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多摩のむかし道と伝説の旅 №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  4

          原田環爾

115-1.jpg 丸山塚公園の前の通りを挟んで筋向いのマンションの1階の奥まった所に地蔵堂がある。身代延命地蔵尊と呼ばれている。マンションに取り囲まれていることからマンション地蔵などとも呼ばれている。かつてこの近辺で不幸が相次いで起こり、これは江古田・沼袋合戦の戦死者の怨念によるのではないかということになり、彼らの霊を鎮めるために造立されたという。当地では毎年春と秋に身代延命地蔵祭が開催されている。
 公園前を北に向うとすぐ交差点「沼袋」で東西に走る新青梅街道にぶつかる。右折して街道に沿って進む。街道沿い左に民家風のモダンな建物が目に入る。中野区立歴史民俗資料館だ。入館は無料なので時間があれば是非立ち寄りたい所である。
 これより江古田原沼袋古戦場碑がある江古田公園を目指す。街道は緩やかな下り坂とな115-2.jpgる。下りきってまっすぐ進むのが近道であるが、江古田公園の緑道を満喫するため交差点「江古田一丁目西」で右折し一旦南へ向かう。100mも進めば北流してきた妙正寺川に架かる江古田橋の袂に出る。橋を渡って右岸に回り、右岸に沿って再び北へ折り返す。妙正寺川は新青梅街道手前で大きく東に蛇行し、それと共に右岸の道は終わり、ごく細い上り坂の小路が続いて現れる。それが江古田公園の緑道の入口だ。緑道は小丘の中腹を縫う樹々で覆われた小路で、樹間からは左下に妙正寺川を望むことが出き、気持ちの良い散歩道になっている。程なく妙正寺川に合流する江古田川を望むことができる。江古田川とは練馬区豊玉南の学田公園付近を水源とする川だ。細い緑道が広くなってきた所で妙正寺川の対岸にグランドが現れる。江古田公園橋を渡ってグランドの西端に目をやると、そこに高さ2m程の「史跡 115-3.jpg江古田原沼袋古戦場碑」が立っている。
 文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り広げた江古田原沼袋の古戦場は、古戦場碑より東にある哲学堂公園から野方6丁目に至る新青梅街道沿いの一帯であった。もともとこの戦は、享徳の乱(1454~1482)という長い内乱の中の一つである。享徳の乱は、公方足利茂氏と太田道灌が仕える関東管領上杉氏とが対立する中で、管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起こったものだ。この乱で関東は二分され、豊島氏は公方・上杉両陣営から軍勢への参加を求められ、思案の末に上杉方(山内上杉)についた。しかし管領上杉顕定の時、家宰職の長尾景信が亡くなりその後継問題が発生した。後継を期待していた景信の嫡男長尾景春は跡目を継げず、それがもとで主君へ反乱を引き起こした。長尾景春の乱である。この時豊島泰経は自身の妻が長尾景春の妹であったことから関係の深い長尾景春に味方した。そのため文明9年(1477)上杉顕定を援助していた江戸城主上杉定正の家宰太田道灌は豊島氏を攻めた。豊島泰経は江古田原沼袋の合戦で敗れ、ついには本城の115-4.jpg石神井城も落城した。「太田道灌状」によれば敗れた泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年再び道灌に攻められ、鶴見川河畔の小机城(横浜市)に逃れたというが、その後の足取りは不明である。一方太田道灌は豊島氏を破ったことで武蔵国の支配は大きく前進した。
 これより妙正寺川に沿って進む。天神橋を過ぎ下田橋の袂で中野通りに出ると両岸に哲学堂公園が展開する。東洋大学の前身哲学館を設立した井上円了を記念して造られたものだ。左岸が本来の哲学堂公園で唯物園と称し、右岸は後に取得し整備された公園で梅林区域になっている。左岸の段丘を上がればそこに様々な哲学上の建造物が建ち並んでいる。常識門、鬼115-6 のコピー.jpg115-7 のコピー.jpg神窟、無尽蔵、六賢台、四聖堂、宇宙館、皇国殿、絶対城、理外門等々。哲学的名称が付与された77場がある。四聖堂脇に佇む哲学堂公園の由緒書「心を養う公園」には次のように記されていた。「日本が世界へと開けゆく幕末に井上円了先生は新潟県下の寺院に生まれました。やがて明治となり、東京大学文学部哲学科に学び、変わりゆく時代のなかで世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました。その思いから明治20年に東洋大学の起源である『哲学館』を設立して、教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました。さらに全国の半数以上に及ぶそれぞれの市町村にまで身を運び、世界と心のあり方を説き続けました。全国巡回講演というこの壮大な事業における謝礼と人々の寄付のすべてを注いでこの公園を建設しました。先生は公共の利用を志し、人々の心を養う場としてここを『哲学堂』」と名づけました。先生の没後80年を記念して、ここにその願いを記します。 東洋大学」と。
115-8.jpg 哲学堂公園の東出口から緩やかな坂道の哲学堂通りに出る。坂を北へ少し上がって右折通りに入る。そこに葛谷御霊神社がある。寛治年間(1087~1094)源義家による奥州征討(後三年の役)の折、義家に従軍した山城国桂(葛)の里の一族が奥州平定後、京へ帰還する途中、この地に氏神八幡宮および神功皇后、武内宿禰を勧請して御霊社と称したことに始まるという。このことからこの地一帯は葛ヶ谷村と称されるようになった。別当はこの先の猫寺で知られる西光山自性院無量寺である。
 御霊神社を後にし先の街路を東へ向かうとやがて新青梅街道に合流する。合流点の街道のすぐ南に猫寺で知られる自性院がある。江古田原沼袋の合戦の折、苦戦した太田道灌を猫が助けたという伝説を有する寺であ115-9.jpgる。街道から細い参道が伸びている。入口には「猫地蔵霊場」「子育猫地蔵尊」などと刻んだ石標柱が立ち、また門柱の上には招き猫の石像が乗っている。なお本来の山門はすぐの信号のある交差点を南に入ったところにある。派手な朱色の山門だ。真言宗豊山派の寺で正式には西光山自性院無量寺と称す。境内には本堂の他、平和観音堂、猫地蔵堂などがある。猫地蔵堂を覗けば像高2m程の観音様の周りに多数の猫の置物が置かれてい115-11 のコピー.jpg115-10 のコピー.jpgる。堂の前には「西光山自性院猫地蔵詠歌」なる石盤碑が立っている。詠歌は1番から五番まであり、うち二番には「文明九年に政争あり 猫に導かれて福を得る 道灌公の報恩行 み像祀りし濫觴(はじめ)とぞ」と記されている。寺伝によれば弘法大師が日光山参詣の途中に観音を供養したのが自性院の始まりという。なお猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島泰経と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったことで、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという。また江戸時代の明和4年(1767)金坂八郎治の妻のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏で御開帳は二月の節分の日で観音様の足元に置かれて公開されている。像高は30~40cm程度である。
 猫寺より再び新青梅街道に出ればすぐ目白通りと交差する。交差点を左折して目白通りに入れば今回の旅の終着点である大江戸線落合南長崎駅に到着する。(完)


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