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妖精の系譜 №54 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 1

       妖精美術館館長  井村君江

子供が読者になる ― 子供の勝利 1

 イギリスが児童文学の分野で、すぐれた特色ある作品を数多く生んできたことは衆知のことである。このイギリス児童文学の特質を、イギリス文学のなかにおいて考えてみたいと思う。児童文学といっても大人の文学と関わりのない真空地帯に存在するわけではなく、その本質を少しでも掘り下げて考える際には、どうしても大人の文学との連関を念頭に置くことが必要となってくる。
 近代における児童文学の歴史はいつから始まるのか。これはなかなか定めがたい問題であるが、いま仮りにこれを、文学にたずさわる大人が「子供もまた読者になり得ると気づいた時点」と定義してみれば、ある程度ははっきりするかも知れない。もちろんこの考え方はあくまで文学プロパーの立場からのものであって、児童教育の方で文学作品を教育の道具の一つと考えるようになった時期などについてはそれぞれの論もあると思うが、ここでは「子供が自発的に読むことを目的として書かれた本」という意味で児童文学を考えるので、読者としての子供がいったいいつ頃現われたかが問題になるわけである。
 十七世紀にイギリスで広く読まれた本に、ジョン・バニアンの『天路歴程』(一六八四)がある。人間は原罪という重荷を背負ってこの世の旅路を行かねばならぬことを、主人公のクリスチャンが荷を負い、困難をおかして「光の都」の門まで辿りつく物語のなかに盛り込んだものである。いわば神学的教訓のうちの魂の遍歴というものを寓意的に描いたものであった。当時の大人は、宗教的に忍耐とか勇気とかを教え込むのによい本と思い、子供たちにも与えた。だが神学的説教や倫理観など子供たちにはどうでもよく、旅をしていく主人公の冒険の場面に子供たちは魅かれた。「絶望の沼」や「虚栄の市」を通りぬけ、魔物アポルオンと戦い、巨人デスペーアの魔手を逃れる遍歴に、バこアンは人間の経験する人生での苦悩や煩悶を象徴的に表わしたかったのであろう。彼はこの苦悩の道を経れば、「光の都」という至福の国の入口に達することができると説こうとした。だが子供たちはクリスチャンの姿に家出の快感を味わい、冒険と巨人退治の面白さを見た。
 この当時まで、十六、十七世紀のイギリスで子供たちの本といえるものは、せいぜいホーン,ブックやバトルドアと呼ばれる、柄のついた手錠型や羽子板に似た柄つきの四角の板に、絵や文字を木版刷りにした紙を貼ったものだけであった。これは「主の祈り」とかアルファベットや歌詞といったものを楽しく学ばせる教科書ふうのものだった。書き手がわからないものが多いが、現存しているものではトマス・ビューウィツクの署名の入ったアルファベットの木版の動物絵がよく知られている。エリザベス朝から十八世紀にかけて、チャップマンとかペドラーとか呼ばれる行商人が、町から村へ、家々の戸口へと小間物を売り歩いたが、縫針や首飾りに混じって、当時の流行唄や昔話を一枚の紙の裏表に刷り、三つ折土ハ頁の豆本にしたものが入っていた。「あたし印刷になっている唄が一ばん好き。印刷になるぐらいだからきっと本当だと思うわ」(シェイクスピア『冬の夜ばなし』)。
 この糸綴じ豆本が十八世紀になると、「一ペニー・シリーズ」のバンベリー版やヨーク版チヤップ・ブックとして出て、木版一枚刷の挿絵等が入った薄い小型の本の体裁をとってきて、マザーグースの唄や「親指トム」や「シンデレラ」「巨人退治のジャック」の話等が簡単に再話化されて売られていく。子供たちが見逃すはずがなく、外装の小ささと内容の読みやすさとで、チヤップ・ブックは子供部屋の「人形の家(ドールズハウス)」の側に置かれたのである。しかし読みごたえのある物語の本でないことは確かであった。イギリスでは、一四七六年にウィリアム・キヤクストンが印刷所を開き、その弟子ド・ウオルドなどがその業を継いで物語を次々と本にしていったが、昔話などの蒐集と普及が主であって、子供のための本はジョン・ニューベリーが、一七四五年にセント・ポール寺院の前に初めて子供の本屋を開くまであまり出なかった。本というものが子供に何かを学ばせるための一つの道具として、使われていたようである。この時期に、『天路歴程』は冒険遍歴物語として、子供たちの空想を広げ、いきいきとしたストーリイの展開の面白さというものを与えるに充分であった。バニヤンは敬度な宗教心から魂の問題を教えようとして筆をとったのに、それを子供たちは自分たちの本のように喜び迎えたのである。

『妖精の系譜』 新書館


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