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妖精の系譜 №53 [文芸美術の森]

 ド・ラ・メアの「とらえがたいあのひと」

        妖精美術館館長  井村君江

 アリス以後二十世紀に至るイギリスでは、さまざまな特色がある童話がたくさん書かれたが、その中で、もっとも幻想的な神秘的とも言える透明なファンタジィの世界を築き上げ、目に見えないものたちを生かしてきたのは、ウォルター・ド・ラ・メア(Walter de la Mare一八七三-一九三六)である。彼は詩人ブラウニングの血筋を引く作家であり、すぐれた童話作家、童謡詩人として『幼時のうた』の処女詩集以来、『孔雀パイ』を経て最後の『ああ美わしの英国』に至るまでの二十二冊の詩集で、標砂とした独自の詩界を創って現代イギリス詩壇に不動の位置を得ている。また小説家としても、長編『死者の誘い』(一九一〇)、『ヘンリー・ブロッケン』(一九〇四)や『小人の思い出』(一九二一)の長編のほか、『謎』や『ジエマイマ』など十六冊に及ぶ短編集や戯曲など、さまざまなジャンルに、さまざまな作風の作品を数多く残している。
 ド・ラ・メアの世界には、何か神秘的な幻想とも言える不思議な情調の深いがあるし、その特異な空間がときとすると人の心に、一種の恐怖に近い感情を引き起こす。だがそれはいわゆる幽霊の戦懐とも、魔女の異妖とも、吸血鬼や人狼の怪奇とも、まったく質を異にしたものである。彼は好んで人里離れた荒涼たる森深く建つ古い屋敷や、崩れた壁に蔦の嬰っ教会、草深い佗しい庭園等を舞台とするし、老人、小人、死より戻った人など、現実の生とは遠く隔たった人々を描きはするが、それらを単に恐怖の異常空間を作る効果を狙っての道具立てとして用いてはいない。土地や家という場所とその中の人物とが、相互に密接な浸透関係を持って独特の雰囲気をかもしだし、象徴的とも言える物語の世界を形作っている。
 彼の詩の世界には淡い夢幻の光の中に、真白い雪の上を髪なびかせて走る火の精(サラマンダー)-や、アラビアの真昼の木蔭を一人馬に乗っていく王子の姿や、月夜の丘にひづめの音をひびかせる騎士の影が、静かな銀色の光りにぬれ、変幻自在なリズムの響きにつれて現われてくる。短詩『騎士』を次に掲げよう。

  丘を越えていく
  騎士の音を聞いた
  月はけざやかに照り
  夜は静かだった
  騎士の兜は銀で
  その顔は蒼く
  騎士の乗る馬は
  象牙だった

 夢の向こう側の消息を語り伝えてくれるような美しい言葉は、他の国の言語に移すと崩れてしまうほど微妙なものを持っている。物語の世界も確かにミスティックな現実の条理の外の小宇宙を形作っていて、すぐに強い好奇心や喜びを引き起こす種類のものではなく、静かに心にしみとおってくるような印象を残すものである。

     『廃墟』
 一日の最後の色どりの
 燃える色彩がしだいに薄れていくと、
 冷たく寂しい廃墟のあたりには、
 コオロギがしきりに疇きたてる、石から石へと。
 すると黒ずんだ緑の上に散っていく
 妖精の群れが見えるだろう。
 キリギリスのようにキチキチと時きながら、
 アザミの綿毛が踊るまわりを妖精の足は踊る、
 やがて大きな金色の穏やかな月が
 妖精たちの小さなドングリの靴を染めていく。

 ド・ラ・メアの世界にはしばしば「耳を傾ける人」(リスナーズ)、「見知らぬ人」(ストレンジャーズ)、「さ迷う人」(ワンダラーズ)といった目に見えぬ者が、明るい緑の原を烏影のようによぎり、暖炉のそばでじっと耳を傾け、銀色の月に濡れた丘を越えて行く。しかしそれらは一種の超自然的な霊的存在(ゴースト、スペクトル、ファントム等々)であっても、いわゆる幽霊とも魅魅魅魅(ちみもうりょう)とも異なる。いわば「ゴースト」の語源的な意味に還元した「スピリット」(精神、霊)、「プレス」(呼吸、空気、風)といったものに近く、それが家、庭、部屋、廃墟など人間に関わりを持つすべての場所に遍在するのである。それは『廃墟』の詩にみられるように、フェアリー、ニンフと言ってもいいかも知れない。
 「要するに誰でもみな、本来は何者でしょうか。霊の群れなのです1それはちょうどシナのいれこの箱のようなものなのです-樫の木はもとは樫の実、その樫の実はもとは樫の木だったというようなものです。死はわれわれの前方にあるのでなく背後にある- つまり祖先なのです、どこまでもどこまでもさかのぼっていけば - 」とド・ラ・メアは言っているが、この霊はいわば一個の人間存在の奥深くあって祖先とつながるものであり、ある意味では人間の意識裡に存在する祖先の記憶の集合体とも言えるものである。そうした霊にとっては、死と生の境、夢と現実、昔と今といった時、霊の境界は単なる断絶を意味せず、物語においては霊はしばしば「墓」、「鏡」、「水」、「窓」といった介在物を通って自在に現実の人間と交流する。「なにものかが……影のようなものが……」と言われ、多くは不確かな形のままであるが、ときには手招きする不可思議な女性として、ヴェールをつけている神秘な女人として(『ヴェール』)、墓の中に眠る身も心も軽やかな婦人として(『墓』)、また夢の中をゆるやかに歩みを運ぶ美しき女人(『三本の桜の木』)として立ち現われてくる。/
 目には見えぬこれらのさ迷い人の多くは、女性の姿をとっている。もちろんこれは現実のある特定の女性の投影といったものでなく、いわば詩人の内面にある憧憶の客体化とも言える映像なのである。長編『地上に帰る』の中で、「とらえがたいあのひと」(Impossible  She)と呼ばれている、とらえんとしてとらえがたき人であり、望めども得がたき造かな女性であり、手に入れんとして不可能な女人像であって、人が絶えず到達しようとして求めてやまぬ未知の、理想の、完璧の、具体化とも言えよう。
 「かの女人は記憶であり、未知のものであり、地上の明るさであり、死の約束であり、さまざまな形と姿をとってわれわれに訪れてくるものである」と言われているように、シエリ1の「英知の美」、プラトンの「理想美」に近い。もっと具体的な姿を見ていくと、『地上に帰る(リターン)』では、二世紀前の死者の霊にのり移られて顔かたちが変わり、家族に見棄てられたローフォードの心を慰める唯一の女性、グライゼルとして現われている。「美しく妖しい霊」、「奇怪な夢のヘレン」、「奥深くも美しい暗い影に覆われた夢」、「夢の中で思い出した遠い記憶」、「母の思い出、会ったこともない友の顔」とさまざまに讃えている一方、「あの女は休む暇のない時の移り変わりのすべてを越えて、夜も昼も心を悩ますあの謎なのだ」と絶えずなにものかに駆り立てる衝動の源として恐れられているものともしている。『猿王族の三人』の中では、王子たちの旅の目的地、遥かな父祖の地であるティシュナ1の谷の女神の姿となっている。「口では言い表わせぬ不思議な秘密のしずかな国の女神」そして彼女が美しく悲しく創った神秘の力を持つ緑の髪の水の精(ウヲーター・メイドン)にもその面影は重ねられている。『ヘンリー・ブロッケン』では書物の空想の世界に旅立った主人公が、世界の果て〝悲劇の国″で巡り合うクリセードの姿となる。彼女は想像の海に浮かぶ舟に乗った不確かな人生そのものの象徴ともなっている。
 右の作品の他にも「とらえがたいあのひと」はさまざまな姿を取ってド・ラ・メアの世界に存在しているのであるが、共通した原型的なパターンを有しており、意識下の世界に存する原初的で普遍的な美・夢・理想・平和そのものを示してもいる。さらに限定していけば、男性の意識下につねに存する祖先から継承されてきた女性というものの集合的映像で、一種の神話類型的な理想像かも知れず、とすればユングの「アニマ」に類似性をみることができる。しかしユングの場合、この男性内部の意識的な女性仮像は、現実の次元にその実在を求める方向に働くのに対し、ド・ラ・メアの場合はつねに人間の感情や情熱の裡にあって、現実の次元を越えた彼方にまで人を駆りたてていく不滅の力を持った神秘的な存在なのである。意識下の世界は原型のままの古代の夢の堆積であり、想像力はそこからさまざまな映像を汲み上げ、すべてのものはそこから存在を得てくるとド・ラ・メアは考える。従って「とらえがたいあのひと」や目に見えぬ「耳を傾ける人」、「さ迷う人」たちは、作者の実在に深く根ざしたところ、いわば古代の、未知の、夢の深淵から立ち現われてくる理想化された美しきものなのである。それらはいわゆるおどろおどろしい幽霊や執念に捉われた怨霊、復讐に燃えた悪鬼などの抱く陰にこもった暗さとはおよそほど遠い。ド・ラ・メアの世界を空気のように透明とも言える神秘に澄んだ空間にし、一種の郷愁さえ漂わせた幻想の世界にしているのは、こうした目に見えぬ存在なのである。

 以上、イギリス児童文学の中に登場する妖精たちを概観してみたが、いわゆる「フェ」とか、フェアリー的なものよりも、チユートン系のエルフで、パック、ブラウニー、ゴブリン、ドワーフ(ノーム)といった地下に住み、どちらかというと歪んだ醜いできそこないの、明らかに現実とは次元を異にする世界から出てきた存在感を持った妖精たちが多く活躍している。
 また、バラッドや中世ロマンスに多い、妖精の女王や王にさらわれて妖精界へ行くオシーンやタム・リン、サー・ローンファルなどに見られるようなフェアリーランドへの旅という形で、妖精と交渉を持つのではなく、突然に妖精たちがこの現実の世界、日常生活の中へやって来るという形で、両者の交渉が始まるものが多くなっている。例えば、砂を掘ったらサミアッドが出てきたり、野原のフェアリー・リングの輪へ入ったら、パックが出てきたり、空から傘にのって妖精の乳母がやって来るという人間の現実の次元に向こうからやって来るのである。不意にやって来て、人間との交渉でさまざまな事件が起こるわけである。そして人間に親しい関係を持ち、魔術を使い人間の望みを実現させてくれたりするが、サミアッドは願いごとをかなえてくれても、その魔力は日暮れになると消えてしまうというようにマジック・パワーは乏しく弱くなってきている。また、ホビットに見られるように、魔力は修練と努力によって獲得しなければならないことになっているものが多い。ボロワーズになるとまったく魔力を持たない。ただ小さいというハンディキャップを背負った人間のミニアチュアにすぎず、あるものは昆虫や鳥と同じように羽がはえた姿で、なんらマジック・パワーを持たない野原にいる昆虫と同格の生きものになってしまっている。
 科学万能の時代であり機械文明の今日、合理的な人の頭脳はこの現実の次元の外に「中つ国(ミドル・アース)」や妖精の国が存在するとは信じがたくさせている。従って、オシーンやタム・リンのように白馬に乗って妖精の国へ行くという期待よりは、今この現実の目の前の緑の中から不意にパックが出てきたり、足もとの砂の中からサミアッドが現われたりしてほしいと期待する。ありえないことであっても、後者の方が可能性があるわけで、時空を越えて他次元へ、という期待はタイム・トンネルをくぐり、ロケットで宇宙空間を越えるというSFの方向へいくのかもしれない。魔法の杖をふるうと願望が現実になったり、カーペットで空を飛ぶという魔術、魔法のカへの過信は弱くなり、作家たちもそれを道具として用いなくなってきてはいるが、しかし人間の原始本能の中には、魔術や呪法に対する憧れは消えることなく続いているのであり、時空の制限を越え、他次元へ飛躍したいという願望はかえって強くなっていると言えよう。そうした願望を実現させるのがイマジネーションの力である。イマジネーションは単なるファンシー(空想)ではなく、クリエーション(創造)に続く構成力を持ったもので、第二の世界を作るものである。この第二の世界の中に、フェアリーは求められる生きものであり、形を変え姿を変え、役割こそ違っても、次々と生み出され活躍していくものである。新しい妖精はこの線上に今後も次々と生み出されていくであろうと思う。人々が夢を見ることを忘れない限り。

『妖精の系譜』 新書館



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