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多摩のむかし道と伝説の旅 №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

             多摩のむかし道と伝説の旅(№29)
              ー西多摩の多摩川河畔の桜道を行く-6
                    原田環爾

 徳川家康の江戸入府以来、膨張する江戸の飲料水を確保するため、溜池上水や神田上水が開削されてきたが、抜本的な解決を図ることは出来なかった。4代将軍家綱の時、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱は多摩川から水を引くことを発議、関東郡代伊那半十郎忠治の指揮のもと羽村出身の江戸の町人、庄右衛門・清右衛 門兄弟に工事を請け負わせた。開削工事は承応2年(1653)に開始されたが難渋を極めた。当初取水口を日野橋下流の青柳付近29-33.jpgから取水し、谷保田圃を抜けて府中まで開削したが、悲しみ坂で通水に失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開した。しかし古来言い伝えられてきた水喰土の伝承が現実のものとなり、水が地中に吸い込まれて通水に失敗。最後に信綱の家臣で土木技師の安松金右衛門の技術支援を得て、羽村から取水することでようやく成功したと言われる。二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝えられる。兄弟はその功により幕府から玉川の姓を与えられ帯刀を許された。
 第二水門の上の小橋を渡って段丘を上がるとそこは旧奥多摩街道の道筋だ。街道に沿って50~60m辿れば水神宮がある。古びた木の鳥居に「水神宮」と書かれた神額が掛かっている。その横に立っている風格のある門は玉川上水羽村陣屋にあった陣屋門だ。つまりここは陣屋跡で、上水道の取り締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理を行った役所の跡だ。堰を通過する筏師達もここで厳しい監視を受けたに違いない。門を入ると広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみで、建物は明治維新のドサクサに紛れて処分されてしまったという。
29-34.jpg 玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年完成された際、水神宮として建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んで丁度筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。以来300余年江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられてきたが、明治26年名を玉川水神社と改めた。水神社としては最も古いものの一つだ。
 水神社の前からは奥多摩街道を離れて多摩川沿いの水上公園通りに入る。沿道左手に広がる羽村堰上流の多摩川の雄大な景観が素晴らしい。遥か対岸に見える三角屋根の建物は羽村郷土博物館だ。程なく水上公園通りは二つに分岐する。右手ハケ上へと続く道は水上公園通りで、左手の道は少し下って堤の道となる。桜が沢山植えられており、桜堤通りと呼ばれている。その桜堤通りの降り口の土手に羽村市福島県人会が市制10周年記念に寄贈したという三春の滝桜がある。 満開の頃はそれは見事な咲きっぷりである。桜堤通りを100mもすすめば、先のハケを背景とした水上公園がある。人工の泉やプールを備えた29-35.jpgモダンな公園だ。この先堤を進むのもいいがハケ上の水上公園通りを採ることにする。通りを200mも進めば禅福寺という山門の見事な寺の前にくる。山門の前には大きな延命地蔵が立っている。山門脇から中を覗けば左右の墓苑の先に本堂が見える。妙徳山禅福寺は臨済宗建長寺派の寺で本尊は文殊菩薩。応安年間(1368~74)の創建という。山門は寛正3年(1462)の建立された。文化6年(1809)江戸の文人太田南畝(蜀山人)もこの山門前に来たと伝える。
 門前の水上公園通りを進めば程なくハケを下る坂道が分岐する。この下り道は面白いことに「雨乞街道」といい、坂を「雨乞坂」と呼ぶ。雨乞坂の名の由来は次のようなものである。江戸時代のこと、夏の日照りが続いて田圃の稲が今にも枯れそうになった時のこと、途方に暮れた村人が禅福寺の境内に集まり、水神の龍を作って雨乞いすることになった。松の木で龍頭をつくり、剣を角にして指し、胴体を藁でつくり、雌雄2頭の龍を作った。その龍を村の若衆が担いで、寺の前のハケの坂を駆け下り、根溺前の丸太橋を通って多摩川に入 り、龍を沈めて雨乞いをした。するとその日の夕方雨が降り、田圃の稲は枯れずに助かったという。このことからこの坂道を「雨乞坂」と呼ぶようになったという。
29-37.jpg 雨乞坂を下り降りると、眼前に広大な田園風景が広がる。右手のハケ下から左手遠くに見える多摩川堤との間に広がるこの広大な田園地帯を、土地の人は根溺前水田と呼んでいる。羽村で唯一の水田地帯と言われてきた所だが、今はチューリップ畑でよく知られている所で、5月から8月にかけては他に大賀ハス、牡丹、芍薬、白蓮が栽培されており、花好きにはこたえられない所になっている。根溺前水田をハケ下に沿って遥か遠くに目をやると黒い屋根の一峰院が豆粒のように望める。雨乞坂の割烹旅館「玉川苑」を左にやり多摩川堤の方向へ向かう。小さな用水路の小橋を横切ると程なく多摩川の堤下に出る。堤に上がると雄大な多摩河原が展開する。河川敷には広大な宮ノ下運動公園が広がる。宮ノ下の名はこの先に阿蘇神社があることによるのだろう。大正土手と呼ばれる綺麗な桜堤を進むと堤防下に古びた杉の木が1本立っている。古くから一本杉と呼ばれているものだ。残念ながら近年伐採されて今は切り株だけになっている。由緒書によると根溺前は羽村唯一の水田地帯であることから根溺前水田と呼ぶ。明治末期、2回にわたる洪水で田畑が水没したことから、大正12年に一本杉前の護岸工事が行われた。大正時代に造られたということから「大正土手」と呼ばれるようになった。平成6年には桜並木に改修された。一本杉については工事以前からこの土手に孤立して立っていたという。(この項つづく)


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