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浅草風土記 №5 [文芸美術の森]

観音堂附近

       作家・俳人  久保田万太郎

      一 

 それはただ在来の人形焼……で思い出したが、そのずっと以前、広小路の「ちんや」のならびにそれの古い店があった。夫婦かけむかいでやっていたが、そろって両方が浄瑠璃好き、ときどきわたしでも細君が三味線をひき、そのまえで主人の首をふりふり夢中でそれを語っているのを店のかげにみたことがあった。しかく大まかなせかいだった。電車も通らず、自動車も響かず、柳の菓のしずかに散りしいたわけである。― 前にいうのを忘れたが、その時分まだ「ちんや」は牛肉屋をはじめなかった。ヒマな、客の来ない、景気のわるい天聖経屋だった。……その人形焼を、提燈、鳩、五重の塔、それぞれ「観音さま」にちなみあるものに仕立てて「名所焼」と名づけたにすぎなかったが、白いシャツ一つの男が店さきで、カンカン倣った炭火のまえにまのあたりそれを焼いてみせるのが人気になったのである。そうして長い月日のうち、とうとういっぱしの、そこでの名代の店の一つになったのである。-ということは前にいった、あらわにそれを模倣する店の一二 軒といわず続いてあとから出来た奴である。
 こうして、いま「仲兄世」に、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の、むかしをいまにするよしもなくなったのは、ひとえに「時代」の好みのそれだけ曲折に富んで来た所以である。……「梅林堂」の看板娘おくめさんの赤いたすきこそ、いまやついに完全な「伝説」になり了った「武蔵屋」の、震災後、いままでのいうところの「ぜいたくや」を止め、凡常な、張子の
鎧かぶとを軒にぶら下げ、ブリキの汽車や電車をならべ、セルロイドの人形やおしゃぶりをうず高く積みあげた、それこそ隣にも、そのまた隣にも見出せるような玩具屋になり了ったことは、わたしに再び、「仲兄世」の石だたみの上にふる糸のような春雨の音を聞く能わざらしめた感がある。わたしは限りなく寂しい。そこで出来る雛道具こそ榎のかげにくろい塀をめぐらした「万悔」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥、長持長火鉢のたぐいから旅、みそこし、十能、それこそすり鉢、すり粉木の末にいたる台所道具一切の製品、それは「もちあそび」とはいえない繊細さ精妙さをもつものだった。しかも其繊細さ精妙さの内に「もちあそび」といってしまえない「生命感」が宿っていた。堅実な恥々した「生命感」が潜んでいた。― しかも、うちみのしずかに、さりげないこと、水の如きものがあった……
 そこのそうしたさまになったと一しょに、伝法院の横の、木影を帯び、時雨の情(こころ)をふくんだその「細工場」は「ハッピー堂」と称する絵葉書屋になった。 ― その飾り窓の一部にかかげられた「各博覧会賞牌受領」の額をみて立つとき、わたしのうなじにさす浅草の夕日の影は、いたずらに濃い……
 「伊勢勘」で出来る品ものは「子供だまし」という意味での「大人だまし」である。絵馬だの、豆人形だの、縁起棚だの、所詮それらは安価な花柳趣味だけのものである。かつての「武蔵屋」のそれが露にめぐまれて咲いた野の花なら「伊勢勘」のそれはだまされて無理から咲いた「室(むろ)」の花である。でなければ糊とはさみとによって出来た果敢ない「造花」である。……わたしにいわせれば、畢寛それは 「新しい浅草」 の膚浅な「純情主義」の発露に外ならない……
 が、一方は衰えて一方はさかえた。― いつのころからか「助六」と称するそれと同じような店まで同じ「仲見世」に出来た……

     二

 だが、「大増」のまえの榎のしげりの影がいかに貧しくなっても、絵草紙屋がいかに少くなっても、豆屋が減っても、名所焼屋がふえても、「伊勢勘」がさかえても、そうして「高級観音灸効果試験所」の白い手術着の所員がここをせんどのいいたてをしても、大正琴屋のスポーツ刈の店員がわれとわが弾く「六段」に聞き惚れても、ブリキ細工の玩具屋のニッケルめっきの飛行機の模型がいかにすさまじく店一はいを回転しても、そこには香の高い桜湯の思い出をさそうよろず漬物の店、死んだ妹のおもかげに立つ撥屋(ほろや)の店、もんじ焼の道具だの、せがんでたった一度飼ってもらった犬の首輪だのを買った金物屋の店……人形屋だの、数珠屋だの、唐辛子屋だの……そうしたむかしながらの店々がわたしのまえに、そのむかしながらの、深い淵のようなしずけさをみせてそれぞれ、残っている。― が、それよりも……そうしたことよりもわたしは、仁王門のそばの、「新煉瓦」のはずれの「成田山」の境内にいま読者を拉したいのである。
 岩畳(がんじょう)な古い門に下ってガラスぼりの六角燈寵。― その下をくぐって一ト足そのなかへ入ったとき、誰しもそこを「仲見世」の一部とたやすく自分にいえるものはないだろう。黒い大きな屋根、おなじく黒い雨樋、その雨樋の落ちて来るのをうけた天水桶、鋲をうった大きな賽銭箱。― それに対して「成田山」だの「不動明王」だのとしたいろいろの古い提燈……長かったりまるかったりするそれらの越せた朱の色のわびしいことよ。金あみを張った暗い内陣には蝋燭の火が夢のように瞬いている。仰ぐと、天井に、ほうぼうの講中から納めた大きな額、小さな絵馬がともに幾年月の煤に真っ黒になっている。納め手拭に梅雨どきの風がうごかない……
 眼をかえすと、狛犬(こまいぬ)だの、御所車だの、百度石だの、燈龍だの、六地蔵だの、そうしたもののいろいろ並んだかげに、水行場(すいぎょうば)のつづきの、白い障子を閉めた建物の横に葡萄棚が危く傾いている。 ― そのうしろに、門のまえの塩なめ地蔵の屋根を越して、境内の銀杏のそういっても水々しい、したたるような、あざやかないろの若葉につつまれた仁王門のいただきが手にとるようにみえる。 ― みくじの殻の数知れず結びつけられたもくせいの木の下に、鶏の一羽二羽、餌をあさっているのも見逃し難い……
 左手の玉垣の中に石の井戸がある。なかは土にうもれて明和七年ときざまれたのが辛うじてよめる…=
 金山三宝大荒神、 ― それに隣った墨色判断!門の際につぐなんだ乞食……
 わたしはただそういっただけにとどめよう。 ― お堂(観音さまのである)のまえの水屋の、溢れるようにみちみちた水のうえにともる燈火のいまなおランプであることを知っているほどのものでも、ときにこの「成田山」 の存在をわすれるのをわたしはつねに残念におもっている。 ― これこそ「仲見世」でのむかしながらのなつかしい景色である。
          ――――――――――――
 ……金龍山浅草餅の、震災後、いさましい進出をみせたのが、商売にならないかしてたちまちもとへ引っ込んでしまったのをまえに書きはぐった。lIIIおそらく後代、その名のみを残してどんなものだったかと惜しまれるのがこの古い名物の運命だろう。

『浅草風土記』 中公文庫



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