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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №128 [文芸美術の森]

           明治開化の浮世絵師 小林清親
             美術ジャーナリスト 斎藤陽一  
                  第11回 
           ≪「東京名所図」シリーズから:夜の光景≫


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「光と闇」に鋭敏な感性を持つ小林清親は、闇にまたたく「蛍の光」にも感応します。
 この作品は、清親が明治13年(33歳)に描いた「御茶水蛍」。現在の「お茶の水」あたりの神田川の夜の光景です。

 川には屋形船が浮かんでいる。蛍狩りを楽しむ遊覧船です。この船から洩れる光以外に灯の無い暗闇なので、蛍の微かな輝きがより明るく感じられる。それにしても、当時の神田川は、夏になると蛍が飛び交うほどの清流だったのですね。今の神田川のこのあたりを見ると、とても信じられない夜の光景です。

 闇の中とは言え、清親は、手前の崖を濃い墨色にして、奥に向かうにつれてだんだんと薄い墨色にすることによって、奥行き感を表現しています。

 「江戸名所図」シリーズの中には、お茶の水のこの場所を、同じ構図により「冬の雪景色」として描いた作品がありますので、ご参考までに紹介しておきます。(下図)

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 これが、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「御茶の水雪」。「御茶水蛍」と同じ年の作品です。

 清親は、このアングルが気に入ったのでしょうね。同じ構図で、夏の闇に蛍が飛び交う景色と、雪が降り積もった森閑とした冬景色とを描き分けている。どちらもそれぞれの季節感が表現されていて、情緒ある風景画になっています。

 川の上に架かっている橋のようなものは、神田上水を引くための「懸樋」(かけひ)ですが、現在はありません。

 「蛍の光」を描いた絵をもうひとつ紹介します。

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 これは、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「天王寺下衣川」

 天王寺は、谷中にある天台宗のお寺。その下を流れていたのが衣川(ころもがわ)。今も天王寺は日暮里駅近くの高台にありますが、この絵が描かれた明治初期には、その下を衣川が流れていたようです。現在、川は埋め立てられて、山手線の線路となっている。

 この絵、川のほとりにある一軒家を描いている。窓からは明かりが洩れ、何やら語り合う親子らしき影が映っている。母親が子どもに物語でも話しているのだろうか。
 窓の明かりは水面に反射し、川の流れをきらめかせている。
 木々に包まれたこの家のまわりに、無数の微光が見えるが、これは、川岸を飛び交う蛍が放つ光です。

 よく見ると、右手には、提灯を下げて橋を渡る人影がうっすらと見える。我が家に帰るこの家のあるじかも知れない。
 どこか生活の温もりをかんじさせる、懐かしい夏の夜の風情です。         

≪花 火≫

 江戸っ子・小林清親にとって、夏の夜に花開く光「花火」もまた、制作意欲をかき立てる画題でした。

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 これは、小林清親が明治14年(34歳)に制作した「池の端花火」。場所は上野の不忍池。
 花火を見る人々がすべて黒いシルエットで描かれています。木に登っている人もいる。右手には弁天島の影も薄く見える。
 対岸には小さな灯りが点々と連なっているが、それが水面に細い筋の連なりとなって映っている。手前には赤い提灯がいくつも吊るされ、画面にリズムを生んでいる。
 
 打ち上げられて花開いた後、しぼんで落ちていく「花火」の表現が面白い。
 魅惑的な夏の宵の情感を感じさせる絵です。

 「花火」の絵をもう1点。
 下図は、小林清親が明治13年(33歳)に制作した「両国花火図」

 江戸時代以来、夜空を輝かせる花火は隅田川の夏の風物詩であり、とりわけ「両国の花火」は、江戸っ子たちの人気を大いに集めました。
 両国界隈に育った清親にとって、子どもの頃から親しんだ心躍る夏の思い出だったでしょう。

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 明治になってから、外国から輸入した化学薬品によって、この絵に見られるような「大型花火」も作れるようになりました。
 それにしても清親のこの花火の表現、水平線上にさく裂した大型花火が大きな光の環となって夜空一杯に広がる様子を描いて、ダイナミックですね。

 水上では、その光の環に向かって殺到するかのように、無数の納涼船が向かっている。大きな歓声が伝わってくるような光景です。

 次回は、小林清親の「東京名所図」シリーズから、「雨の日の情感」を描いた作品を紹介します。
(次号に続く)




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