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武州砂川天主堂 №28 [文芸美術の森]

明治十年 4

         作家  鈴木茂夫

 夕食をおえてしばらくすると、島田家の二つの座敷には、一二十人ほどが集まってきた。「異人さんがキリシタンの話をするそうだ」という知らせが伝わったからだ。
 泰之進が挨拶した。
 「皆の衆、今夜は大勢集まってくれてありがとうございます。このところ、俺んとこの角太郎が、キリシタンの話を聞いてきてなかなか面白いというから、みんなにも聞いてもらうべえと声をかけさしてもらったんだ。キリシタンと言うのは、西洋の宗旨だ。信心のことだ。みんなは寺の檀家だ。キリシタンに宗旨替えをするのがいいか、どうか、それぞれの思いはあることだ。堅苦しいのは抜きにして、どうか気軽に話を聞いて欲しい。ここにいるキリシタンの先生は、テス、テスト……、舌がもつれちまう……」
 「父ちゃん、テストヴィドって言うんだよ」
 「わかった。テストビドでいいかい。」
 ジェルマンが手を挙げる。
 「泰之進さん、私の名前はテストだけでもいいですよ」
 「そいじゃ、テストさん話を聞かせて」
 「わかりました。みなさん、今晩は、私がテストです。神様の話をいたしましょう。神様の愛をお伝えしたいと思います。神様は、私たちのお父さんとお母さんを敬えと教えられています。神様の思召しによって二人が結ばれ、私たちはその子どもとしてこの世に命を授かることができたからです」
 四十代の男が言った。緊張しているのだろう、顔が少しこわばっていた。
 「神父さん、それはあたりまえのことじゃないですか。キリシタンは普通のことを言うんだ。それは孝行のことじゃないか」
 「孝行だと考えても間違いではありません。キリスト教は、むずかしい教えではありません。心正しい人には、すぐに理解できる教えです」
 「敬(うやま)えばそれでいいんですかい」
 「そして自分を大切にするように、隣にいる身近な人を愛しなさいと言われます。身内の人はもちろん、隣に住んでいる人もです」
 「俺は二番祖に住んでいるんだが、隣近所を愛するというのが分からない」
 「みなさんは、愛と言う言葉をあまり使いません。しかし、キリスト教は愛の教えです。愛というのは、男と女のことだけではありません。愛とは同情と慈(いつく)しみと考えるとどうでしょう。隣近所の人と助け合い、仲良く暮らしていくことです」
 「親類や隣近所とのつきあいは大事にしなきやならねえのはもっともだよ」
 「神様はさらに、もし身近な人が貧しければ、自分の持ち物を売って、貧しい人に施しなさいと、言われています。隣にいる身近な人が困っていれば、助けるという心組です。自分のことだけでなく他人のことも思いやりなさいという心遣いです。キリスト教の愛とは、そのことを指しているのですよ」
 「儒教も同じように言っている。布施(ふせ)がそれだ。キリストさんとお釈迦さんは、どちらが偉いんですかね」
 「儒教も優れた教えです。悌教とキリスト教の間で、人の生き様の考え方については、それほどの違いはないでしょう。しかし、その根本の考えはそれぞれに異なります。どちらが優れたものかを決めるのはむずかしいでしょう。そうではなくて、あなたが何を信じるかです。私自身は、主イエス・キリストが、優れていると信じています」
 「キリシタンは、俺にも分かるものなんだ」
 男の顔から緊張がほどけていた。
 「人と人との付き合い方を考えてみましょう。もし人があなたの右の頬を打ったら、左の頬を差し出しなさいと軍っ常葉があります」
 「神父さん、それはひどいよ。他人に叩かれたら、ずっと叩かれろと言うのは」
 三十代の主婦が叫ぶように言った。
 「目には目を、歯には歯をという言葉があります。これは乱暴をされたら、同じように打ち返せと言うことです。これが世間の考え方です。でも、そのようにすると、お互いがいつまでも、憎み合うことになるでしょう。ところが神様は、違います。神様のはたらきは、善人も悪人も、お日様の光で包み、同じように雨を降らせます。神様は、人が神様のはたらきと同じような心をつくることを求めているのです。右の頬を打たれた時、殴り返さないで、左の頬を差し出すのは神様の心と同じだと言われているのです。つまり、神様は・人の心の憎しみが、幸せをもたらさないと教えてくれているのです」
 「なるほどね、理屈だよ。あたしが亭主とけんかすると、亭主があたしを叩くこともある。その時、あたしは、大人にならなきやいけないと、がまんする。そうすると、亭主も気持が落ち着き、手を出した俺が悪かったと頭を下げる。神父さん、こんなところかい」
 ジェルマンは苦笑した。
 「間違いじゃありません。大筋ではその通りです」
 「神父さん、俺もちっとばかし、聞きたいことがある」
 二番組の組頭内野藤右衛門が座り直した。
 「キリストさんの神様には、どんな御利益(ごりやく)があるのかね。俺たちは、御利益のある神様や佛様に、お願い事をする。死んで極楽へ行くには、阿弥陀さん、農作物が豊かに実るにはお積荷さん、病気の回復には、お薬師さんなどがある。キリス主んの神様は、一人で何でも引き受けちまうのかい」
 「すみません、私は御利益という言葉を聞いたことはありますが、正確な意味は分かっていません。ですから、教えて下さい。御利益とはどんなものですか」
 「改まって御利益とは何だと説明するのは、むずかしいよ。言で言えば、それは神様や佛様の特別のはたらきのことさ。たとえば、家族の誰かが熱で苦しんでいる時、お薬師さんにお願いすると、熱が引いて、元気な体に戻るようなことだね。それには、それなりのお賽銭(さいせん)を出し、丁寧に拝むんだよ。その拝む回数が多いほど効果があるといわれている」
 ジェルマンは思う。日本には実に多くの神々と悌たちがいる。人びとは、必要に応じてそれらを使い分けているようだ。この人たちに、神は一つであることを理解してもらわなければならないと。
 「藤右衛門さん、それは私たちとお店の関係に似ていませんか。私たちは、お金を払ってお店で欲しい物を買います。日本の神様や悌様に、お賽銭というお金を払うと、望むことがかないますか」
 「店で物を買う時は、物の値段分の金を払えば、物は手に入る。しかし、たくさんのお賓銭を出したとしても、御利益を頂ける保証はないね。第一、お賽銭の額と御利益とのあいだに、はっきりとしたきまりはない」
 「キリスト教の神様に、御利益はありません。御利益はみなさんが神様や彿様に、特別なことをしてもらいたいと期待することです。しかし、私たちの神様は、全ての人に平等です。ですから、人が=用なお願いをしても、それは実現しません」
 「御利痛がないのなら、キリシタンは、身内の誰かが病気になると、その回復を祈らないのかね」
 「そうではありません。私たちは、病気になった家族のために祈ります。ですが、神様の御憐れみとお恵みを願って祈り、神様のお計らいにまかせるのです」
 「祈るとどうなるんだね」
 「病気が回復するかどうかは、全て神様のはたらきによります。ただ私たちは、神様を信じ、神様のみ心のままにまかせ、身近な親しい人のために祈るのです」
 「全て神様におまかせする信仰なんだね」
 「その通りです」
 「なるほど、神様に帰依(きえ)するんだ」
 「人間心を捨てちまうんだ」
 会衆の中から二三人の声が出てきた。
 ジェルマンは思う。話は理解されているんだ。今交わされている問答は、キリスト信仰の根本にかかわることだ。キリスト信仰とは何か。人のさまざまな思いを捨て去り、全てを神様のみ心にゆだねることだ。それは、神様のみ心を抱いて新しく生きることを意味している。

 我キリストと借に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり           
              ガラテヤ人への書第二章第二十節

 ジェルマンは、神の思いを伝える喜びに胸が浸された。少しずつ、↑人ずつに神の声は届いている。
 話題は尽きない。時計が十二時を打った。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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