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浅草風土記 №6 [文芸美術の森]

浅草学校

          作家  久保田万太郎

        一

 ……学校の、門のほうを向いた教場の窓から、五重の塔の青い屋根のみえることをいったわたしは、それと一しょに、そこを離れた北のほうの窓から、遠くまた、隅田川の水に近い空をしらじらとのぞむことの出来たのをいわなければいけない。 ― 花川戸、山の宿、金龍山下瓦町(広小路の「北東仲町」をいま「北仲町」といっているように、そこもいまは「金龍山瓦町」とのみ手間をかけないでいっている)、隅田川に沿ったそうした古い町々が、そこに、二三町乃至五六町のところに静かに横たわっている。 ― 「馬遺」とそれらの町々との間をつらぬく広い往還に、南千住行の、「山の宿」だの「吉野橋」だのという停留場をもつ電車のいまのようにまだ出来なかったまえは、同じ方角へ行くガタ馬車が、日に幾度となくわびしい砂けむりをそのみちの上に立てていた。そうして、いまよりもっと薄暗い、陰気な、せせっこましいそのみちの感じは、そのガタ馬車の、しばしば馬に鞭を加える苛酷な駁者の、その腰にさびしく巻きつけられた赤い古毛布のいろがよくそれを翻っていた……とわたしは微かにおぼえている。
 だから、わたしの、学校で毎日顔をみ合せる友だちは、南は並木、駒形、材木町、茶屋町、(まえにいったように、すこしのところで、わたしの近所からはあんまり通わなかった)北はその花川戸、山の宿、金龍山下瓦町。― 猿若町、聖天町を経て、遠く吉野町、山谷あたりから来るものばかりだった。まれには「吉原」からもかよって来た。~というと、いまでもわたしの覚えているのは、まだわたしの尋常二三年の時分、運動場にならんでこれから教場へ入ろうとするとき、その水を打ったような中で、突然うしろから肩さきをつかんでわたしは列外に引摺り出された。そのまま運動場の真ん中に、一人みっともなくとり残された事があった……
 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、わたしはそのとき泣かなかった。なぜならどうしてそんな目にあうのか自分によく分らなかったから。それには、それまで、柔和しいというよりはいくじのないといったほうがほんとうの、からきしだらしのなかった、臆病だった、そのくせいたってみえ坊だったわたしは、いまだ嘗て、そうした恥辱をあとにもさきにもうけたことがなかったのである。そんなへまをしたことは一度もなかったのである。― たとえば夢ごこちに、茫然とただ、われとわが足もとをみてわたしは立っていた。
― やがて悲しさが身うちにはっきりひろがった ― ポロポロととめどなく涙がこぼれて来た。
 が、それをみてわたしのために起(た)ってくれたのが「つるよし」のおばァさんである。「つるよし」のおばァさんというのは、わたしと同じ級に女の子をよこしていた吉原のある貸座敷の隠居で、始終その子に附いて来ては、ともども一目学校にいた。外の附添いたちと小使部屋の一隅を占めて宛然「女王」の如くにふるまっていた。小使なんぞあごでみんなつかっていた。― その「つるよし」のおばァさん、「あの子はそんな子じゃァない、立たせられるようなそんな悪い子じゃァない ― そんな間違ったことってあるもんじゃァない」とわが事のようにいきり立ち、わたしをそういう事にしたその先生のところへその不法を忽ちねじ込んだものである。

        

 その先生、高等四年(というのは最上級のいいである)うけもちの、頬ひげの濃い、眼の鋭い、決してそのあお白い顔をわらってみせたことのない先生だった。学校中で最も怖い先生だった。その名を聞いてさえ、われわれは、身うちのつねにすくむのを感じた。
 ― いかに「小使部屋の女王」といえど、とてもその、どこにも歯の立つ理由はなかったのである。
 が、すぐにわたしは放免された。そのまま何のこともなく教場へ入ることを許された。
 ― 素直にその「抗議」が容れられたのである。
 勿論、わたしは、「つるよし」のおばァさんのそのいきり立ったことも、先生にその掛合をつけてくれたことも、そのためわずかに事なきをえたことも、すべてそのときは知らなかった。あとで聞いて不思議な気がした。 ― 同時にいまさらのように、そのとき不注意にわきみをするとか隣のものに話しかけるとかしたかも知れなかった自分をふり返ってわたしは赧然(たんぜん)とした。なぜなら「えらいんだね、『つるよし』のおばァさんは ― ああいう先生でもかなわないんだね、『つるよし』のおばァさんには」といった風の評判の一卜しきり高くなったから。 ― 当座、わたしは、その先生の眼から逃れることにばかり腐心した。
 が、そのずっと後になって、その先生にとって 「つるよし」のおばァさんは遠い縁つづきになっていることを、わたしは祖母に聞いた。なればこそ、先生、「小使部屋の女王」のそうした無理も聞かなければならない筋合をいろいろもっていたらしいのである。……そうと分って初めてわたしは安心した。祖母もまたわたしに附添って、そのあとでは二三年わたしより遅れて入学したわたしの妹に食ッついて、ときに矢っ張、ともどもその小使
部屋で日を消す定連の一人だったのである。
 ……ただそれだけのことである。が、ただそれだけ……といってしまえない、すくなくともそういってしまいたくないものを、わたしは、このなかからいろいろ探し出したいのである ― そこには、唖鈴だの、球竿だの、木銃だのをことさらに並べた白い壁の廊下……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。~青い空をせいた葭簀(よしず)の日覆(ひおい)が砂利の上に涼しい影を一面に落していた運動場……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。- 唱歌の教場の窓に咲いた塀どなりの桐の花……そのけしきがいまわたしの限に浮ぶのである。― そうしていま、煙もみえず、雲もなく、風も起らず浪立たず……黄海々戦の歌である……あなうれし、よろこぼし、たたかい勝ち輿百千々の……凱旋の歌である……そうしたなつかしいオルガンのしらべが夢のようにわたしに聞えるのである……
 女はみんな長い枚をふりはえていた。……男の生徒といえど袴をはいたものはまれだった……
 が、それから二三年して、わたしの高等科になった前後に、それまでの古い煉瓦の校舎は木造のペンキ塗に改まった。― 門の向きが変ると同時に、職員室も、小使部屋も、いままでより広くあかるくなった。― 時間をしらせる振鈴の音は以前にかわらず響いたが「つるよし」のおばァさんたちのすがたは再びそこに見出せなかった。
「すみだに匂うちもとの桜、あやせに浮ぶ秋の月……」
そうしたやさしい感じの校歌の出来たのもその時分だった。

『浅草風土記』 中公文庫



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