛して、東奔西走される孔子の素志悲願を知らずして冷笑をあびせるいわゆる隠君子も相当にあったことが、『論語』中にもいくつか見える。この場合の孔子様の答は、相手が長老なので言葉は丁寧だが、相当にあてつけがましい。

『新薬論語』 講談社学術文庫


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批判的に読み解く歎異抄 №24 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠

③十五条 ― 即身成仏

 それでは十五条に行きましょう。これはあまり長くないですが、これも最初の方だけ読んで説明したいと思います。

 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり.。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。

 この後は読んでおいて頂きたいのですが、ここで批判しているのは「即身成仏」であって、それは「真言密教」や「法華一乗」の教えで言われていることだと言っています。それで、これらは聖道門の教えに属するものですから、この批判の対象は「一念義・造悪無碍」であるというよりも、「多念義・専修賢善」の方に近いものだということは言えますよね。
 それに対して、浄土真宗で強調するのは「即得往生」(現生正定衆・現生不退)ですね。これは現生において信心を獲得したその瞬間に往生が定まるということですが、しかし未だ往生したわけじゃありません。穢土と浄土に分けるならば、生きている限り私たちはこの穢土に居るわけですから、まだ浄土に往ってしまったわけではないのです。ところが、それを取り違えて「即身成仏」と同義であるように吹聴する人があるので、それを異義として批判しているわけです。「即身成仏」とはこの世に居ながらこの身のままで成仏するって話だから、穢土と浄土の境をなくしてしまうことになるのです。浄土門からすればそれは異義だと批判することは正しいことだと私は思います。
 だけれども、むしろ本当に問わねばならない問題はここからなのです。それはどういうことかというと、「即身成仏」と「即得往生」とではどちらがより「造悪無碍」に近づくかという問題が残っているということです。これはなかなか難しい問題ですね。ここには、実は宗教的な観念と倫理道徳的な観念はそれほどストレートにつながるわけではないという問題がさらに根底にはあるわけです。つまり、「専修賢善か、造悪無碍か」といった倫理道徳的なレベルのやりとりは、「即得往生か、即身成仏か」という宗教教義のレベルのやりとりにストレートに対応する訳じゃないということです。「即身成仏」でも「即得往生」でも、受け取りようによっては、どちらからでも「造悪無碍」は生まれます。一回念仏すれば救われるという「一念義」は特にそうで、既に浄土に往くことは定まっているのだから後は何をやってもよいじゃないかということになるならば、「即得往生」こそ「造
悪無碍」につながりやすいと言えますね。が、また「即身成仏」の方にしても、この世こそが浄土なのだからもう何をやっても許されるという形で、場合によっては悪を正当化することになりますね。「即得往生」でも「即身成仏」でも、どっちだって「造悪無碍」にはつながっちゃうわけですよ。でも「即身成仏」の場合には、この身のままで既に仏さんだと言ったら怪しいわけですが、今はまだ仏でなくとも、将来、仏に成るために努力するという意味もあることは認めなきゃいけないかもしれません。その場合には、「即身成仏」は「造悪無碍」よりもむしろ「専修賢善」の方につながりやすくなるのではないかと思います。
 このように、「即身成仏」には「即得往生」よりも「専修賢善」につながる要素は強いということもありますので、それを批判するこの十五条もやはり「造悪無碍」批判の条文として読むことはできないと思います。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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『知の木々舎』第285号・目次(2021年3月上期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №46               妖精美術館館長  井村君江
 シェイクスピアと「夏の夜の夢」の妖精 3
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じゃがいもころんだⅡ №38             エッセイスト  中村一枝
 私の八十年 父との思い出
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渾斎随筆 №76                       歌人  会津八一
 文化の反省
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石井鶴三の世界 №182                 画家・彫刻家  石井鶴三
 東大寺南大門仁王 1961年/二月堂仁王 1961年 
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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №46      早稲田大学名誉教授  川崎 浹
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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№53 美術史研究家 斎藤陽一
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往きは良い良い、帰りは……物語 №92  俳句・こふみ会同人  多比羅 孝
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 八月十三日~八月十五日
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草木塔  №83                        俳人  種田山頭火
 孤寒 8
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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №106              川柳家  水野タケシ
 2月17日、24日放送分
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【核無き世界を目指して】

はるかなる呼び声 №11                          エッセイスト  関 千枝子
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【心の小径】

論語 №115                                                        法学者  穂積重遠
 三五八 子のたまわく、その位に在らざれば、その政を謀(はから)らずと。
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批判的に読み解く「歎異抄」№23     立川市・光西寺住職   渡辺順誠
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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №169             岩本啓介
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ミツバチからのメッセージ №42  造園業・ミツバチ保護活動家  御園 孝
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【代表・玲子の雑記帳】             『知の木々舎 』代表  横幕玲子
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ケルトの妖精 №46 [文芸美術の森]

妖精の女王ティターニア

        妖精美術館館長  井村君江

◆シェイクスピアが『夏の夜の夢』のなかで、高慢で強情でコケティッシュな妖精の女王として描いたティターニアは、古典世界ではきらびやかな神話体系に属している。
 ティターニアの名は「タイタン(巨人神族)の娘」からきている。ところが「ウラノス(天)」と「ガイア(地)」のあいだに生まれた「太陽神ソル」の姉妹、「月の女神ダイアナ」もティターニアと呼ばれたので、それぞれの名前のもっている意味がひとつに重ねられて、妖精の女王と月の女神はしだいに同じキャラクターをもつようになった。
 シェイクスピアはティターニアの姿を魅力的に創りあげたが、ここでもティターニアには月の女神ダイアナの性質がつけ加えられている。妖精たちの月夜の輪踊りの場面などに、それをうかがうことができる。
「月夜の森で歌に合わせて輪踊りをしておくれ」とティターニアが言うと、妖精たちは、「災い、呪い、怪しいものは、女王さまに近寄るな」という守護の歌を歌って、安らかな眠りを誘う。
「月が、ほら、泣いているみたい。月が泣くと小さな花も一輪残らず涙を流す。きっとどこかで乙女が汚されたのよ」と、シェイクスピアはティターニアに言わせているが、処女を守護する月の女神の性格として、これは当然のことだといえる。
 シェイクスピアの妖精たちは花々や昆虫に囲まれて暮らしている。その名も「辛子種」や「蜘蛛の巣」「豆の花」「蛾の君」というように植物や花、蝶や昆虫の化身のようであり、微小で繊細で美しいイメージである。そしてティターニアのベッドは甘い香りを放つすみれや忍冬(すいかずら)、癖香いばらでできており、蛇のエナメルの皮や煽蟻のつばさの皮は妖精の服になる。妖精たちは蜂の巣からは蜜を、リスの蔵からはクルミを集めている。
 また、シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』のなかでも、妖精マブとして妖精の女王を登場させている。ここでは妖精マブは、メノウほどの小ささで「ハシバミの実の殻の車」を「ケシ粒ほどの小人」に引かせている。妖精マブが恋人の頭を通れば恋の夢、妖精マプが弁護士の指のあいだを通れば謝礼の夢など、人間に夢をみさせる妖精(フェアリー・ミッドワイフ)とされている。
 妖精マブの侍女は蝶の羽で扇をこしらえたり、蜂の足をローソク代わりにしてそこに蛍の灯を灯したりするなど、『夏の夜の夢』のティターニアの寝所の場面に登場する妖精たちの繊細な姿につながっている。
 マブという名前は、ケルト神話の戦いの女神メイブや、コノートの女王メイブにも重なっている。ケルト神話の世界では、戦いに敗れた女神ダーナ神族が海の彼方に常若の国、地下に妖精の国をつくり、ミディール、オィングス、フィンバラ、マナナーン・マックリールなど、たくさんの神々が妖精の王になっているのだ。
 ウェールズ語の「小さい子」を意味するマブとかマベルからとられたという説もある。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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石井鶴三の世界 №182 [文芸美術の森]

東大寺南大門仁王 1961年/二月堂仁王 1961年

        画家・彫刻家  石井鶴三

1961東大寺南大門仁王.jpg
東大寺南大門仁王・西方 1961年 (173×124)
1961三月堂仁王.jpg
二月堂仁王 1961年 (171×124)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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