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住宅団地 記憶と再生 №35 [雑木林の四季]

21・補記 ライネフェルデの団地 Leinefelde Sudstadt (37327 Leinefelde-Worbis,Thuringen) 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 わたしが訪ねた第2次大戦後建設の団地はベルリンとデッサウだけだが、ドイツの団地再生のモデルとしてわが国でもよく知られているのは、ライネフェルデの団地である。その記録と成果は、ヴオルフガング・キール『ライネフェルデの奇跡』にまとめられ、本書はライネフェルデ=ヴオルビス市の認定を得ている。訳書の宣伝コピーには、「老朽化団地の問題に悩む人々には、ライネフェルデの視察を薦める。減築や撤去ばかりが有効だったわけではない。ライネフェルデは“成長なき時代のまちづくり”のポジティブ・メッセージ」とある。表題もしめすように、奇跡の成功例なのだろう。
 これまで書いたわたしの見聞は、ドイツの団地再生事業を伝えるにはごく限られており、理解を広げるため『ライネフェルデの奇跡』から一部を紹介して補うことにする。
 ライネフェルデはテユーリンゲン州の北西部、北にハルツの山並み、西に大学町ゲッティンゲン、ドイツのど真ん中に位置する。とはいえ大戦が終わり東西に分裂して東ドイツの西の端になった。交通の要路にはあるが、中小企業が立地する人口2,500人の田舎町だった,。1961年にヨーロッパ最大の紡繚工場が建設され、64年に操業した。60年代末に 6,000人、86年には16、500人へと人口はふくれあがり、さらなる人口増が見込まれていた。,しかし1990年10月、ドイツが統一して暗転、紡績コンビナートは閉鎖、短期間に4,000人がこの地を去った。近くのカリ鉱山も閉山され アイヒスフェルト郡で4分の3の職場を失った。
 この時期のライネフェルデの特徴を2つあげると、ニュータウン(団地)の斬人口14,000人の平均年齢は25歳と若く、旧市街の2、500人と対照をなし、パネル工法の団地が市域の住宅の90%を占める点である。1990年代半ばにかけて団地は荒廃し、バンダリズムが横行、「パネル住宅はゲットー」とまでいわれた。94年の市による転出者調査によると、新しい職場へは5.3%、14・7%が高家賃、11%持ち家希望、26%、4人に1人が同地の不健全な社会環境からの脱出をのぞんでいた。10%が空き家になった。
 再出発を期してライネフェルデ市の取り組みは、他の自治体にさきがけ早かった。当初の私有化の試みは早々に失敗し、その教訓が再出発の土台となった。住宅ストックのほとんどはライネフェルデ住宅公社Wohnungusbau-und Verwaltungs GmBh Leinefelde=WVLと住宅組合Lelinefelder Wohnungsbaugenos~senschaft  c.G.=LWGの所有、ほぼ市の管理下にあった。1990年の東ドイツ初の自由選挙で選ばれたゲルト・ラインバルト市長は「われわれ自治体の責任において、どんな結果も引き受け、その状況を打開していく」と決意をのべた。92年には旧東ドイツ各州と連邦政府による大規模団地再生プログラムが施行された。市と議会、設計者との調整は迅速にすすみ、93年には総合戦略プラン(マスタープラン)の作成をダルムシュタットのヘルマン・シュトレ-プ率いる都市計画グループGRASに委託した。93年に作成されたマス々-プランは明確に、ドイツではその後も「都市の縮退」がタフ一視されていたなかで、大規模な撤去、滅築を打ちたした。
 しかし住民感情が過激な改造ブランをうけいれるか。実施にあたっては「シグナル効果」のあるプロジェクトから若手した。手始めにボニフアティウス広場を改修して周辺の雰囲気を一変させた。第2段階は、ちょうど1995年秋、2000年開催のハノーバー万博では「場外会場」が設置されるとの情報を入手、ハノーバーを流れるライネ川の源流はここ、万博へのの場外参加である。参加を決めることで、動かせないタイムリミットと国際的舞台のスポットライトという試練を自らに課し、プロジェクト実施に弾みをつけ、同時に世界の注目と評価をうけることで住民意識の転換の効果をねらった。
 ライネフェルデの都市開発は、1996年におこなった国際コンペによって新局面を開いた。48社の設計事務所が、旧東ドイツのどこにでもあるパネル工法住宅への提案を競い合った。提案はフィジカー(物理学者)街区とディフィター(詩人)街区の建物を対象とする撤去と減築による解決法だった。残る建物についても住戸平面の多様化、設備やエネルギーの改良とともに、街区の形状変更、地上階に店舗やサービス施設の設置なと、住戸ブランから都市計画まで幅広い課題にわたっていた。審査の結果、2事務所が選ばれ、デザインコンセプトが大きく異なる提案の実施に取り組むことiこなった。コンペの結果だから尊重し即刻実施に移すが、審査会では、建物を撤去、減築した後のこの街がそもそも「都市」といえるのか、住宅が散在するだけの集合住宅地になってしまうのかについてのコンセンサスさえ得られないままだった。115ペーシ上図は1994年フイジカー街区の航空写真で、撤去と減築の対象住棟を表示している。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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