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郷愁の詩人与謝蕪村 №19 [ことだま五七五]

春の部 7

         詩人  萩原朔太郎

晴信やまぶきや井手(いで)を流るる鉋屑(かんなくず)

 崖下(がけした)の岸に沿うて、山吹が茂り咲いている。そこへ鉋屑が流れて来たのである。この句には長い前書が付いており、むずかしい故事の註釈もあるのだが、これだけの叙景として、単純に受取る方がかえって好い。

行く春や逡巡として遅桜おそざくら

「逡巡しゅんじゅん」という漢語を奇警(きけい)に使って、しかもよく効果を納めている。芭蕉もよく漢語を使っているが、蕪村は一層奇警に、しかも効果的に慣用している。一例として
桜狩さくらがり美人の腹や減却す

人間に鶯(うぐいす)鳴くや山桜

 人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いているのである。「人間」という言葉によって、それが如何(いかに)も物珍しく、人跡全く絶えた山中であり、稀(まれ)に鳴く鶯のみが、四辺の静寂を破っていることを表象している。しかるに最近、独自の一見識から蕪村を解釈する俳人が出、一書を著して上述の句解を反駁(はんばく)した。その人の説によると、この句の「人間」は「にんげん」と読むのでなく、「ひとあい」と読むのだと言うのである。即ち句の意味は、行人(こうじん)の絶間絶間(たえまたえま)に鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くというのでないと主張している。句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。しかしこの句の生命は、人間(にんげん)という言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、某氏のように読むとすれば、平凡で力のない作に変ってしまう。蕪村自身の意味にしても、おそらくは「人間にんげん」という言葉において、句作の力点を求めたのであろう。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫



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