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武州砂川天主堂 №30 [文芸美術の森]

第八章 明治十一・十四年 2

         作家  鈴木茂夫

十月二十五日、下壱分方村。
 オズーフ司教とジェルマンは、昨夜、山上家に泊まってこの日の朝を迎えた。
 二人は、山上家の近くに新築された建造物の前に立つ。
 間口五間(約九メートル)奥行き八間(十四・五メートル)の切妻造りの木造平家だ。それは村に創られた教会だ。正面玄関の上には「天主堂」の標識、棟の上には、高さ六尺(約「八メートル)の櫓(やぐら)があり、その上には十字架が設けられてある。
 「司教様、これが教会です。山上作太郎さんに伝道士をお願いしたのは、一昨明治九年のことでした。作太郎さんは、神様の話を村の人たちに話してきました。それから二年、信徒の数は五十人を超えました。山上家を集会所とした集いの度に、信徒の皆さんは、自分たちの教会を創ろうと基金を集めてきたのです。そのお金で教会は完成したのです」
 「テストヴイド神父よ、山上作太郎さんの活躍は、あなたからの報告で聞いてきました。それと同時に、あなたがどれほど一生懸命に村を訪れたかも知っています。私はとてもうれしいのです。この教会の建物は、さほど大きいものではありません。しかし、この教会は、日本人が自分たちの手で創り上げた最初の教会です。その意義は、とても大きいのです。神様も喜んで祝福して下さると思う」
 「司教様、教会のことで、ご報告しなかったことが一つあります。私にとってこの教会は、はじめて手がけたものです。とてもうれしいことですので、故郷にそのことを知らせたのです。すると両親が村の教会の信徒に話し、小さな鐘を贈ってきてくれたのです。鐘は教会の屋根の櫓におさまっているのです。私の小さな秘密でした。申し訳ありません。どうかご了解下さい」
 「どうして、私があなたを叱るであろうか。これはフランスと日本とが一つの神に結ばれた絆(きずな)の証(あかし)ではないですか。すばらしいことです。おめでとう」
 午前十時、教会の創立を祝う式典ミサがはじまった。
 オズーフ司教は、聖句を引用し、愛こそが何物にも代えがたい美徳であると説いた。

 たとひわれもろもろの国人(くにびと)の言(ことば)および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鏡鉢(きょうばち)の如し。(中略)愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕(たかぶ)らず、非礼を行はず、己の利を求めず、憤(いきど)ほらず、人の悪を念(おも)はず、不義を喜ばずして、真理(まこと)の喜ぶところを喜び、凡そ事忍びおほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。(中略)げに信仰と希望と愛とこの三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり
                  コリント人への前の書第十三章より

 教会は、聖母マリアに因み「聖瑪利亜(せいまりあ)教会」と名付けられた。
 説教が終わると、「信仰宣言」を歌う会衆の声が高らかに堂内に響く。

   わたしは信じます 唯一の神全能の父
   天と地 見えるもの 見えないもの すべてのものの造り主を
   わたしは信じます 唯一の主イエス・キリストを 主は神のひとりこ

 その時、鐘が鳴らされた。
 「カーン、カーン、カーン」
 鐘は共鳴し、乾いた音色で集落の家々に響いた。
 ジェルマンは作太郎の手を握った。二人は何も言わなかった。それだけで、すべてのことがわかり合えた。ジェルマンは、胸がいっぱいだった。自分が手がけた教会が現実のものとなっているのだ。作太郎の頬が涙で濡れている。
 それを見守るオズーフ司教の眼も潤んでいた。

明治十四年一月十五日 府中・高安寺
 神奈川県北多摩軍府中駅の名刹・高安寺本堂に、正午を期して多摩地域の豪農衆約百五十人が参集した。自治改進党を創立するという。この日に先立ち、野崎村の吉野泰三、柴崎村の中島治郎兵衛、府中駅の比留間雄亮(ひるまゆうすけ)らは、北多摩の豪農有志による懇親会を開きたいと呼びかけ、去る五日、府中駅の料亭・新松本楼で約百人が会合、一党派の創立を呼びかけたところ、全員の賛同を得た。そこで北多摩全域に枠組みを広げようとこの集いとなったのだ。
 議長が党の規約を提案する。

 自治改進党総則
 第一条 我党ノ主義ハ人民自治ノ精神ヲ養成シ、漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充セシメントスルニ在リ
 第二条 前条ノ主義ヲ拡張セン為メニ、毎月二国会日ヲ定メ、演説又ハ討論ノ会ヲ開ク可シ

 大きな拍手で規約は確認された。
 参加者には、共通した思いで結ばれている。
 砂川源五右衛門は、眼をつぶり腕組みする。今こそ、何かをしなければならない。今なら、何かがはじまる、何かができそうな期待がある。
 その何かが、今語られているのだと思う。
 「人民」「自治」「権理」は、時代が産み出した新しい言葉だ。人民には、この国に住む誰もが差別されることはない平等だという思いがある。自治には、誰かに支配されるのではなく、誰もが主人公なのだという主張だ。そして権理とは、誰もが持っている、誰にも侵されないそれぞれの持ち分だ。
 この精神を形作るのには、急激、過激に社会の変革を行うのではなく、急がず穏健に、ことを進めようというのが漸(ぜん)の方法だ。
 参集した豪農の背後には、多くの自作農、小作農がいる。これらをひっくるめて社会の改良、発展を図るには、長い穏やかなやり方でなければいけない。また、そうでなければ、成功は望めない。
 こうした時代の言葉の中味は、これまでの社会には、なかったことだ。そしてこれまで誰もが経験したことはない。だからこそ、この言葉に勇気づけられる。この言葉の中身は、自分たちの手で確かめるより途はない。なぜか、この言葉に胸が高鳴るのだ。

『武州砂川天主堂』 同時代社

  

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №110 [文芸美術の森]

               奇想と反骨の絵師・歌川国芳

              美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第5回 「和洋融合・シュールな風景画」

110-1.jpg

 ≪奇々怪々なる風景≫

 上図は、歌川国芳が36歳頃に描いた風景画ですが、とても不思議な感じを与えますね。
 「守備の松」と呼ばれた名物の松は、墨田川西岸、現在の蔵前橋のあたりにあったのですが、この絵では、前に描かれた大きな岩と石垣の間に、柵に囲まれてわずかに見えているだけ。前景の三角形の岩と石垣が異様に大きく描かれている。通例の「名所絵」とはかなり違っています。
 さらに、大きな岩の前や石垣の間には、これまた大きくとらえられた蟹がうごめき、壊れた桶のタガが突き出ている。よく見ると、三角形の岩の頂点には、大きな船虫もいる。石垣の隙間にはタンポポが生えて、その花が上から垂れ下がっています
 どんよりとした空の色と、前景の暗褐色の色調とあいまって、まことに異様で、奇々怪々ともいうべき風景画です。

110-2.jpg   実は、この絵の発想源も、先述したオランダの書物『東西海陸紀行』の中の銅版挿絵であることが指摘されています。

 右図でご覧の通り、この蘭書の挿絵では、博物学的な意図から、珍しい南国の植物や果物を近景に大きく描き、背景には遠くの風景を描いて、エキゾチックで不思議な光景となっています。

 おそらく国芳はこの蘭書に挿入されている銅版挿絵を見て、従来の日本絵画とは異質の絵画世界に興味を抱き、自らの絵画に取り入れて、和洋融合の不思議な風景画を創り出したのではないでしょうか。

 歌川国芳は、いつも「何か面白い趣向の絵を描きたい」という思いの強い絵師だった。だから、当時の人から見れば新奇過ぎるような風景画が生まれたのだと思います。

≪江戸のスカイツリー?≫

 下図は、同じ「東都」(江戸)シリーズの一枚「東都三ツ股の図」。天保2~3年頃、歌川国芳36歳頃に描いた風景画です。
 「三ツ股」は墨田川下流にある土地の名前。遠くには永代橋が見え、その向こうには佃島があります。

 手前に、防腐のために船底を焼く人とそこから立ち上る煙を大きく描き、その後ろの水上に点々と数艘の船を配し、遠景を小さく描くことで、遠近感を演出している。
 空には、幾重かの雲がたなびき、のどかな気分がただよいます。

110-3.jpg

 近年、はるかに見える対岸の左側に描かれている高い塔のようなものが「スカイツリー」に似ている、と話題になりました。半ば冗談で「国芳は、後世のスカイツリーを予告していた」などと面白おかしく言う人もいました。

110-4.jpg この塔のようなものの正体について、いくつかの説が提示されましたが、どうやら「井戸掘りやぐら」ではないか、ということです。

   右端の図は、国芳が描いた「子ども絵」ですが、職人に見立てた子どもたちが、高いやぐらを立てて、井戸掘りをしている様子が描かれています。
 確かに、形がよく似ていますね。
 「スカイツリー」の左側のやや小さい塔は、おそらく「火の見櫓」でしょう。

 「井戸掘りやぐら」だとすると、現実的には高すぎる感じがしますが、絵画的には、右側で画面を引き締める役割を果たしている。この二つの塔が無いと画面は締まらない。これは、そのような絵画的高さというべきでしょう。

 次回は、歌川国芳が描いた迫力ある「役者絵」を紹介します。

(次号に続く)


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浅草風土記 №7 [文芸美術の森]

「古い浅草」と「新しい浅草」

       作家・俳人  久保田万太郎

 その学校の、古い時分の卒業生に、来馬球道氏、伊井蓉峰氏、田村とし子氏、土岐善麿氏、太田孝之博士がある。わたしと大ていおんなじ位の時代には、梅島昇君、鴨下見湖君、西沢笛畝君、渋沢青花君、「重箱」の大谷平次郎君たちがいる。わたしよりあとの時代には、松平里子夫人、中村吉右衛門夫人、富士田音蔵夫人なんぞがいる ― 勿論この外にもいろんな人がいる。― が、これらの諸氏は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、時おりわたしのめぐりあう人たち、めぐり逢えばすなわちあいさつぐらいする人たちである。― 尤も、このうち田村とし子氏は七八年前にアメリカへ行ったなりになっている。「蓋し浅草区は、世のいはゆる、政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し、今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、幾人の学士、はた官吏がこの区内に住めるか、思ふにかかる江戸趣味及び江戸ッ子気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり」と前記『浅草繁昌記』の著者はいっている。その著者のそういうのは、官吏だの、学者だの、教育家だの、政治家だの、実業家だのというものはみんな地方人の立身したもので、いくら学問や財産やすぐれた手腕はあっても、その肌合や趣味になるとからきし低級でお話にならないというのである。「紳士にして『お茶碗』と『お椀』との区別を知らず、富豪にして『清元』と『長唄』とを混同し、『歌沢』『新内』の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を質す」といろいろそういったうえ「かくの如きはたゞ見易き一例にすぎずして家屋住宅の好みより衣服の選択など、形式上のすべてかいはゆる江戸趣味と背馳するもの挙げて数ふべからず」とはっきり結論を下している。そうしてさらに「およそ斯くの如きは、山の手に至りては特に甚だしく、下町もまた漸く浸蝕せられ、たゞ浅草区のみは、比較的にかゝる田舎漢に征服せらるゝの少きをみる」とことごとく肩をそびやかしている。
 ― いうところはいかにも「明治四十三年」ごろの大ざっばな感じだが、その政治家だの学者だの官吏だのの浅草の土地に従来あんまりいなかったということだけはほんとうである。すくなくとも、その当時、わたしのその学校友だちのうちは……其親たちはみんな商工業者ばかりだった。それも酒屋だの、油屋だの、質屋だの、薬屋だの、写真屋(これは手近に「公園」をもっているからで、外の土地にはざらにそうない商売だろう)だの、でなければ大工だの、仕事卿だの、飾り屋だの……たまたま勤め人があるとみれば、それは小学校の先生、区役所の吏員、吉原の貸座敷の書記さん……そうしたたぐいだった。女のほうには料理屋、芸妓屋が多かった。― いまで、おそらく、そうでないとはいえないであろう……
 ところで芥川龍之介氏は『梅・馬・鷺』のある随筆の中でこういっている。「……浅草といふ言葉は少くとも僕には三通りの観念を与へる言葉である。第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現はれるのは大きな丹塗(にぬり)の伽藍(がらん)である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に焼残った。今ごろは丹塗の堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に相変らず鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く焼け野原になった。第三にみえる浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前 ― その外どこでも差支ない。たゞ雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花のしぼんだ朝顔の鉢だの……これも亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまった」と……

     二

 「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、 いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢貴この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。― 改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」 のなかれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町 ―田町から山谷……「吉原」の廓に近いそれらの町そこにわたしの「古い浅草」は残っている。田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲兄世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町、象潟町にかけての広い意味での「公園裏」…… 蔓のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てられた。……「池のまはりの見世物小足」こそいまその「新しい浅草」あるいは、「これからの浅草」の中心である……
 が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。!というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでたそれらである。― しかも、あとの者にとって、嘗てのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてずんずん成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみずみにまで行渡らせた。― いえば、いままで「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことにひそかにわたしは驚いたのである……
 が、前のものは ― その道に「古い浅草」は……
 読者よ、わずかな間でいい、わたしと一緒に待乳山へ上っていただきたい。
 そこに、まずわたしたちは、かつてのあの「額堂」のかげの失われたのを淋しく見出すであろう。つぎに、わたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火に焦げたままのあさましい肌を日にさらし雨にうたせているのを心細く見出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした木立の間から山谷堀(っさんやぼり)の方をみるのがいい。― むかしながらの、お歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ。― が、それに続いた慶養寺の墓地を越して、つつぬけに、そのまま遠く、折からの曇った空の下に千住の瓦斯タングのはるばるうち霞んでみえるむなしさをわたしたちは何とみたらいいだろう? ― 眼を遮るものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえたつような色の銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔と…… 強いていってそれだけである。
 わたしたちは天狗坂を下りて今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅いろの欄干をもったその橋のうえをそういってもときどきしか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っているだけである。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な田舎医者の住宅位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだれをかけたのがよけいそう思わゼるのて慶る)を横にみてそのまま八幡さまのほうへ入っても、見覚えの古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳-そうしたものの匂わしい影はどこにもささない。
― そこには、バラックのそばやのまえにも、水屋のまえにも、産婆のうちのまえにも、葵だの、コスモスだの、孔雀草だのがいまだにまだ震災直後のわびしきをいたずらに美しく咲きみだれている…‥

     三

 もし、それ、「八幡さま」の鳥居のまえに立つとしたら―「長昌寺」の墓地を吉野町へ抜けるとしたら…・
 わたしたちは、そこに木のかげに宿さない、ばさけた、乾いた大地が、白木の小さなやしろと手もちなく向い合った狛犬とだけを残して、空に、灰いろにただひろがっているのをみるだろう。― そうしてそこに、有縁無縁の石塔の累々としたあいだに、鐘撞堂をうしなった釣鐘が、雑草にうもれていたずらに青錆びているのをみるだろう。― 門もなければ塀もなく、ぐずぐずにいつか入りこんで来た町のさまの、その長屋つづきのかげにのこされた古池。―トラックの音のときに物うくひびくその水のうえに睡蓮の花の白く咲いたのもいじらしい……
 「…歌沢新内の生粋を解せずして、薩摩梵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を質す」と『浅草繁昌記』の著者がいくらそういっても、いまその「新しい浅草」の帰趨するところはけだしそれ以上である。薩摩荒琶、浪花節よ。もっと「露骨」な安来節、鴨緑江ぶしか勢力をえて来ている。そのかみの壮士芝居よりもっと「浅薄」な剣劇が客を呼んでいる。これを活動写真のうえにみても、いうところの「西洋もの」のことにして、日本出来のなにがしプロダクションのかげろうよりもはかない「超特作品」のはるかに人気を博していることはいうをまたない。
 みた。聞いたりするものの場合にばかりとどまらない、飲んだり食った。の場合にして矢っ張そうである。わたしをしてかぞえし雷。「下総屋」と「舟和」とはすでにこれをいった。「すし活」である。「大黒屋」である。「三角」である。「野ロバア」である。鰻屋の「つるや」である。支那料理の「釆々軒」「五十番」である。やや嵩じて「今半」である。「鳥鍋」である。「魚がし料理」である。「常盤」である。「中清」である。―それらは、ただ手がるに、安く、手っと。早く、そうして器用に恰好よく、一人でもよけいに客を引く……出来るだけ短い時間に出来るだけ多くの客をむかえようとする店々である。それ以外の何ものも希望しない店々である。無駄と、手数と、落ちつきと、親しさと、信仰とをもたない店々である。!つまりそれが「新しい浅草」の精神である……
 最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だの「猿茶屋」だのを決してもうわたしは思い出さないのである。「十二階」の記憶さえ日にうすれて来た。無理に思い出した所でそれは感情の「手品」にすぎない)飲んだり食ったりのうえでも、「八百善」「大金」のなくなった今日、(「富士横町」の「うし料理」のならびにあるいまの「大金」を以前のものの後身とみるのはあまりにさびしい)わずかに「金田」があるばかりである。外に「松邑」(途中でよし代は変ったにしても)と「秋茂登」とがあるだけである。かつての「五けん茶屋」の「万梅」「大金」を除いたあとの三軒、「松島」は震災ずっと以前すでに昔日のおもかげを失った、「草津」「一直」はただその彪躯を擁するだけのことである。―が、たった一つの、それだけがたのみの、その「金田」にしてなお「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう。
 ……「横町」だの「露地」だのばかりをさまよってしばしばわたしは「大通り」を忘れた。Iが、「新しい浅草」 のそもそもの出現は「横町」と「露地」との反逆に外ならないとかねがねわたしはそう思っている。・---これを書くにあたってそれをわたしはハッキリさせたかった。 ― 半ばそれをつくさないうちに紙面は尽きた。
 曇ってまた風が出て来た。― ペンをおきつつ、いま、公園のふけやすい空にともされた高燈寵の火かげを遠くしずかにわたしは忍ぶのである。……
(昭和二年)

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №54 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 1

       妖精美術館館長  井村君江

子供が読者になる ― 子供の勝利 1

 イギリスが児童文学の分野で、すぐれた特色ある作品を数多く生んできたことは衆知のことである。このイギリス児童文学の特質を、イギリス文学のなかにおいて考えてみたいと思う。児童文学といっても大人の文学と関わりのない真空地帯に存在するわけではなく、その本質を少しでも掘り下げて考える際には、どうしても大人の文学との連関を念頭に置くことが必要となってくる。
 近代における児童文学の歴史はいつから始まるのか。これはなかなか定めがたい問題であるが、いま仮りにこれを、文学にたずさわる大人が「子供もまた読者になり得ると気づいた時点」と定義してみれば、ある程度ははっきりするかも知れない。もちろんこの考え方はあくまで文学プロパーの立場からのものであって、児童教育の方で文学作品を教育の道具の一つと考えるようになった時期などについてはそれぞれの論もあると思うが、ここでは「子供が自発的に読むことを目的として書かれた本」という意味で児童文学を考えるので、読者としての子供がいったいいつ頃現われたかが問題になるわけである。
 十七世紀にイギリスで広く読まれた本に、ジョン・バニアンの『天路歴程』(一六八四)がある。人間は原罪という重荷を背負ってこの世の旅路を行かねばならぬことを、主人公のクリスチャンが荷を負い、困難をおかして「光の都」の門まで辿りつく物語のなかに盛り込んだものである。いわば神学的教訓のうちの魂の遍歴というものを寓意的に描いたものであった。当時の大人は、宗教的に忍耐とか勇気とかを教え込むのによい本と思い、子供たちにも与えた。だが神学的説教や倫理観など子供たちにはどうでもよく、旅をしていく主人公の冒険の場面に子供たちは魅かれた。「絶望の沼」や「虚栄の市」を通りぬけ、魔物アポルオンと戦い、巨人デスペーアの魔手を逃れる遍歴に、バこアンは人間の経験する人生での苦悩や煩悶を象徴的に表わしたかったのであろう。彼はこの苦悩の道を経れば、「光の都」という至福の国の入口に達することができると説こうとした。だが子供たちはクリスチャンの姿に家出の快感を味わい、冒険と巨人退治の面白さを見た。
 この当時まで、十六、十七世紀のイギリスで子供たちの本といえるものは、せいぜいホーン,ブックやバトルドアと呼ばれる、柄のついた手錠型や羽子板に似た柄つきの四角の板に、絵や文字を木版刷りにした紙を貼ったものだけであった。これは「主の祈り」とかアルファベットや歌詞といったものを楽しく学ばせる教科書ふうのものだった。書き手がわからないものが多いが、現存しているものではトマス・ビューウィツクの署名の入ったアルファベットの木版の動物絵がよく知られている。エリザベス朝から十八世紀にかけて、チャップマンとかペドラーとか呼ばれる行商人が、町から村へ、家々の戸口へと小間物を売り歩いたが、縫針や首飾りに混じって、当時の流行唄や昔話を一枚の紙の裏表に刷り、三つ折土ハ頁の豆本にしたものが入っていた。「あたし印刷になっている唄が一ばん好き。印刷になるぐらいだからきっと本当だと思うわ」(シェイクスピア『冬の夜ばなし』)。
 この糸綴じ豆本が十八世紀になると、「一ペニー・シリーズ」のバンベリー版やヨーク版チヤップ・ブックとして出て、木版一枚刷の挿絵等が入った薄い小型の本の体裁をとってきて、マザーグースの唄や「親指トム」や「シンデレラ」「巨人退治のジャック」の話等が簡単に再話化されて売られていく。子供たちが見逃すはずがなく、外装の小ささと内容の読みやすさとで、チヤップ・ブックは子供部屋の「人形の家(ドールズハウス)」の側に置かれたのである。しかし読みごたえのある物語の本でないことは確かであった。イギリスでは、一四七六年にウィリアム・キヤクストンが印刷所を開き、その弟子ド・ウオルドなどがその業を継いで物語を次々と本にしていったが、昔話などの蒐集と普及が主であって、子供のための本はジョン・ニューベリーが、一七四五年にセント・ポール寺院の前に初めて子供の本屋を開くまであまり出なかった。本というものが子供に何かを学ばせるための一つの道具として、使われていたようである。この時期に、『天路歴程』は冒険遍歴物語として、子供たちの空想を広げ、いきいきとしたストーリイの展開の面白さというものを与えるに充分であった。バニヤンは敬度な宗教心から魂の問題を教えようとして筆をとったのに、それを子供たちは自分たちの本のように喜び迎えたのである。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №237 [文芸美術の森]

着衣座像 1952年/夜行列車 1952年

       画家・彫刻家  石井鶴三

1952着衣座像.jpg
着衣座像 1952年 (178×130)
1952夜行列車.jpg
夜行列車 1952年 (201×143)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社


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武州砂川天主堂 №29 [文芸美術の森]

第八章 明治十一・十四年 1

         作家  鈴木茂夫
  
三月二十四日、横濱・聖心教会。
 オズーフ司教がジェルマンを呼んだ。
 「下壱分方村での布教はどうなっているのですか」
 「司教様、お尋ね頂いてうれしいです。村の中心となっているのは、山上作太郎さんです。
 作太郎さんは、村で皮革製造と質屋をしている有力者、山上春吉さんの息子です。この教会で私が洗礼し、伝道士として村で活躍しています。作太郎さんの妹カクさんも、熱心な信徒で、洗礼を希望しています。作太郎さんの伝道活動により、私が村を訪れると、数十人の人たちが、説教に参加します。教会を創りたいと募金もしているのです」
 「テストヴイド神父、あなたのめざましい活動と、作太郎さんへの指導により、すばらしい状況になっていることがよく理解できました。私は村の人たちに会いたいと思います。ぜひ、連れて行ってください」
 「ちょうど私は、明日、下壱分方村を訪ねる予定でした。喜んでお供します」

三月二十五日、神奈川往還、下壱分方村。
 オズーフ司教とジェルマンは、早めの朝食を済ませると教会を後にした。
 往還のあちこちに、桜が満開である。
 「テストヴィド神父、あなたはいつもこの道を行くのですか」
 「この一筋の道を行くのです」
 「一筋の道を歩み続けるのが『巡回牧師』の使命ですからね」
 「歩むことは楽しいことです。希望に向かって歩いているからだと思います」
 「桜は美しいですね。春はこの国の自然が最も華(はな)やぐ時です。私はこの国に派遣されたことをよろこんでいます」
 「司教様、私にも、日本は夢の国でした。司教様がパリの大神学院の院長をされている時、私は七人の仲間とこの国へ派遣されたのです。そして司教様も、今は日本北部の布教の総責任者として来られています。神様のご加護と恩寵を思わされます」
 二人の足取りは軽やかだった。ジェルマンは、いつもそうしているように、鑓水(やりみず)の道了尊のある茶店で休憩、昼食を済ませて道を急いだ。
 やがて下壱分方の村が見えてきた。
 一軒の萱葺き屋根の上に、白地に大きな赤い十字架のついた旗がそよ風にはためいている。
 「テストヴイド神父、あれは何でしょう。赤い十字架の旗ですよ」
 「あそこは、作太郎さんの家です。集会所はもちろん、子どもたちのための学校にもなっているんですよ」
 「この先の道に人びとが並んでいるが」
 「村の人たちが私たちの到着を待っていてくれたんですよ」
 出迎えの村人たちは、笑顔で二人にお辞儀した。
 オズーフ司教は声をつまらせ、
「なんというありがたいことだろう。母国で教会を巡回しても、これほどの温かい歓迎を受けたことはない」
 オズーフ司教はジェルマンと共に山上家を訪ねる。二間続きの座敷は人びとで埋め尽くされている。
 このあと、希望している十二人に洗礼を施した。その中には、作太郎の妹カクがいた。
村人たちが喜びに沸いている中で、作太郎の父春吉は、警察に届け出る書類を二通作成していた。

 届書(とどけがき)
 右者此度横渡仏八十番天主堂教師(ヲッフ)(テストビット)二名伝導之為出張今日ヨリ来ル三十一日進止宿候間此段御届候也
 右はこのたびよこはまはちじゆうばんてんしゅどうきょうし(オッズ)(テストヴィド)
にめいでんどうのためしゅつちようきょヨリきたルさんじゅラいちにちまでししゅくそうろうあいだこのだんおととけそうろうなり

 明治十一年三月二十五日
                      九大区九小区 山上春吉
                      右戸長会議二付不在
                      代理書役横川忠兵衛
                        
 八王子駅
 警察署御中

 届書
 右者去ル二十五日申上候通仏蘭西天主教師在留中講義候二付広布ノ為メ各処江立札候間此段御届候也
  みきはさルにじゅうごにちもうしあげそうろうとおりふらんすてんしゅきょうしざいりゆうちゆうこうぎそラろうニつきこうふノたメかくしょえたでふだそうろうあいだこのだんおととけそうろうなり

 明治十一年三月二十七日
                       九小区  山上春吉
                       右戸長会議二付不在
                       代理書役 横川忠兵衛
 八王子駅
 警察署御中

 キリスト教信仰の自由が保障されている建前とは裏腹に、宣教師たちの活動は、治安当局に届け出ることが求められているのだ。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №109 [文芸美術の森]

         奇想と反骨の絵師・歌川国芳
              美術ジャーナリスト 斎藤陽一   
                    第4回 「和洋融合・シュールな光景」

≪勇ましい遊女≫

 葛飾北斎も実に多様なジャンルの絵を描きましたが、歌川国芳もまた、浮世絵のさまざまなジャンルに積極的に挑戦した絵師でした。
 その上、好奇心が旺盛で研究熱心、オランダ渡りの「蘭書」なども入手して絵画の研究を行っていたようです。
 今回は、国芳のそんな一面を物語る作品を紹介します。
109-1.jpg
 上図は、歌川国芳が天保2~3年頃(36歳頃)に描いた絵「近江の国の勇婦於兼」。
 ここに描かれた女性は、近江の国の宿場・海津の遊女、お兼で、疾走してくる暴れ馬の引き綱の端を下駄で踏んで鎮めたという逸話の持ち主です。
 国芳は、今まさに、下駄で引き綱を踏みつけているお兼の勇ましい姿を描いています。暴れ馬は後ろ足を蹴り上げて、まだ、荒れ狂っています。

 国芳描くお兼は、ぬか袋を口にくわえ、手ぬぐいを肩にかけた浴衣姿、まるで風呂帰りの江戸女のような粋な姿に描かれている。
  その仕草も、歌舞伎役者が舞台で見得を切っているような「型」で表わされ、「これぞ浮世絵!」という描き方です。その上、お兼の姿は陰影感がなく、まさに「型」を貼り付けたよう・・・
 ところが、暴れ馬に目をやると、こちらには、西洋絵画のように濃淡の陰影がつけられており、馬の量感が表現されています。

 さらに、背景に目を向けると、山々や雲の描写は、西洋の銅版画のようであり、風景は西洋風遠近画法で描かれている。

 つまり、この絵には「和」と「洋」の異なる描法が融合しているのです。これは、描法的にはミスマッチというべきでしょうが、かえってその結果、まことに斬新、不思議にシュールな雰囲気が生まれています。

109-2.jpg
 近年の研究で、この絵は「西洋の書物の挿絵を参照にしている」ということが分かりました。(勝原良太氏、勝盛典子氏の研究)

 上図を見てください。
「馬」は西洋版『イソップ物語』の中の「馬とライオン」の挿絵から。馬の描き方がそっくりですね。但し国芳は、ライオンのところをお兼に変えています。
 
 また、背景の海や山なみ、雲などの描写は、1682年にオランダのアムステルダムで出版されたニューホフ著『東西海陸紀行』の中にある銅版挿絵から借用しているようです。もしかしたら国芳は自らこの本を所有していた可能性もあります。だとしたら、当時、貴重で高価な蘭書を、どのようにして国芳が入手したのか分かりませんが、彼の旺盛な研究心をうかがい知ることができます。

≪赤穂浪士の討ち入り図≫

 もうひとつ、ちょっと不思議な感覚を与える絵を見てみましょう。
109-3.jpg
 上図も、同じ頃に描かれた作品:「忠臣蔵十一段目夜討之図」。御存じ、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの場面です。
 雪が降り止んだ深夜、月明かりのもとで、赤穂浪士たちが吉良邸に侵入しようとする様子を、モノトーンの不思議な静けさの中で描いている。
 建物や通りは、西洋風の遠近法で表わされ、黒や灰色の濃淡による陰影がつけられて立体感がある。このような陰影法は、それまでの日本絵画の伝統にはない表現法です。

109-4.jpg 実は、この「討ち入り図」もまた、先ほど紹介したオランダの書物、ニューホフ著『東西海陸紀行』の銅版挿絵(右図)を参照していることが指摘されています。

 この挿絵の右側の建物は南国バタビアの領主館ですが、それをそのまま吉良邸に移し替え、そのうしろの109-5.jpgヤシの木は松の木に、領主館の前で前方を指さすカピタンは、浪士たちを指図する大星由良助(大石内蔵助)となっています。
 だから、この「討ち入り図」はどこか異国風で不思議な感じを与えるのです。
 
 大石内蔵助の指揮のもと、かねての打ち合わせ通りに、粛々とそれぞれの任務を遂行する浪士たち・・・人物たちの影が、静かな中にも緊張感を醸し出しています。

 しかし、全体図を見ると、月は右上に輝いています。つまり、月は吉良邸の向う側の空にあるので、塀の影や人物たちの影がこのようになるわけはありません。国芳もそれを承知の上で、討ち入りを前に、粛々と動く浪士たちの緊迫感を表現するために、絵画的効果を考えてこのような陰影をつけたのでしょう。

 かくして、この絵は、蘭書の銅版挿絵を借用しながらも、伝統的な「討ち入り図」には見られないシュールで斬新なものとなっています。

 次回も、歌川国芳が描いた不思議な感じの「風景画」を紹介します。

(次号に続く)

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浅草風土記 №6 [文芸美術の森]

浅草学校

          作家  久保田万太郎

        一

 ……学校の、門のほうを向いた教場の窓から、五重の塔の青い屋根のみえることをいったわたしは、それと一しょに、そこを離れた北のほうの窓から、遠くまた、隅田川の水に近い空をしらじらとのぞむことの出来たのをいわなければいけない。 ― 花川戸、山の宿、金龍山下瓦町(広小路の「北東仲町」をいま「北仲町」といっているように、そこもいまは「金龍山瓦町」とのみ手間をかけないでいっている)、隅田川に沿ったそうした古い町々が、そこに、二三町乃至五六町のところに静かに横たわっている。 ― 「馬遺」とそれらの町々との間をつらぬく広い往還に、南千住行の、「山の宿」だの「吉野橋」だのという停留場をもつ電車のいまのようにまだ出来なかったまえは、同じ方角へ行くガタ馬車が、日に幾度となくわびしい砂けむりをそのみちの上に立てていた。そうして、いまよりもっと薄暗い、陰気な、せせっこましいそのみちの感じは、そのガタ馬車の、しばしば馬に鞭を加える苛酷な駁者の、その腰にさびしく巻きつけられた赤い古毛布のいろがよくそれを翻っていた……とわたしは微かにおぼえている。
 だから、わたしの、学校で毎日顔をみ合せる友だちは、南は並木、駒形、材木町、茶屋町、(まえにいったように、すこしのところで、わたしの近所からはあんまり通わなかった)北はその花川戸、山の宿、金龍山下瓦町。― 猿若町、聖天町を経て、遠く吉野町、山谷あたりから来るものばかりだった。まれには「吉原」からもかよって来た。~というと、いまでもわたしの覚えているのは、まだわたしの尋常二三年の時分、運動場にならんでこれから教場へ入ろうとするとき、その水を打ったような中で、突然うしろから肩さきをつかんでわたしは列外に引摺り出された。そのまま運動場の真ん中に、一人みっともなくとり残された事があった……
 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、わたしはそのとき泣かなかった。なぜならどうしてそんな目にあうのか自分によく分らなかったから。それには、それまで、柔和しいというよりはいくじのないといったほうがほんとうの、からきしだらしのなかった、臆病だった、そのくせいたってみえ坊だったわたしは、いまだ嘗て、そうした恥辱をあとにもさきにもうけたことがなかったのである。そんなへまをしたことは一度もなかったのである。― たとえば夢ごこちに、茫然とただ、われとわが足もとをみてわたしは立っていた。
― やがて悲しさが身うちにはっきりひろがった ― ポロポロととめどなく涙がこぼれて来た。
 が、それをみてわたしのために起(た)ってくれたのが「つるよし」のおばァさんである。「つるよし」のおばァさんというのは、わたしと同じ級に女の子をよこしていた吉原のある貸座敷の隠居で、始終その子に附いて来ては、ともども一目学校にいた。外の附添いたちと小使部屋の一隅を占めて宛然「女王」の如くにふるまっていた。小使なんぞあごでみんなつかっていた。― その「つるよし」のおばァさん、「あの子はそんな子じゃァない、立たせられるようなそんな悪い子じゃァない ― そんな間違ったことってあるもんじゃァない」とわが事のようにいきり立ち、わたしをそういう事にしたその先生のところへその不法を忽ちねじ込んだものである。

        

 その先生、高等四年(というのは最上級のいいである)うけもちの、頬ひげの濃い、眼の鋭い、決してそのあお白い顔をわらってみせたことのない先生だった。学校中で最も怖い先生だった。その名を聞いてさえ、われわれは、身うちのつねにすくむのを感じた。
 ― いかに「小使部屋の女王」といえど、とてもその、どこにも歯の立つ理由はなかったのである。
 が、すぐにわたしは放免された。そのまま何のこともなく教場へ入ることを許された。
 ― 素直にその「抗議」が容れられたのである。
 勿論、わたしは、「つるよし」のおばァさんのそのいきり立ったことも、先生にその掛合をつけてくれたことも、そのためわずかに事なきをえたことも、すべてそのときは知らなかった。あとで聞いて不思議な気がした。 ― 同時にいまさらのように、そのとき不注意にわきみをするとか隣のものに話しかけるとかしたかも知れなかった自分をふり返ってわたしは赧然(たんぜん)とした。なぜなら「えらいんだね、『つるよし』のおばァさんは ― ああいう先生でもかなわないんだね、『つるよし』のおばァさんには」といった風の評判の一卜しきり高くなったから。 ― 当座、わたしは、その先生の眼から逃れることにばかり腐心した。
 が、そのずっと後になって、その先生にとって 「つるよし」のおばァさんは遠い縁つづきになっていることを、わたしは祖母に聞いた。なればこそ、先生、「小使部屋の女王」のそうした無理も聞かなければならない筋合をいろいろもっていたらしいのである。……そうと分って初めてわたしは安心した。祖母もまたわたしに附添って、そのあとでは二三年わたしより遅れて入学したわたしの妹に食ッついて、ときに矢っ張、ともどもその小使
部屋で日を消す定連の一人だったのである。
 ……ただそれだけのことである。が、ただそれだけ……といってしまえない、すくなくともそういってしまいたくないものを、わたしは、このなかからいろいろ探し出したいのである ― そこには、唖鈴だの、球竿だの、木銃だのをことさらに並べた白い壁の廊下……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。~青い空をせいた葭簀(よしず)の日覆(ひおい)が砂利の上に涼しい影を一面に落していた運動場……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。- 唱歌の教場の窓に咲いた塀どなりの桐の花……そのけしきがいまわたしの限に浮ぶのである。― そうしていま、煙もみえず、雲もなく、風も起らず浪立たず……黄海々戦の歌である……あなうれし、よろこぼし、たたかい勝ち輿百千々の……凱旋の歌である……そうしたなつかしいオルガンのしらべが夢のようにわたしに聞えるのである……
 女はみんな長い枚をふりはえていた。……男の生徒といえど袴をはいたものはまれだった……
 が、それから二三年して、わたしの高等科になった前後に、それまでの古い煉瓦の校舎は木造のペンキ塗に改まった。― 門の向きが変ると同時に、職員室も、小使部屋も、いままでより広くあかるくなった。― 時間をしらせる振鈴の音は以前にかわらず響いたが「つるよし」のおばァさんたちのすがたは再びそこに見出せなかった。
「すみだに匂うちもとの桜、あやせに浮ぶ秋の月……」
そうしたやさしい感じの校歌の出来たのもその時分だった。

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №53 [文芸美術の森]

 ド・ラ・メアの「とらえがたいあのひと」

        妖精美術館館長  井村君江

 アリス以後二十世紀に至るイギリスでは、さまざまな特色がある童話がたくさん書かれたが、その中で、もっとも幻想的な神秘的とも言える透明なファンタジィの世界を築き上げ、目に見えないものたちを生かしてきたのは、ウォルター・ド・ラ・メア(Walter de la Mare一八七三-一九三六)である。彼は詩人ブラウニングの血筋を引く作家であり、すぐれた童話作家、童謡詩人として『幼時のうた』の処女詩集以来、『孔雀パイ』を経て最後の『ああ美わしの英国』に至るまでの二十二冊の詩集で、標砂とした独自の詩界を創って現代イギリス詩壇に不動の位置を得ている。また小説家としても、長編『死者の誘い』(一九一〇)、『ヘンリー・ブロッケン』(一九〇四)や『小人の思い出』(一九二一)の長編のほか、『謎』や『ジエマイマ』など十六冊に及ぶ短編集や戯曲など、さまざまなジャンルに、さまざまな作風の作品を数多く残している。
 ド・ラ・メアの世界には、何か神秘的な幻想とも言える不思議な情調の深いがあるし、その特異な空間がときとすると人の心に、一種の恐怖に近い感情を引き起こす。だがそれはいわゆる幽霊の戦懐とも、魔女の異妖とも、吸血鬼や人狼の怪奇とも、まったく質を異にしたものである。彼は好んで人里離れた荒涼たる森深く建つ古い屋敷や、崩れた壁に蔦の嬰っ教会、草深い佗しい庭園等を舞台とするし、老人、小人、死より戻った人など、現実の生とは遠く隔たった人々を描きはするが、それらを単に恐怖の異常空間を作る効果を狙っての道具立てとして用いてはいない。土地や家という場所とその中の人物とが、相互に密接な浸透関係を持って独特の雰囲気をかもしだし、象徴的とも言える物語の世界を形作っている。
 彼の詩の世界には淡い夢幻の光の中に、真白い雪の上を髪なびかせて走る火の精(サラマンダー)-や、アラビアの真昼の木蔭を一人馬に乗っていく王子の姿や、月夜の丘にひづめの音をひびかせる騎士の影が、静かな銀色の光りにぬれ、変幻自在なリズムの響きにつれて現われてくる。短詩『騎士』を次に掲げよう。

  丘を越えていく
  騎士の音を聞いた
  月はけざやかに照り
  夜は静かだった
  騎士の兜は銀で
  その顔は蒼く
  騎士の乗る馬は
  象牙だった

 夢の向こう側の消息を語り伝えてくれるような美しい言葉は、他の国の言語に移すと崩れてしまうほど微妙なものを持っている。物語の世界も確かにミスティックな現実の条理の外の小宇宙を形作っていて、すぐに強い好奇心や喜びを引き起こす種類のものではなく、静かに心にしみとおってくるような印象を残すものである。

     『廃墟』
 一日の最後の色どりの
 燃える色彩がしだいに薄れていくと、
 冷たく寂しい廃墟のあたりには、
 コオロギがしきりに疇きたてる、石から石へと。
 すると黒ずんだ緑の上に散っていく
 妖精の群れが見えるだろう。
 キリギリスのようにキチキチと時きながら、
 アザミの綿毛が踊るまわりを妖精の足は踊る、
 やがて大きな金色の穏やかな月が
 妖精たちの小さなドングリの靴を染めていく。

 ド・ラ・メアの世界にはしばしば「耳を傾ける人」(リスナーズ)、「見知らぬ人」(ストレンジャーズ)、「さ迷う人」(ワンダラーズ)といった目に見えぬ者が、明るい緑の原を烏影のようによぎり、暖炉のそばでじっと耳を傾け、銀色の月に濡れた丘を越えて行く。しかしそれらは一種の超自然的な霊的存在(ゴースト、スペクトル、ファントム等々)であっても、いわゆる幽霊とも魅魅魅魅(ちみもうりょう)とも異なる。いわば「ゴースト」の語源的な意味に還元した「スピリット」(精神、霊)、「プレス」(呼吸、空気、風)といったものに近く、それが家、庭、部屋、廃墟など人間に関わりを持つすべての場所に遍在するのである。それは『廃墟』の詩にみられるように、フェアリー、ニンフと言ってもいいかも知れない。
 「要するに誰でもみな、本来は何者でしょうか。霊の群れなのです1それはちょうどシナのいれこの箱のようなものなのです-樫の木はもとは樫の実、その樫の実はもとは樫の木だったというようなものです。死はわれわれの前方にあるのでなく背後にある- つまり祖先なのです、どこまでもどこまでもさかのぼっていけば - 」とド・ラ・メアは言っているが、この霊はいわば一個の人間存在の奥深くあって祖先とつながるものであり、ある意味では人間の意識裡に存在する祖先の記憶の集合体とも言えるものである。そうした霊にとっては、死と生の境、夢と現実、昔と今といった時、霊の境界は単なる断絶を意味せず、物語においては霊はしばしば「墓」、「鏡」、「水」、「窓」といった介在物を通って自在に現実の人間と交流する。「なにものかが……影のようなものが……」と言われ、多くは不確かな形のままであるが、ときには手招きする不可思議な女性として、ヴェールをつけている神秘な女人として(『ヴェール』)、墓の中に眠る身も心も軽やかな婦人として(『墓』)、また夢の中をゆるやかに歩みを運ぶ美しき女人(『三本の桜の木』)として立ち現われてくる。/
 目には見えぬこれらのさ迷い人の多くは、女性の姿をとっている。もちろんこれは現実のある特定の女性の投影といったものでなく、いわば詩人の内面にある憧憶の客体化とも言える映像なのである。長編『地上に帰る』の中で、「とらえがたいあのひと」(Impossible  She)と呼ばれている、とらえんとしてとらえがたき人であり、望めども得がたき造かな女性であり、手に入れんとして不可能な女人像であって、人が絶えず到達しようとして求めてやまぬ未知の、理想の、完璧の、具体化とも言えよう。
 「かの女人は記憶であり、未知のものであり、地上の明るさであり、死の約束であり、さまざまな形と姿をとってわれわれに訪れてくるものである」と言われているように、シエリ1の「英知の美」、プラトンの「理想美」に近い。もっと具体的な姿を見ていくと、『地上に帰る(リターン)』では、二世紀前の死者の霊にのり移られて顔かたちが変わり、家族に見棄てられたローフォードの心を慰める唯一の女性、グライゼルとして現われている。「美しく妖しい霊」、「奇怪な夢のヘレン」、「奥深くも美しい暗い影に覆われた夢」、「夢の中で思い出した遠い記憶」、「母の思い出、会ったこともない友の顔」とさまざまに讃えている一方、「あの女は休む暇のない時の移り変わりのすべてを越えて、夜も昼も心を悩ますあの謎なのだ」と絶えずなにものかに駆り立てる衝動の源として恐れられているものともしている。『猿王族の三人』の中では、王子たちの旅の目的地、遥かな父祖の地であるティシュナ1の谷の女神の姿となっている。「口では言い表わせぬ不思議な秘密のしずかな国の女神」そして彼女が美しく悲しく創った神秘の力を持つ緑の髪の水の精(ウヲーター・メイドン)にもその面影は重ねられている。『ヘンリー・ブロッケン』では書物の空想の世界に旅立った主人公が、世界の果て〝悲劇の国″で巡り合うクリセードの姿となる。彼女は想像の海に浮かぶ舟に乗った不確かな人生そのものの象徴ともなっている。
 右の作品の他にも「とらえがたいあのひと」はさまざまな姿を取ってド・ラ・メアの世界に存在しているのであるが、共通した原型的なパターンを有しており、意識下の世界に存する原初的で普遍的な美・夢・理想・平和そのものを示してもいる。さらに限定していけば、男性の意識下につねに存する祖先から継承されてきた女性というものの集合的映像で、一種の神話類型的な理想像かも知れず、とすればユングの「アニマ」に類似性をみることができる。しかしユングの場合、この男性内部の意識的な女性仮像は、現実の次元にその実在を求める方向に働くのに対し、ド・ラ・メアの場合はつねに人間の感情や情熱の裡にあって、現実の次元を越えた彼方にまで人を駆りたてていく不滅の力を持った神秘的な存在なのである。意識下の世界は原型のままの古代の夢の堆積であり、想像力はそこからさまざまな映像を汲み上げ、すべてのものはそこから存在を得てくるとド・ラ・メアは考える。従って「とらえがたいあのひと」や目に見えぬ「耳を傾ける人」、「さ迷う人」たちは、作者の実在に深く根ざしたところ、いわば古代の、未知の、夢の深淵から立ち現われてくる理想化された美しきものなのである。それらはいわゆるおどろおどろしい幽霊や執念に捉われた怨霊、復讐に燃えた悪鬼などの抱く陰にこもった暗さとはおよそほど遠い。ド・ラ・メアの世界を空気のように透明とも言える神秘に澄んだ空間にし、一種の郷愁さえ漂わせた幻想の世界にしているのは、こうした目に見えぬ存在なのである。

 以上、イギリス児童文学の中に登場する妖精たちを概観してみたが、いわゆる「フェ」とか、フェアリー的なものよりも、チユートン系のエルフで、パック、ブラウニー、ゴブリン、ドワーフ(ノーム)といった地下に住み、どちらかというと歪んだ醜いできそこないの、明らかに現実とは次元を異にする世界から出てきた存在感を持った妖精たちが多く活躍している。
 また、バラッドや中世ロマンスに多い、妖精の女王や王にさらわれて妖精界へ行くオシーンやタム・リン、サー・ローンファルなどに見られるようなフェアリーランドへの旅という形で、妖精と交渉を持つのではなく、突然に妖精たちがこの現実の世界、日常生活の中へやって来るという形で、両者の交渉が始まるものが多くなっている。例えば、砂を掘ったらサミアッドが出てきたり、野原のフェアリー・リングの輪へ入ったら、パックが出てきたり、空から傘にのって妖精の乳母がやって来るという人間の現実の次元に向こうからやって来るのである。不意にやって来て、人間との交渉でさまざまな事件が起こるわけである。そして人間に親しい関係を持ち、魔術を使い人間の望みを実現させてくれたりするが、サミアッドは願いごとをかなえてくれても、その魔力は日暮れになると消えてしまうというようにマジック・パワーは乏しく弱くなってきている。また、ホビットに見られるように、魔力は修練と努力によって獲得しなければならないことになっているものが多い。ボロワーズになるとまったく魔力を持たない。ただ小さいというハンディキャップを背負った人間のミニアチュアにすぎず、あるものは昆虫や鳥と同じように羽がはえた姿で、なんらマジック・パワーを持たない野原にいる昆虫と同格の生きものになってしまっている。
 科学万能の時代であり機械文明の今日、合理的な人の頭脳はこの現実の次元の外に「中つ国(ミドル・アース)」や妖精の国が存在するとは信じがたくさせている。従って、オシーンやタム・リンのように白馬に乗って妖精の国へ行くという期待よりは、今この現実の目の前の緑の中から不意にパックが出てきたり、足もとの砂の中からサミアッドが現われたりしてほしいと期待する。ありえないことであっても、後者の方が可能性があるわけで、時空を越えて他次元へ、という期待はタイム・トンネルをくぐり、ロケットで宇宙空間を越えるというSFの方向へいくのかもしれない。魔法の杖をふるうと願望が現実になったり、カーペットで空を飛ぶという魔術、魔法のカへの過信は弱くなり、作家たちもそれを道具として用いなくなってきてはいるが、しかし人間の原始本能の中には、魔術や呪法に対する憧れは消えることなく続いているのであり、時空の制限を越え、他次元へ飛躍したいという願望はかえって強くなっていると言えよう。そうした願望を実現させるのがイマジネーションの力である。イマジネーションは単なるファンシー(空想)ではなく、クリエーション(創造)に続く構成力を持ったもので、第二の世界を作るものである。この第二の世界の中に、フェアリーは求められる生きものであり、形を変え姿を変え、役割こそ違っても、次々と生み出され活躍していくものである。新しい妖精はこの線上に今後も次々と生み出されていくであろうと思う。人々が夢を見ることを忘れない限り。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №236 [文芸美術の森]

胸像 2点 1952年

      画家・彫刻家  石井鶴三

1952胸像.jpg
胸像 1952年 (202×142)
1952胸像2.jpg
胸像 1952年』(179×130)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』 形文社

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武州砂川天主堂 №28 [文芸美術の森]

明治十年 4

         作家  鈴木茂夫

 夕食をおえてしばらくすると、島田家の二つの座敷には、一二十人ほどが集まってきた。「異人さんがキリシタンの話をするそうだ」という知らせが伝わったからだ。
 泰之進が挨拶した。
 「皆の衆、今夜は大勢集まってくれてありがとうございます。このところ、俺んとこの角太郎が、キリシタンの話を聞いてきてなかなか面白いというから、みんなにも聞いてもらうべえと声をかけさしてもらったんだ。キリシタンと言うのは、西洋の宗旨だ。信心のことだ。みんなは寺の檀家だ。キリシタンに宗旨替えをするのがいいか、どうか、それぞれの思いはあることだ。堅苦しいのは抜きにして、どうか気軽に話を聞いて欲しい。ここにいるキリシタンの先生は、テス、テスト……、舌がもつれちまう……」
 「父ちゃん、テストヴィドって言うんだよ」
 「わかった。テストビドでいいかい。」
 ジェルマンが手を挙げる。
 「泰之進さん、私の名前はテストだけでもいいですよ」
 「そいじゃ、テストさん話を聞かせて」
 「わかりました。みなさん、今晩は、私がテストです。神様の話をいたしましょう。神様の愛をお伝えしたいと思います。神様は、私たちのお父さんとお母さんを敬えと教えられています。神様の思召しによって二人が結ばれ、私たちはその子どもとしてこの世に命を授かることができたからです」
 四十代の男が言った。緊張しているのだろう、顔が少しこわばっていた。
 「神父さん、それはあたりまえのことじゃないですか。キリシタンは普通のことを言うんだ。それは孝行のことじゃないか」
 「孝行だと考えても間違いではありません。キリスト教は、むずかしい教えではありません。心正しい人には、すぐに理解できる教えです」
 「敬(うやま)えばそれでいいんですかい」
 「そして自分を大切にするように、隣にいる身近な人を愛しなさいと言われます。身内の人はもちろん、隣に住んでいる人もです」
 「俺は二番祖に住んでいるんだが、隣近所を愛するというのが分からない」
 「みなさんは、愛と言う言葉をあまり使いません。しかし、キリスト教は愛の教えです。愛というのは、男と女のことだけではありません。愛とは同情と慈(いつく)しみと考えるとどうでしょう。隣近所の人と助け合い、仲良く暮らしていくことです」
 「親類や隣近所とのつきあいは大事にしなきやならねえのはもっともだよ」
 「神様はさらに、もし身近な人が貧しければ、自分の持ち物を売って、貧しい人に施しなさいと、言われています。隣にいる身近な人が困っていれば、助けるという心組です。自分のことだけでなく他人のことも思いやりなさいという心遣いです。キリスト教の愛とは、そのことを指しているのですよ」
 「儒教も同じように言っている。布施(ふせ)がそれだ。キリストさんとお釈迦さんは、どちらが偉いんですかね」
 「儒教も優れた教えです。悌教とキリスト教の間で、人の生き様の考え方については、それほどの違いはないでしょう。しかし、その根本の考えはそれぞれに異なります。どちらが優れたものかを決めるのはむずかしいでしょう。そうではなくて、あなたが何を信じるかです。私自身は、主イエス・キリストが、優れていると信じています」
 「キリシタンは、俺にも分かるものなんだ」
 男の顔から緊張がほどけていた。
 「人と人との付き合い方を考えてみましょう。もし人があなたの右の頬を打ったら、左の頬を差し出しなさいと軍っ常葉があります」
 「神父さん、それはひどいよ。他人に叩かれたら、ずっと叩かれろと言うのは」
 三十代の主婦が叫ぶように言った。
 「目には目を、歯には歯をという言葉があります。これは乱暴をされたら、同じように打ち返せと言うことです。これが世間の考え方です。でも、そのようにすると、お互いがいつまでも、憎み合うことになるでしょう。ところが神様は、違います。神様のはたらきは、善人も悪人も、お日様の光で包み、同じように雨を降らせます。神様は、人が神様のはたらきと同じような心をつくることを求めているのです。右の頬を打たれた時、殴り返さないで、左の頬を差し出すのは神様の心と同じだと言われているのです。つまり、神様は・人の心の憎しみが、幸せをもたらさないと教えてくれているのです」
 「なるほどね、理屈だよ。あたしが亭主とけんかすると、亭主があたしを叩くこともある。その時、あたしは、大人にならなきやいけないと、がまんする。そうすると、亭主も気持が落ち着き、手を出した俺が悪かったと頭を下げる。神父さん、こんなところかい」
 ジェルマンは苦笑した。
 「間違いじゃありません。大筋ではその通りです」
 「神父さん、俺もちっとばかし、聞きたいことがある」
 二番組の組頭内野藤右衛門が座り直した。
 「キリストさんの神様には、どんな御利益(ごりやく)があるのかね。俺たちは、御利益のある神様や佛様に、お願い事をする。死んで極楽へ行くには、阿弥陀さん、農作物が豊かに実るにはお積荷さん、病気の回復には、お薬師さんなどがある。キリス主んの神様は、一人で何でも引き受けちまうのかい」
 「すみません、私は御利益という言葉を聞いたことはありますが、正確な意味は分かっていません。ですから、教えて下さい。御利益とはどんなものですか」
 「改まって御利益とは何だと説明するのは、むずかしいよ。言で言えば、それは神様や佛様の特別のはたらきのことさ。たとえば、家族の誰かが熱で苦しんでいる時、お薬師さんにお願いすると、熱が引いて、元気な体に戻るようなことだね。それには、それなりのお賽銭(さいせん)を出し、丁寧に拝むんだよ。その拝む回数が多いほど効果があるといわれている」
 ジェルマンは思う。日本には実に多くの神々と悌たちがいる。人びとは、必要に応じてそれらを使い分けているようだ。この人たちに、神は一つであることを理解してもらわなければならないと。
 「藤右衛門さん、それは私たちとお店の関係に似ていませんか。私たちは、お金を払ってお店で欲しい物を買います。日本の神様や悌様に、お賽銭というお金を払うと、望むことがかないますか」
 「店で物を買う時は、物の値段分の金を払えば、物は手に入る。しかし、たくさんのお賓銭を出したとしても、御利益を頂ける保証はないね。第一、お賽銭の額と御利益とのあいだに、はっきりとしたきまりはない」
 「キリスト教の神様に、御利益はありません。御利益はみなさんが神様や彿様に、特別なことをしてもらいたいと期待することです。しかし、私たちの神様は、全ての人に平等です。ですから、人が=用なお願いをしても、それは実現しません」
 「御利痛がないのなら、キリシタンは、身内の誰かが病気になると、その回復を祈らないのかね」
 「そうではありません。私たちは、病気になった家族のために祈ります。ですが、神様の御憐れみとお恵みを願って祈り、神様のお計らいにまかせるのです」
 「祈るとどうなるんだね」
 「病気が回復するかどうかは、全て神様のはたらきによります。ただ私たちは、神様を信じ、神様のみ心のままにまかせ、身近な親しい人のために祈るのです」
 「全て神様におまかせする信仰なんだね」
 「その通りです」
 「なるほど、神様に帰依(きえ)するんだ」
 「人間心を捨てちまうんだ」
 会衆の中から二三人の声が出てきた。
 ジェルマンは思う。話は理解されているんだ。今交わされている問答は、キリスト信仰の根本にかかわることだ。キリスト信仰とは何か。人のさまざまな思いを捨て去り、全てを神様のみ心にゆだねることだ。それは、神様のみ心を抱いて新しく生きることを意味している。

 我キリストと借に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり           
              ガラテヤ人への書第二章第二十節

 ジェルマンは、神の思いを伝える喜びに胸が浸された。少しずつ、↑人ずつに神の声は届いている。
 話題は尽きない。時計が十二時を打った。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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浅草風土記 №5 [文芸美術の森]

観音堂附近

       作家・俳人  久保田万太郎

      一 

 それはただ在来の人形焼……で思い出したが、そのずっと以前、広小路の「ちんや」のならびにそれの古い店があった。夫婦かけむかいでやっていたが、そろって両方が浄瑠璃好き、ときどきわたしでも細君が三味線をひき、そのまえで主人の首をふりふり夢中でそれを語っているのを店のかげにみたことがあった。しかく大まかなせかいだった。電車も通らず、自動車も響かず、柳の菓のしずかに散りしいたわけである。― 前にいうのを忘れたが、その時分まだ「ちんや」は牛肉屋をはじめなかった。ヒマな、客の来ない、景気のわるい天聖経屋だった。……その人形焼を、提燈、鳩、五重の塔、それぞれ「観音さま」にちなみあるものに仕立てて「名所焼」と名づけたにすぎなかったが、白いシャツ一つの男が店さきで、カンカン倣った炭火のまえにまのあたりそれを焼いてみせるのが人気になったのである。そうして長い月日のうち、とうとういっぱしの、そこでの名代の店の一つになったのである。-ということは前にいった、あらわにそれを模倣する店の一二 軒といわず続いてあとから出来た奴である。
 こうして、いま「仲兄世」に、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の、むかしをいまにするよしもなくなったのは、ひとえに「時代」の好みのそれだけ曲折に富んで来た所以である。……「梅林堂」の看板娘おくめさんの赤いたすきこそ、いまやついに完全な「伝説」になり了った「武蔵屋」の、震災後、いままでのいうところの「ぜいたくや」を止め、凡常な、張子の
鎧かぶとを軒にぶら下げ、ブリキの汽車や電車をならべ、セルロイドの人形やおしゃぶりをうず高く積みあげた、それこそ隣にも、そのまた隣にも見出せるような玩具屋になり了ったことは、わたしに再び、「仲兄世」の石だたみの上にふる糸のような春雨の音を聞く能わざらしめた感がある。わたしは限りなく寂しい。そこで出来る雛道具こそ榎のかげにくろい塀をめぐらした「万悔」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥、長持長火鉢のたぐいから旅、みそこし、十能、それこそすり鉢、すり粉木の末にいたる台所道具一切の製品、それは「もちあそび」とはいえない繊細さ精妙さをもつものだった。しかも其繊細さ精妙さの内に「もちあそび」といってしまえない「生命感」が宿っていた。堅実な恥々した「生命感」が潜んでいた。― しかも、うちみのしずかに、さりげないこと、水の如きものがあった……
 そこのそうしたさまになったと一しょに、伝法院の横の、木影を帯び、時雨の情(こころ)をふくんだその「細工場」は「ハッピー堂」と称する絵葉書屋になった。 ― その飾り窓の一部にかかげられた「各博覧会賞牌受領」の額をみて立つとき、わたしのうなじにさす浅草の夕日の影は、いたずらに濃い……
 「伊勢勘」で出来る品ものは「子供だまし」という意味での「大人だまし」である。絵馬だの、豆人形だの、縁起棚だの、所詮それらは安価な花柳趣味だけのものである。かつての「武蔵屋」のそれが露にめぐまれて咲いた野の花なら「伊勢勘」のそれはだまされて無理から咲いた「室(むろ)」の花である。でなければ糊とはさみとによって出来た果敢ない「造花」である。……わたしにいわせれば、畢寛それは 「新しい浅草」 の膚浅な「純情主義」の発露に外ならない……
 が、一方は衰えて一方はさかえた。― いつのころからか「助六」と称するそれと同じような店まで同じ「仲見世」に出来た……

     二

 だが、「大増」のまえの榎のしげりの影がいかに貧しくなっても、絵草紙屋がいかに少くなっても、豆屋が減っても、名所焼屋がふえても、「伊勢勘」がさかえても、そうして「高級観音灸効果試験所」の白い手術着の所員がここをせんどのいいたてをしても、大正琴屋のスポーツ刈の店員がわれとわが弾く「六段」に聞き惚れても、ブリキ細工の玩具屋のニッケルめっきの飛行機の模型がいかにすさまじく店一はいを回転しても、そこには香の高い桜湯の思い出をさそうよろず漬物の店、死んだ妹のおもかげに立つ撥屋(ほろや)の店、もんじ焼の道具だの、せがんでたった一度飼ってもらった犬の首輪だのを買った金物屋の店……人形屋だの、数珠屋だの、唐辛子屋だの……そうしたむかしながらの店々がわたしのまえに、そのむかしながらの、深い淵のようなしずけさをみせてそれぞれ、残っている。― が、それよりも……そうしたことよりもわたしは、仁王門のそばの、「新煉瓦」のはずれの「成田山」の境内にいま読者を拉したいのである。
 岩畳(がんじょう)な古い門に下ってガラスぼりの六角燈寵。― その下をくぐって一ト足そのなかへ入ったとき、誰しもそこを「仲見世」の一部とたやすく自分にいえるものはないだろう。黒い大きな屋根、おなじく黒い雨樋、その雨樋の落ちて来るのをうけた天水桶、鋲をうった大きな賽銭箱。― それに対して「成田山」だの「不動明王」だのとしたいろいろの古い提燈……長かったりまるかったりするそれらの越せた朱の色のわびしいことよ。金あみを張った暗い内陣には蝋燭の火が夢のように瞬いている。仰ぐと、天井に、ほうぼうの講中から納めた大きな額、小さな絵馬がともに幾年月の煤に真っ黒になっている。納め手拭に梅雨どきの風がうごかない……
 眼をかえすと、狛犬(こまいぬ)だの、御所車だの、百度石だの、燈龍だの、六地蔵だの、そうしたもののいろいろ並んだかげに、水行場(すいぎょうば)のつづきの、白い障子を閉めた建物の横に葡萄棚が危く傾いている。 ― そのうしろに、門のまえの塩なめ地蔵の屋根を越して、境内の銀杏のそういっても水々しい、したたるような、あざやかないろの若葉につつまれた仁王門のいただきが手にとるようにみえる。 ― みくじの殻の数知れず結びつけられたもくせいの木の下に、鶏の一羽二羽、餌をあさっているのも見逃し難い……
 左手の玉垣の中に石の井戸がある。なかは土にうもれて明和七年ときざまれたのが辛うじてよめる…=
 金山三宝大荒神、 ― それに隣った墨色判断!門の際につぐなんだ乞食……
 わたしはただそういっただけにとどめよう。 ― お堂(観音さまのである)のまえの水屋の、溢れるようにみちみちた水のうえにともる燈火のいまなおランプであることを知っているほどのものでも、ときにこの「成田山」 の存在をわすれるのをわたしはつねに残念におもっている。 ― これこそ「仲見世」でのむかしながらのなつかしい景色である。
          ――――――――――――
 ……金龍山浅草餅の、震災後、いさましい進出をみせたのが、商売にならないかしてたちまちもとへ引っ込んでしまったのをまえに書きはぐった。lIIIおそらく後代、その名のみを残してどんなものだったかと惜しまれるのがこの古い名物の運命だろう。

『浅草風土記』 中公文庫



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №108 [文芸美術の森]

          奇想と反骨の絵師・歌川国芳

           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第3回 「武者絵の国芳」

 幼い頃から絵を描くことが好きだったという国芳は、15歳の時、当時、多くの門弟を抱える浮世絵界最大のグループ「歌川派」総帥・歌川豊国のもとに入門、絵師のスタートを切りました。
 しかし、多くの兄弟子たちの蔭で、なかなか才能を発揮する機会が得られず、しばらくは困窮の時期が続きました。

 国芳31歳の時、版元・加賀屋吉右衛門に起用されて「水滸伝」シリーズを描き、その力感あふれ迫力ある絵は世間の評判を呼んで大ヒットしました。

108-1 のコピー.jpg その後に描いた国芳の豪快な「武者絵」はますます評判を呼び、「武者絵の国芳」として画名が高まりました。

 右図は、天保10~14年頃、国芳43歳頃に描いた「鎌田又八」。油がのり切った頃の国芳の「武者絵」です。
 場面は、剛力無双の鎌田又八が、巨大な化け猫を退治する場面。

 躍動感あふれる構図ですが、又八は涼し気な模様の浴衣を着て、赤い帯を締めている。
 画面いっぱいに秋海棠(しゅうかいどう)の花が咲き乱れ、壮絶な格闘シーンなのに、どこか清新な感じがあります。

108-2.jpg

108-3 のコピー.jpg 次に、右図は金太郎を描いた国芳の絵ですが、これも「武者絵」のジャンルに入れてよいでしょう。

 これは、天保7年頃、40歳頃の国芳が描いた「坂田怪童丸」。江戸時代には、金太郎は「怪童丸」と呼ばれていました。
 金太郎は、足柄山で山姥(やまんば)を母親として育ち、のちに源頼光に見いだされて「坂田金時」の名を給わったという荒武者です。
 左下の四角い枠内には「怪童丸は父無く、足柄山の老婆、夢中に赤龍と通ずるを見て孕む子なり・・・」とあり、金太郎は「赤龍」の化身ということになります。
 すなわち「赤」は古来「魔除け」「疫病除け」の色であり、「龍」は「水神」ということなので、金太郎の「鯉つかみ」は、子どもの元気な成長を祈る絵として喜ばれたモチーフでした。

 国芳が描いているのは、まさに、足柄山で野生児として育った金太郎が、滝登りの鯉をつかみ獲ろうとしている場面です。
 「金太郎」は、国芳が好んで描いたモチーフのひとつですが、この絵は、国芳の金太郎を描いた作品群の中でも、傑作とされる作品です。

 滝を登ろうと躍動する巨大な鯉を、全身の力を込めてつかみ獲ろうとする野生児・金太郎・・・まことに生気みなぎる絵ですね。
 金太郎と鯉には、上から流れ落ちる滝の水が襲いかかり、白いしぶきが画面いっぱいに飛び散っている。これが華やかな趣をそえています。

 国芳の色彩感覚にも注目!
 金太郎の身体の「赤」と水流の「青」が鮮やかな対比をなし、実にモダンな色彩感覚を感じさせます。

108-4.jpg

 鯉の頭部をクローズアップで見ると:
 黒や灰色、茶褐色のグラデーションをつけながら精緻に描き、生きた魚のぬめぬめした感触まで伝わってきそうな描写ですね。

 勿論、このような手の込んだ精緻な浮世絵版画には、絵師のみならず、彫師と摺師の超絶技巧も発揮されており、優れた腕前を持つ三者の技が一体となった時に名作版画は生れます。

 浮世絵師としての国芳の特徴は、北斎とならんで、浮世絵の様々なジャンルに積極的に挑戦した絵師だったということです。

 次回は、国芳のそのような作品を紹介します。

(次号に続く)


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子規・漱石 断想 №3 [文芸美術の森]

百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」  松山子規会 栗田博行(八荒)
  (再度予定変更。当記事、8月末まで掲載します。)

おことわり
   もう半世紀近く昔のことになります。大江健三郎さんから「子規をアクチュアルに」というアドバイスを戴いたことがありました。それは子規論だけでなく、筆者の仕事人生に影響するような指針となった気が、今しています
  今回からは、日清戦争従軍という行為の子規の心底にあったものを追及する旨予告しましたが、三月三日の大江さんのご逝去にともない、上記の内容に変更いたします。
 昨年四月、筆者が松山子規会に入会に寄稿した文章で、後半に大江さんの子規観に触れています。大江さんは、坪内捻典さんや司馬遼太郎さんとともに、子規を日本人の精神史に重要なひとりとする方でしたが、筆者が企画したNHK松山時代の子規関連番組に度々出演してくださり、懇篤なご指導をたまわったのでした。
………………………・………………………………………………………………
百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」 (松山子規会誌174号・寄稿)

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 もう四十年を超えて昔のことですが、NHK松山局放送部に勤務していた私は、「松山局開局四十周年」「子規記念博物館開館」記念と銘打って、えひめ教養講座「人間・正岡子規」というシリーズを企画・提案しました。企画は採択され、教育班という五人のチームが二年間制作を担当しました。
 昭和五十六年一月の第一回放送を、「月給四十円―墓碑銘に込めたもの」と題したのでしたが、その番組は神奈川県が主催した地方の時代映像祭というイベントで特別賞を受賞したのでした。「文芸・教養」ジャンルで講座と銘打ち、演出形式としても講師・坪内稔典さんと福本儀典アナウンサーの対談という地味この上もない三〇分のローカル番組が、一九八〇年代という時代の中にあってプライズを授かつた点が、ユニークだったと思います。そのような地味な作品の受賞は、子規という存在が、時代を超えて日本人に訴える力を持っていることのあらわれの一つだったと、今もつくづくと思っています。

ご承知のとうり、わずか百七文字からなる子規の有名な自筆墓碑銘は、なぜか「月給四十円」と結ばれています。本名と筆名を小気味のいいリズムでならべて自分の生涯を最簡潔に まとめ、その上で、胸張って宣言するように「日本新聞社員タリ」と結んだ子規は、「明治三十□年□月□日没ス 享年三十□」とまで書き加えた上で、なぜもう一言「月給四十円」と書き足したのか ? 3-2 のコピー.jpg

 子規は知らないことだったでしょうが、親友の夏目漱石は熊本の五高で百円の月給をとっていたころの、その額なのです。それをなぜわざわざ、自分の生涯をわずか百七文字にまとめた文章の結びの言葉にしたのだったか。対談は、その疑問を中心の主題として展開したのでした。

 月一回二年にわたったこのシリーズには、坪内さんと平行して司馬遼太郎さんも、「『愛媛の人に子規の人間性をアピールする』というような企画ならいくらでも協力する」と言ってくれ、シリーズの講師として坪内さんと交代で連続出演してくれることになりました。
 こちらは司馬さんのひとり語りでもあり、各回の主題の決定もお話の流れも司馬さん任せだったのですが、その第一回で司馬さんも「月給四十円」の結びに触れていました。その中で、ニッコリと笑顔を浮かべなながら「半紙に余白ができて…つい、武家の俸禄意識が出たのかな」と語った司馬さんの笑顔が今も思い出されます。
 それはそれで司馬さんならではの大人の解釈として今も私は好きなのですが、坪内さんと制作チームで組み立てたお話は、また別の角度に掘り下げたものになりました。 

 若い日の子規は、必ずしも「金銭」に関してきちんとした態度を持った人間ではなく、「人の金はおれの金といふやうな財産平均主義」(仰臥漫録)を標榜し、友人・夏目漱石に「恩借の金子、まさに当地にて使い果たし候」3-3 のコピー.jpgといった手紙を書いていたりもする、明治のおおらかな一書生であつたことを、一旦紹介します。 

 その上で、切実で深刻な体験をいくつも重ねた後、「ある雪の降る夜、(日本新聞)社より帰りがけ蝦暮口に一銭の残りさへなきことを思ふて泣きたい事もありき(略)、以後金に対して非常に恐ろしきような感じを起こし 今までにはさほどにあらざりしがこの後は一、二円の金といへども人に貸せといふに躊躇するに至りたり」と記すにいたる子規の変化を押さえていったのです。
 金銭観の成長を通して、青年から大人への子規の生活人としての成熟が進行したことを指摘したわけです。そして、東京根岸の「3DK」で、母・妹とのささやかなくらしの自立を「日本新聞社員」として成し遂げた安堵と小さな誇りが、「月給四十円」には込められている、と結論したのでした。
3-4.jpg 「俳聖にして文学史上の巨人」とだけ思い込んでいた「あの人」に、市井に生きる万人に共通のこんな面があつたのか…寄せられた反響にはそんな感想が、共通して溢れていました。授賞式で、審査員の一人・大島渚さんが「栗田さん、『父の墓』のところで泣いちやったヨ」と声をかけてくれました。子規には珍しいこの新体詩で、命の残りを想いはじめた子規は、家名を上げることもなく、父の墓を草生すままに置くことになりそうな自分を予感して、「父上許し給ひてよ。われは不幸の子なりき」と繰り返しています。福本アナウンサーの朗読の力と、夜の正宗寺の小さな父隼太のお墓の映像が相侯って、そのリフレインは、墓前で慟哭する子規の姿を感じさせるような強いシーンになっていました。
 坪内稔典さんは、早世した父の記憶を持たず、人聞きだけで「大酒家にして意地悪」「花火遊びの末に火事を出したひと」などと若書きしていた子規が、松山藩の下級武士として明治維新に前後する時代の中を死生した父隼太の、「つらさと鬱屈」に気づき、共感できるまでに成長していた証として、この新体詩を引用したのでした。

 そして司馬さんです。司馬さんの第一回は「子規と金銭」と題されていました。その中で司馬さんは、「月給二十五円をくれる」ことに迷いを見せて朝日新聞への転社を相談した弟子・寒川鼠骨に、子規が、「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭したというエピソードを、愉快極まりない表情で話されました。
 司馬さんも、坪内さんとアプローチは違っても、「日本新聞」の社員として病床から大きな仕事を成し遂げながら、「月給四十円」であることを「以て満足すべき」と記した子規の心意を、日本人の生きる姿勢の上で大切と見るという点で、そっくりだったのです。

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 投資家たちの投じる巨大なマネーが世上を揺るがせ続け、一方では仕事に就かない(就けない)大量の若者達があふれたりもする…番組を放送したころからしばらくしてオイルショックに見舞われもした日本でした。時代のそんな潮流の中で、司馬・坪内おふたりとも「仕事と金銭への日本人のあるべき態度」という根本的な次元で子規の3-7 のコピー.jpg生き方に焦点をあてて、お話の内容を組み立てられたのでした。

 司馬さんの最晩年(平成八年)のころ、ニッポンは戦後何回目かの土地バブルを迎えていました。「これはイカン」と悲鳴をあげるように発言する司馬さんを、週刊誌などでよく見かけました。司馬さんがなくなった日に新聞に発表された「日本の明日を作るために」という文章は、こう結ばれていました。 

      ・・・日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地
      面なのである。その地面を投機の対象にして物狂
      いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題で
      あるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しい
      のは、 
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 たとえば、マックス・ウェーバーが一九〇五年
 に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本
 主義の精神』のような本が、土地論として日本
 の土地投機時代に書かれていたとすれば、いか
 に兇悍のひとたちも、すこしは自省したにちが
 いなくすくなくともそれが終息したいま、過去
 を検断するよすがになったにちがいない。…略
  土地を無用にさわることがいかに悪であった
 かを思想書を持たぬままながら ―  国民の一人
 一人が感じねばならない。でなければ、日本国
 に明日はない。一九九六(平成八年二月十二日)

 明治三十年代、後輩の若者に「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭した人間子規を、「この上もなく愉快」といった表情を浮かべて語りかけた司馬さんは、その同じハートから、生涯の最後にこんな悲痛な叫び声を上げていたのでした。「でなければ、日本国に明日はない。」…とまで。
 司馬さんが、日本人への遺書のようにこんな言葉を残していたことを知った後、司馬さんが愛して止まなかった子規が、フランクリンの伝記を読んでいたことを知り、驚いたことがありました。
 年代から言って、司馬さんのいう「思想書」=「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のような本」に子規が接したことはあり得ないのですが、マックス・ウェーバーがその説を打ち立てるひとつの源としたフ3-9.jpgランクリンの伝記は、すでに原文か翻訳されていたのか、子規の枕元に届いていたらしいのです。
 節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実などの徳目への努力を語ったフランクリンについて、最晩年の病床にあった子規はこんなことを公言していたのでした。

「…日本に之を読んだ人は多いであろうが、余の如く深く感じた人は恐らく外にあるまいと思ふ。」 
      (「病床六尺」・明治三十五年九月一日)

   実は、このえひめ教養講座「人間・正岡子規」準備の段階で、「子規を、アクチュアルに読み解きたいですね」と、大江健三郎さんにアドバイスを受けたことがありました。坪内さんと平行して出演するもう一人のシリーズ講師として、司馬さんの前に出演交渉をした時のことでした。前々年・昭和五十四年に、松山局発全国向けのETV番組で「私の子規」と題して子規の生涯を語っていただいたことがあり、「人間・正岡子規」シリーズはその経験から思いついた面がありました。そこで、臆せず厚かましく再度の出演の打診をしたのでした。大江さんは「愛媛ローカルでシリーズとして継続的に、子規のことを…」という企画意図に賛意を表明してくれた上で、「私は前回の出演で語り尽くしました」として再度の連続出演は断られ、その上で二つのことを咳かれました。

3-10 のコピー.jpg 一つは「子規を、アクチュアルに取り上げたいですね…」。もう一つは「もし、子規が今生きていたら、司馬さんのような人じゃないかな…そうだもう一人の出演者、司馬さんにお願いしてみたら…。」と。
 それは、われわれ(松山局制作課教育班の五人)が、司馬さんへの出演交渉を思い立てたきっかけとなりました。坪内さんについては、大江さんははじめて知る人のようでしたが、こちらが持参した坪内さんの子規論の本を物凄いスピードでめくりながら、「いいですね! いいですね!」と熱く共感される風でした。

 後日、大江さんは 前のETV番組「私の子規」出演の時用意された原稿を加筆訂正され、雑誌「世界」に発表されていたことを知りました。そのタイトルは、「子規はわれらの同時代人」となっていました。「子規を、アクチュアルに」とは、そういう事だったんだと納得したことでした。今もなお、坪内・司馬・大江、お三方の子規をめぐる発言の深いところでの一致に、感慨を禁じえません。

 もう一つご紹介しておきたいことがあります。松山市立子規記念博物館の開館は、昭和五十六年四月でした。それに合わせて、松山市の方々が開館記念講演として文芸家協会会長の山本健吉さんを招待されていました。ご紹介してきた「えひめ教養講座『人間・正岡子規』」は、それに先立つ一月からスタートしていましたが、それを知って、NHK松山の協賛事業としての講演を新たに思い付き、司馬遼太郎さんと大江健三郎さんにも「いかがでしょう…」とお願いの打診をして見ました。お二人ともこの依頼を快諾してくださいました。松山に子規記念博物館が3-11 のコピー.jpg開設される意義の大きさをそれだけ感じ取って下さったのだと思います。

 大江さんの講演は「若い人への子規」と題され、会場の若者に、子規が愛着した「せんつば」(八注・箱庭)を作ってみることを呼びかけられたのが印象的でした。日清戦争従軍で広島にいた時自殺してしまった従弟の藤野古白を追想する「古白遺稿」の中で、子規は「せんつば」について古白がしたことをひと言、次のように回想しています。

     ・・・ある時古白余の家に来りて、余が最愛のせんつば(函庭の顆)に
      植ゑありし梅の子苗を盡く引き抜きし時は怒りに堪へかねて彼を打
      ちぬ。母は余を叱りたまひぬ。

3-12.jpg 幼い日、「妹にかばってもらったくらいの弱虫でございました」と八重さんが回想する男の子だった「ノボさん」が、従弟へのこの時の乱暴は、八重さんに叱られるほどだったことが、記録されています。
 このわずか数行に着目され、開館記念の子規博の講演会場に松山の若い人も混じるであろうことを予想して、演目を「若い人への子規」とし、「せんつば」作りの試みを提案された大江健三郎さんでした。
 「せんつば」→ 子供の箱庭→ミクロコスモス→地球と宇宙。そんな風に連想が働いて、いま国連が人類全体の課題としてびかける「SDGs(持続可能な開発目標)」と、大江さんの「せんつば」をめぐる子規のお話が通じる点があると感じています。

  司馬さんの方は、「子規雑感」と題して、子規が成し遂げた俳句・短歌・文章の革新は、文芸の世界を超えて日本の近代にとって大事な「写生の精神」=リアリズム=の創始だったと論旨を広げられました。そして講演を、   「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。」と述べ、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。

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絶筆三句(子規記念博物館像)

   ところが司馬さんの「坂の上の雲」の子規の死の場面では、碧梧桐が「君が絶筆」で書きとめたあの糸瓜三句を書き継ぐ壮絶な姿が、実は完全に省略されています。その夜当番だった虚子の眼で子規絶命の姿は描かれ、その描写の中に「子規は辞世をつくらなかったが」という言葉があります。
 どういう事なのか疑問が湧くのですが、司馬さんは、この開館記念講演でその理由を明かしてくれたと思っています。締めくくりの言葉の直前にこんなことを言っておられたのです。
 「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。
 司馬さんは子規の絶筆三句を書き継ぐ姿を、死への覚悟の表れというより、「あと二三分」の命を生ききる人間の営みと感じ取っておられたのだと思います。だから「子規に、絶筆はあっても、辞世はない」と……。講演は、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。
 平成8年、司馬さんの訃報が飛び駆った中で、病院に向かう途中での「頑張ります」が、最後の言葉だったことを知りました。
 開館記念講演で来松された山本健吉・司馬遼太郎・大江健三郎お三方の鼎談も企画・放送しました。司会役を大江さんに引き受けてもらいましたが、そのタイトルを「いま子規をわれらに」としたのでした。
(当時NHK松山局制作課勤務 「人間・正岡子規」制作デスク)
………………………‥‥‥………………‥‥‥‥
おわりに
 鼎談のタイトル「いま子規をわれらに」もまた、大江さんのアドバイス「子規を、アクチュアルに…」の反映であったことを、四十四年後の今、あらためて思いなおしています。
戦争と平和・国家と社会の在り方・仕事をすることと金銭への態度・人間と人間の付き合い方…。「子規のあの生き方と遺してくれた文学は、現代を生きていく上で、さらにアクチュアルの度合いを強めていますね…」と冥界の大江さんに呼びかけたい気分です。
「アクチュアル」=「今の時代と世界にあって具体的に参考になる」と愚生は理解しています。そして、大江さんご自身の生き方と遺してくれた文学もまた、アクチュアルであり続けるのだろうと、思いが重なります。子規が東京湾に建つ巨大な平和の像を想像した400年後、と同じような時間のスケールで…。
 子規記念博物館開館の2年前、昭和54年のNHKETV番組「私の子規」に出演してくださり、その仕事が全部終わった時、45分2回分を語り下ろすために用意された下原稿のコピーを制作チームにくださったのでした。後の活字化を予定した「子規はわれらの同時代人」とのタイトルになっていました。その稿に、「私の子規」の出演者として、チーム宛てのメッセージを書き添えてくれていました。

…われわれの共有したデモクラティクなトポスが、あなたたちの新しく大きい仕事に発展してゆくことを希望して…大江健三郎 一九七九年五月二十日

 以後、デモクラティクであることを肝に銘じて現役時代を過ごしたことを、冥界の大江さんに向け報告する次第です。先に冥界に行かれた同じく子規愛の人・司馬遼太郎さんと、お互い初対面とおっしゃる松山で、楽しそうに語り合われたおふたりの姿がよみがえります。
 合わせて、子規関連番組制作チームの担当者で既に冥界の人となられた山崎洋右氏・長澤昭道氏・戸崎賢二氏にも、小文の発表を報告申し上げます。      合掌。
 次回当欄は、9月1日の予定です。内容を「司馬遼太郎・「雑談『昭和』への道」制作余話」と致します。予告してきた、「日清戦争従軍という行為の、子規の心底にあったもの」についての論考はそのアトとします。 

※最後に、大江健三郎さんの子規論考で、筆者が拝読した主なものの収載誌をご紹介しておきます。

   ①「子規はわれらの同時代人」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)10巻 青年へ 56P
   ②「ほんとうの教育者としての子規」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)3巻 想像力と情況 205P
   ⓷「若い子規が精神を活性化する」 子規全集(講談社版) 9巻 851P
   ④「子規の根源的主題系」 子規全集(講談社版) 11巻 599P



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妖精の系譜 №52 [文芸美術の森]

キャロルの「アリスの世界」

     妖精美術館館長  井村君江

 ルイス・キャロル Lewis Carrol 一八三二-九八)が一八六五年に書いた『不思議の国のアリス』(一八六五)と『鏡の国のアリス』(一八七一)の二つのアリスは、現代の児童文学の地形をすっかり変えてしまうほどの大きな出現であった。これまでのイギリス固有のフェアリー・テールの流れとナンセンス文学の要素を合わせ含めて、以前にはみられない純粋なファンタジィの世界を作り出したのである。児童文学研究家であるバーウェイ・ダートンは、アリスの出現は「児童文学の精神的な噴火山」であると言っている。
 二つのアリスの物語は、その設定が「少女の夢の中の出来事」であることを最後に明らかにするという共通した手法がとられている。不思議の国(ワンダーランド)はおとぎの国(フェアリーランド)であり夢の国(ドリームランド)になっているわけであり、不思議の国には、トランプの国が重なり、鏡の国にはチェスの世界が重なるというように幾重にも架空の世界が重なっている現代の「妖精の国」であると言えよう。
 しかしすべてのことが夢の中のこととして、空想や機知を自由奔放にとびかわせるだけのことであったら、アリス以前に作られた多くのファンタジィの作品がすでに試みたことである。アリスの作品が持つ独創性というものは、こうした非合理な夢の世界に合理的なものの考え方を持ったアリスという子供が紛れ込んで行くという点にある。替え歌や造語は、いずれも現実の世界をひっくりかえしたり逆さにしたりしていても、何らかの形で醒めたときの現実に対するイメージとつながっている。穴に落ちていきながら、途中でおじぎをしたり、自分の涙の池で泳いだり、お菓子やキノコをかじって大きくなったり小さくなったり、ニヤニヤ笑うチェシャ猫が消えるとニヤニヤだけが枝に残ったり ― あり得ないという現実の論理は、子供の空想の論理ですべて可能に置き換えられ、これが常識的な論理とぶっつけられて面白い混乱が生まれてくるのである。
 読者は逆に、このアリスの経験する不可思議な現象に対して素朴な驚きを感じ、ある共感を覚えながら、アリスの目の前に繰り広げられる不恰好な倒錯した非合理な世界を、まったくのナンセンスとして斥けられず、その中に現実の世界に対する痛烈な諷刺を読み取るわけである。言い換えれば、一方で、子供たちのために単なるメルヘンや教訓話の域を越えた鮮やかなファンタジィの世界を繰り広げるとともに、他方では大人に対し現実とは無関係な童話の構成の中に、真実を鋭くついた諷刺性を秘めた物語の世界が展開しているといえよう。
 トランプのハート一族は規格化された、それ故に単一なものの持つ恐ろしい力となり、見えない影となって、アリスがジャックの裁判に証言として立つクライマックスを盛り上げている。ゲームというものが本来持っている残酷さは、ここで女王のヒステリーに象徴化されており、すぐ首を切りたがる女王の傍若無人さは、トランプの持つ秩序の重みをパロディとして表現したものと考えられる。ここでの主人公は、もうトランプ王国全体を圧し、包んでいる目に見えない秩序の力であって、それはあらゆる想像力をおしっぶしてしまう危険な要素として描かれているといえよう。最後のところでこのトランプ王国のカードたちが空中に舞い上がり、アリスめがけて押し寄せてくるのでハッとして目が覚め、現実にかえってこの物語は終わる。
 この『不思議の国のアリス』は、作者が話をしていくうちに、次々とひらめいてくる想像の世界を逐一展開させていったものであったが、『鏡の国』の方は、あらかじめ考えられきっちりとたてられた構想を持っていて、アリスが鏡の世界へ入っていき、そこで女王になるまで、つみ重ねられていく十一のプロットの過程が、ちょうどチェスの詰め手になっていて、そのゲームの中に、登場してくるさまざまな人物は自在に活躍し、一見でたらめな動きのように見えて、実はちゃんと一つ一つチェスの駒の役割を持っていて、アリスが女王になることに関連している。このように『鏡の国』はプロットが最後の結末である大団円を生み出すために、いろいろな形で有機的に結びつけられ、物語が立体的に進行していくディテクティブ・ストーリーの成功した例といえよう。
 伝承物語の中で、普通「妖精の国」への行き方は、妖精にさらわれたり、妖精の丘に引き込まれたり、妖精の輪の中から消えるというようなものが多いが、アリスの行き方は 『不思議の国』では暗い穴に無限に落ちていくことで到達し、『鏡の国』では鏡の向こう側へ入っていく。
 「今からわたしたちでまねをして、王さまと女王さまゴッコをいたしましょう」とか、「何々だと思いましょう」というようなアリス独特の「ごっこ遊び」の口癖で「鏡の国に行ったと思いましょう」という言葉が呪文のようにひびくと、魔法がかけられたように場面はその通りの架空の世界へと暗転していく。硬い鏡がいつのまにかガーゼのようになり、モヤのようになって、楽に通りぬけられ、アリスは現実の反対側の世界へ難なく入り込んでしまう。鏡の世界はチェスの国で、奇妙な人物たちとめぐり合っていくうちに、これまた夢の世界でもあるというダブらせ方がとられる。「鏡」が実際のものをちょうど逆に写し出すという原理を用いて、作者はいろいろ物語の効果をあげている。鏡に写る映像が逆さであることは、本などを写してみるとすぐわかるが、物質は逆映像になっている。写真好きであった作者、オックスフォードの数学の先生ドッジソン教授が考え出した世界の原理である。それだけではなく、「未来に起こることを恐がる現在の女王」とか、「再来週の記憶」とかいうように、時間を逆に進ませたりしている。過去とか現在、未来という時の経過があべこべに入れ替わったりする。また原因と結果を逆さにして、罰を受けてそれから罪が行われたり、指にブローチが刺さるのは、まず血が出て痛くなり、悲鳴をあげて、それからブローチが刺さるというように、まるで逆まわしのフィルムを見ているように、ものの順序、出来事の経過があべこべになった面白い論理や現象がたくさん出てきている。
 普通妖精の国では時間の経過が早いというのが特色であるが、アリスの行った国では、映像と論理の逆転という複雑な現象に満ちている。そして、「いつも力一杯走っていなければ一か所にとまってはいられない女王の動作」とか、「あべこべの論理でうしろ向きに生きる女王」とか、こうしたイメージがよび起こす残酷なまでに澄みきった「虚のアイロニー」が、この作品には見事に定着されているのである。この鏡の世界がさらに夢の世界であるという二重の構造は、赤と白の女王がアリスの膝の上で眠ってしまい、それが喉をならしている子猫に変わるという最後の場面で明らかにされているが、夢の描き方が前の『不思議の国』より、さらによく考えられている。
 アリスの出会う不思議な登場人物たちを見ると、三月ウサギ、ネムリネズミ、ドードー鳥、クロッケー遊びの道具として使うフラミンゴやハリネズミ、公爵夫人が赤ん坊として抱いているブタなどは実在する動物である。しかし、カメ(タートル)は存在するがカメモドキ(モック・タートル)は存在しないし、猫は存在するがこヤニヤ猫(チェシャー・キャット)は存在しない。また、イモ虫は存在しても水パイプを吸うイモ虫は存在しないし、カエルの従僕やトカゲのビル、ダンスを踊り、料理をするエビも同様である。それらは異常なほどには、現実と隔たってはいない。また、グリフォンやユニコーンは幻獣であるが、キャロルの創造ではなく、古典的な神話の世界から借りだされているものである。
 エビ料理、生ガキ、海ガメスープ (モック・タートルスープは植物とオックス・テールで作る)などはたぶんキャロルの好物で、ワインと共に賞味していた料理の数々であり、そこから思いついて登場人物に加えたのではなかろうか。
 また、『鏡の国』の登場人物たちは次々と変身していく。例えば、女王はヒツジになったり、お店の中はいつのまにか川に浮かぶボートになり、ヒツジからもらった卵はバンプティ・ダンプティに変わるという変身ぶりで、実際の夢の中に現われるとりとめもない場面やものの移り変わりを見る思いがする。薄暗い棚にあるお店の品物がいくら取ろうとしても天井を抜けて飛んでいってしまうということなどは、実際の夢の中でよく経験する現象であろう。
 「鏡の中に入っていく」ということは、「しきい」によって隔てられた虚の世界が、現実に変わるということで、現実の裏側にある虚の世界はすべての現象が実際とはちょうど反対になる世界である。アリスが入っていく鏡の世界は、そばで寝ている女王さま(猫)の夢の中にしか存在しないかも知れない実体のない世界であり、森に入るとすべてに名前がなくなり、自分の名前さえ忘れてしまうような不思議な世界で、そこではあらゆる現象が、あべこべに表現されることによって謎となる。しかし、この謎は解くことのできない謎である。この謎のイメージは、虚数が二乗されなければ絶対実数にならないように、夢が覚めるまで謎のままである。しかし、あべこべのあべこべは、また現実に変わるという神秘的なつながりを保ったまま、チェス盤によって区画されている鏡の世界に浮かんでいるという構造になっている。アリスの「不思議の国」と「鏡の国 とは、現代のファンタステイックば興味あるフェアリーランドといえよう。

『妖精の系譜』 新書館


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石井鶴三の世界 №235 [文芸美術の森]

広隆寺弥勒菩薩像 1951年/へび 1952年


      画家・彫刻家  石井鶴三

1951広隆寺弥勒菩薩.jpg
広隆寺弥勒菩薩像 1951年 (202×142)
1952へび.jpg
へび 1952年  (143×220)


*************  

【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。

画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。

文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』 形文社

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武州砂川天主堂 №27 [文芸美術の森]

明治十年 3

         作家  鈴木茂夫


三月二十三日、植木駅。
 別動第三旅団は、攻撃の重点を植木駅においた。田辺少警視は、部隊を一二隊に区分し、植木駅の攻撃に参画。
 植木駅の東北、山鹿街道は、長尾景直(ながおかげなお)一等警部が二等少警部の右半隊と下山尚書一等少警部の一小隊を率いた。
 川畑種長(かわばたたねなが)一等大警部の一小隊は、植木駅の西南、滴水(しみず)攻撃の先鋒を担当。正面の植木口は、杉田成章すぎたなりあきら)ニ等少警部の左半隊を先鋒とし、上田良貞(うえだよしさ)三等大警部の一小隊は、その援護にあたった。
 午前六時、戦闘開始。
 警視隊の一小隊は、植木駅の焼け残った民家の間に伏せて待機、時機を見はからい、賊軍陣地に突撃を試みて、陣地を奪った。その際、上田良貞三等大警部が銃弾に当たり負傷。小隊長佐々木文次郎三等少警部は、この攻撃隊を支援しなければ、全滅する危険があると、小隊を率いて薮の台場という陣地に斬り込む。寿貞もその中にいた。
 賊軍も、刀で応戦してくる。
 十代の若者が刀を上段に構え、
 「チー」
と叫び声を上げながら一直線に迫ってくる。薩摩の示現流(じげんりゅう)の剣法だ。
 寿貞は、敵が目前に迫ったその瞬間に右横に前進。
 敵の刀が振り下ろされかかるのを認め、横一文字に刀を払った。
 手応えがあった。敵の胴を刀が走ったのだ。
 敵は前のめりに倒れ込んだ。
 すぐに新たな敵が襲ってくる。
 寿貞は肉薄した。
 敵の刀を振り払い、のど元めがけて突いた。神道無念流の突きだ。血しぶきが飛ぶ。
 寿貞は、振り返り、味方の助太刀に入る。
 寿貞は、冷静だった。気力が充実している。
 午後五時、指揮長長尾景直一等大警部、半隊長佐清静二等少警部の右半隊は、半隊長満田清民(みつたきよたみ)二等少警部の半隊と合流し、上田隊が斬り込んだ植木駅付近の敵陣を銃を捨て刀で攻撃すべLとの命令を受ける。
 午後六時、抜刀による攻撃を中止し、それぞれの分隊を鎮台兵の陣地に配備し、敵の逆襲に備えよと命令される。
 本日の戦闘で、二等少警部杉田成章以下戦死人名、負傷者三十二名あり。
 方貢の戦いのはじまりの日だった。
 戦い全体の状況は、分からない。確かなことは、官軍が着実に前進していることだけだ。
 四月十八日、武州・砂川村。
 ジェルマンが砂川村に顔を見せた。学塾の道場を訪ねると人気が無い。道場の横手の空き地で遊んでいる子どもの姿がある。その中に角太郎がいた。ジェルマンが手を挙げると、角太郎も気づいた。
 「神父さん、今日は、竹内先生は、戦争に行っちまっていないんだよ」
 「戦争って何ですか」
 「おいらには、よく分からないけれどさ、西郷さんと戦をすると村から出て行ったんだ」
 「分かりました。寂しいですね」
 「竹内先生がいなくなったので、学習塾はなくなったんだ」
 「そうですか」
 「神父さん、イエス・キリストの話のつづきを聞かせておくれよ」
 「いいですよ。そのために来たんだから。あなたの友だちを呼んでください」
 角太郎は、走って仲間のところに行くと、子どもたちが一斉にあちこちと走り出した。
 しばらくすると、それぞれの遊び場にいた子どもたちが三人四人と現れた。
 角太郎が、
 「神父さん、呼んできたよ」
 三十人ほどの子どもたちになっている。
 「あそこの桜の木の下で話をしましょう」
 みんな、思い思いの場に座り込んだ。
 「この前は、イエスが産まれ、三人の学者がイエスを拝んだことまでを話しました。きょうはその先です。イエスは十二歳になっていました。角太郎さんと同じ歳ですね。ユダヤの国では、毎年、都のエルサレムで過越祭(すぎこしさい)というお祭りが開かれます。イエスの一家もエルサレムを訪れ、祭りが終わったので故郷のナザレの町へ帰ろうとします。ところが、とちゆうでイエスとはぐれてしまいます。そこで両親は、イエスを探しに、再びエルサレムに戻ります。町中を探し歩いて三日目に、神殿に行きました。神殿の廊下に、大勢の学者が群がっていました。その真ん中にイエスはいたのです。学者はイエスに神様について質問します。イエスは、すぐに答えます。『神様のことについて、これほど何でも知っている人に出会ったことはない』学者は感心していました。母親のマリアは、『あなたを探していたのよ。あなたは何をしているの』と尋ねたのです。すると、イエスは答えました。『僕を探していたんですか。僕が神殿にいるのはおかしくありません。なぜなら、ここは僕のお父さんの家だからです』マリアには、イエスの言っていることが分かりませんでした。イエスが神殿を僕のお父さんの家と言ったのは、イエスが神様の子どもであると言ったのです」
 「神父さん、イエスは自分が神様の子どもであることを知っていたのですか」
 「角太郎さん、イエスは神様の子どもであることを知っていたと言うよりは、自分の父親が神様であることを知っていたのだと思います」
 「イエスが不思議な人だと言うことが、少しずつ分かってきたよ」
 「イエスは、まだまだ多くの不思議なことをします。この続きはまたにしようね。私は、竹内さんがいなくなったから、泊まるところがありません。夜にならないうちに、帰らなくてはいけないのです」
 「神父さん、それなら俺の家に来て泊まるといいよ」
 「泊まってよいのかどうかは、あなたの家のお父さんが決めることですよ」
 「ちょっと待っていて。父ちゃんに聞いてくるから」
 角太郎は、一目散に走って行った。そしてしばらくすると戻ってきた。
 「大丈夫だよ。父ちゃんが泊まっていいと言った。」
 ジェルマンは、大勢の子どもに囲まれて角太郎の家をめざした。
 角太郎の家は、二番組の集落にある藁葺き屋根の一軒家だった。ジェルマンが角太郎に手を引かれて戸口から入ると、いろり端に一人の男がいた。丸顔に笑みが浮かんでいる。男は軽く頭を下げると、
 「俺が主人の泰之進(やすのしん)です。くつろいで泊まっていってくんな」
 「私はテストヴィドです。よろしくお願いします」
 「堅苦しい挨拶は、抜きにして上がっておくれよ」
 ジェルマンは靴を脱いで上にあがった。
 「俺は島田の家の長男だが、独り者だ。だからチビもはいない。弟一家と暮らしている。百姓仕事は好きじやないから遊んでいる。跡継ぎにと弟の子どもの角太郎を養子にもらったんだよ。元気な男の子で、中々頼もしい」
 「角太郎さんは、かしこい男の子です。私が神様の話をすると、いろいろ尋ねます」
 「角太郎が家に戻ると、神様の話は、おもしろいと言っていたよ。ところで神父さん、あんたは夕飯に俺たちの食べるようなものを食べることができるのかね」
 「私はなんでもよく食べます」
 野良仕事を終えた弟夫婦が帰ってきた。泰之進が弟の妻女に声をかけた。
「この神父さん、なんでも食、へると言うから、俺たちと同じ飯を一人前追加してやって」
夕餉は角太郎の弟妹三人も加わり、ジェルマンをいれて八人だ。茶の間でそれぞれの箱膳を前にする。ジェルマンも皆にならって正座した。正座するのは楽ではないが、下壱分方の作太郎の食事でもそうしているから、苦痛ではなくなっている。
 角太郎の三人の弟妹は、食い入るように、ジェルマンを見つめている。珍しいのだ。
泰之進が、
 「神父さん、神様ってのはいるのかい」
 「います」
 「神様は、見えるのかい」
 「見えません」
 「見えないものは、いないんじゃないかね」
 「神様は見えなくても、いるんです」
 「俺は、見えないものをいるとは信じられねえ」
 「泰之進さん、あなたには信用がありますか」
 「信用を見たことはないが、俺には信用がある」
 「あなたは見たことのない信用を、どうしてあるというのですか」
 「信用とは、もともと眼に見えないものだからさ」
 「神様も、信用と同じです。眼に見えなくても、もともといるのです」
 「いやあ、神父さん、うまいことを言ったね。確かに目に見えなくてもあるものはある」
「俺は、神も仏も信じていないんだが、人がそれを信じるのを止め立てはしない。角太郎が神様を信じるなら、反対はしない。それから、この家には、いつ来て泊まってもいいからね。それに、話をするなら座敷を使ってもいいよ」
 角太郎の義父泰之進は議論好きだが、好人物だ。ジェルマンには、心安まる砂川村の新しい足場ができた。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №107 [文芸美術の森]

           奇想と反骨の絵師・歌川国芳
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第2回 出世作「水滸伝」シリーズ

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 文化10年(1827年)、版元・加賀屋吉右衛門は、折からの「水滸伝」ブームに目をつけ、大判錦絵シリーズにすることを企画、これに歌川国芳を起用しました。

 「水滸伝」は、中国に古くから伝わる壮大な通俗小説で、梁山泊を根拠地として大勢の豪傑たちが活躍を繰り広げる物語です。
 国芳は、「水滸伝」に登場する豪傑たちひとりひとりを一枚ずつに大きくとらえた構図で描きました。

 躍動感と力がみなぎる豪傑絵は大評判となり、国芳は一気に人気画家になりました。時に年齢は31歳。

 人気シリーズとなった国芳の「水滸伝」は、次々と描き進められ、現存する作品は75図に及ぶ。そのうちのいくつかを紹介します。

≪豪傑たちの躍動≫

107-2 のコピー.jpg 右図は、豪傑の一人「浪子燕青」(ろうしえんせい)。小説「水滸伝」に「北京の産にして面(おもて)雪より白し。体中に花を彫り物す」と書かれている力持ちです。

 襲ってくる男たちを、大きな柱を振りまわしてなぎ倒す姿を描いている。その白い肌には花の入れ墨が映えて、彫り物比べをすれば誰にも負けなかった、といいます。

 江戸では、文化・文政の頃、勇み肌の職人たちの間で、身体に入れ墨をすることが流行していました。国芳の「水滸伝」シリーズが出るに及んで、「入れ墨ブーム」に拍車がかかり、中には、国芳が浮世絵に描いた図柄を総身に彫る注文もあったといいます。

107-3.jpg

107-4 のコピー.jpg 右図は「花和尚魯知深初名魯達」(かおしょう・ろちしん・しょめいろたつ)。
 「花和尚」(かおしょう)とは、全身に入れ墨をしている和尚の意です。

 魯知深(ろちしん)は、元軍人でその時の名が「魯達」でした。62斤(約25㎏)の鉄の杖を振りまわすという怪力の持ち主で、この絵では、凄まじい顔つきの魯知深が、その鉄杖で松の大木を撃ち砕いている。砕け散る木片が衝撃の強さを表しています。

 魯知深の顔から鉄杖にのびる線と、撃ち砕かれる松の大木の線が交錯し、広げた足で踏ん張るという力感あふれる構図も見事です。

107-5 のコピー.jpg 次に右図は「浪裡白跳張順」(ろうりはくちょうちょうじゅん)。
 「張順」は泳ぎの達人。西湖をくぐって、単身で敵の城に忍び込み、水門を破ったが、敵兵の集中攻撃を受けて、水中で最期を遂げた豪傑。

 この絵は、水門の鉄の柵を飴のようにねじまげて侵入する姿を描いている。四肢に力がみなぎる描写が見事です。

 鈴のついた縄は、侵入者を探知する警報装置。侵入を知った敵兵たちは、張順に矢を雨あられのごとく浴びせている・・・
 この絵では、赤と黒のコントラストが鮮やかで、これがまた、張順の白い肌を引き立てています。

 かくして描き進められた「水滸伝」シリーズは大評判となり、歌川国芳の絵師としての地位も確固たるものとなりました。

 次回は、歌川国芳の「武者絵」を紹介します。

(次号に続く)


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浅草風土記 №4 [文芸美術の森]

仲見世 2

       作家・俳人 久保田万太郎


     三

 ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を— 三好野と三川屋呉服屋とを(かつてはそれが、下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」
というのである。そうして伝法院の横の往来1その「区役所横町」の出はずれによこた
わって仲兄世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」
(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)と、いまではそう呼んでいるのである。
 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でん
ぱん横町」といいっづけた。が、たまたまわたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓
をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる
人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。
「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに、以前
共同鳳のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろ
う。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのであ
る。ことにその下総屋(しもふさや)と舟和との大がかりな喫茶店(というのは、もとよ。あたらない。といっても、そもそものミツマメホールというのもいまはもうあたらない。ともにその両方のガラスの球すだれを店さきに下げたけしき~この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびとをいさましく物語っている。 ― 下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和は芋羊糞製造から、わずかな月日の間に、いまのようなさまにまでそれぞれめざましく仕出したのである。
 ……が、仕出したということになると、わたしの十二三の時分である、前章に書いた川
崎銀行の角、際物師の店の横にめぞヅこ鰻をさいて焼く小さな床見世があった。四十がら
みの、相撲のようにふとった主人が、年頃の娘たちと、わたしより一つ二つ下のいたずら
な男の子とを相手に稼業していたC外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕(あこぎ)に高い勘定をとるのとでわずかなうちに売出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。— それがいまの「中清」のそもそもである。
 ついまだそれを昨日のようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう
店にそのうちはなった。が、そこには、その横町には、さらにまたそれよりも古い「蠣(かき)めし」がある — 下総屋と舟和をもし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」 の土中ふかくひそんだ根幹である…。

     四

「ちんやの横町」のいま「衆楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄
席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と古風なあげ行燈との不思議な取合
せをおもい起すのと、十一二の時分、たった一度そこで「白井権八」 の写し絵をみた記憶をもっているのとの外には、その寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。
なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったからである。— その時分
わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止む
をえず聞くのが浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまからわたしは馬鹿にしてい
た。—  ということはいまでも決してそうでないとはいわない。
(ついでながら、わたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。と
もに並木通りにあって色もの専門だった。- 色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのとはごく
まれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから、吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近く
にあった「山広亭」、「恵比寿亭」、そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていな
かった — が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」も、うちよせた「時代」の波のかなたにいつとはなしすかたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)
 いまでこそ「衆楽」をはじめ「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろいろの飲食の場所をそこがもっているが、嘗ては、はえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところどころうろぬきに、小さな、さびしい商人店 — 例えば化粧品屋だの印判屋だのの挟まった……といった感じの空な往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカーテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。1なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。— 植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵闇をしのばせた。燈籠屋の廻り燈寵がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた。
 「さがみやの露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂潤のかげにたぎり立つ油の音の怒涛である。
 - が、嘗てのそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。
その隣に「きくもと」という待合があった。片っぽの側には和倉温泉という湯屋があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 ……そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具
屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた
人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。—と、わたしは、その露地のことを七八年まえ書いたことがある。 — が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのはその途中にあるお稲荷さまの岡だけである。
 で、「洩倉綿の路地」は — 「公珊劇物近遺」の下に「食通横町」としたいまのその露地は……

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №51 [文芸美術の森]

ノートンの「ボロワーズ」

       妖精美術館館長  井村君江

 メアリー・ノートン(Mary Norton一九〇三-)の借り暮しの小人たち五部作(『床下の小人たち』(一九五二)、『野に出た小人たち』(一九五五)、『川を下る小人たち』一九五九)、『空をとぶ小人たち』(一九六一)、『小人たちの新しい家』(一九八二)は、人間に依存して暮らす小人たちが活躍するファンタジィの傑作である。
 ノートンは最初の作品『魔法のベッド南の島へ』(一九四五)と続編の『魔法のベッド過去の国へ』(一九四七)で、新しい次元のファンタジィを開いた。この物語は、ある村のおとなしい音楽の先生ミス・プライスが、魔法の練習をしているところをロンドンから休暇で村にやってきた三人の姉弟に見つかってしまい、やむをえず子供たちと魔法のノブのついた空飛ぶベッドに乗って、さまざまな事件に出会う経緯が書かれている。昔はすばらしい超自然の力を発揮した魔法が、今は練習して修得せねばならず、またタネや仕掛けのあるものとされ、そうした魔法が合理的な現代の現実にぶつかって引き起こされる奇想天外な出来事が、ユーモラスに語られているのである。
 借り暮らしの小人の物語でも、昔は人々に好んで語られ信じられていた妖精たちが、現代では生き残りも少なくなり、もはや能力も人間並みになってしまい、やっと一族だけが古い家に住んでいるということが前提になっている。従って、彼らは昔からの妖精ではなく、小型人間、「一人前の人間」であり、その行動もみな人間のミニアチュア版になっている。本質的にすべての点で人間であり、ただピグミーのように小さいというハンディキャップを背負っている人種ということになる。
 さらには自分たちの手で物質は作り出せず、人間の文明に依存して生活している寄生的存在である。
 だが、勇気や工夫の才や虚栄や愛情や愚かさや思いやりなどの情感は少しも人間と変わらず、むしろ普通の人間よりも理想像に近くなっている。この人間寄生的存在の小型人間である「借り暮らしの小人族」は、現代に作り出されたいわば新しい妖精の一つの典型とも言えるであろう。
 メアリー・ノートンはこの小人の人種を創り出した動機を、近視だったので子供のころ、他の人たちが遥かな丘や空を翔けるキジなどを眺めているとき、自分は脇を向いて近くの土手やもつれあった草むらの中に見入っていたが、そこはジャングル劇の恰好な舞台であり、やがて小さくて用心深い小人という登場人物たちが浮かんできて、いつのまにかそのジャングルや家の中で活躍を始めたと語っている。また家の中でなぜヘアピンや安全ピン、針や指ぬき、吸い取り紙などがすぐになくなってしまうのか不思議であり、きっとこれは家のどこかに姿を見られないように住んでいる小人たちが持って行ってしまうためだ、とも考えたということである。
 この物語は、ケイトという少女に聞かせるメアリーおばさんの昔語りが外枠となっている。登場人物として活躍するのは、ボロワーズ一家の父親のポッド、母親のホミリー、娘のアリエティで、大時計の下の羽目板の穴を通路にして住まいの床下と床上の人間界を行き来しているところから、クロック家と呼ばれている。ボロワーズの家族名も、人間の物や場所からの借りものであることはまた興味深い。例えば、暖炉の上に住んでいるのはオーバーマントル一族、アイロン台にいる一家はリネンプレス家、この他ブルームカバード家(ほうき棚に住む一族)、レインパイプ家(雨どいに住む一族)などが出てくる。これらは実際人間の家族の名前に、祖先がテムズ川に画したところに住んでいたことからタイド家と名乗ったり、ロビン家、オーク家というように鳥や木の名がついた一家があることを思い合わせると興味深い。
 クロック家は父親のポッドが靴作りをして生計を立てているが、本来「小さな人々」の中のレプラホーンが、妖精の踊りへらした靴を直す小人の片足靴屋であることを思うと、この職業は妖精職業の伝統にもとづいていることがわかる。主な筋はこの一家の娘アリエティが、人間の子供と仲良くなり「見られ」た(人間に見られることは危険と死を意味している)ことから、床下を引越さなければならなくなり、安住の地を求めて野に出てさすらい、川を下り、人間につかまって見せ物にされかけるところを、軽気球で空を飛んで脱出するなど、さまざまな苦難の旅の物語である。こうした流浪の旅の原因のもう一つは、借り暮らしの小人たちが物質の恩恵で人間化することで生活が豊かになるが、その豊かな状態を保つためにはより頻繁に人間から「借り」(「借りる」と「盗む」とは異なければならず、そのためにより「見られる」危険が増すというわけで、ここには人間世界における文明化や近代化への諷刺も感じられてくる。最後には平和な暮らしを求めるために、それまで依存していた人間界と絶縁すべきことを宣言し、野原や川で苦労の末、人間界を去ってリトルフォーダムという町にあるミニアチュアの家に独立して住むことになるわけである。
  物語はボロワーズ一家の娘アリエティの活動に中心が置かれているが、この好奇心旺盛な女の子の成長や活躍につれて、人間の男の子との出会いを始め、次々と事件が生じてくる。アリエティは狭い床下から垣間見る「上の世界」(人間の世界)に興味と憧れを抱く。その結果、一人で上に出かけて「借り」の練習をしていたが、人間の男の子に見つかって仲良くなり、彼に借り暮らしの生活を語って聞かせる。その会話の中には「借り暮らしの小人」側から言われた面白い論理が語られている。.すなわち人間から「借りる」ということはしごく当り前のことであり、「盗む」こととは違う、なぜならボロワーズは人間の家の一部なのだから、その上の家の物を床下で使っても当然であると言う。また、バターのためにパンが存在しているのと同じように、人間というものは「借り暮らしの小人」たちのために存在している、と考えていることなどである。ここで 「ヒューマン・ピーン(Human Bean)」とアリエティがなまって言っているのは「人間(Human Being)」のことであり、ピーン=「豆」を重ね合わせた同音異義の面白さがあるが、それも豆のように小さい小人が、大きな人間に向かって「豆」と言っている二重のおかしみもここには重なっている。
 科学万能の世の中で、自分たちが地球上のすべてを支配できるかのごとき錯覚を抱いている人間を、「借り暮らしの小人」たちはかえって自分たちの必需品を生産し供給してくれる奴隷と思っているのは面白い。そして上の世界に「借り」に行くということは生やさしいことではなく、登山のためのピッケルとロープのように、待ち針と糸と借り袋を持って椅子やテーブルにたどり着き、必要な物を手に入れるわけで、高度の技術を要する仕事であると言っている。そしてさらに、何物にも狩りたてられることのない人間は、お互いに狩りたて合っているのだとポッドは人間を皮肉っている。こうした「借り暮らし小人」の論理は、われわれ人間中心のものの考え方、一般の理屈からは、ほんの少し視点をずらしてみただけであり、思考の回路を変えただけのことかもしれないが、鋭い人間批判と文明批判になっている。
 この小さな人々が、大きな人間たちの住んでいる世界で生きていくのはなかなか困難であり、その生存のための戦いが全篇を貫いているのであるが、この戦いは架空の龍や巨人相手の戦いではなく、ずっと現実的な飢えや寒さや「見られること」との戦いであり、作者はそれをリアルで緻密な手法で見事に描いている。
 小さいというハンディキャップを背負った人間が、知恵と工夫の才を最大限に利用し、それを乗り越えていくわけであり、一つ一つの困難の具体的内容と、それを克服する技術の描写も実に実際的で克明である。例えば、第四巻に出てくる脱出用の軽気球の作り方などは、そのまま実際に再現できるほどである。これについて作者自身はこう言っている。
「これらは実用的な本として書かれたのです。ポッドの風船は立派にその役を果しました。どなたか同じようにやってみた方もあるのではないでしょうか」
 こうした模型飛行機の製図を見るのに似た実際的知識の魅力もこの作品には溢れている。実際的知識や技術を使って困難を克服し、精二朴生きていくポッド一家の姿勢には、孤島で生きるロビンソン・クルーソーに似たものがあ。その健全で積極的なイギリス的人生観が、この五部作を児童文学の古典にしている要因の一つであると思う。

『妖精の系譜』 新書館



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