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妖精の系譜 №51 [文芸美術の森]

ノートンの「ボロワーズ」

       妖精美術館館長  井村君江

 メアリー・ノートン(Mary Norton一九〇三-)の借り暮しの小人たち五部作(『床下の小人たち』(一九五二)、『野に出た小人たち』(一九五五)、『川を下る小人たち』一九五九)、『空をとぶ小人たち』(一九六一)、『小人たちの新しい家』(一九八二)は、人間に依存して暮らす小人たちが活躍するファンタジィの傑作である。
 ノートンは最初の作品『魔法のベッド南の島へ』(一九四五)と続編の『魔法のベッド過去の国へ』(一九四七)で、新しい次元のファンタジィを開いた。この物語は、ある村のおとなしい音楽の先生ミス・プライスが、魔法の練習をしているところをロンドンから休暇で村にやってきた三人の姉弟に見つかってしまい、やむをえず子供たちと魔法のノブのついた空飛ぶベッドに乗って、さまざまな事件に出会う経緯が書かれている。昔はすばらしい超自然の力を発揮した魔法が、今は練習して修得せねばならず、またタネや仕掛けのあるものとされ、そうした魔法が合理的な現代の現実にぶつかって引き起こされる奇想天外な出来事が、ユーモラスに語られているのである。
 借り暮らしの小人の物語でも、昔は人々に好んで語られ信じられていた妖精たちが、現代では生き残りも少なくなり、もはや能力も人間並みになってしまい、やっと一族だけが古い家に住んでいるということが前提になっている。従って、彼らは昔からの妖精ではなく、小型人間、「一人前の人間」であり、その行動もみな人間のミニアチュア版になっている。本質的にすべての点で人間であり、ただピグミーのように小さいというハンディキャップを背負っている人種ということになる。
 さらには自分たちの手で物質は作り出せず、人間の文明に依存して生活している寄生的存在である。
 だが、勇気や工夫の才や虚栄や愛情や愚かさや思いやりなどの情感は少しも人間と変わらず、むしろ普通の人間よりも理想像に近くなっている。この人間寄生的存在の小型人間である「借り暮らしの小人族」は、現代に作り出されたいわば新しい妖精の一つの典型とも言えるであろう。
 メアリー・ノートンはこの小人の人種を創り出した動機を、近視だったので子供のころ、他の人たちが遥かな丘や空を翔けるキジなどを眺めているとき、自分は脇を向いて近くの土手やもつれあった草むらの中に見入っていたが、そこはジャングル劇の恰好な舞台であり、やがて小さくて用心深い小人という登場人物たちが浮かんできて、いつのまにかそのジャングルや家の中で活躍を始めたと語っている。また家の中でなぜヘアピンや安全ピン、針や指ぬき、吸い取り紙などがすぐになくなってしまうのか不思議であり、きっとこれは家のどこかに姿を見られないように住んでいる小人たちが持って行ってしまうためだ、とも考えたということである。
 この物語は、ケイトという少女に聞かせるメアリーおばさんの昔語りが外枠となっている。登場人物として活躍するのは、ボロワーズ一家の父親のポッド、母親のホミリー、娘のアリエティで、大時計の下の羽目板の穴を通路にして住まいの床下と床上の人間界を行き来しているところから、クロック家と呼ばれている。ボロワーズの家族名も、人間の物や場所からの借りものであることはまた興味深い。例えば、暖炉の上に住んでいるのはオーバーマントル一族、アイロン台にいる一家はリネンプレス家、この他ブルームカバード家(ほうき棚に住む一族)、レインパイプ家(雨どいに住む一族)などが出てくる。これらは実際人間の家族の名前に、祖先がテムズ川に画したところに住んでいたことからタイド家と名乗ったり、ロビン家、オーク家というように鳥や木の名がついた一家があることを思い合わせると興味深い。
 クロック家は父親のポッドが靴作りをして生計を立てているが、本来「小さな人々」の中のレプラホーンが、妖精の踊りへらした靴を直す小人の片足靴屋であることを思うと、この職業は妖精職業の伝統にもとづいていることがわかる。主な筋はこの一家の娘アリエティが、人間の子供と仲良くなり「見られ」た(人間に見られることは危険と死を意味している)ことから、床下を引越さなければならなくなり、安住の地を求めて野に出てさすらい、川を下り、人間につかまって見せ物にされかけるところを、軽気球で空を飛んで脱出するなど、さまざまな苦難の旅の物語である。こうした流浪の旅の原因のもう一つは、借り暮らしの小人たちが物質の恩恵で人間化することで生活が豊かになるが、その豊かな状態を保つためにはより頻繁に人間から「借り」(「借りる」と「盗む」とは異なければならず、そのためにより「見られる」危険が増すというわけで、ここには人間世界における文明化や近代化への諷刺も感じられてくる。最後には平和な暮らしを求めるために、それまで依存していた人間界と絶縁すべきことを宣言し、野原や川で苦労の末、人間界を去ってリトルフォーダムという町にあるミニアチュアの家に独立して住むことになるわけである。
  物語はボロワーズ一家の娘アリエティの活動に中心が置かれているが、この好奇心旺盛な女の子の成長や活躍につれて、人間の男の子との出会いを始め、次々と事件が生じてくる。アリエティは狭い床下から垣間見る「上の世界」(人間の世界)に興味と憧れを抱く。その結果、一人で上に出かけて「借り」の練習をしていたが、人間の男の子に見つかって仲良くなり、彼に借り暮らしの生活を語って聞かせる。その会話の中には「借り暮らしの小人」側から言われた面白い論理が語られている。.すなわち人間から「借りる」ということはしごく当り前のことであり、「盗む」こととは違う、なぜならボロワーズは人間の家の一部なのだから、その上の家の物を床下で使っても当然であると言う。また、バターのためにパンが存在しているのと同じように、人間というものは「借り暮らしの小人」たちのために存在している、と考えていることなどである。ここで 「ヒューマン・ピーン(Human Bean)」とアリエティがなまって言っているのは「人間(Human Being)」のことであり、ピーン=「豆」を重ね合わせた同音異義の面白さがあるが、それも豆のように小さい小人が、大きな人間に向かって「豆」と言っている二重のおかしみもここには重なっている。
 科学万能の世の中で、自分たちが地球上のすべてを支配できるかのごとき錯覚を抱いている人間を、「借り暮らしの小人」たちはかえって自分たちの必需品を生産し供給してくれる奴隷と思っているのは面白い。そして上の世界に「借り」に行くということは生やさしいことではなく、登山のためのピッケルとロープのように、待ち針と糸と借り袋を持って椅子やテーブルにたどり着き、必要な物を手に入れるわけで、高度の技術を要する仕事であると言っている。そしてさらに、何物にも狩りたてられることのない人間は、お互いに狩りたて合っているのだとポッドは人間を皮肉っている。こうした「借り暮らし小人」の論理は、われわれ人間中心のものの考え方、一般の理屈からは、ほんの少し視点をずらしてみただけであり、思考の回路を変えただけのことかもしれないが、鋭い人間批判と文明批判になっている。
 この小さな人々が、大きな人間たちの住んでいる世界で生きていくのはなかなか困難であり、その生存のための戦いが全篇を貫いているのであるが、この戦いは架空の龍や巨人相手の戦いではなく、ずっと現実的な飢えや寒さや「見られること」との戦いであり、作者はそれをリアルで緻密な手法で見事に描いている。
 小さいというハンディキャップを背負った人間が、知恵と工夫の才を最大限に利用し、それを乗り越えていくわけであり、一つ一つの困難の具体的内容と、それを克服する技術の描写も実に実際的で克明である。例えば、第四巻に出てくる脱出用の軽気球の作り方などは、そのまま実際に再現できるほどである。これについて作者自身はこう言っている。
「これらは実用的な本として書かれたのです。ポッドの風船は立派にその役を果しました。どなたか同じようにやってみた方もあるのではないでしょうか」
 こうした模型飛行機の製図を見るのに似た実際的知識の魅力もこの作品には溢れている。実際的知識や技術を使って困難を克服し、精二朴生きていくポッド一家の姿勢には、孤島で生きるロビンソン・クルーソーに似たものがあ。その健全で積極的なイギリス的人生観が、この五部作を児童文学の古典にしている要因の一つであると思う。

『妖精の系譜』 新書館



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