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『知の木々舎』第361号・目次(2024年5月下期編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。

【文芸美術の森】

妖精の系譜 №74                妖精美術館館長  井村君江
 あとがき 二十世紀末に生きる妖精 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-19

石井鶴三の世界 №256                画家・彫刻家  石井鶴三
 宮毘羅大将2点 1957年
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-18

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№128 美術史研究家 斎藤陽一
 明治開花の浮世絵師 小林清親 11 
   「東京名所図」シリーズから:一日の中の光の変化
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-22

浅草風土記 №26               作家・俳人  久保田万太郎
 浅草田原町 1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-17

武蔵野 №6                      作家  国木田独歩
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-16

【ことだま五七五】

こふみ句会へGO七GO №130                  俳句 こふみ会     
 「暖か」「朝寝」「蜂」「落花」
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-04-29-13

郷愁の詩人与謝蕪村 №29                  詩人  萩原朔太郎
 冬の部 1
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-13

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №183                 川柳家  水野タケシ
 4月17日、24日放送分
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-14

【雑木林の四季】

BS-TBS番組情報 №305                           BS-TBSマーケテイングPR部
 2024年5月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-10

海の見る夢 №76                                    渋澤京子
   1995年。夏
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-9

住宅団地 記憶と再生 №35   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 補記 ライフフェルデ団地 
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-8

地球千鳥足Ⅱ №46            小川地球村塾塾長  小川彩子
 中欧の秘宝リヴィウの石畳みに映える美男美女~ウクライナ
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-7

山猫軒ものがたり №39                    南 千代
 タヌキのあかちゃん
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-6

【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №224       岩本啓介
 根室本線・富良野~野花南
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-3

夕焼け小焼け №36                       鈴木茂夫
 岡崎高師不合格・新制高校3年生 1     
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-4

押し花絵の世界 №202                                     押し花作家  山﨑房枝
 「デルフィニュウムと千鳥草のスマホケース」   
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-2

赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56      銅板僧形作家  赤川政由
 行田の童 原画 2
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-1

多摩のむかし道と伝説の旅 №126               原田環爾
 西多摩の多摩川河畔の桜道を行く 6
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14

国営昭和記念公園の四季 №152
 カルミア (日本庭園)
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-20

【代表・玲子の雑記帳】                『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2024-05-14-12


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №128 [文芸美術の森]

           明治開化の浮世絵師 小林清親
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一  
                  第11回 
           ≪「東京名所図」シリーズから:夜の光景≫


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「光と闇」に鋭敏な感性を持つ小林清親は、闇にまたたく「蛍の光」にも感応します。
 この作品は、清親が明治13年(33歳)に描いた「御茶水蛍」。現在の「お茶の水」あたりの神田川の夜の光景です。

 川には屋形船が浮かんでいる。蛍狩りを楽しむ遊覧船です。この船から洩れる光以外に灯の無い暗闇なので、蛍の微かな輝きがより明るく感じられる。それにしても、当時の神田川は、夏になると蛍が飛び交うほどの清流だったのですね。今の神田川のこのあたりを見ると、とても信じられない夜の光景です。

 闇の中とは言え、清親は、手前の崖を濃い墨色にして、奥に向かうにつれてだんだんと薄い墨色にすることによって、奥行き感を表現しています。

 「江戸名所図」シリーズの中には、お茶の水のこの場所を、同じ構図により「冬の雪景色」として描いた作品がありますので、ご参考までに紹介しておきます。(下図)

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 これが、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「御茶の水雪」。「御茶水蛍」と同じ年の作品です。

 清親は、このアングルが気に入ったのでしょうね。同じ構図で、夏の闇に蛍が飛び交う景色と、雪が降り積もった森閑とした冬景色とを描き分けている。どちらもそれぞれの季節感が表現されていて、情緒ある風景画になっています。

 川の上に架かっている橋のようなものは、神田上水を引くための「懸樋」(かけひ)ですが、現在はありません。

 「蛍の光」を描いた絵をもうひとつ紹介します。

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 これは、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「天王寺下衣川」

 天王寺は、谷中にある天台宗のお寺。その下を流れていたのが衣川(ころもがわ)。今も天王寺は日暮里駅近くの高台にありますが、この絵が描かれた明治初期には、その下を衣川が流れていたようです。現在、川は埋め立てられて、山手線の線路となっている。

 この絵、川のほとりにある一軒家を描いている。窓からは明かりが洩れ、何やら語り合う親子らしき影が映っている。母親が子どもに物語でも話しているのだろうか。
 窓の明かりは水面に反射し、川の流れをきらめかせている。
 木々に包まれたこの家のまわりに、無数の微光が見えるが、これは、川岸を飛び交う蛍が放つ光です。

 よく見ると、右手には、提灯を下げて橋を渡る人影がうっすらと見える。我が家に帰るこの家のあるじかも知れない。
 どこか生活の温もりをかんじさせる、懐かしい夏の夜の風情です。         

≪花 火≫

 江戸っ子・小林清親にとって、夏の夜に花開く光「花火」もまた、制作意欲をかき立てる画題でした。

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 これは、小林清親が明治14年(34歳)に制作した「池の端花火」。場所は上野の不忍池。
 花火を見る人々がすべて黒いシルエットで描かれています。木に登っている人もいる。右手には弁天島の影も薄く見える。
 対岸には小さな灯りが点々と連なっているが、それが水面に細い筋の連なりとなって映っている。手前には赤い提灯がいくつも吊るされ、画面にリズムを生んでいる。
 
 打ち上げられて花開いた後、しぼんで落ちていく「花火」の表現が面白い。
 魅惑的な夏の宵の情感を感じさせる絵です。

 「花火」の絵をもう1点。
 下図は、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「両国花火図」

 江戸時代以来、夜空を輝かせる花火は隅田川の夏の風物詩であり、とりわけ「両国の花火」は、江戸っ子たちの人気を大いに集めました。
 両国界隈に育った清親にとって、子どもの頃から親しんだ心躍る夏の思い出だったでしょう。

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 明治になってから、外国から輸入した化学薬品によって、この絵に見られるような「大型花火」も作れるようになりました。
 それにしても清親のこの花火の表現、水平線上にさく裂した大型花火が大きな光の環となって夜空一杯に広がる様子を描いて、ダイナミックですね。

 水上では、その光の環に向かって殺到するかのように、無数の納涼船が向かっている。大きな歓声が伝わってくるような光景です。

 次回は、小林清親の「東京名所図」シリーズから、「雨の日の情感」を描いた作品を紹介します。
(次号に続く)




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妖精の系譜 №74 [文芸美術の森]

あとがき 二十世紀末の妖精 2 

        妖精美術館館長  井村君江

 カーニヴァルの話から妖精へ話題か移った。コーンウォールはなんといっても鉱山に住むピタシーやノッカーに人気があるが、スプリンガンを知っている人がいないのには驚いたし、ブッカは悪魔だという。もと銅を掘る坑夫だったレイモンド・カ-ノーが、ビウシーの音楽を聴いた経験を話してくれた。マラザイアンの北の町バンディーンにあるギーヴォアの錫鉱山(ティン・モア)の坑道に入った五年前のこと、仲間からはぐれて一人曲りくねった地下の道を歩いていたとき、はるか遠くから世にもまれな美しい音楽が聴こえてきた。地下の水滴が落ちる音だったのじゃないか――友人の一人が言ったが、いや、もっとうっとりするようなフェアリー・ミュージックだったし、今でもそのメロディーは耳についているというのである。妖精は信じていなかったが、あれは確かに妖精の音楽だったと信じていると、レイモンドは真面目に強調していた。こういう経験を通して、イギリスの妖精は人々の心の中に生きているのか――とエールのジョッキを傾けながら感心して聴いていたのである。すると友人のジムが鉱山には確かに妖精が住んでいるし、その妖精の娘(フェアリー・メイドン)の名前はクレメンタインだといって、「あの娘は身軽でフェアリーのよう、だけど靴は眠ってた……」(Light she was, like a Fairy,but her shoes were slumber……」と『クレメンタインの歌』(イギリからアメリカへ渡ったという)を歌い出すと、皆の合唱になってしまった。
 妖精はいるか、妖精を信じるか、などという質問は彼らの前ては野暮なことであり、生活や日常経験の中に妖精はいつの問にか入り込んで息づいているのである。
 こうしたイギリスの人々や生活、小鳥や動物の遊ぶ自然の中で暮らしていると、妖精は身近な存在であることを実感させられる。そしてイギリスの人々のものの見方や考え方、彼らの古代の世界の中へ入って行く道を、妖精たちが与えてくれたように感じるのである。そしてその妖精の道を入っていったところ、伝承文学やフォ-クロアの世界から、ロマンスやバラッドの世界、それに統くイギリス文学者たちの世界へ、さらにはケル卜神話の世界、アーサー王伝説の世界、児童文学の世界へと、道は限りなく広がっていき、その軌道を追って書き記していくうちに、イギリス文学の底流を妖精に導かれていつの間にか辿ることになってしまったのである。そして異教の影の世界から入る新しい見方をとると、今まで見えなかったイギリス民族が古代から持ちつづけていた思念や想像力のあり方が、立体的になって見えてきたように思うのてある。

 妖精との出会いの端緒は修士論文のコールリッジのっ想像力の問題からであったが、本書の第三章で扱っている「旅」の概念もそうであり、海の彼方への旅として「海洋冒険小説」を、時空を越える旅として「妖精物語」を書き、イギリス児童文学の特性を考えようとしたものである。
(「イギリス児童扮学と旅」 ― 『鶴見大学紀要』9号 一九七一年)
 それが右の論文を本書に収録した所似であり、妖精が今日でむ豊かに息づいているのは児車文字の世界であると考えるので、未発表の「児童文学の妖精像」をその前に置いた。
 アイルランドは」はドは妖精の宝庫てあり、妖精の伝承物語とケルト神話、その底にあるドゥルイド思想から異界観を考えようしたのが第四章である。イエイツがその中心的存在であり、伝承の採話であると言うこととの連関もあり、拙訳『ケルト幻想物語』『ケルト妖精物語』(一九八七)に付した解説を増補しまとめ、ケルト民族の妖精観やアイルランドの伝承物語の採集と保存について書いた小論をこの章にまとめた。
(ケルト民族のフェアリーランド観」 ― 『鶴見大学紀要』18号 一九八一年)
(「フェアリーランドへの道」(1) ― 『児童文学世界』5号 一九八二年)
(「フェアリーランドへの直」(2) ― 同誌6号 一九八四年)
 キヤサリン・ブリッグズ女史との出会いは私の妖精研究にとって決走的なものであった。手探りの不確かな足どりに自信をつけてくれたものであり、その豊かな業績を辿ることは、私自身の妖精遍歴の旅の軌道を確かめることでもあった。
(「キャ十リン・ブリッグズ女史の妖精学」 ― 『英語教育』24号 一九八一年)
(英文学とフォークロア――ブリッゲズの業績」 ― 『鶴見大学紀要』19号 一九八一年)
 この二編を「キャサリン・ブリッグズの妖精学」として第五章にまとめた。同じ章の「英文学とフォークロア」は、日本英文学会でのシンポジウム「伝承文学の諸問題」(平野敬一・吉田新一.三宅忠明諸氏、一九七九年)と「フォークロアと文学」(木内信敬・船戸英夫・橋内武諸氏 一九八五年)で司会をつとめた際に考えたものに、これまでの講演や小さな原稿をまとめて一つにしたもので、そこに本書に必要と思われる参考文献解題を入れて書いたものである。
 本書をまとめるまでに本書のテーマに関連する小論や講演をいくつかか行う機会があったが、とくに『アーサー王物語』(一九八七年」を筑摩書房から出し、イエイツの『ケルト妖精物語』『ケノルト幻想物語』(ちくま文庫)一九八七年刊を改訂する什事は、第一章や第四章を書くためのよい準備となった。プリッグズ女史の『妖精事典』翻訳(冨山房刊予定)の作業も続行中であるが、完成の段階に入っている。
 本書直前に当り「イギリス文学の中の妖精像の変遷」と題してもよい第一、第二章の部分は、「シェイクスピアの妖精」(『明星大学紀要』2号 一九八六年掲載)を除き、一九八六年に朝日カルチャーで八回にわたり話したもめが骨子にはなっているが、それらを念頭に置いてイギリスより帰った九月中旬から一気に書き下したものである。妖精と共に、妖精の案内で、イギリス文学を古代から十九世紀末まで主な作家と作品とを通観してみたことは、大変有意義な楽しい作業であったし、作家たちのそれまで見えなかった特色が思いがけず判ってくることもしばしばであった。
 この作業にアテンダント・スビリット的立場から御協力下さった新書館の編集員である後藤真理子さんの親切をここに改めて感謝申し上げたい。『妖精の国』(一九八七年六月)に続いて、本書を企画して下さった新書館の安藤和男氏、講演会のテープ起こしをして下さった明星大学図書館員麓常夫さん、朝日カルチャーの講義をテープ起こしして下さった明星大学大学院生だった深沢清さん、その他の方々の親切を、ここに改めて感謝したいと思う。新しい年と共に宇野亜喜良氏による美しい装値の本書が、海を渡ってくるのをイギリスの地で待つことになるが、今年の、クリスマスにはどんなパントマイムが上演されるか、二十世紀末の妖精たちが舞台でいかなる活躍を見せてくれるか、また楽しみである。
                十二月二十日 狭霧流れるころ東京にて

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №256 [文芸美術の森]

宮毘羅対2点 1957年

        画家・彫刻家  石井鶴三

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宮毘羅大将 1957年 (275✕126)
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宮毘羅大将 1957年 (175×126)

************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』形文社


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浅草風土記 №26 [文芸美術の森]

浅草田原町 1
         作家・俳人  久保田万太郎
     
                     一

「田原町一丁目、二丁目、三丁目。――三丁目の大通りに出ると電車が通っています。広小路の広い往来で、雷門当たりの、宿屋、牛屋、天婦羅屋、小料理屋がわずか一丁ばかりの間に、呉服屋、鰹節屋、鼈甲屋、小間物問屋といったような土蔵づくりの、暖簾をかけた、古い店舗(みせ)になってならびます。その反対の側は、砂糖屋、漬物屋、糸屋、薬種屋、といったような同じく古い店舗がいろいろ並んでいます。少し行くと俸屋があって、大きな八百屋があって、そのききへ行くといつも表の格子を閉めた菓子屋があります。
 落語によく出る『やっこ』という鰻屋と、築地本願寺御用という札をかけた、吉見屋という仕出屋があります。町は違いますが、その並びに有名な本屋の浅倉屋があります。
 本願寺の大きな屋根が、大通りのつきあたりに遠くそそり立っています。雷門のあたりから見ると、電車の柱のかげに、ちょうど中空に霞んでなつかしく見栄ますが、そばに行くと、その破風の白い色が、青く晴れた空にいい知れぬさびしさを添えています。
 十月、十一月。―― 冬になると みちの両側に植えられた柳が日一日と枯れていきます。で、だんだん空か、くらく、時雨れるような気合をもって来ます。
 横町かたくさんにあります。
 大通から、ヒト足、横町に入ると、研(とぎ)犀だの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなければ、床屋だの、米雇だの、俥屋だの、西洋洗擢屋だの、そういったような店ばかり並んでいます。
 二、三軒、近所にかたまって大工の棟梁のうちがあります.
 ――その間に小さな質屋かあります。紺の気の抜けた、ねぼけた色の半暖簾が、格子のまえにかかっています′
 どこの土蔵の壁も汚れています。しかしどの横町にもその汚れた壁か何よりもさきに目につきます。――雲った日はその壁の色か暗くみえます。晴れた日にはその壁のいろがあかるくみえます。
 雪が一度ふると、土蔵の裾によせて掻いておく雪が、いつまでも解けずに囲まって残ります。
 空のよく晴れた、日の色の濃い日は.かえって横町はさびしい光景(けしき)をみせます。
 わたしは冬のことばかり書きます。l
 一軒の質屋は立ち行かないので、片手間に小切屋(こぎれや)をはじめました。格子を半分外してそこに見世をこしらえ、軒さきに綺麗な刺繍をした半襟だの、お召や銘仙の前かけの材料だのを、いちいち下げるようになりました。
 角には仕立屋があります。――窓に簾(すだれ)をかけ、なかに五六人の弟子かいつもせっせと手をうごかしています。
 いまはなくなりましたが.以前その二、三軒さきに小川学校という代用小学校がありまし。――その通りには、両側に、ずっと古着屋ばかり並んでいます。汚い暖簾と、軒さきにつるした古着とで真っ暗な見世の中から、あま若い番頭や小僧が往来の人をたえず呼びこんています。
 古着屋の番頭や小僧といえば.人を喰ったもの、口の均わるいものと近所ではきめています。――古着屋というと堅いうちでは毛虫のように嫌います。
 横町には、また、細々した路地かたくさんあります。見世物の木戸番、活動写真の技師、仕事師、夜見世の道具屋、袋物の職人、安桂庵(けいあん)。――そういったものがいろいろとその路地の中に暮らしています.
 横町に古くいた常磐津(ときわず)のお師匠さんで、貰ったむすめの悪かったばかりに、住み馴れたうちを人手にわたし、いまでは見るかげもないさまになって、どこかの路地に引っ込みました。――が、ときどきなお、近所の洗湯に、よぼよぼ行くすかたがみえます。
 ある路地のなかには真間(まま)という代用学校が残っています。

『浅草風土記』 中公文庫


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武蔵野 №6 [文芸美術の森]

武蔵野 6

          作家  国木 田独歩

        六

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居(ぐうきょ)を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直まっすぐに四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋(かけぢゃや)がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥(む)いてくれる甜瓜(まくわう)を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉のどを湿うるおすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜(なべかま)を洗うようであった。
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚おろかにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑(むしあつ)い雲が湧わきいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬(たとえ)がたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々(あわあわ)しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁にごった色の霞(かすみ)のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差(しんし)、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈つんざく光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良(のら)一面、糸遊(いとゆう)上騰(じょうと)して永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘(あえ)ぎ喘ぎ辿(たど)ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪やぶの間から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏(おんどり)が時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠(こも)って、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鶏(にわとりの群が幾組となく桜の陰などに遊んでいる。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒(ま)いた)ような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬(またた)く間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上がまばゆく煌かがやいてきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量(みずかさ)があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉もみあって、みずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!
“――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”
の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わしたくなる。自分はこの流れの両側に散点する農家の者を幸福(しやわせ)の人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子むぎわらぼうしとステッキ一本で散歩する自分たちをも。

『武蔵野』 青空文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №183 [ことだま五七五]

           読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆4月17日、24日放送分

         川柳家・コピーライター  水野タケシ


川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
4月17日の放送です。

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いい陽気になってきました

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。

エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
https://fm839.com/program/p00000281
放送の音源・・・https://youtu.be/puxVfVVP-l0

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
 あさひろさんのボツのツボ
「散歩する春の匂いのする方へ」(全裸川柳家・そうそうさん)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は212の投句がありました。ありがとうございます!
・スクランブル交差ぶつかる人いない(東孝案)
・新製品出すぎて悩む缶ビール(とんからりん)
・ふと見たら平均寿命越えていた(柳王・春爺)
・友情も太刀打ち不能横恋慕(矢部暁美)
・投げキッス今頃キーウ上空か(名人・パリっ子)
・テキパキと体動かす気持ちだけ(ゆかいな仲間)
・涙にも見えなくはない花ふぶき(シゲサトシ)
・鮮やかにひしめき合って春の庭(柳王・はる)
・飛びっきりの笑顔土産に天国へ(名人・くろぽん)

☆タケシのヒント!
「くろぽんさん、5回目の秀逸で大名人昇進です。笑顔の素敵な弟さんがお亡くなりになったとのこと。『飛びっきり』の『っ』が良いですね。これからも弟さんのことを詠んであげてくださいね。」

・ラジ川へはじめの一歩から一年(名人・大和三山)
・パリ子さん私の愛で包みたい(大名人・やんちゃん)
・被害者と打者と難儀な二刀流(柳王・せきぼー)
・大の字に空と大地のいい匂い(名人・翔のんまな)
・倦怠期あきらめ期今いたわり期(大柳王・すみれ)
・ひまわりが咲かんばかりのエイプリル(名人・おむすび)
・目が合った其の数秒で恋に落ち(遊子)
・花々が咲いて何故だか焦燥感(大名人・ワイン鍋)
・折れた桃花を咲かせて切れません(大柳王・平谷五七五)
・丁字路を曲がって未来へと歩く(大名人・じゅんじゅん)
・彼女メシ旨くてもっと好きになり(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・妻よりも穴開きパンツ情感じ(柳王・恋するサボテンちゃん)
・意を決しいざ出陣じゃ新学期(名人・わこりん)
・わこりんは卓球部からテニス部へ(大名人・美ら小雪)
・迷ったらこれ!」と書かれたほう選び(柳王・ぼうちゃん)
・くちびるを確かめてみる六十代(大柳王・入り江わに)
・空襲の終わりの前に落ちた花(初投稿・アリョナ)
・ショウヘイの心は誰も訳せない(名人・せ・ら・び)
・フラれたくなくて誘わないでフラれ(しゃま)
・お返しのチョコ召し上がれJUNJUNに(ナンパも大名人・soji)
・春に曙散ってしまった(大柳王・ユリコ)
・さえずりがいつもと違う新学期(大柳王・けんけん)
・参考にしてと師匠の本貸され(名人・のりりん)
・ワクワクが加速していく強運会(柳王・咲弥アン子)
・招待状来たよ行きます強雲会(柳王・アンリ)
・やらかいこころでいたい春キャベツ(大柳王・かたつむり)

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・ターニングポイントになる句を詠んで(初投稿・水野英明)

◎今週の一句・飛びっきりの笑顔土産に天国へ(名人・くろぽん)
◯二席・さえずりがいつもと違う新学期(大柳王・けんけん)
◯三席・ショウヘイの心は誰も訳せない(名人・せ・ら・び)

【質問リターンズ】
もしも収録時間に余裕があれば、この「名人」→「大名人」と
昇格していくシステムについて、一度ご教示願います。

【編集後記】
ああ、やっと春らしくなってきたと思ったら、
もう夏日が続いています。時間があるとジョギングするのですが、
日焼け止めスプレーをします。そろそろ昼をやめて早朝にしようかな。(水野タケシ拝)

○4月24日の放送  

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放送の音源・・・https://youtu.be/E1zRsxj8Cwc

先週のボツの中からあさひろさんイチオシの句をご紹介!!
 あさひろさんのボツのツボ
「水やりも孫の笑顔で苦にならぬ」(じゅんちゃん)

(皆さんの川柳)※敬称略
※今週は206の投句がありました。ありがとうございます!
・桜去り選手交代ハナミズキ(相模のトムクルーズ)
・二刀流大谷足でも二盗見せ(初投稿・高橋勝利)
・老眼はぼかしぼやかす粋な武器(矢部暁美)
・自分(ボク)のことだけを見ていてほしいのに(恋愛名人見習い・名もなき天使)
・ランキングあまりアテにはならないな(大柳王・平谷五七五)
・憧れたスターが勧める白髪染め(とんからりん)
  (添削例)憧れたスター勧める紙おむつ
・包まれて目を覚ましたら天国で(名人・パリっ子)
・店員のチャキチャキ感でとるつまみ(名人・せきぼー)
・ゴビ砂漠わりと近くにあるんだと(シゲサトシ)
  (添削例)ゴビ砂漠わりと近くにあるんだな
・足腰がピンと伸びたよ年金日(じゅんちゃん)
・この先はパリ子さんの愛に満ち(大名人・やんちゃん)
・空を飛ぶ車運転命がけ(名人・おむすび)
・さあ行くで俺にもあった強運が(名人・大和三山)
・老人に学習塾の通知来た(桐山榮壽)
・ゴミがない収集時間変えないで(柳王・東海島田宿)
・イチゴ狩り音符のように並んだ実(柳王・アンリ)
・とびきりの笑みで天使に抱きつかれ(大名人・美ら小雪)
・母さんの心は湿度90% (名人・わこりん)
・生きている声なき声に支えられ(大柳王・入り江わに)

☆タケシのヒント!
「手術が無事成功して退院されたばかりのわにさん。実感句ですね。リハビリもあるのでしょうか?みんな応援していますよ。頑張ってくださいね!」

・コンビニの閉店街が老いてゆく(大名人・マルコ)
・ネモフィラが覚えられない何故なんだ (遊子)
・阪神が勝つと五七五湧いてくる(名人・翔のんまな)
・花は葉にそろそろ友達できる頃(大柳王・すみれ)
・ドキドキの師匠匂わせファンブック(大名人・ワイン鍋)
・sojiさんだしゃれをナンパのテクにして(しゃま)
・友へのLINE既読がついた三回忌(大柳王・かたつむり)
・もう慣れた?ナンパしやすい新年度(ナンパも大名人・soji)
・友だちと云っていいかと友に聞く(新大名人・くろぽん)
・訓練のようにはいかぬ緊急時(柳王・はる)
・飲んだ後聞いた度数で急に酔い(大名人・不美子)
・退職後連休天気気にならず(名人・のりりん)
・強運会嬉しい予約ハグ一つ(大柳王・けんけん)
・知りたいわ浮気をさせぬ方法を(柳王・咲弥アン子)
・ピロリ菌検査で連想金太さん(柳王・フーマー)
・どっち先腰と減量悩み痛(大名人・ポテコ)
・幸せが続くようにといつも笑み(水野英明)

◎今週の一句・生きている声なき声に支えられ(大柳王・入り江わに)
◯二席・花は葉にそろそろ友達できる頃(大柳王・すみれ)
◯三席・ゴビ砂漠わりと近くにあるんだと(シゲサトシ)

【お知らせ】
最近このラジ川でも斎藤編集長が登場したりして存在感を増しているタウンユースですが、
こどもタウンニュースの名物コーナー「さがみっこ川柳」、
現在、夏号用の川柳を募集中です。

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【編集後記】
花粉症もようやく終わって(?)今週から
自転車通勤かと思いきや、
春の雨。なかなかうまくいかないものです。
来週こそ!!(水野タケシ拝)

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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」  http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 




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郷愁の詩人与謝蕪村 №29 [ことだま五七五]

冬の部 1

        詩人  萩原朔太郎

凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 北風の吹く冬の空に、凧(たこ)が一つ揚(あ)がっている。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚っていた。蕭条(しょうじょう)とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子(ガラス)のように冷たい青空。その青空の上に浮うかんで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚っている。飄々(ひょうひょう)として唸(うな)りながら、無限に高く、穹窿(きゅうりゅう)の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂っている!
 この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現われている。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚っている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」という如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情詩の手法を持っていたということにある。


藪入(やぶいり)の夢や小豆(あずき)の煮えるうち

 藪入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢(あ)ったのである。子供に御馳走(ごちそう)しようと思って、母は台所で小豆を煮(に)ている。そのうち子供は、炬燵(こたつ)にもぐり込んで転寝(うたたね)をしている。今日だけの休暇を楽しむ、可憐(かれん)な奉公人の子供は、何の夢を見ていることやら、と言う意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、単にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘(わび)しい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでる情想の主題テーマを見るべきである。こうした郷愁詩の主題テーマとして、蕪村は好んで藪入の句を作った。例えば 

 藪入やよそ目ながらの愛宕山(あたごやま)
 藪入のまたいで過(す)ぎぬ凧(たこ)の糸

 など、すべて同じ情趣を歌った佳句であるが、特にその新体風の長詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄(こもりうた)であるところの、遠い時間への懐古的郷愁を咏嘆(えいたん)している。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあったに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあったことを、読者は特に注意して鑑賞すべきである。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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雑記帳2024-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2024-5-15
◆5月は「麦秋」の季節です。栃木県にある大麦畑の一坪オーナーである私は刈り取りを迎えた麦畑を見学できることになりました。

きっかけは通信販売で大麦のお菓子を買ったことから。大麦の効用はしらないまでも、食物繊維が豊富だ位は知っていた。食べてみると、適度に美味しく、適度に安かった。

ある年、耕作放棄された荒れ地を麦畑に変えたいという会社の便りが届きました。1万円で願いを敵える手助けをしてほしい、というお誘いでした。世にある、高齢者がよくかかる詐欺まがいではないのか。そうだとしても1万円ですむのなら、見返りを求めなければだまされてもともとくらいの気持ちになれます。こうして畑の一坪オーナーになったのでした。

オーナーには毎年、この季節に見学会のおしらせがきます。たわわに実った麦の穂を一度見たいものだと思っていましたが、足利は遠い。どうやって行こうかと思案していたところ、知り合いが車を出してくれることになりました。運よく、この日のメニューには畑の見学と2人分のお昼がついていました。

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ランチのお弁当はなかなか美味しかった。ごはんは麦ごはん。

足利にある「おおむぎ工房」は、実は15年前のNHKのテレビ番組「小さな旅」でその前身が紹介されていました。社長の浅沼 誠司さんがまだ父親の小さな洋菓子店で働いていたころのことです。
大学を出て店の営業をしていた当時、地方からの帰路で、車窓に見た故郷の景色を忘れることができないといいます。それは夕陽をあびて黄金色に輝く麦の畑でした。この光景を残したい、そのために自分になにができるのかを考えたそうです。地域の特産である大麦を使ってお菓子はできないだろうか。

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浅沼さんが見た景色と同じ風景が車窓に広がる。大麦は黄金色に小麦はまだ青い。

栃木県、なかんずく足利は全国有数の大麦の産地です。私も40年以上前に福岡にすんでいたころ、筑後平野で大麦が栽培されていたことを思い出しました。聞けば、栃木と佐賀県が大麦の栽培で全国1,2位を競っているということです。栽培されている二条大麦はいずれも麦酒の原料になります。 なので、すべて契約栽培。農家の収入は安定しますが、逆に、麦酒以外の用途で大麦を育てている農家はいないのです。その中で何とか5キロの大麦を手にいれた浅沼さんでしたが、粉に挽くにも苦労がありました。お菓子の原料を確保するために、みずからの畑で大麦栽培に取り組む事は欠かせませんでした。

国の減反政策で農家が手放した田圃は今でも全国にたくさんあります。放置された田圃は荒れ、やがて森や林になってしまいます。社員一丸となって、樹を切り、耕して育てた大麦畑をこの日、私たちは見ることができました。

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人の腰の高さまで実った大麦畑。

浅沼さんの麦畑は海外からの視察も多いそうです。
同行した連れも私も昭和の子どもで、小さい頃、麦ふみをした記憶があります。冬に麦をふみつけることが、麦の成長をうながすのですが、それが麦をいためているのではないかと一様におどろくそうです。広い畑は人力では追いつかず、今は機械が代わりだということでした。

ところで、私たちが一般に目にする小麦粉にたいして、わざわざ大麦粉という名前がないように、小麦と大麦は同じイネ科の植物ながら用途も性質も違います。大麦は越年草で小麦は一年草。大麦はそのままの形で発酵させて味噌やビールに、小麦は粉にしてパンや菓子、麺類などに加工されます。成分は似ていますが、大麦には食物繊維が多く、小麦にはグルテンが多く含まれます。練るとネバネバするグルテンのないことが、大麦がお菓子作りにむいていない理由です。浅沼さんが大麦のお菓子を商品化するまでには試行錯誤の日々があったということです。会社の看板メニューの「大麦ダックワズ」は、メレンゲが主な材料なので生まれたお菓子です。

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二条大麦 2本の筋がある。
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大麦にはノゲとよばれる毛があって風がふくと畑に黄金色の波ができるのだという。小麦にはない。

大麦工房では検品の際に出てくる不良品を「わけあり」商品として、安い値段で提供しています。私も実はわけあり商品の愛用者です。フードロスにつながるので、他でも値引きした訳あり商品がひろがるといいなと思っています。

行きは圏央道から関越を、帰りは東北道を利用したので、関東を一円することになった楽しい大人の遠足でした。乗せて行ってくれた連れに感謝です。
それにしても麦秋とは言いえて妙。美しい日本語の一つだと思います。


5月12日は国営昭和記念公園の無料開放日でした。

連休つかれなのか、比較的早い時間帯だったせいなのか、来場者は思ったより少なく、この季節の花々をじっくり眺めることができました。日本庭園のアヤメは見ごろを過ぎていましたが、花木園のショウブはまだ養生中です。そんな中でネモフィラの寿命は長いです。つつじの終わった園内には、シャリンバイやカルミアがいたるところで満開になっていました。

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シャリンバイ(日本庭園)
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ベニバナトチノキ(花木園内のハーブ園)
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エゴノキ(日本庭園)
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キンセンカ(こもれびの里)
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スイカズラ(こもれびの里付近ノサイクリングロード)

楓風亭のこの日の生菓子は「薫風」でした。新緑のこの季節にぴったりの名ではありませんか。

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薫風

立川で一番新しい街区グリーンスプリングズでは、連休中、アロハフェスが開かれていました。
運営にあたるスタッフは皆若く、次々に湧いてくるような人の流れを見ていると、賑わいを租出する様々な工夫があるのだろうと思わされました。今、このエリアは若者の集まるファッショナブルな街として注目されています。

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BS-TBS番組情報 №305 [雑木林の四季]

BS-TBS 2024年5月後半のおすすめ番組

     BS-TBSマーケテイングPR部


関口宏のこの先どうなる!?

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5月19日(日)ひる12:00~12:54 
☆日曜のお昼は関口宏と未来について考える!世界が抱える〝今〟の問題と日本の〝未来〟を紐解いていく。

#5「少子化」
2023年の日本の出生率は1.20。

出生率過去最低を記録し、少子化が止まらないニッポン。政府は2030年までが、少子化反転へのラストチャンスと位置づけているのだが…。
少子化は、日本だけでなくアジア全体で深刻な問題に。韓国でも出生率0.72と、過去最低を更新。世界が少子化に陥る理由とは?

番組では、出生率1.88をほこる、熊本県のとある街を取材!少子化打開策は、”東京一極集中”を解消すること?
少子化問題の「この先」を考えるー
【出演】関口宏、川口盛之助(未来予測研究家)
【ゲスト】森永康平(経済アナリスト)

開演!時代を彩る名曲七番勝負

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5月19日(日)よる9時~10時54分 
☆デビュー15年までの若手演歌歌手が集結!2チームにわかれて7曲の歌勝負!

◆キャスト
司会:武井壮、市川美織

進行:宇内梨沙(TBSアナウンサー)
出演:松阪ゆうき、パク・ジュニョン、羽山みずき、彩青、望月琉叶、竹野留里、木村徹二、藤井香愛、松尾雄史、三丘翔太、二見颯一、原田波人、小山雄大、田中あいみ

歌手歴15年以内の若手演歌歌手が、2チームに別れて対決!各チーム7曲を交互に披露して勝者を決める。審査をするのは、10代・20代の男女20名。勝負毎に「もう一度聞きたい!!」と思った方に1票を投じる。勝利チームは、新曲の1コーラスメドレーを披露することができる。
各勝負にはテーマが存在。『1970年代に発売された曲』、『1980年代に発売された曲』、『デュエット曲』、『1990年代に発売された曲』、『2000年以降に発売された曲』、『3人以上で歌う曲』など、選曲も重要となる。

カンニング竹山の昼酒は人生の味。

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5月21日(火)よる11時~11時30分
☆飲み仲間を探しに街へと繰り出す昼呑み番組。青空の下で、一緒に泣いたり笑ったり怒ったりルール無用の人情トークを展開!

◆キャスト
【出演】カンニング竹山

記念すべき第1回は上野にある新鶯亭から始まる。
スタッフが店内に入ると、竹山さんが団子とおでんをつまみにビールで一杯やっていた。
「色んな出会いを求めていきながら美味い酒を呑む」と語る竹山さん。
さっそく呑み仲間を探すべく、動物園や美術館などの観光スポットで賑わう上野の街へと繰り出す。
そこで出会った夜勤明けのサラリーマンや青森の親子とお酒を飲みながら仕事での悩みから人生についてまでを語り尽くす!


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海の見る夢 №76 [雑木林の四季]

       海の見る夢
            -1995年。夏―
                     澁澤京子

 夕食が済んだある夏の晩のことだった。何かお菓子を買いに行こうと妹が言い出し、私たちは山のふもとのコンビニまで車で出かけることになった。その夏、妹と小さい息子二人と八ヶ岳にいたのである。私たちがコンビニで買い物をしていると、女性と子供たちの団体が入ってきた、子供たちも女性も着の身着のままといった感じの異様な風体で、たくさんの飲み物や食べ物を買うのに、すべて小銭で支払っているので会計にとても時間がかかっている、小銭を積み上げて支払いをしている女性は、自然食にこだわる女性にいそうな、長い髪を束ねたほっそりした女性だった。ちょうど上九一色村のオウムの施設に一斉捜査が入っていて、テレビをつければオウム事件の報道ばかりで、江川紹子さんや有田芳生さん、弁護士の滝本さんなどレギュラーが連日テレビ出演していた頃のこと。八ヶ岳から上九一色村は車で行けばそれほど遠くない、あの晩、コンビニで買い物をしていたあの人たちは、もしかしたら施設から逃げた女性と子供たちだったのかもしれない。

最近、森達也さんのドキュメンタリー映画『A』『A2』を観て、オウム真理教の問題は、別に宗教だけの問題じゃないということにやっと気が付いた。

事件後からオウム信者に密着して撮影されたこの映画を見て最初に気が付くのは、元オウム信者よりもむしろ、元オウム信者を近隣から追放しようとする一般市民のほうが暴力的に見えるということ。連日のオウム報道を見て教団に恐怖心を抱くのはよくわかるし、オウム側にあまり反省の色が見られないのは何よりも問題だと思う。しかし、元オウム信者に対する恐怖心も度を越せば、つまり理性を欠いた警戒心というのは、実は誰よりもオウム教団が持っていたものではないだろうか。オウム事件について書かれた森達也さんの本を読むと、麻原の側近であった村井(事件直後、刺殺された)が、米軍の飛行機が自分たちを偵察しているなど被害妄想の発言が多かったこと、また死刑になった井上実行犯がフリーメイソン陰謀論にはまるような陰謀論者であったこと、麻原自身がノストラダムスの大予言にはまり、ハルマゲドンや終末思想、「光と闇の戦い」(自身は光の戦士)を信じていたこと、麻原は自分と似た者同士の側近たちの情報を日常的に真に受けていた。麻原と側近たちとの相依存の関係の中で、集団妄想は定着し事件に至ったということなのだろう。オウムの特徴は、何よりもリアリティ感覚の希薄さにある。

事件直後に撮影された『A』で目立つのは信者の「尊師が~こう言ったので」発言が多いことで、事件が発覚してもなお、この教団では尊師の意見が絶対であり信者はそれに従順であったことがわかる。また、信者の間で(魂の)ステージが高いとか低いとかの話題がよく出るが、麻原を頂点として支えていたのはこうしたヒエラルキーの構造なのだ。江川紹子さんの『オウム裁判傍聴記』によると、あるオウム幹部が一般信者を「ヒラ信者」と言ったことを聞き逃していない。当時のオウム幹部は、特にそうしたエリート意識がひときわ強かったのだろう。

『A』『A2』を通してみてわかるのは、浮世離れはしているが、元オウム信者たちの純粋さと感じの良さである。反対運動していた住民の中には、長い付き合いの中で個人的にオウム信者と仲良くなるものも結構いて、オウムが出版した本を借りて読んだりしているという微笑ましい光景も出てくる。つまり、基本的に善良であることにおいては、反対運動する市民もオウム信者もそれほど変わらない。

それでは、なぜそのような善良な人々の集団があのような事件を起こしてしまったのか?

オウム事件がカルト宗教の起こした特殊な事件とも一概にいえないのは、教団内部のヒエラルキー構造、上からの指令がない限り自分の意見を言えない(つまり自分がない)、トップである麻原に対する弟子たちの従順さと忖度、広報である上祐氏の饒舌、閉鎖性、秘密主義、排他性、仮想敵の設定、自衛のための武装、陰謀論の蔓延、同調圧力の強さ、都合の悪い事実の隠ぺい・・こう書いていると日本社会(特に故・安倍政権時代の)にもそのままあてはまるような現象ばかりではないだろうか。オウム真理教には○○省がいくつもあって、事件後のオウム幹部の対応が官僚的(機械的)だったのも、さながらミニ国家のようであったことも頷ける。一般信者には厳しい修行を課しておきながら、麻原と幹部たちは外食したり、カラオケに行ったりしていたというのも、裏金問題を起こしても平気で開き直る与党、そして日本社会のミニチュア版ではないか。

オウム真理教のついての本を読んでいると、しきりに出てくるのが「カルマ落とし」という言葉。たとえば、ユダヤ人はイエス・キリストを殺したためカルマ落としで離散することになったらしい。なんとなく小泉政権時代の「痛みを伴う改革」を連想する。「今はつらいが、カルマ落としなので我慢しよう」と言った感じか?しかし、こうした言葉は自身に向けば内省となるが、他者に向かうと暴力になる。そうした暴力が極端な形をとったものが「ポア」ではないだろうか。前述したように、オウムには完全なヒエラルキーが存在している、ステージの高い者が低い者に対して「カルマ落とし」「ポア」を行うのは「慈悲」であるというのがオウムの常識なのである。

麻原には、手かざしである程度、病気を治す能力があったと言われるし、あれだけの人数の弟子を集めるということはカリスマ性もそれなりの力もあったのだと思う。「修行すれば君にも超能力が付く!」がオウムの勧誘の謳い文句であり、麻原の終末思想と世界観、選民思想などの誇大妄想は、「未来少年コナン」*「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメや、神智学による魂のヒエラルキーなどオカルトによって育まれたものであった。だから法廷で、弟子たちに次々と離反された麻原の精神が完全に壊れてしまったのも納得できる。彼の荒唐無稽な世界観と陰謀論を共に支えていたのは弟子たちだったからだ。オウムに最も欠けていたのは成熟した人格だったのではないだろうか。

江川紹子さんはその著書の中で「オウムは時代のカナリアだった」と書かれているが、本当にその通りで、政治家がどんなにウソをついても不祥事を起こしても、メディアも国民もかつてのオウム信者のようにおとなしく従順な人が多くなった。

藤原新也さんの本『黄泉の犬』で、熊本県八代市で生まれ育った麻原の弱視が、水俣病認定を申請したにもかかわらず却下されていたことを初めて知った。(最近は水俣病被害者に対しても匿名の嫌がらせメールが届くというのには驚く)また、子供の時に全寮制の盲学校に自分を入れた両親を麻原が恨んでいたとか、なぜオウムがあのような反社会的な犯行を起こしてしまったのか、様々な角度の視点から憶測が流れているが、どれもがこれが決定的な原因とは言い切れない。また、決して麻原だけに問題があるわけではなく、麻原を教祖に持ち上げてしまった取り巻きの弟子たちにも問題があると思う。麻原はお気に入りの弟子たちにとっては優しい父親であり母親でもあり、その反面、教団を守るために自分に対する批判者や離反者は平気でポアできる独裁者でもあった。強いて言うとオウム事件というのは、外側からの情報に乏しい閉鎖的なヒエラルキー集団が暴走してしまった事件であり、それは条件さえ整えば、どんな集団でも組織でも、あるいは国家であっても十分に起こりうるということじゃないだろうか?人の孤立化が進めば進むほど、集団に埋没したがる欲望はより大きくなっていくだろう、そこでなおざりにされてしまうのは、個人の生なのである。個人というものが深く掘り下げされない限り、人と人との真の絆は決して生まれないのではないだろうか?

昔、恵比寿の駅前で選挙演説をしている麻原を見かけたことがある。麻原は、テレビで見るよりもずっと小柄で、象の帽子をかぶったオウムシスターズに取り囲まれ、『ショーコ―、ショーコ―、ア・サ・ハ・ラ・ショーコ―』と歌っていた。その歌がしつこいCMソングのようにしばらく耳にこびり付いてなかなか離れなかったが、今ではどんな曲だったのかは全く思い出せない。


   参考文献
『オウム真理教裁判傍聴記』江川紹子 
『終末と救済の幻想』ロバート・リフトン(オウム真理教と太平洋戦争での皇軍との比較が興味深い)
『A3』森達也
『黄泉の犬』藤原新也
『オウム事件17年目の告白』上祐史浩
『現代オカルトの根源』大田俊寛
『慟哭』佐木隆三

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住宅団地 記憶と再生 №35 [雑木林の四季]

21・補記 ライネフェルデの団地 Leinefelde Sudstadt (37327 Leinefelde-Worbis,Thuringen) 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 わたしが訪ねた第2次大戦後建設の団地はベルリンとデッサウだけだが、ドイツの団地再生のモデルとしてわが国でもよく知られているのは、ライネフェルデの団地である。その記録と成果は、ヴオルフガング・キール『ライネフェルデの奇跡』にまとめられ、本書はライネフェルデ=ヴオルビス市の認定を得ている。訳書の宣伝コピーには、「老朽化団地の問題に悩む人々には、ライネフェルデの視察を薦める。減築や撤去ばかりが有効だったわけではない。ライネフェルデは“成長なき時代のまちづくり”のポジティブ・メッセージ」とある。表題もしめすように、奇跡の成功例なのだろう。
 これまで書いたわたしの見聞は、ドイツの団地再生事業を伝えるにはごく限られており、理解を広げるため『ライネフェルデの奇跡』から一部を紹介して補うことにする。
 ライネフェルデはテユーリンゲン州の北西部、北にハルツの山並み、西に大学町ゲッティンゲン、ドイツのど真ん中に位置する。とはいえ大戦が終わり東西に分裂して東ドイツの西の端になった。交通の要路にはあるが、中小企業が立地する人口2,500人の田舎町だった,。1961年にヨーロッパ最大の紡繚工場が建設され、64年に操業した。60年代末に 6,000人、86年には16、500人へと人口はふくれあがり、さらなる人口増が見込まれていた。,しかし1990年10月、ドイツが統一して暗転、紡績コンビナートは閉鎖、短期間に4,000人がこの地を去った。近くのカリ鉱山も閉山され アイヒスフェルト郡で4分の3の職場を失った。
 この時期のライネフェルデの特徴を2つあげると、ニュータウン(団地)の斬人口14,000人の平均年齢は25歳と若く、旧市街の2、500人と対照をなし、パネル工法の団地が市域の住宅の90%を占める点である。1990年代半ばにかけて団地は荒廃し、バンダリズムが横行、「パネル住宅はゲットー」とまでいわれた。94年の市による転出者調査によると、新しい職場へは5.3%、14・7%が高家賃、11%持ち家希望、26%、4人に1人が同地の不健全な社会環境からの脱出をのぞんでいた。10%が空き家になった。
 再出発を期してライネフェルデ市の取り組みは、他の自治体にさきがけ早かった。当初の私有化の試みは早々に失敗し、その教訓が再出発の土台となった。住宅ストックのほとんどはライネフェルデ住宅公社Wohnungusbau-und Verwaltungs GmBh Leinefelde=WVLと住宅組合Lelinefelder Wohnungsbaugenos~senschaft  c.G.=LWGの所有、ほぼ市の管理下にあった。1990年の東ドイツ初の自由選挙で選ばれたゲルト・ラインバルト市長は「われわれ自治体の責任において、どんな結果も引き受け、その状況を打開していく」と決意をのべた。92年には旧東ドイツ各州と連邦政府による大規模団地再生プログラムが施行された。市と議会、設計者との調整は迅速にすすみ、93年には総合戦略プラン(マスタープラン)の作成をダルムシュタットのヘルマン・シュトレ-プ率いる都市計画グループGRASに委託した。93年に作成されたマス々-プランは明確に、ドイツではその後も「都市の縮退」がタフ一視されていたなかで、大規模な撤去、滅築を打ちたした。
 しかし住民感情が過激な改造ブランをうけいれるか。実施にあたっては「シグナル効果」のあるプロジェクトから若手した。手始めにボニフアティウス広場を改修して周辺の雰囲気を一変させた。第2段階は、ちょうど1995年秋、2000年開催のハノーバー万博では「場外会場」が設置されるとの情報を入手、ハノーバーを流れるライネ川の源流はここ、万博へのの場外参加である。参加を決めることで、動かせないタイムリミットと国際的舞台のスポットライトという試練を自らに課し、プロジェクト実施に弾みをつけ、同時に世界の注目と評価をうけることで住民意識の転換の効果をねらった。
 ライネフェルデの都市開発は、1996年におこなった国際コンペによって新局面を開いた。48社の設計事務所が、旧東ドイツのどこにでもあるパネル工法住宅への提案を競い合った。提案はフィジカー(物理学者)街区とディフィター(詩人)街区の建物を対象とする撤去と減築による解決法だった。残る建物についても住戸平面の多様化、設備やエネルギーの改良とともに、街区の形状変更、地上階に店舗やサービス施設の設置なと、住戸ブランから都市計画まで幅広い課題にわたっていた。審査の結果、2事務所が選ばれ、デザインコンセプトが大きく異なる提案の実施に取り組むことiこなった。コンペの結果だから尊重し即刻実施に移すが、審査会では、建物を撤去、減築した後のこの街がそもそも「都市」といえるのか、住宅が散在するだけの集合住宅地になってしまうのかについてのコンセンサスさえ得られないままだった。115ペーシ上図は1994年フイジカー街区の航空写真で、撤去と減築の対象住棟を表示している。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №47 [雑木林の四季]

中欧の秘宝リヴィウの石畳みに映える美男美女
   ~ウクライナ②~

       小川地球村塾塾長  小川彩子

 ウクライナは美男美女の国、外観はもちろんのこと、内面から輝いているし怪しさとプライドで。
 ロシアとヨーロッパの挟間、ウクラィナでは、ウクライナ人としての誇りからロシア語を使わないという人々に会ったが、特にリウィウではロシア語を聞くことはなかった。キエフからリヴィウに飛んだがリウィウはなんと良い街であろう。ここでもホテル従業員その他誰もかも親切で笑顔がチャーミングな美男美女ばかり、流行りの言葉ではブッチギりだ。
 13世紀にルーシーの一公国として発展し、その後ポーランドやハプスブルグ帝国の支配を受けたリヴィウはなんとも懐かし味のある古都、中欧の秘宝とも表現したい街で旧市街まるごとが世界遺産だ。ある土曜日、新婚さんが写真家の注文に応じてユニ一-クなボーズをとっていた。教会の前、石畳の露地、城壁の前と、街中に写真家を引き連れた新婚さんが溢れていたが、毎週土曜目に見られる光景だそうだ。ポーズの最中私に「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。この街では旅行中アジア人には出会わなかったがとても親日的だ。
1735年別業以来ここで売っているという、万病に効く鉄ワインを買った。私は9月末から10日間、ウクライナを旅したが、出発直前に皆から「右腎臓で”第三細胞”活動中!(腎う癌発見!)」という警告を受けた。ひるまず出かけたが、旅の間中気のせいか背中が痛んだ。だがこの鉄ワインを飲んだら痛みが消え、気分良く旅ができた。1瓶10グリヴナ、100円ほどだ。18世紀の街並みにどっぷり浸れる石畳の街、リウイウに出かけて是非一度お試しあれ。
 リヴィウでは、夫が下痢で1日半寝た。夫に消化の良い食料を買ってホテルに帰る時、スヴアポーディ大通りのシェフチェンコ像の真上に満月が、オペラ座も浮かび上がらせて。中欧の秘宝、リヴィウという古い街で、難病の疑いを秘めた女が、病気の夫への買い物抱えて見た月! 二度とは来ることのないだろう街で見上げた満月の、煌々と冴えわたる孤高の美しア、忘れない。         (旅の期間:2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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山猫軒ものがたり №39 [雑木林の四季]

タヌキの赤ちゃん

             南 千代
 
「いいモン持ってきたよ。これ、何だか当ててみな」
 吉山さんがやってきた。手にダンボール箱を持っている。不安な予感。私はおそるおそる、箱を開いてみた。中には、十センチほどの小さな黒い塊が。動物だ。
「何ですが、これlU クマの仔、じゃないよね」
「タヌキの仔だ」
 山で木を倒し、根返しをしたら根元が巣になっていたらしく、タヌキが飛び出したと言う。
「そいてもってよく見たらよ、仔がいたんだ」
「親は連れて逃げなかったの?」
「いや、一匹はくわえて行ったみたいだな。しばらくあたりをウロウロしてこっち見てたけど、あきらめて、どっか行っちまった」
 そのまま、そっとおいておけば親が連れに来たかもしれないのに。地元の人は、そういう動物を見つけると、そっとしておくということを、あまりしない。
 吉山さんではなかったが、野ウサギの仔を、草刈りしてて見つけたから飼え、と言って持っ来られたこともあった。それも親切に、立派なウサギ小屋まで造って一緒に持って来られると、断るのはなかなか難しい。いったんもらっておいて、二、三日したら山に放した。持ってきてくれた人には悪いけれど、逃げてしまったとウソをついた。
 野生のウサギは、ペット用に改良されたウサギとは違って、人間が見ている昼間は絶対に草を食べない。見ているからではなく、夜行性をのかもしれない。いずれにしても、野生の動物は自然の中にいるのが一番良い、と私は思う。
 それにウサギは山猫軒でも飼っていたが、死んだのをきっかけに、ウサギは飼わないことにしていた。犬や描みたいに人とコミユニケーションが図れなかった。かといって毛皮を出荷することもなく 食用でもないので、家畜ではない。
 ウサギはケージの中でエサを食べ続けるだけ、人間はエサをやり続けるだけ、の関係は、飼い続けていると辛いものがある。飼う方も、飼われる方も、そこに何らかの相互関係がないと、ただウサギを閉じ込めているだけ、という不毛な気がして罪悪感がある。
 ダンボール精の中のタヌキは、目が開いたばかりらしく、開いてはいるもののまだ見えてはいないようだ。片手のひらに、すっぽりおさまるほど小さい。
「どうだ、かわいいだろ。飼ってみな」
「そりゃかわいいけどねえ。どうやって飼うのよ」
「ヤギの乳かなんか飲ませれば、育たねえかな」
 いくら野生動物は自然の中にいた方が、と言ってもこのまま放り出せば死んでしまうのは目に見えている。飼つて、大きくなったら山に帰そう。でも、うまく、育てることができるだろうか。
 箱に入れたまま、半日ほど様子をみていたが、ふと気づいた。ウンチもオシッコもしない。腹をさすっても出ないタヌキの仔はどうやって排せつするのだろうか。えーと、赤ちゃん、赤ちゃん……。犬の華が赤ちゃんを育てている時は……。そうだ、なめてやっている。刺激を与えてみよう。
 ティッシュを湿らせ、おしリを刺激してみた。出た。ウンチもオシッコも、まだ自分ではできないんた。あーあ。大変な仔を引き受けてしまったなあ。
 次はミルク。スポイトでヤギの乳を口元に与えてみる。何度試しても飲もうとしない。
哺乳瓶がいいのだろうか。きっそく買ってきたが、人間用で乳首が大きいのかこれもダメ。棒物用の噛乳瓶があるだろうか。きっとあるに違いない。でも、この町にはぺットショップなどない。夫が車を走らせ、犬猫用の哺乳瓶を捜し求めてきてくれた。
 飲んだ、成功。やれやれ。しかし、問題はまだあった。ミルクもオシッコもマメに面倒を見なければならない。私も夫もでかけて不在の時がある。誰がクヌちゃんの世話を、どうやってするか。
 私は思いがけず話か大きくなってしまった家造りの建築資金を作るために、コピーの仕事を積極的に受けつつあり、都心に出かける頻度が高くなってきていた。
 夫は実際に家を造る仕事にかかりきりである。結局、二人とも不在のときは夫にミルクを持たせ、車にタヌキを乗せて出てもらうことにした。早く大きくなって、木の葉を一万円札に変えてくれるといいのだけれど。
 一週間はどすると、タヌちゃんはゴソゴソと這い出した。何しろ、ネズミぐらいの大きさしかない。土問で育てているが、ちょっと目をはなすと油断ができない。姿が見えないので捜していると、薪ストーブのそばで眠りこんでしまったのが、勲すぎてグッタりとなり、ひっくりかえってしまっていたこともあった。
 そのうちタヌちゃんは、同じく土間に一緒にいるガルシィアの、長い毛にもぐりこんで眠るようになった。時おり、寝返りを打ったガルシィアの大きな体の下敷きになってしまい、キィーッと叫び声を上げている。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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夕焼け小焼け №36 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 岡崎高師不合格・新制高校3年生 1   

           鈴木茂夫

 昭和23年2月。
 旧制の愛知県惟信中学の5年を終える。旧制最後の高校、専門学校の受験がある。母は岡崎高等師範学校か第八高等学校にしろと言う。教員になるのも悪くない。
 岡崎高等師範学校は、昭和20,年(1940)全国で東京、広島、金沢についで四番目に設立された。旧制中学の校長・教員の育成を目的とする。旧中学の卒業生が入学し4年制だ。  社会科、英語科、社会科、数学科、物理科、化学科、生物科を設けている。全寮制で募集人員は約140人。学費は国が負担し学生には毎月手当が支給される。豊川市の元海軍工員の宿舎を校舎・学寮としている。
 学生寮は「振風寮」といわれ、約160人が生活していた。
 私は親友の一人服部英二君に、ここを受験しようと勧誘した。私の提案に、服部君はよく考えると答えた。2週間ぐらいして、教師になろうと賛成した。
 3月、服部君と受験に出かけた。受験の書類を提出し終えて外へ出ると、一人の青年に、
「君たちは受験生か」
 声をかけられた。 
  「それなら今夜は寮に泊るのがいい。俺はここの3年生で、蔵原という」
 寮に入ると、蔵原さんは同室の人たちに紹介してくれた。みんな笑顔で迎えてくれた。 私たちは嬉しくなって、高等師範の生活のことをあれこれ尋ねた。私は高揚していたのだろう。蔵原さんが学校の徽章をくれた。ここで4年間を過ごすのだと心がはずんだ。
 あくる日は試験だ。3つの教室が試験場となっている。受験生の数は少ない。
  英語、国語、社会、数学が出題される。 試験問題は難しくなかった。私は余裕をもって書き進んだ。ところが最後の教科の数学の用紙が配られると、顔色が変わった。問題はそれほど難しくはないのだが、私には全く分からないのだ。手のつけられない40分が過ぎ白紙で提出。服部君は数学が優しかったから、よかったと言う。私は4科目の総合得点で採点されるならいいのだがと思いつつ、寮で2泊目の夜を送った。
  あくる日の午前10時、発表だ。 私の名前はない。服部君は合格だ。
 「よかったね。おめでとう」精一杯の挨拶だった。
  私は駅をめざして走った。涙がこみあげる。電車の隅に座って帰った。

 4月。
 惟信中学は惟信高校になり、私は惟信高校の3年になった。学帽に白線が2本入る。
旧制高校の学帽にならったという。なぜ白線なのかは誰も知らない。
 服部君は岡崎高等師範学校社会科に、増井君は南山外語専門学校英文科に進んだ。
 残ったのは小原君と私の2人だ。小原君は高校修了で就職するというから、上級学校をめざすのは私・鈴木茂夫だけだ。
 受験勉強があるからと新聞『葦笛』の編集・印刷は2年生の岡本君に委譲した。
 クラスにいるのは、それぞれ上級学校を受験、不合格だった連中だ。落ちこぼれの予備校生のような気分がある。学制改革がなければ、受験浪人として予備校に行くしかなかっったのだ。
 
 ある日、Bruceが話しはじめた。名古屋軍政部のCIE,民間情報教育部は、市内の主な学校の生徒30人か40人を集めて名古屋青少年指導者研修会を開きたいと思っている。君たち二人、鈴木、小原はもちろん招待される。誰か適当な人物はいるかな。何人か推薦して欲しい。僕たちは松陰高校の石垣君、金城学院の伊藤さんを推した。
 一週間ほどして、高木教頭に呼ばれた。名古屋軍政部から、鈴木、小原を研修会に招待すると通知が来ている。学校としては、学業の一環として認める。
 明和高校、瑞陵高校、旭丘高校、菊里高校、東海高校、金城学院、松陰高校、私の惟信高校から約40人が参加した。学校新聞の会合に来ていた秀才らしい顔がいくつもみえた。
数人の男女の教員も参加者だ。
 会場は岡崎市の大樹寺だ。浄土宗の寺院で15世紀に建てられ徳川家と深いゆかりで結ばれている。戦災を免れたので立派な山門、総門、本堂、方丈を今に伝えている。
本堂の阿弥陀如来の背にして、制服をきた兵士が挨拶した。英語だ。通訳はない。
 「私たちは、みなさんに民主主義とその方法を学んで欲しいです」
 デモクラシーが民主主義のこととは理解できた。後はなんとなく分かった気分だ。
 数人の婦人将校( Women's Army Corps, WAC)が制服ではなく私服で来ていた。
「I am WAC.Women''s Army Corps」
 私たちが、理解しかねた顔をしたのだろう。通訳が、
「こちらのみなさんは、婦人将校です」
 私たちがうなずくと、にこやかな笑顔をみせた。WACはそれぞれが香水をつけている。一人だけだと、その香りを感じたが、何人かで集まると、香水の香りが混ざり合って、良くも悪くもないむせ返るように匂う。動物性の香りは刺激的だ。
WACの一人が私たちに呼びかけた。英語だ。ゆっくり話してくれる。不思議なことに、なんとなく意味が取れる。
 「会議の進め方を学びましょう。まず議長・プレジデント・presidentを決めるのよ。議長には槌・gavelが必要ね。ガベルは議事進行のために叩くの。また議長が議場の整理をするときもよ。きょうはガベルがないから、握りこぶしでやりましょう。会議では何かを議論しなければなりません。そのことを動議・motionといいます。動議は提出しなければなりません。提出するとは、move, intoduce,submit,offerなどが使えます〃〃〃」
 私たちは会議の進め方を学んでいるのか、それに関わる英語を学んでいるのか、混乱しながらも講義に聴き入った。
 夕食は庫裡で頂いた。厨房には白いエプロンがけの10人ぐらいの日本の婦人が働いていた。大樹寺の信徒の婦人が手伝いにきているのだ。
  一人ずつのお膳が並んでいる。ごま豆腐、巻き卵、魚黄金焼き、コロッケ、ポテトフライ、漬物、味噌汁,ご飯だ。WACも男性兵士もみんな一緒だ。美味しかった。
 食事が終わると、みんなで方丈に戻ってさまざまなアメリカ民謡を歌を歌った。
 日本語と英語と入り交じって愉しかった。

 たそがれにわが家の灯 窓に映りしとき     わが子帰る日祈る 老いし母の姿
 谷間灯ともしころ いつも夢に見るは  あの灯 あの窓恋し ふるさとのわが家
 
  My grandfather's clock was too large for the shelf So it stood ninety years on the floor
 おじいさんの時計は 棚に置くには大きすぎて 90年もの間 床に置かれていたんだ
 It was taller by half than the old man himself Though it weighed not a pennyweight more
 おじいさんの背丈より 半分以上も大きかったけど 重さは1グラム程も違わなかった

 この集いは一泊二日のアメリカ留学のようだった。民間情報教育部は、私たちが学校自治会などをはじめとする活動の中心となって活動していくのを期待したのだ。
 帰り道の電車の中で、さあ受験体制に戻らなければという声があった。

 進学情報は旺文社の受験雑誌「蛍雪時代」にたよるしかない。 
 来年(1949)、新しい教育制度により、新制大学が発足し初めての試験が行われる。
これが勝負なのだ。
 それぞれが目標とする学校を口にした。
 戸田は教職に就きたいから愛知第一師範が大学になるのをめざす。
 木村は旧制の名古屋薬学専門学校にしぼつている。
 浅野は東京高等商船学校が商船大学になるから、それ一本だという。
 岡本は南山外語が大学になるからそこへ行く。
 早稻田大学には西川と山口が受験すると話している。
 表野は各種の学校が大学に昇格する情報に詳しい。自分がどうするかは言わない。
 私はどうするかを発言しなかった。
 

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №225 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

根室本線・富良野~野花南 

                 岩本啓介

根室本線・新得~富良野は2024年3月31日で廃線になりました
3月までに 北海道に行く予定でしたが 諸般の事情で行けませんでした
大好きな空知川第4橋梁を『富良野わいんはうす』から2022年撮影の2枚

①紅葉の空知川橋梁にタラコが似合います

297タラコわいんはうす のコピー.jpg
2022年10月25日8:33

②雪のキハもいいですね

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2022年2月10日10:40


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押し花絵の世界 №203 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 「デルフィニュウムと千鳥草のスマホケース」

             押花作家  山﨑房枝

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ブルーのグラデーションが綺麗なデルフィニュウムと、鮮やかな青紫の千鳥草をアレンジして、仕上げにシルバーの箔を散らせて瑞々しく爽やかなイメージで制作しました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童たち原画 2

      銅板造形作家  赤川政由

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多摩のむかし道と伝説の旅 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-6
                    原田環爾

 徳川家康の江戸入府以来、膨張する江戸の飲料水を確保するため、溜池上水や神田上水が開削されてきたが、抜本的な解決を図ることは出来なかった。4代将軍家綱の時、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱は多摩川から水を引くことを発議、関東郡代伊那半十郎忠治の指揮のもと羽村出身の江戸の町人、庄右衛門・清右衛 門兄弟に工事を請け負わせた。開削工事は承応2年(1653)に開始されたが難渋を極めた。当初取水口を日野橋下流の青柳付近29-33.jpgから取水し、谷保田圃を抜けて府中まで開削したが、悲しみ坂で通水に失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開した。しかし古来言い伝えられてきた水喰土の伝承が現実のものとなり、水が地中に吸い込まれて通水に失敗。最後に信綱の家臣で土木技師の安松金右衛門の技術支援を得て、羽村から取水することでようやく成功したと言われる。二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により幕府から玉川の姓を与えられ帯刀を許された。
 第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば水神宮がある。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。
29-34.jpg 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられてきたが、明治26年名を玉川水神社と改めた。水神社としては最も古いものの一つだ。
 水神社の前からは奥多摩街道を離れて多摩川沿いの水上公園通りに入る。沿道左手に広がる羽村堰上流の多摩川の雄大な景観が素晴らしい。遥か対岸に見える三角屋根の建物は羽村郷土博物館だ。程なく水上公園通りは二つに分岐する。右手ハケ上へと続く道は水上公園通りで、左手の道は少し下って堤の道となる。桜が沢山植えられており、桜堤通りと呼ばれている。その桜堤通りの降り口の土手に羽村市福島県人会が市制10周年記念に寄贈したという三春の滝桜がある。 満開の頃はそれは見事な咲きっぷりである。桜堤通りを100mもすすめば、先のハケを背景とした水上公園がある。人工の泉やプールを備えた29-35.jpgモダンな公園だ。この先堤を進むのもいいがハケ上の水上公園通りを採ることにする。通りを200mも進めば禅福寺という山門の見事な寺の前にくる。山門の前には大きな延命地蔵が立っている。山門脇から中を覗けば左右の墓苑の先に本堂が見える。妙徳山禅福寺は臨済宗建長寺派の寺で本尊は文殊菩薩。応安年間(1368~74)の創建という。山門は寛正3年(1462)の建立された。文化6年(1809)江戸の文人太田南畝(蜀山人)もこの山門前に来たと伝える。
 門前の水上公園通りを進めば程なくハケを下る坂道が分岐する。この下り道は面白いことに「雨乞街道」といい、坂を「雨乞坂」と呼ぶ。雨乞坂の名の由来は次のようなものである。江戸時代のこと、夏の日照りが続いて田圃の稲が今にも枯れそうになった時のこと、途方に暮れた村人が禅福寺の境内に集まり、水神の龍を作って雨乞いすることになった。松の木で龍頭をつくり、剣を角にして指し、胴体を藁でつくり、雌雄2頭の龍を作った。その龍を村の若衆が担いで、寺の前のハケの坂を駆け下り、根溺前の丸太橋を通って多摩川に入 り、龍を沈めて雨乞いをした。するとその日の夕方雨が降り、田圃の稲は枯れずに助かったという。このことからこの坂道を「雨乞坂」と呼ぶようになったという。
29-37.jpg 雨乞坂を下り降りると、眼前に広大な田園風景が広がる。右手のハケ下から左手遠くに見える多摩川堤との間に広がるこの広大な田園地帯を、土地の人は根溺前水田と呼んでいる。羽村で唯一の水田地帯と言われてきた所だが、今はチューリップ畑でよく知られている所で、5月から8月にかけては他に大賀ハス、牡丹、芍薬、白蓮が栽培されており、花好きにはこたえられない所になっている。根溺前水田をハケ下に沿って遥か遠くに目をやると黒い屋根の一峰院が豆粒のように望める。雨乞坂の割烹旅館「玉川苑」を左にやり多摩川堤の方向へ向かう。小さな用水路の小橋を横切ると程なく多摩川の堤下に出る。堤に上がると雄大な多摩河原が展開する。河川敷には広大な宮ノ下運動公園が広がる。宮ノ下の名はこの先に阿蘇神社があることによるのだろう。大正土手と呼ばれる綺麗な桜堤を進むと堤防下に古びた杉の木が1本立っている。古くから一本杉と呼ばれているものだ。残念ながら近年伐採されて今は切り株だけになっている。由緒書によると根溺前は羽村唯一の水田地帯であることから根溺前水田と呼ぶ。明治末期、2回にわたる洪水で田畑が水没したことから、大正12年に一本杉前の護岸工事が行われた。大正時代に造られたということから「大正土手」と呼ばれるようになった。平成6年には桜並木に改修された。一本杉については工事以前からこの土手に孤立して立っていたという。(この項つづく)


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