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郷愁の詩人与謝蕪村 №29 [ことだま五七五]

冬の部 1

        詩人  萩原朔太郎

凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ

 北風の吹く冬の空に、凧(たこ)が一つ揚(あ)がっている。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚っていた。蕭条(しょうじょう)とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子(ガラス)のように冷たい青空。その青空の上に浮うかんで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚っている。飄々(ひょうひょう)として唸(うな)りながら、無限に高く、穹窿(きゅうりゅう)の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂っている!
 この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現われている。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚っている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」という如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情詩の手法を持っていたということにある。


藪入(やぶいり)の夢や小豆(あずき)の煮えるうち

 藪入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢(あ)ったのである。子供に御馳走(ごちそう)しようと思って、母は台所で小豆を煮(に)ている。そのうち子供は、炬燵(こたつ)にもぐり込んで転寝(うたたね)をしている。今日だけの休暇を楽しむ、可憐(かれん)な奉公人の子供は、何の夢を見ていることやら、と言う意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、単にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘(わび)しい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでる情想の主題テーマを見るべきである。こうした郷愁詩の主題テーマとして、蕪村は好んで藪入の句を作った。例えば 

 藪入やよそ目ながらの愛宕山(あたごやま)
 藪入のまたいで過(す)ぎぬ凧(たこ)の糸

 など、すべて同じ情趣を歌った佳句であるが、特にその新体風の長詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄(こもりうた)であるところの、遠い時間への懐古的郷愁を咏嘆(えいたん)している。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあったに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあったことを、読者は特に注意して鑑賞すべきである。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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