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押し花絵の世界 №190 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「秋色のアレンジメント」

       押花作家   山﨑房枝

2023.10月下.jpg

30cm×25cm

秋色のオレンジの薔薇と黄色い木香薔薇をメインに、エビヅルの巻きひげをアクセントに取り入れてアレンジしました。
大根の皮を乾燥させて製作した花瓶が、まるで陶器のような味わい深い仕上がりました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №43 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「お帰りなさい」OKAERINASAI Welcomehome

      銅板造形作家  赤川政由

43おかえりなさい.jpg
43-2.jpg
ルシオ国立国立而西

国立のマンション入口でお出迎え。luxo kunitachiのオーナーは、ギャラリービプリオの代表十松さん。かって出版関係の仕事をなさっていたことから、図書館にいるような女性にした。帰って<る住人に「あ帰りなさい」と温かく迎えてくれる。たくさん読書をしてほしいとメッセージを込めた作品。足元には、猫が3匹じゃれている。


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夕焼け小焼け №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

三民主義 

         鈴木茂夫

昭和20年(1945年) 9月10日月曜日。
 会社は社員の安全のため、新北投に大きな家屋を借り上げていた。数家族が疎開している。幸町のわが家は爆撃で半壊、住めなくなったので、母もその一室にいる。
 私もここで休養した。
 ラジオを聞いていると、日本語の放送のあとに、
  XUPA  XUPA  台北広播電台
  とアナウンスが入った。台北放送局の呼出符号はJFAKだ。中華民国の放送局に入れ替わったのだ。
久しぶりに学校へ行くことにした。
 街には「三民主義」「光復」「還我河山」の飾りが見える。
 学校の校門には、雷神第13863部隊の標識はなくなっている。それに替わり中華民国台湾省立仁愛高級中学の標識がある。台北四中は消えたのだ。級友が台北一中は建国中学、台北二中は成功中学、台北三中は和平中学と替わったのだと教えてくれた。
 朝礼には見たことのない教員が並んでいる。中華民国の国歌の斉唱だ。君が代とは違った。

 三民主義、吾党所宗 以建民国、以進大同 咨爾多士、為民前鋒 夙夜匪懈、主義是従
 矢勤矢勇、必信必忠 一心一徳、貫徹始終。

 三民主義は   わが党の指針  これをもって 民国を建設し これをもって大同に進む
 ああ多くの人々よ   民の模範となって 朝夜怠けることなく 三民主義に従おう
                                                           (日本語訳詞)

 教室に庄司先生が現れ、各自に50円を支給した。兵隊であったときの俸給だという。
   庄司先生はそれが終わると、そそくさと教室を出た。
 国史を担当すると,中国人の青年が教室に入ってきた。
 「君たちの祖国・中華民国は三民主義を基本としている。三民主義は国の父・孫中山が唱えた。民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ。国の大系としては立法,司法,行政,考試,監察。これに中国古来の考試(官吏採用権),監察(弾劾権)を加えた5権が分立する」
 その青年はこれに続いて、中国革命の歩みを詳しく述べた。私は東洋史の近代はまだ習っていないから、はじめて聞くことだった。
   学校からの帰り道、お金を持っているからと西門町の屋台店で、焼きそばを食べた。美味しかった。代金は7円といわれた。高い。私は1円ぐらいと思っていたのだが。物の値段は上がっているのだ。

10月10日水曜日
 街のあちこちに、爆撃で破壊された家屋もそのままだ。しかし、目抜き通りの家々は、青天白日旗や祝賀の春聨を掲げている。華やかに飾り立てた型の山車の上では、芝居の決まり役に扮した俳優たちが所作を披露し、何台も連なってゆっくりと曳かれて行く。それを取り囲むように、獅子舞、龍舞、太刀隊、それに太鼓、チャルメラ、銅鑼を打ち鳴らし、中国北部、南部の民族音楽を賑やかに奏でる。爆竹の弾ける音がこれに混じって、町中が沸き立っていた。

 台湾新報
祝えや祝えわれらの国慶日 光復の歓声は爆発 慶祝の色山野に満つ
光復台湾が初めて迎える双十節、今日10月10日はわが中国のめでたい国慶日である。思えば宣統三年(1911年)の10月10日、中国国民党の同志が国父の名によって武漢に革命ののろしを上げ、清朝討伐の軍を興すや風を臨んで各省の国民党もまた相呼応してわずかに2ヶ月足らずで10余省の独立を見るに至ったのだ。
まさにこの月、この日こそは、わが民主主義の大国家中華民国が雄々し発足したこよなくも意義深い日と言うべきであり、ことに台湾にとっては、51年ぶりにわが中国の領土に復帰し、光復の夢ここに実現されて六百余万の同胞が、ひとしく光復の悦びに沸き返っているまっただ中に迎えた最初の国慶記念日だけに、感激もひとしお深いものがある。
この日は、全島各戸いっせいに青天白日満地紅の旗を掲げ、各官衙・学校・会社では、休業するなど、島民の赤誠を最高度に盛り上げた多彩活発な祝賀行事が展開される。
真心込めて祝おう、われらの国慶日、今日ぞ全島の山野は慶祝一色に逞しく塗りつぶされ、光復の歓声を天地にとどろき、津々浦々に爆発させるのだ。

 台湾新報は諸手をあげて、双十節を歌い上げている。台湾人は日本国民ではなく、中国国民だと主張しているのだ。
10月18日木曜日。
  午前11時45分、汽笛が2度3度と長く尾を引いて響いた。基隆からの特別列車が台北駅に着いた。駅頭がどよめき、潮騒のような歓声が起こる。軍長・陳孔達中将の率いる中華民国第70軍の第一陣だ。
 私は林志楊君と駅前に並んでいた。
 4列縦隊で行進しはじめた。先頭にゆっくりと進むジープに乗っているのが隊長だろう。兵士たちのとは違うスマートな緑色の軍服だ。その隣の席に、裾の両脇が深く切れ上がった中国服を着た女がいた。人目もはばからず、隊長に寄りかかって周囲を眺め回している。将校の妻が、軍と行動を共にすることはない。だとすれば、この女は…。
 その後ろに従って歩いているのは、名状しがたい集団だ。青天白日の徽章のついた軍帽をかぶっているから兵士であることは確かだ。緑色の上着に長ズボンをはき、巻き脚絆を巻いている者、半ズボンの者とさまざまだ。大方はズックの運動靴に似たものを履いているが、日本陸軍の真新しい靴を履いている者もいる。小銃を肩にしている兵、手ぶらの兵、そのいずれもが背嚢を背負っている。
 兵士たちの背嚢には、唐傘、魔法瓶、大きな鉄の釜、薪、野菜、洗い桶などがくくりつけてある。天秤棒を担ぎ、両2つの籠に、背嚢と小銃、ゴザ、豚肉、生きた鶏などを載せ、裸足で歩いてくる40代の男もいた。
 「これが兵隊か」
 私と林志楊君は思わず声をあげた。 

10月20日土曜日。
 学校整理のためにと、仁愛高級中学の各学年の1組、2組は建国高級中学へ、3組、4組は和平高級中学に配属されるいわれた。仁愛高級中学は消滅したのだ。
 3組,4組のわれわれは、そろって和平高級中学へ歩いた。都心から校外の六張犁まではかなりの距離だ。
 われわれは和平高級中学に迎えられ教室に入った。
  「学連が来たぞ。逃げるなら今のうちだ」
 切迫した叫び声が聞こえてきた。どやどやと靴音がして2.30人の若者が乱入してきた。 そのリーダーと思われる男が、
 「俺たちは三民主義学生連盟だ。日本時代の悪を追求する」
 中学生に混じって、老鰻もいる。老鰻は台湾の与太者というかヤクザの呼び名だ。
 座っているわれわれの顔を、丹念に睨みつけていく。
 級友だった林滄海が私を指さした。
 「お前立て」
 私は引きずり出された。私は林滄海を侮辱したことはない。ほかに数人が立たされ、職員室へ連行された。そこには10人ほどの日本人生徒がいた。職員が立って並んでいる。
  「お前たちは、台湾人生徒を馬鹿にしたり、差別したりしていた。その報復に制裁する」
  一人ずつ職員の輪の中に立たされ、老鰻が殴りつける。私の番が来た。
 老鰻がニヤッとして、
 「脚を開け。いくぞ」
 左の頬に打撃を受けた。痛くはない。意識を失いそうになった。そのまま後ろへ倒れる 。誰かが後頭部で受け止め、もとの位置に戻した。右の頬もやられた。左右の口の中は切れている。
 老鰻が顎をふって終わりを指示した。これが敗戦の現実だった。
 私はもう二度と和平高級中学行かなかった。


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押し花絵の世界 №189 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「押し花ヘアゴム 秋冬デザイン」

        押花作家  ?山﨑房枝

2023.10月上.jpg

霞草、ノースポール、紅花、ビオラなどの小花を並べて、パールやストーンでアレンジをしてヘアゴムを作りました。
3歳の息子が「可愛いー[黒ハート]?」と褒めてくれて嬉しかったです。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「本を読む人J A man reading a book

     銅板造形作家  赤川政由

42本を読む人.jpg
39-2.jpg
マルジュ国立国立両富士見台
 散歩をしなが5本翫売む.。最近は見かけない姿だ。今ではスマホを見ながらゲームでしょうか。
 国立の谷保近くのマンションの、緑地植込みにある。大学生が多く居る町なので読書に親しんでほしいとの思い。現代の二宮金次郎的。国立の街中に設置された、ボップ作品第1号。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  4

          原田環爾

115-1.jpg 丸山塚公園の前の通りを挟んで筋向いのマンションの1階の奥まった所に地蔵堂がある。身代延命地蔵尊と呼ばれている。マンションに取り囲まれていることからマンション地蔵などとも呼ばれている。かつてこの近辺で不幸が相次いで起こり、これは江古田・沼袋合戦の戦死者の怨念によるのではないかということになり、彼らの霊を鎮めるために造立されたという。当地では毎年春と秋に身代延命地蔵祭が開催されている。
 公園前を北に向うとすぐ交差点「沼袋」で東西に走る新青梅街道にぶつかる。右折して街道に沿って進む。街道沿い左に民家風のモダンな建物が目に入る。中野区立歴史民俗資料館だ。入館は無料なので時間があれば是非立ち寄りたい所である。
 これより江古田原沼袋古戦場碑がある江古田公園を目指す。街道は緩やかな下り坂とな115-2.jpgる。下りきってまっすぐ進むのが近道であるが、江古田公園の緑道を満喫するため交差点「江古田一丁目西」で右折し一旦南へ向かう。100mも進めば北流してきた妙正寺川に架かる江古田橋の袂に出る。橋を渡って右岸に回り、右岸に沿って再び北へ折り返す。妙正寺川は新青梅街道手前で大きく東に蛇行し、それと共に右岸の道は終わり、ごく細い上り坂の小路が続いて現れる。それが江古田公園の緑道の入口だ。緑道は小丘の中腹を縫う樹々で覆われた小路で、樹間からは左下に妙正寺川を望むことが出き、気持ちの良い散歩道になっている。程なく妙正寺川に合流する江古田川を望むことができる。江古田川とは練馬区豊玉南の学田公園付近を水源とする川だ。細い緑道が広くなってきた所で妙正寺川の対岸にグランドが現れる。江古田公園橋を渡ってグランドの西端に目をやると、そこに高さ2m程の「史跡 115-3.jpg江古田原沼袋古戦場碑」が立っている。
 文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り広げた江古田原沼袋の古戦場は、古戦場碑より東にある哲学堂公園から野方6丁目に至る新青梅街道沿いの一帯であった。もともとこの戦は、享徳の乱(1454~1482)という長い内乱の中の一つである。享徳の乱は、公方足利茂氏と太田道灌が仕える関東管領上杉氏とが対立する中で、管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起こったものだ。この乱で関東は二分され、豊島氏は公方・上杉両陣営から軍勢への参加を求められ、思案の末に上杉方(山内上杉)についた。しかし管領上杉顕定の時、家宰職の長尾景信が亡くなりその後継問題が発生した。後継を期待していた景信の嫡男長尾景春は跡目を継げず、それがもとで主君へ反乱を引き起こした。長尾景春の乱である。この時豊島泰経は自身の妻が長尾景春の妹であったことから関係の深い長尾景春に味方した。そのため文明9年(1477)上杉顕定を援助していた江戸城主上杉定正の家宰太田道灌は豊島氏を攻めた。豊島泰経は江古田原沼袋の合戦で敗れ、ついには本城の115-4.jpg石神井城も落城した。「太田道灌状」によれば敗れた泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年再び道灌に攻められ、鶴見川河畔の小机城(横浜市)に逃れたというが、その後の足取りは不明である。一方太田道灌は豊島氏を破ったことで武蔵国の支配は大きく前進した。
 これより妙正寺川に沿って進む。天神橋を過ぎ下田橋の袂で中野通りに出ると両岸に哲学堂公園が展開する。東洋大学の前身哲学館を設立した井上円了を記念して造られたものだ。左岸が本来の哲学堂公園で唯物園と称し、右岸は後に取得し整備された公園で梅林区域になっている。左岸の段丘を上がればそこに様々な哲学上の建造物が建ち並んでいる。常識門、鬼115-6 のコピー.jpg115-7 のコピー.jpg神窟、無尽蔵、六賢台、四聖堂、宇宙館、皇国殿、絶対城、理外門等々。哲学的名称が付与された77場がある。四聖堂脇に佇む哲学堂公園の由緒書「心を養う公園」には次のように記されていた。「日本が世界へと開けゆく幕末に井上円了先生は新潟県下の寺院に生まれました。やがて明治となり、東京大学文学部哲学科に学び、変わりゆく時代のなかで世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました。その思いから明治20年に東洋大学の起源である『哲学館』を設立して、教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました。さらに全国の半数以上に及ぶそれぞれの市町村にまで身を運び、世界と心のあり方を説き続けました。全国巡回講演というこの壮大な事業における謝礼と人々の寄付のすべてを注いでこの公園を建設しました。先生は公共の利用を志し、人々の心を養う場としてここを『哲学堂』」と名づけました。先生の没後80年を記念して、ここにその願いを記します。 東洋大学」と。
115-8.jpg 哲学堂公園の東出口から緩やかな坂道の哲学堂通りに出る。坂を北へ少し上がって右折通りに入る。そこに葛谷御霊神社がある。寛治年間(1087~1094)源義家による奥州征討(後三年の役)の折、義家に従軍した山城国桂(葛)の里の一族が奥州平定後、京へ帰還する途中、この地に氏神八幡宮および神功皇后、武内宿禰を勧請して御霊社と称したことに始まるという。このことからこの地一帯は葛ヶ谷村と称されるようになった。別当はこの先の猫寺で知られる西光山自性院無量寺である。
 御霊神社を後にし先の街路を東へ向かうとやがて新青梅街道に合流する。合流点の街道のすぐ南に猫寺で知られる自性院がある。江古田原沼袋の合戦の折、苦戦した太田道灌を猫が助けたという伝説を有する寺であ115-9.jpgる。街道から細い参道が伸びている。入口には「猫地蔵霊場」「子育猫地蔵尊」などと刻んだ石標柱が立ち、また門柱の上には招き猫の石像が乗っている。なお本来の山門はすぐの信号のある交差点を南に入ったところにある。派手な朱色の山門だ。真言宗豊山派の寺で正式には西光山自性院無量寺と称す。境内には本堂の他、平和観音堂、猫地蔵堂などがある。猫地蔵堂を覗けば像高2m程の観音様の周りに多数の猫の置物が置かれてい115-11 のコピー.jpg115-10 のコピー.jpgる。堂の前には「西光山自性院猫地蔵詠歌」なる石盤碑が立っている。詠歌は1番から五番まであり、うち二番には「文明九年に政争あり 猫に導かれて福を得る 道灌公の報恩行 み像祀りし濫觴(はじめ)とぞ」と記されている。寺伝によれば弘法大師が日光山参詣の途中に観音を供養したのが自性院の始まりという。なお猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島泰経と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったことで、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという。また江戸時代の明和4年(1767)金坂八郎治の妻のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏で御開帳は二月の節分の日で観音様の足元に置かれて公開されている。像高は30~40cm程度である。
 猫寺より再び新青梅街道に出ればすぐ目白通りと交差する。交差点を左折して目白通りに入れば今回の旅の終着点である大江戸線落合南長崎駅に到着する。(完)


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夕焼け小焼け №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

陸軍二等兵

        鈴木茂夫

 昭和20年(1945年)6月25日月曜日。
 朝礼の代わりに2階の大教室に集まるようにいわれた。壇上には教練の軍事教官中川中尉、担任の庄司先生、横井先生、松宮先生が立っている。中川中尉が口を開いた。
 「大東亜戦争は、今や重大な局面を迎えている。沖縄のわが軍は3月26日にアメリカ軍が沖縄に上陸したのに対し、激しい防衛戦を展開してきた。そして先週末の6月23日、90日間にわたる第32軍の組織的な戦闘が終わった。沖縄の中学3年生以上は、鉄血勤皇隊として兵役につき活躍していた。台湾の防衛はますます重大である。4年生は。すでに防衛召集により軍務についている。台湾軍は貴様らも兵力の一員とすることを決定された。日本男子として名誉なことである。今から配る書面に必要なことを記入するようにせよ」
私たち3年生も軍務につくのだ。 紙が配られた。
 「第二国民兵役編入特別志願願 」 とある。これは私たちが、兵役に編入してくださいと軍にお願いするということだ。ふと壇上を見上げると、松宮先生が刀を抜いて、  
  「卑怯者がいたらぶった斬るぞ」                
  顔色が変わっている。異様な雰囲気だ。 壇から降りて私たちの机の周りを歩いた。       いやもおうもない。氏名、住所、本籍などを書き込む。
                                           
 この日から3日後、淡紅色の紙に印刷された臨時召集令状を、台北市役所の兵事係が届けてきた。

  臨時召集令状
  台北州台北市 幸警察署管内
  第二国民兵役 鈴木茂夫
  右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ此ノ礼状ヲ以テ当該召集事務所ニ  届ケ出ヅベシ
   到着日時 昭和20年6月28日
  到着地    台北州立台北第二中学
  召集部隊   雷神 13863部隊
   台北連隊区司令部

 学校からの連絡も入った。身の回りの衣類、毛布、蚊帳、鉄兜、飯ごう、水筒、筆記具、教練教科書など、すべて自前で持参するようにという。兵隊になると、一切の衣服、寝具などなどは、支給されると思っていたが、私たちの場合はそうではなかった。
 母がそれらの物品を調達してくれた。そして涙ぐみながら、
 「戦争が勝利しているとばかり思っていたけれど、そうじゃなかったのね。あなたが死んだら陸軍二等兵なのね。海軍の予科練、陸軍の少年航空兵などに志願したいと言ったとき、四年生で陸軍士官学校、海軍兵学校の試験を受け、将校として活躍しなさいと言ったけれど、もうそんな余裕はないのね。あなたの意見を聞かなくて悪かったわ。それとこれほど状況が切迫していると、ボルネオにいるお父さんの安否も分からなくなったわね」
 6月28日、私は重いリュックサックを担いだ。家を出ると涙が出てきた。もう二度とわが家には帰れないと思った。そして戦死するのは怖かった。母は私の後ろからついてきた。集合地の台北第二中学までは、普通な歩いて10分ほどの距離だ。だが脚が重い。
 泣きながら30分もかかって到着。母は帰っていった。集まった多くの級友の顔には、涙の跡があった。 
 午後5時、私たちは校庭に整列した。一人の将校が、
 「自分が徴兵を担当する。貴様たちは、防衛召集によりここに参集した。誰か体調がすぐれぬ者いるか。腹の具合の悪い者は一歩前へ」
 10人ほどが前へ出た。
 「腹具合は精神力で回復する。隊列のもとに戻れ。全員合格。陸軍二等兵に任ずる」
 あっという間に、陸軍二等兵となった。校舎の二階に導かれ、整列する。衣服を脱ぎ、裸体となる。軍医が先頭からペニスを診ていく。付き添っている中年の看護婦が名簿に記入する。恥ずかしかったがしかたない。私の番がきた。
 「まだ毛も生えそろっとらんな」
 私のペニスをつまみ、包皮を反転した。痛い。思わず腰を引く。
 「よし、異常なしだ」
 痛みと恥ずかしさで、ペニスは勃起して、一層恥ずかしかった。
 ついで上体を前に倒せと命じられた。肛門の検査、それで終わり。
 以上の検査で不合格になったのはいない。

 みんな校庭に降りた。各自夕食は執れと言われた。それぞれが一人で弁当を開いている。誰もしゃべらない。母の最後の弁当になるのか。心づくしの海苔巻きおにぎりが美味しかった。晴れわたって満天の星。いつしかうとうとと眠っていた。

 午前零時過ぎ、集まれといわれる。4列縦隊となり台北駅へ。われわれが列車に乗りこむと汽車は動きはじめた。特別列車なのだろう。駅に停車することもなく、北回りの線路を走り続ける。
 午前6時頃、列車は止まった。羅東駅だ。一人の曹長に迎えられ、私たちはそこで降りた。4列縦隊を組み歩き始める。街中をすぎると、広い河原だ。曹長が羅東渓と教えてくれた。雨季でないからだろう。水はない。大きい石がゴロゴロしている。われわれはその支流に入った。打狗渓というそうだ。
 やがて四方林の原住民集落が現れる。ここを通り過ぎて少し行くと、また一つの支流がある。山肌が迫っている。そこを入っていくと茅葺きの小屋が現れた。われわれの駐屯地だ。
すでに来ていた4年生が迎えてくれた。
 台湾・雷神13863部隊の中川中隊だ。4小隊で1中隊を編成している。20数人が一つの小屋に入る。それぞれに割り当てられた小屋に入る。私は庄司先生が班長をつとめる班に組まれた。河の最上流に炊事小屋、次に中隊本部・中隊長居室、そこから各班の小屋が散在していた。
 炊事班が朝昼兼用の食事を出してくれた。飯に豚汁だ。空きっ腹に美味しかった。食べ終わると横になり、ぐっすり眠った。
 起床ラッパが鳴っている。午前7時。あわてて起きた。屋外に出て2列横隊に整列した。
 庄司班長先生が、
 「軍人勅諭斉唱」
 私たちは口をそろえて、
 「一つ、軍人は忠節を盡すを本分とすへし、一つ、軍人は禮儀を正くすへし、一つ、軍人は武勇を尚ふへし、一つ、軍人は信義を重んすへし、一つ、 軍人は質素を旨とすへし」
 私たちは本格的な軍人になっているのだと思った。このあと朝食だ。炊事班から朝食の給与を受けてきた当番が、各自の食器によそっていく。飯と汁だけだ。副食はない。
 食後、庄司班長先生が、この部隊の現況を話された。
 「われわれの任務は,東側の海岸から上陸して台北をめざすアメリカ軍を阻止することにある。現在、部隊にある兵器は10丁の38式歩兵銃の模擬中。形は本物と変わらないが、弾丸はできない。明治の日清戦争で使われて廃銃とされた村田銃が10丁、今はこの銃の弾丸は作っていない。97式軽機関銃が1丁ある。使用可能だ。ただし弾丸は500発しかい。連続発射すれば、1分で使いきる量だ。手榴弾もなし。兵器はまるでないのだ。やがて支給すると言われているが、いつになるかは分からない。君たちの大和魂だけが頼りだ」
 今、敵が上陸してくれば、われわれは逃げるよりないのだ。情けなかった。
 私たちは朝食を終えると、基礎訓練に取り組んだ。武器がないからそれしかできない。
    「気をつけ」「休め」「右向け右」「左向け左」「回れ右」「敬礼」「なおれ」「前へ進め」「縦隊右へ進め」「縦隊左へ進め」「右向け前へ進め」「左向け前へ進め」「歩調執れ」
 これらの命令とそれへの対応は、中学2年の時の教練ですでに習得している。数回これを繰り返すと,雰囲気がだれてくる。しかし、これ以外の訓練しかすることはない。
 夕食が終わると、自由な時間となる。電気はないから読書はできない。退屈してくる。
 私たちより、先にここへ来ていた4年生を古兵という。私たち3年生は新兵だ。古兵は私たちを呼び出し、整列させた。勤務の態度がなってないという。古兵の何人かで、私たち新兵を殴りつけた。悔しいが抵抗できない。上官にさからうのはゆるされないからだ。
 午後9時、消灯ラッパが鳴る。 タンタントー タタタント タタタントトー
 ラッパには替え歌がついている。
 「兵隊さんは悲しいなあ また寝て泣くのかよー」
 このラッパは身にしみるのだ。私も涙がにじみ出たことが何度もある。
 電気がないから暗い。消す灯りがないのだ。

 ある日、庄司班長に呼ばれた。君たちは成績優秀だから、蘇澳に駐屯する船舶工兵の部隊に転属するようにしたと言われた。私は嬉しかった。制裁からのがれられる。
 私と数人は山を下り、羅東駅から蘇澳駅まで汽車に乗った。蘇澳駅から部隊までは近かった。駅の近くの国民学校に、「船舶工兵第28連隊通信隊」と表札がかかっていた。
 ほかの部隊からも転属者がきていて40人になった。通信隊の隊員は300人ほどだ。
 中隊長の佐藤中尉が、自分がお前たちを教育すると言われた。国民学校の校舎で寝泊まりしている。食事も美味しかった。寝るのも楽だ。
 翌日から教育が始まった。
 佐藤中尉が先生だ。なめらかな口調だ。私たちを学徒兵と呼び、君たちと呼んだ。
 君たちはオームの法則は知っているかな。 導体に流れる電流の大きさ  と導体に加えた電圧  は比例する。このことをオームの法則というのだ。
 電気通信の技術は,電気の技術と歩調をあわせながら進展し,19 世紀終盤には電信および電話の業務が行われるようになった。20 世紀に入ると真空管が発明され,電気信号を電子の流れとして扱うことにより,信号波形を操作(増幅など)できるようになった。
 私は真剣に理解しようと努めた。通信が面白いからだ。
 7月末に、2ヶ月分の俸給だと25円受け取った。兵隊に給料があるとしらなかったから驚いた。その時、ついでだから、遺書をかいておけと紙を渡された。
 最大の望みは、家へ帰りたいのだが、検閲されると問題になるだろうと、当たり障りのない尽忠報国とだけ書いた。
 8月15日正午、重大放送があるからと、総員集合してラジオを聞いた。
雑音が入って聞きにくかったが、そこだけは聞こえた。
  「 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス」
 戦いに勝ったのではない。負けたのだ。しかし戦争が終わるのだと理解できた。
 短かった授業は終わった。私たちは羅東の原隊に戻り、みんなと台北へ帰った。

 戦後分かったことがある。「兵役法」は17歳以上の男子が兵役に就くことを規定していた。しかし当時の私たちは14歳か15歳だった。その私たちが自発的に兵役に就くようにお願いしているのだ。だから軍はそのことを受け入れるということだ。だがそんな願いは違法だ。超法規的な措置なのだ。
 沖縄と台湾は、第10方面軍とされていた。昭和19年暮に「防衛召集規則」の改正により、沖縄県、台湾、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島に限り、志願すれば17歳未満でも第二国民兵役に編入できるとしていた。これについて内務省は、徴兵年齢の引き下げにあたり、憲法違反の疑いがあると指摘していたという。


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押し花絵の世界 №188 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「cosmos」

       押花作家  山﨑房枝

2023.9月下.jpg
23cm×18cm

コスモスだけでシンプルにデザインした作品です。
白い花弁を桃赤色で縁取ったものや、紅色に白の絞りが入ったものなど多彩なカラーで人気のピコティという品種を使用しました。
一輪一輪違う花弁の型や色合いを楽しみ、最後に金箔を塗して仕上げました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「毎日感謝」 BE thankful every day

        銅板造形作家  赤川政由

39毎日感謝.jpg

麦酒堂KASUGAI  国立市東

秋の実りに感謝する少女。大きなブドウの房を芋にしている0秋の柔らかな日差しと青い空。小学校の子供たちの通学路にあるこの作品は、何気ない街の中に優しい光を投げかけていて、依頼者の街への優しさが現れている。

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多摩のむかし道と伝説の旅 №114 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  3

          原田環爾

29-1.jpg 石神井城跡から三宝寺池の畔に降りるとそこに水神の小祠がある。そこから池畔を時計まわりに巡ることにする。ほどなく厳島神社の前にくる。赤い建屋が池畔の風景によく映える。更に池畔を大きく回り込み厳島神社の対岸に来ると。丘へ上がる細い小道がある。小道に入って丘の上に上がると、公園の外縁部に道灌に攻め滅ぼされた石神井城主豊島泰経の悲話を伝える2つの塚がある。塚は殿塚と姫塚と言い、殿塚は豊島29-2.jpg29-3.jpg泰経を、また姫塚は泰経の二女照姫を供養した塔という。2つの塚は30mばかり離れてひ  っそりと立っている。
 29-4.jpg伝説によれば、文明9年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌との戦いに敗れて落城した折、城主豊島泰経は黄金の鞍をつけた白馬に跨り、三宝寺池に飛び込み水底に沈んだという。また泰経の二女照姫も父の後を追って三宝寺池に身を投げたという。天気のよい日には湖底にきらきら輝く光が見えるといわれ、泰経の黄金の鞍が光っているのであろうということになり、「三宝寺池の黄金の鞍伝説」が生まれた。またこれと同じような伝説として、豊島泰経の娘が石神井川に身を投げたともいい、入水した渕は後に姫ヶ淵と呼ばれるようになったという。
29-5.jpg 殿塚、姫塚を後にして再び三宝寺池の池畔に降りる。池畔に沿って進むと園内真中に石神井城主と同じ名前の豊島屋の看板を掲げた茶屋が見える。かつて筆者が訪ねた折は甘酒、しるこ、おでん、ラー メン、カレーなど色々なメニューで商いをしていた。小雪が舞う寒い日にここで12種類の具沢山の豚汁を注文して舌鼓をうったことを記憶している。人参、大根、ゴボウ、ネギ、蒟蒻、揚げ、小芋、椎茸、エノキ、肉・・・・。随分色々入っていた。何より身体が温まってほっこりしたことを思い出す。三宝寺池から井草通りを隔てた隣の石神井池の池畔に移る。石神井池は三宝寺池と打って変わってボートが浮かぶモダンな池だ。池畔には目を見張る豪邸が立ち並ぶ。池畔を辿ってゆくと程なくボート乗り場に至る。石神井池の終端だ。同時に石神井公園もここで終わる。これより帰路をとり、石神井駅へ向かう。かつては細い道路をうねうねと行ったものだが、今は駅前は新たな都市計画が進行中で大改造されつつある。数年後にはすっかり変わった姿をみること になるであろう。

[後編]中野の江古田・沼袋古戦場を巡る道
 文明9年(1477)太田道灌は豊島泰経の石神井城を攻略するため江戸城を発進した。この時、道灌軍は江古田・沼袋で石神井城や平塚城から進軍してきた豊島軍と遭遇し激戦となった。これに勝利した道灌軍は更に西進し、練馬の石神井城を攻撃してこれを落城させた。今回は石神井城城攻めの最初のターニングポイントとなった江古田・沼袋の古戦場界隈の旧跡を辿ることにする。西武新宿線沼袋駅を出発し、沼袋氷川神社を皮切りに旧跡を巡りながら江古田・沼袋古戦場に至る。その後は妙正寺川の畔に出て、水辺に沿って哲学堂公園に立ち寄り、帰路は大江戸線落合南長崎駅に至るものとする。
29- 6 のコピー.jpg
29-7.jpg 西武新宿線沼袋駅を出て線路沿いに東へ200mも進むと太田道灌ゆかりの沼袋氷川神社の前に来る。鳥居をくぐり参道の石段を上れば正面に拝殿があり、左手に神楽殿がある。境内の一角にご神木であった道灌杉の遺構が保存されている。遺構といっても柵の中に枯れた杉の根株のかけらがあるだけだ。傍らにかつての杉の古写真が添えられており往時の威容をしのぶことができる。沼袋氷川神社は今から約600年前の後村上天皇の正平年間(1346~1370)、大宮氷川神社の分霊を沼袋の鎮29-8.jpg守として奉祀したことに始まる。祭神は須佐之男命。文明9年(1477)4月太田道灌と豊島氏が江古田が原・沼袋の地で合戦したのは、当社から新青梅街道にかけての辺りと推定され、当社一帯の高丘は道灌の本陣となり、社頭に杉一株を献植し戦勝祈願した。それが後年道灌杉と称される高さ約30mの天を圧する老杉となったが昭和19年頃枯死した。
 境内西にある鳥居をくぐって氷川神社を後にする。複雑に入り組んだ狭い街路をうねうねと進むと集落の中に埋もれるように、真言宗豊山派の禅定院、日蓮宗の久成寺、真言宗東寺派の百観音明治寺が所狭しと林立して29-9.jpgいる。百観音明治寺はその名のごとく境内に青天井で無数の観音様をお祀りした百観音霊場があり一見に値する。由緒書には次のように記されている。「西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、あわせて百の観音札所を巡礼して旅をすることは、江戸時代以前から今に至るまで盛んに行なわれて来ました。この百観音霊場に、明治天皇が崩御された時に、その遺徳をしのぶため、草野栄照尼によって最初の観音像が建立されたことから始まりました。以後、多大な信望を受けて、続々と百観音霊場の御本尊の姿が刻まれ、現在は番外も増えて合計百七十四体になっています。この石像を一体づつ拝むことで日本中の観音霊場の御縁をいただくことができ観音慈悲の恵みを受けることができます」と。
29-10.jpg 明治寺から更に集落の中をじぐざぐと進み、コンビニのある南北に走る車道に出る。車道を北に採るとすぐ沿道右にこじんまりした丸山塚公園が現れる。公園の片隅に身の丈1~2mばかりの小さな石の祠がある。傍らには「豊玉二百柱社」と刻まれ標柱石と由来を記した昭和49年造立の石盤碑が立っている。江古田・沼袋合戦の戦死者を供養したものだ。由来書には次のように刻まれている。「文明9年4月13日、江戸城主太田道灌は平塚城の豊島泰明を攻めたが頑強な抵抗にあい帰城した処、石神井・練馬両城より兄泰経が江戸城を目指し進発したことを知り急遽出撃した。両軍は江古田が原・沼袋で遭遇し激烈な戦闘を展開した。興亡をかけて戦った豊島氏は敗れて泰明以下百五十余名がこの地で戦死し、在地の領主として栄えた豊島氏は致命的打撃を受けた。江戸道沿いに点在の古墳は豊島塚といわれた。このたび地元有志の者が供養のため古来の祠を再建て戦没者の霊を祀る」と。なお中野区内の豊島塚は7カ所ほど知られていたが、ほとんど調査されることなく失われてしまったという。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №20 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 決戦の年 

             鈴木茂夫

 アメリカ軍の本土空襲が激しくなり、フィリピン、マリアナの戦闘で敗れた状況から、本土決戦といわれはじめた。
  昭和20年(1945年)4月2日月曜日。
    きょうから3年生。朝登校すると校門の横に小銃を構えて立っている4年生がいた。
  「何をしているんですか」
 と問いかけると、
  「俺は営門歩哨をしているところだ。俺たち4年生は、警備召集と言われて全員動員された。校門の表札を見ろよ」
 校門には台北州立台北第四中学校と記した表札がある。その横に「雷神13863部隊」と記した表札があった。4年生が動員されれば、最上級生はいない。1年下の下級生である私たちに制裁を加える人はいないんだ。やれやれと思いながら教室へ入った。
 午前8時半、朝礼。校庭で小林敏郎校長が演壇に立った。
 「今年は決戦の年である。3月26日には、アメリカ軍が沖縄・慶良間島に上陸、沖縄は戦火に包まれている。日本のすべての学徒を決戦に必要な業務に総動員することになった。このため1年間、原則として授業をしない。3年生は桃園台地に設けられた陸軍の樹林口飛行場の整備に行ってもらう。健康に留意してお国のために働いてほしい」
 担任の横井先生は、現地で必要な物品をこまごまと書き出した。毛布、飯ごう、箸、ナイフ、水筒、下着、靴下、帽子などすべて自前だ。
 
4月6日、月曜日、午前9時、
 私たちは樹林口へ向かった。北門を過ぎ古い街並みの大稲埕を通り抜け台北大橋を渡る。分厚い雲に覆われていた空から雨が降り出した。10数キロを歩いて桃園台地の上にある樹林口に到着。コの字型の三合院と呼ばれる台湾人の住宅に分宿した。神様や祖先を祀る大庁が割り当てられた。集落のまわりは、茶畑だ。そこに幅50メートル、長さ約1000メートルの滑走路が設けられている。台湾軍が特攻機などの出撃にすると農家に要請、茶畑を切断するように工事したのだろう。茶畑の北の端に立つと、海が見える。台湾海峡だ。
 飛行場の滑走路から誘導路のような小道が何本か延びている。その端末に、竹で組み上げた偽飛行機があった。本物の飛行機はない。
 われわれの任務は、滑走路の凸凹をならして、飛行機の離着陸が順調に行われるようにすることだ。もし爆撃されれば、爆弾の跡を修復するのはもちろんだ。
 飛行場の整備のために、私たちだけでなく、中年の兵隊も来ていた。
 食事は、飯と塩気の利いた豚汁だ。豚肉の細片は汁の中にたまに見える。味は塩辛いだけ。碗にある汁を全部飲むと喉が渇いた。
 作業開始3日目、コンソリデーテッド B-24 リベレーターが1機、3000メートルぐらいの低い高度で飛んできて、小さな爆弾をバラバラと投下して飛び去った。爆弾の跡は直径20メートルほどにえぐれていた。私たちは飛行場のある台地から200メートル下の小川に行き、直径50センチほどの石を拾って、爆弾の跡を埋めた。この作業を2回もすると腕から力が抜ける。200人近い生徒が頑張っても3日はかかった。
 われわれと同じ作業をしている兵隊は、みんな台湾各地から召集されて来たのだという。監督の下士官に怒鳴られながら、よろよろと石を運んでいた。
作業をすると喉が渇いた。台地の麓には澄んだ小川が流れている。生水を飲んではいけないといわれていたが、ついこの水を飲んだ。その翌日には下痢がはじまった。一日に3度から5度排便した。体力が急激に減退する。50人編成の学級のうち、30人以上が下痢していた。
 ときどきかすかに爆音が聞こえた。B-24の編隊が、台北を空襲しているのだ。
 下痢で体力を消耗している私たちに、国語漢文担当の木村先生は、
「沖縄の学友は、部隊に協力して死に物狂いで戦っているのだぞ」
   と叫んだ。だが何を言われても、身体に力が入らない。よろよろと石を運び上げる日が続いた。
 竹を焼いてできる炭が下痢に効くそうだと聞いてきて、竹を焼き、炭を口にしてみた。 結果はまるで効果はなかった。
  1ヶ月半過ぎて、監督の先生から作業は終わると告げられた。
  嬉しい知らせだった。みんな力をふりしぼって帰宅した。

 帰宅して1週間、自宅で静養し、母の食事を食べたら回復した。
 学校に行くと、級友の長野大路君が、海軍の乙種飛行練習生の試験に合格、内地に向かうという。茨城県霞ヶ浦の練習連合航空隊で2年間の教育訓練を受けるのだ。
 台北を出る日、大勢の級友が台北駅に参集した。
   長野君は級友の輪の中の中心に立っていた。両親と妹もその隅にいる。 自然と歌声があがる。予科練の歌だ。

       若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨(いかり)
   今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の 雲が湧く

   燃える元気な 予科練の 腕はくろがね 心は火玉
   さっと巣立てば 荒海越えて行くぞ敵陣 なぐり込み

      仰ぐ先輩 予科練の 手柄聞くたび 血潮が疼く
   ぐんと練れ練れ 攻撃精神 大和魂にゃ 敵はない

   生命惜しまぬ 予科練の 意気の翼は 勝利の翼
   見事轟沈 した敵艦を 母へ写真で 送りたい

 長野君は微笑みながら、歌を聞いていた。
 私たちは、つぎつぎと海軍関連の歌を歌った。軍艦行進曲はもちろんだ。

      守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の 浮べる城ぞ頼みなる
   浮べるその城日の本(ひのもと)の 皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
   真鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に仇(あだ)なす国を攻めよかし

   石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の 龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
   弾丸(たま)撃つ響きは雷(いかづち)の 声かとばかりどよむなり
   万里の波濤(はとう)を乗り越えて 皇国(みくに)の光輝かせ

 私たちは声がかれるまで歌った。長野君はみんなに海軍式の敬礼をして、基隆行きの列車に乗り込んだ。
 それから数日し 内地行きの船が潜水艦に攻撃されて沈んだ。予科練に行く生徒も大勢いたそうだ。こんな噂が 港町の基隆から聞こえてきた。
 私は愕然とした。長野君は飛行機には乗れなかったのだ。



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押し花絵の世界 №186 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Green Garden」

        押花作家  山崎﨑枝

2023.9月上.jpg

54cm×45cm

自宅の庭に咲いた白い薔薇やアイビーを丁寧に乾燥させて、思いのままに並べながらデザインしました。
眺めていると爽やかな緑色に癒されながらパワー湧いてくるような気がします。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「日々精進」Daily diligence 

     銅板造形作家  赤川政由

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麦酒堂 KASUGAI
国立市東3-17-27

前回掲載の「今日無事」、次回掲載予定の「毎日感謝」、そして。今回の「日々精進」のタイトルはオーナーの開喜一さんの命名。行き交う人々がこの言葉に元気付lナられている0それぞれの作品には街灯が灯っていて、バス停の前で待ってる人、小学生の顔にも微笑みが灯る。才一ナーの方にお礼を言って<ださいと、ある女性からありがとうと言われた。



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多摩のむかし道と伝説の旅 №113 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  2

          原田環爾

28-6.jpg 28-8.jpg更に街道を西へ200mも進み、交差点「桃井四丁目」で右折し再び北へ向かう。これは道灌が進軍した道筋と思われる。程なく今川地区入る。道の左が今川4丁目、右が3丁目だ。やがて早稲田通りとの交差点「今川三丁目」に近づくと沿道左に大きな敷地の屋敷が現れる。小美野邸と呼ばれる旧家だ。ここは古くは陣幕あるいは幕陣とも呼ばれた所で、石神井城を攻撃する太田道灌が本陣を置いた所という。小美野邸の西側に回ると、その名も「道灌公園」と称する小公園がある。交差点から先は長い下りのだらだら坂で「道灌坂」と呼28-9.jpg28-7.jpgばれている。下り切ると右に三谷小学校があり、そこで瀟洒な遊歩道と交差する。遊歩道は井草川緑道という。道灌堀とも呼ばれたかつての井草川を暗渠にした上に造られた緑道だ。緑道を右に20mばかり入ると、緑道沿い右に「道灌橋之跡」と刻んだ高さ50cmばかりの標石が立っている。かつてここに井草川にかかる道灌橋があった。その標石の筋向いに道灌橋公園と称する小公園がある。因みに井草川の水源はここより南西400mばかりの所にある杉並区立切り通し公園が谷頭で、そこから流れ出た湧水が上井草、井草、下井草を通ってやがて妙正寺池付近で妙正寺川に合流している。妙正寺池は神田上水の水源の一つである。/ところで切り通し公園付近は別に「道灌の切り通し」と称されている。ここには道灌にかかわるこんな伝説が残されている。石神井城主の豊島泰経はしばしば切り通しの近くにある井草八幡社に馬で遠出したという。文明9年(1477)の春、数人の家臣を伴って上井草の切り通し付近に差し掛かったところ道普請をしている農民に会った。泰経は感心して声を掛けようとしたところ、やにわに農民の一人が槍で突き掛かり、脇腹を串刺されて落馬、瀕死の重傷を負った。道灌の兵が農民に化けていたのだ。泰経は助けられて石神井城帰還するも間もなく死亡。驚いた平塚城を守備する弟の泰明は急遽石神井城に向かった。一方道灌も直ちに一千の軍を率いて石神井城を攻略する。この時太田軍は幕陣に本陣を置き道灌坂を下って道灌橋を渡り、道灌山に軍勢を配したという。城主泰経なき豊島軍は劣勢の中よく城を守備したが、戦巧者の道灌に抗しきれずついに落城する。泰経の奥方は自刃し、娘の照姫は三宝寺池に馬もろとも飛び込み落命したと伝える。ただこれは杉並の伝説で、史実では泰明は一旦平塚城に逃れ、その後鶴見川河畔の小机城へ逃避したという。
28-1.jpg 井草川緑道を後にすると一転だらだらとした上り坂となる。上り切った所で「上井草給水場前」の道標が掛かる辻に来る。ここから沿道右には上井草スポーツセンターの大きな外壁が続く。この辺りが道灌山と呼ばれる所で道灌の攻城軍が宿陣した所という。程なく道は練馬区に入り西武新宿線の踏切を渡る。踏切を境に東西右斜めに交差する道は千川通りだ。かつての千川上水の流路で、今は暗渠となり道路になっているのだ。千川通りを無視して更に井草通りを北へ進む。200mも進むと都立井草高校の前に来る。この辺りは観音山と呼ばれ、ここにも道灌の軍が陣を敷いたいう。引き続いて新青梅街道との交差点「石神井消防署前」に来る。ちなみにここから街道沿いに西へ500~600m行った所に早稲田大学高等学院があるが、その辺りは愛宕山とよばれ、そこにも道灌は軍を宿陣させたという。つまり道灌は石神井城を攻めるにあたって軍を3つ分けて、それぞれを道灌山、観音山、愛宕山に陣を敷かせたのである。
28-2.jpg さて交差点「石神井消防署前」を過ぎると、やがて道は緩やかな長い下り坂となる。下り切った所で石神井川の蛍橋の袂に来る。橋の袂の左には水辺の小公園が広がる。蛍橋界隈の石神井川はつい最近までコンクリートで護岸工事された狭い用水路といった味のない川であったが、近年川幅の拡張工事がなされモダンな景観に変貌している。石神井川を渡るとすぐ東西に走る道路との交差点にくる。交差点の北西角地に「所澤道」と刻んだ石標柱が立っており、この道路が古い道であることを示している。なお以前は交差点の南西角地には大きな「甘藍の碑」が立っていた。練馬区はもともと練馬大根で知られていたが、今ではキャベツがそれに取って代わり練馬の特産物にな っている。
28-3.jpg 所沢通りを左に入るとすぐ沿道北側に豊島氏の菩提寺道場寺がある。道場寺は曹洞宗の寺で山号を豊島山と号す。文中元年(1372)当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を開山に創建し、豊島氏の菩提寺にしたという。文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経を含む一族の墓が3基ある。残念ながら一般には公開していない。境内には本堂、客殿、庫裡、鐘楼のほか重厚な三重塔がある。道場寺のすぐ北側に石神井城跡があり、左隣には三宝寺がある。三宝寺は真言宗智山派の寺で山号を亀頂山と号す。本尊は大聖不28-4.jpg動明王。応永元年(1394)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が当地周辺に建立したが、文明9年(1477)太田道灌 により当地に移転された。境内は広く、本堂、鐘楼、根本大塔(多宝塔)、観音堂、大師堂、大黒堂、地蔵堂のほか、三宝寺旧六塔頭の一つである正覚院などがある。山門は御成門とも呼ばれ、将軍家光が鷹狩の折、休憩所としてお成りになったことからその名がある。また練馬区旭町にあった勝海舟邸の長屋門が移築されている。
 先の所沢道の辻に戻り井草通りを北へ向かう。道は緩やかな上り坂で、途中沿道左には練馬区立石神井図書館がある。坂道を上り切ると一転下り坂となる。だらだらと下り終ると通りの両サイドに石神井公園が広がる。右はボートで遊べるモダンな石神井池で、左は三宝寺池と石神井城址からなる歴史公園になっている。まずは左の園内に入る。すぐに左前方に小さなひょうたん池が現れ、その先に三宝寺池が続く。その左側池畔にはこんもりと雑木林で覆われた小高い丘があ28-5.jpgり、それが秩父流平氏豊島氏の居城石神井城跡だ。回廊の様な木橋で三宝寺池を渡り鬱蒼と樹木の茂る丘を登るとそこが本丸跡だ。城跡には空堀、土塁がよく整備されて保存されている。石神井川と三宝寺池に挟まれた台地上に築かれた平城で鎌倉時代後期の築城と考えられている。豊島氏は平安末から室町中期にかけて、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持った一族で、室町時代の城主豊島泰経は、文明8年(1476)長尾景春が主君の武蔵守護上杉顕定に背いた折、長尾景春に味方した。そのため文明9年(1477)顕定を援助していた江戸城主上杉定正の家宰太田道灌により攻められ石神井城は落城した。太田道灌状によれば敗れた泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年再び道灌に攻められ、鶴見川河畔の小机城(横浜市)に逃れたというが、その後の足取りは不明である。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №19 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

堀江国民学校

         鈴木茂夫

  昭和16年(1941年)年末、父は高雄支店勤務となった。
 年明けの3日夜、台北駅から高雄行きの特別急行寝台車に乗る。初めての寝台車になかなか寝つかれなかった。朝7時、高雄着。高雄市は標高200メートルほどの寿山の台地の下に所在、高雄川(現・愛河)を挟んで市街地が展開する。
  住居は高雄支店が事前に手配してあった。入舟町の平屋、5室ある。
 塩埕町の2階建て堀江国民学校(現・塩埕国民学校)に転校、担任は福原義愛先生、5年2組の男子学級に編入された。格別に歓迎されなかったが、いじめもなかった。  
 学級を仕切っているのは梨田鉄彦君だ。中ぐらいの細身だが筋肉質の身体だ。眼鏡をかけているが、滅法喧嘩に強い。誰も手向かうのはいない。勉学の成績も悪くない。理想的な番長だ。仲良くしようとちかづくと心地よく相手してくれる。わが家からも近い。私はときどき鉄ちゃんの家を訪ねた。梨田建設と表札が出ている。付近の家屋とは違うがっちりした2階屋だ。広い玄関は檜造りで磨き込まれて光っている。鉄ちゃんの部屋は2階にある。勉強机は整理されていて、予習、復習をきちんとしているのは明らかだ。
本棚に雑誌「航空朝日」「飛行少年」がある。鉄ちゃんはその中の1冊を取り出した。
 「俺は飛行機乗りになりたいんだけれど、近視で視力がないから無理なんだ。しようがないからこれを読んでる」
 「僕もそれは毎月読んでる。飛行機は面白い」
 これをきっかけにして私は鉄ちゃんと仲良しになった。
 もう一人、陳郁彬がいた。鉄ちゃんの家の裏側の行徳眼科だ。
 玄関に「国語常用家庭」と表札が出ている。台湾人の学友が日本人主体の中学を受験するには必要なのだ。日本語の学習に母子は努力されたのだ。優しい品のある母親と暮らしている。物静かだ。ゆっくりと語る。日本の正月のお雑煮の中身について質問され、返事したのがきっかけだった。気があって親しくなった。それからときどき、日本内地のことを聞かれて返事した。
 郁彬君が模型飛行機を作ると、目を見張るように精緻にできあがる。A1型はプロペラを回してゴム紐をねじらせて飛ばす。郁彬君の機体は真っ直ぐに20メートルの高さまで上昇し、300メートル以上飛んだ。
 毎月8日を大詔奉戴日とした。朝礼で宣戦の詔書を読み上げるようになった。
6年生の新学期を迎える。
 3月半ば、新しい歌謡曲・大東亜決戦の歌が街の中に聞こえてきた。

        起つやたちまち撃滅の  勝ちどきあがる太平洋 東亜侵略百年の 
    野望をここにくつがえす 今 決戦の時 来る

        征くや激しき皇軍の 砲火はたけぶ大東亜 一発必中肉弾と
        散って悔いない大和魂 今尽忠の時 来る

    勝利を歌う歌だ。勝利に次ぐ勝利を収めている。シナとだけ戦うのではない。アメリカ、イギリスを相手に、大東亜で戦っているのだ。私が大人になる頃には、戦争が終わってしまうのかもしれない。
 父に連れられて繁華街の映画館・金鵄舘で新作「江戸城最後の日」を見た。

  1867年、徳川幕府は大政奉還を申し出る。薩長土以下21藩は徳川打倒を主張。幕府の内部では、江戸城で官軍と戦うか、平和交渉で城を明け渡すかの意見が別れていた。幕府を支える勝海舟を名優・阪東妻三郎が演じる。官軍が薩摩長州以下二十一藩の軍勢が江戸城を攻撃するという知らせに、穏健派の勝安房守は決戦を主張する者たちを抑えるのに苦心する。勝海舟は大総督府参謀・西郷隆盛を説得し、江戸城を無血開城させた。

 平和を求めて命がけの働きをする勝海舟に感動した。
 この日の映画を最後に、映画を見ることもなくなったが。

  学校の一部に重装備の陸軍部隊が駐屯した。校庭の3分の2はトラックと梱包された荷物で占められている。下級生の教室は兵士の寝室にされた。
 朝は起床ラッパが吹奏される。番号を叫ぶ声。兵士が校庭に整列。点呼が行われる。
 軍人勅諭の五箇条を斉唱する。
  我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある
     一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
     一 軍人は禮儀を正くすへし
     一 軍人は武勇を尚ふへし
     一 軍人は信義を重んすへし
     一 軍人は質素を旨とすへし
 この後、兵士は、武器・備品の整備に励んでいた。
 兵士に尋ねると、自分はインドネシアを任務とする第16軍で、仙台の第2師団ですと,話してくれた。しばらくして兵士達の姿が消えた。
 父に尋ねると、きのう大輸送船団が出港したという。高雄の町は前線に近いのだ。
 高雄では、町の中を散策している海軍の軍人に、自宅で泊まっていくように話しかけて連れかえることがよくある。
 3月中旬の夕方、父が海軍の下士官を2人連れてきた。水上機母艦能登呂の乗員で機関を担当する片山,長野ともに2等兵曹だ。海軍は外出するのを上陸という。2人は上陸したもののどこへ出かければいいか見当がつかないで、埠頭でまごまごしてるところを父に声をかけてもらったという。
夕食は格別の料理があったわけではないが、よく食べた。わずかにあったビールをあけ、満足そうな顔をしていた。問わず語りに二人は、こもごも話した。
水上機母艦とはあまり人に知られていないが、陸上機を積む最近の航空母艦が誕生するまでは、水上機母艦が水上機を積んでいた。14隻が活動している。それぞれ給油艦に改装されている。自分たちは大正9年(1920年)に竣工した水上機母艦能登呂に乗っている。以前は水上機を3機積んでいたが、今は積んでいない。主な任務は給油艦として活動している。
 長谷川清司令官のいたシナ派遣艦隊にも属して、多くの艦艇に重油を補給していた。地味な仕事だけれど、達成感はある。
 あくる日、2人は能登呂へ案内してくれた。軍艦だからいちおう大砲はあると、高角砲2門、機銃連装6基を見た。これでは本格的な海戦に参加するのは無理だ。いざという時は戦場の後ろに下がっているのですよと、2人は笑っていた。
 私はすっかり能登呂とお馴染みになって帰宅した。

 4月のある日、父が海軍の下士官を一人つれて帰宅した。古城兵曹と言った。
 古城さんは、母の作った夕食を、美味しいですと何度もお代わりして食べた。入浴して寝間着に着替えた古城さんは,問わず語りに話し始めた。
 自分は鹿児島の出身で、海軍に志願し飛行機の搭乗員になったという。美幌航空隊の96式陸上攻撃機に搭乗し機関士をつとめている。古城さんは話しはじめた。
 イギリス東洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋艦レパルスは、マレーに展開する日本陸軍の作戦を阻止するためにマレー沖に出動してきたのだ。当時、日本海軍は、巡洋艦4隻を配置していたが、その戦力ではイギリス艦隊に対抗するのは難しいと判断。
 昨年12月10日、海軍航空隊は、雷撃機50機、爆撃機25機を動員。
 この日の12時頃、自分の乗った96式陸上攻撃機の編隊は、マレー沖を航行する2隻の上空に到着。つぎつぎに水平爆撃と魚雷攻撃を行なった。高度を下げ、海面すれすれで飛ぶんです。敵艦の甲板が上に見えました。波のしぶきがかかってくると感じるほど低いんです。目標の敵艦に衝突しそうになった時、魚雷を放ちました。
 12時33分頃、レバルスが魚雷を受けて沈没。
 13時50分、プリンス・オブ・ウエールズも魚雷を受けて沈没しました。
 イギリス東洋艦隊の旗艦は壊滅したのです。
 1時間以上、古城さんは話した。父も母も私も、身じろぎしないで聞いていた。戦争の現場の声だった。
 私は「古城さん」と題して、マレー沖海戦を詩にした。それは廊下に張り出された。

 「君たちには、中学の入試がある。それぞれ真剣に準備をしなさい」
  目標は高雄中学だ。試験には、国語,国史、地理、算数、理科の5科目が出題される。私は木原の学習プリントを取りよせ、5科目のテストを1日に5枚あげることにした。
 懸命に参考書にむかった。頭の中に知識として理解することと、規則・公式を応用することが入っていった。
 ときどき、繁華街の中にあるフルーツ・パーラー「亜細亜」に連れていってくれた。
 クリーム・ソーダかフルーツ・パフェを注文した。とても豊かな気分になった。
 それと夜間、自転車にラムネを積んだおじさんが、チャルメラを吹きながらやってくるのも愉しかった。その味は高雄ならではのものだった。

 夏休みのさなか、級友3人と連れだって、寿山の高雄神社で合格祈願をした。
 年が明けた昭和17年(1942)2月、高雄中学の試験。赤煉瓦の校舎が受験生であふれた。 受験番号は98だった。懸命に答案を書いた。分からない問題はなかった。
 2日したら発表だ。掲示板に長い巻紙が広げられていく。それを見つめる受験生から歓声とため息が入り交じる。
 あった。98番合格だった。鉄ちゃんも笑っている。だが郁彬君の番号はなかった。
 駆けるようにして福原先生に報告、喜んでもらえた。
 帰宅して母と買い物に出かける。まず書店だ。クラウン英語読本、国語、漢文、教練教科書、日本史、東洋史、地理、物象、代数、幾何、音楽だ。風呂敷包みにいっぱいだ。
 学帽は制帽と防暑用のヘルメット。制服1着。巻き脚絆。肩掛けカバン。1学年の襟章、氏名標、相当な量になり、人力車で帰宅した。
 それらの品物を見ると、小学校とはちがう勉学がはじまるのだと思った。
 父も帰宅して喜んでくれた。
 「よかったね。英語にしっかり取り組んでみよう」
 英語の教科書を開く。あらたな世界がはじまるのだと嬉しかった。
 数日して郁彬君は高雄工業に合格したとか。ホッとした。



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押し花絵の世界 №185 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Sunflower」

           押花作家  山崎房枝

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55cm×45cm

絵の具や漂白剤、ラメなどで彩色して制作したオリジナルの布の上に、自宅の花壇に種を蒔いて咲かせた小さい向日葵を並べてデザインしました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №39 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

毎日感謝 Be thankful everyday!

      銅板造形作家  赤川政由

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秋の実りに感謝する少女。大きなブドウの房を芋にしている0秋の柔らかな日差しと乱\空。小学校の子供たちの通学路にあるこの作品は、何気ない街の中に優しい光を投げかけていて、依頼者の街への優しさが現れている。



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多摩のむかし道と伝説の旅 №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  1

          原田環爾

多摩の東部に隣接する杉並区から練馬区にかけては都会の住宅街の雰囲気だ。その住宅街に戦国時代初頭に活躍した智将太田道灌と桓武平氏末の豊島氏との間で繰り広げられた戦跡が散在する。この地域は古くから秩父流平氏豊島氏の地盤で、平安末から室町中期にかけて、現在の練馬区、板橋区、豊島区、北区、足立区、荒川区、文京区、台東区など都心北部に勢力をもっていた。練馬の石神井池の池畔に残る石神井城跡は豊島氏が鎌倉末に築城した城だ。戦国初頭の15世紀中頃の城主は豊島泰経で、室町幕府の関東管領上杉氏の有力一族である山内上杉氏に属していた。一方太田道灌は同じ頃、上杉氏のもう一つの有力一族である扇谷上杉の家宰として活躍していた武将である。江戸城を築城したことで知られている。文明8年(1476)山内上杉の長尾景春が家宰職をめぐって反乱を起こすと、豊島氏は姻戚関係にあった長尾氏を加勢したことから、上杉氏と豊島氏の対立が決定的となった。文明9年(1477)ついに太田道灌は豊島泰経の石神井城を攻略することとなる。江戸城を発進した道灌軍は中野の江古田、沼袋で豊島軍との激戦となり、これを打ち破ると更に西進し、杉並に入ると桃井辺りから北へ向かって練馬に入り石神井城を攻撃したと言われる。本稿では前編に杉並から練馬の石神井城を目指した道灌の城攻めの道を辿ることにし、後編には中野の江古田・沼袋の古戦場を巡る道筋を解説する。

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[前編]杉並荻窪から練馬石神井城を目指す道灌の進撃路

ここではJR中央線西荻窪駅から荻窪八幡を経て青梅街道に入り、桃井で井草通りを北へ向かう。練馬区に入ると西武新宿線上井草駅の西側で線路を横切り、更に北上して石神井池へ。帰路は西武池袋線石神井公園駅に至るものとする。

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 西荻窪駅北口から賑やかな商店街の北銀座通りを北へ向かう。500mも進めば、善福寺川に架かる関根橋の袂に来る。善福寺川は神田川の支流で、ここより北西1.5kmにある善福寺池を水源とする川である。因みに善福寺という名称の起源は、昔池畔の丘の西側に善福寺、万福寺の二ヶ寺があったことによる。ところが大地震で池水が溢れ堂宇が破壊され、修復かなわず何時しか廃絶となってしまった。ただその一つの善福寺の名だけが池の名となって残ったという。この先善福寺川の東側右岸の水辺の道に入る。水辺の道の右側は小高い丘になっている。か27-3.jpgつて城山と呼ばれた所で、源頼義が奥州における前九年役の帰途、兵士を駐留させた所という。古びたコンクリート橋の山下橋を過ぎ、丸山橋で車道を横切ると対岸には小さな関根文化公園が見える。社橋を過ぎると次に車道の真中橋の袂に出る。真中橋から車道を北へ向かう。緩やかな上り坂を上って行くと前方左にこんもりと樹木が茂る一角が目に入る。坂道を登り切るとそこに荻窪八幡神社の正面鳥居が立っている。旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられる。永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年27-5.jpg(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったという。ここはまた道灌に縁のある神社だ。鳥居をくぐり境内に入ると右側に猿田彦を祀る小祠がある。正面参道を進むと、本殿手前の左手に背の高い槇の樹が立っている。道灌槇と呼ばれる樹齢500年の御神木だ。文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は、関東管領上杉定正の命を受け、謀反を起こした家臣長尾景春に味方する石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願した。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として保護されている。
 交差点「荻窪警察署前」で激しく車両の行き交う青梅街道に入る。街道を西へ200~300m 進むと街道北側に日産プリンス東京荻窪店がある。以前はその左隅の一角の27-6.jpg27-7.jpg植え込みの中に「旧中島飛行機発祥之地」碑があり、またその裏手には「ロケット発祥の地」碑あり、糸川英世博士が開発したペンシルロケットが埋め込まれていた。戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東大生産技術研究所の指導を受け、ロケット開発に着手。2年後の昭和30年にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市に移転した。(この項つづく)


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夕焼け小焼け №18 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五条尋常小学校

         鈴木茂夫 

 昭和13年(1938)秋。わが家は天王寺区北山町に移転した。味原町から徒歩で20分ほどの距離だ。路地を入ると7軒の2階建て長屋、その中の1軒だ。玄関を開けると6畳ほどの空間、左側に台所と浴室、玄関の入り口は3畳、6畳、8畳、6畳の座敷があり、小さな中庭に向かって離れの8畳間がある。2階は4畳半、6畳が2室あった。
 祖父・大八夫婦と父の弟の勝海が同居する。みんなで食卓を囲むから賑やかだ。
 私は天王寺第5尋常高等小学校に転校、2年1組男子級に編入された。学科の進度が進んでいると言われ、学習プリントで勉強、遅れを取り戻した。 
  祖父は大阪の市岡高等女学校で、国語漢文を担当していた。ときどき呼びつけられて、
国語読本の朗読と解釈を指導された。おかげで成績があがった。
 従兄弟の三木正之(後に神戸大学教授)が5年生にいた。成績が良くて級長をしている。
自宅の茶の間に「少年よ大志を抱け」と書いた半紙が何枚もある。あこがれの人だが、負けてはいられない、頑張らなければ。
 第5小学校は学期ごとに学年の席次を発表した。1学年には50人編成の4組があるから、200人生徒がいる。12月の席次で、私は20番前後にいた。一生懸命に勉強したからだ。わが家のみんなか褒めてくれた。3学期はそれ以上になろうと決めた。
 級友の中には、家庭教師をつけて勉強している子もいた。植村君はその1人だ。夕陽丘高等女学校に近い植村君の家は、高い黒板塀で囲まれている。潜り戸を開けて、
 「植村君、遊ぼ」と声をかけると、女中さんが顔を出し、「どうぞ」と答えたら、入れるのだ。6畳ほどの部屋が勉強部屋だ。見たこともない参考書が並んでいる。
「先生が来たからまたね」
女中さんの声に 私はそこでサヨナラする。植村君が可哀想に思える。
 
 わが家の路地から表通りに出ると、すぐ坂道が延びている。その坂の下におばちゃんの店があった。一銭洋食、一通りの駄菓子、凧、コマ、金魚すくいがそろっている。
一銭洋食は人気がある。1枚5銭だ。
 おばちゃんは水で薄く溶いた小麦粉を鉄板の上に円く伸ばす。紅ショウガと魚粉をふりかける。海苔を一枚置く。桜エビを4,5つ置く。ブラシでソースを薄くはく。ひっくり返す。その表面にソースをひく。現在だとオタフクソースが適している。ソースの香りが漂えば、一銭洋食は仕上がりだ。おばちゃんはこてで一銭洋食を持ち上げ、適当に切った古新聞で包み手渡してくれる。
 熱いからフーッと息を吹きかけ、噛みつくのだ。中身にのせた具の味わいがさまざまにして美味だ。なかでもソースは一銭洋食の基本的な味になっている。
 2枚、3枚と食べてしまうこともある。あんまり食べると胸やけをおこすが、家庭にはない子どもたちの味わいだ。
 私はここに集まる連中と仲良くなった。みんな気の良い連中だ。コマの回し方、凧の揚げ方、ビー玉、メンコなどを、みんな親切に教えてくれた。必要なモノはかおばちゃんの店で買い求めた。金魚すくいは網の紙を破らずにアルミ容器が一杯になるほどすくった。
 みんなの仕込みのおかげだ。

 昭和14年、私は五条小学校の3年に進級した。夏の遊びはトンボ釣りだ。 
 道具は自作する。1メートルほどの細いミシン糸の両端に、直径2ミリの鉄の球を置き、セロファンで包む。それで完成だ。
 近くの住宅団地・松里園の隣に空き地がある。ここで釣るのだ。
 小学生から、大人まで20人近い人が待機する。首には仕掛けを何個もかけている。
陽が沈む頃、ヤンマガ群れをなして飛んでくる。トンボはわれわれが待ち受けている上を一直線に飛び去る。かなり飛んでから再び、同じ進路を飛んでくる。
 われわれは、それぞれ投げる位置で待つのだ。
 名人の人は2つの球を左手で持ち、右手で糸の真ん中を握って「トンボほーい」とかけ声をかけて、トンボの群れの先頭に投げ上げるのだ。球を小さな虫だと誤認したヤンマが球を襲うと、糸に絡まり落ちてくる。
 種類はギンヤンマ、オニヤンマ、アオヤンマなどだ。トンボの王様だ。
 捕まえたヤンマの羽根を、左手の指の間に挟む。
    私も懸命に投げ上げるのだが、ついに釣りに成功しなかった。
 夕日が沈むとヤンマも人も帰っていった。今もその光景を思い出す。
 「トンボほーい」

 11月3日、明治節。明治天皇の誕生日だ。学校の式典で、明治節の歌を歌った。

      アジアの東日出ずるところ 聖の君の現れまして  古き天地閉ざせる霧を
      大御光に隈なくはらい 教えあまねく道開けく 治めたまえる御代尊

 式典の後、紅白の饅頭がお祝いにと配られる。なんか褒美を貰ったようで嬉しかった。  
 昭和 14年4月、大阪市五條尋常高等小学校と改称。
 父母は私を連れて夕食後、ときどき上本町へ出かけた。そこは大阪電気軌道(現・近畿鉄道)の起点だ。大軌のデパート (現・近鉄百貨店)もある盛り場だ。映画館も営業していた。映画もかなり見たが、なぜか「第七天国」だけを覚えている。
 これはサイレント映画だった。無声映画とも言われ、音声・音響は入っていない。そのために活動弁士が画面の傍らに立ち、セリフや状況を解説するのだ。

   貧しい下水掃除人チコは、7階の自室をユダヤ教の最上天に因んで、“第七天国”と呼ん
   でいた。ある夕、姉に鞭打たれ倒れていた少女ディアンヌを救う。 結婚する2人。し
   かし、第一次大戦にチコは召集された。戦場でチコは失明して帰国。神様は俺の中に
   いたんだ、目が見えなくなっても神様は見えると言った。  

 活弁の声はよく聞こえた。父母とともに過ごした思い出でもある。
  
 秋の一夜、中之島の中央公会堂の藤原義江の独唱会に出かけた。私は初めてだ。赤煉瓦で組み立てられた公会堂は。基隆支店に似通っていた。
 会場は満席で、熱気にあふれていた。みんなで「われらのテナー」というと母が言った。
 藤原義江は日本人離れした風貌だ。まず「カルメン」「リゴレット」を歌った。私は分からないけれど、その圧倒的な声に惹かれた。「出船の港」だ。

     ドンとドンとドンと波のり超えて 一挺二挺三挺 八挺櫓で飛ばしゃ
      波はためそと ドンと突きあたる ドンとドンとドンと ドンと突きあたる

 調子を変えた歌が流れる。

      どこまで続く泥濘ぞ  三日二夜を食もなく   雨降りしぶく鉄兜
      いななく声も絶えはてて 倒れし馬のたてがみを 形見と今は別れ来ぬ

 私はこの歌を知っていた。「討匪行」だ。満州の関東軍の歌だ。もの悲しい。みんなで口にしたことはあるけれど、あまり歌わない。軍歌には切ないのが多い。
 
 


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押し花絵の世界 №184 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Flower collection」
 
     押し花作家  山﨑房枝

29238月上.jpg
30cm×25cm

季節を先取りした作品です。
早めに種を蒔いて咲かせた今年のコスモスを使いました。
メインには華やかなガーベラ、アクセントには可愛いピンクの紫陽花をそえて、四季折々の花材で制作しました。


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