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多摩のむかし道と伝説の旅 №118 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         多摩のむかし道と伝説の旅(№28)
      -江戸の庶民の参詣道、都心の大山道を行く-2
               原田環爾

28-2-1.jpg28-2-2.jpg  更に青山通りを進み草月会館を左にやると程な高橋是清翁記念公園の前に来る。元首相高橋是清の邸宅跡で、緑の樹々で覆われた園内は絶好の散策地になっている。邸宅は残念ながら無いが、銅像が建っている。高橋是清は大正から昭和にかけて首相・蔵相を務めた政治家で、昭和11年2.26事件で凶弾に斃れ83歳で死去した。昭和13年邸宅跡地は東京市に寄贈され、昭和16年公園として開園された。その後昭和50年港区に移管された。邸宅の大半は空襲で焼失したが、母屋は多摩霊園に移築していた関係で難を逃れ、現在は都28-2-3.jpg立小金井公園の江戸東京たてもの園に保存されているという。
 青山一丁目の交差点で外縁東通りをやり過ごすと銀杏並木入口の丁字路帯に来る。現在再開発するかどうかで問題になっている神宮外苑だ。ちなみにこの銀杏並木を進めば絵画館や2020年の東京オリンピックが開催された国立競技場などがある。
銀杏並木入口を後にして更に青山通りを進むと沿道左に梅窓院という寺の前に来る。喧噪な都会の中で竹の囲まれた参道はほっとさせてくれる空間だ。梅窓院は浄土宗の寺で正式には長青山梅窓28-2-4.jpg院寶樹寺と称す。大本山増上寺十二世普光観智国師を開山に、郡上八幡城主青山大蔵少輔幸成を開基として、寛永20年(1643) 青山家下屋敷内に創建したとされる。本尊は阿弥陀如来で聖徳太子作という。当寺所蔵の聖観音菩薩は江戸三十三観音霊場24番、東京三十三観音霊場7番札所で、青山の観音様として知られている。
 外縁西通りを横切ると程なく表参道入口に来る。明治神宮に通じる表参道は言わずと知れた若者に人気の原宿のメインストリートだ。ところで参道入口の北東角地には朱色の柱をした仁王門が28-2-5.jpg見える。善光寺である。本堂は二層からなる荘重なもので、境内には 高野長英の碑がある。善光寺は永禄元年(1558)江戸谷中に創建された浄土宗の寺で山号を南命山と号す。その後徳川家康が長野の善光寺の阿弥陀如来の分身を祀った。元禄16年(1703)火災にあい焼失し、享保12年(1727)この地に再建して移ってきた。江戸時代は信州善光寺本願上人の東京宿院であったという。なお当寺はその後も火災にあい、大正9年に再建したものが現在の伽藍である。
 更に青山通りを進み、国連大学を右にやると五差路「宮益坂上」にくる。青山通りはここから道なりに左方向へ緩やかに下ってゆく道であるが、大山道はやゝ右方向の宮益坂と呼ばれる坂道を下ってゆく。坂道の途中右手に現れる鳥居は御嶽神社の参道入口だ。ビルの谷間の細い参道を上り詰めると、日本狼の狛犬に守られた本堂、不動尊、明治天皇御小休所跡碑がある。宮益御嶽神社は大山街道の最初の休憩所という。社前の坂道は元は富士見坂と称したが、御嶽神社の御利益で28-2-6.jpg益々栄える町へということで宮益坂と改名されたという。室町初期に大和国吉野郡金峰神社を分社し創建したとされる。境内の不動尊は疫病や苦しみを炙り出すご利益があることから「炙り不動」と呼ばれる。また明治3年、明治天皇が駒場野練兵場の観閲に行幸の折、当社で小休止したことから明治天皇御小休所跡碑が立っている。
 宮益坂を下りきりJR山手線のガードをくぐると、そこは渋谷駅前の猛烈な車と人通りの交差点となる。左手には待ち合わせの場所で人気の忠犬ハチ公像がある。大山28-2-7.jpg道はこれより道玄坂に入る。この地を開いた渋谷氏の一族であった大和田道玄からこの名がついたという。ゆったりと左方向へカーブする坂道を上って行くと、道玄坂上で頭上に首都高速3号線が迫ってくる。高速道下の玉川通りに入り交差点「神泉町」で旧山手通りを横断する。程なく右斜め方向に急坂で下る狭い車道が現れる。坂道は上目黒大坂といい、これが大山道の道筋だ。上目黒大坂は大山道の急坂の一つで、落とした団子が坂下まで転がるほどの急坂ということで団子坂とも言われたという。坂28-6.jpg上の休憩所からは大山や丹沢の山並みが見えたという。なお江戸名所図会によれば、里人の噂話として大和田道玄は和田義盛の一族で、和田の乱で敗れた後、その残党がこの地に隠れ住み山賊を業としたため道玄坂と呼ばれるようになったという。その道玄坂を上り詰め大坂の手前にかつて道玄物見の松があり、道玄はその松に登り、往来の人を見下ろし、手下に命じて通行人の身ぐるみを剥がしていたという。
 大坂を下りきると首都高速中央環状線(山手通り)にぶつかる。環状線を渡ると右手丘の上に上目黒氷川神社がある。旧上目黒村の鎮守で、素戔嗚尊を主神に天照大御神、菅原道真を合祀している。天正年間(1573~1592)にこの地の加藤氏により建て28-2-10.jpgられた。くの字に屈曲する急階段の脇参道を避け玉川通り(大山28-2-9.jpg道)沿いの表参道下の鳥居の前に進む。左脇に天保13年(1842)造立の大山道の道標が立っている。表参道もまた急階段だ。車道の拡幅工事以前は緩やかな階段だったという。参道をあがると境内には本堂と目黒富士浅間神社の小社がある。元は上目黒の目切坂上にあった富士塚「元富士」を明治11年に取り壊し移したもので、目黒富士と呼ばれている。
 玉川通りの南側歩道に回り目黒川の大橋を渡ると左斜めに入る街路が現れ28-2-11.jpg28-2-12.jpgる。それが大山道の道筋だ。ここから渋谷区から世田谷区へ移る。街路に入ると一転静かな住宅街に変貌する。程なく池尻稲荷神社の前に来る。参道入口に平成8年に造立された新しい旧大山道の道標が立っている。この参道は昔は表参道であったと思われるが、今は裏参道で玉川通り側の参道が表参道の様である。参道入口にはかつて大山道の旅人の喉を潤した「涸れずの井28-2-13.jpg戸」と称する井戸があることを記す由緒書と、水汲みがてらに奉公人と童が遊ぶ姿を刻んだ像が立っている。当神社は江戸時代の明暦年間(1655~1657)に池尻村と池沢村の産土神として創建された。火伏、子育ての稲荷として霊験あらたかという。当時は大山道のほとりの常光寺の一隅に勧請されていたという。境内の「涸れずの井戸」は如何なる渇水時も涸れることなく湧き出しているといい、山城国伏見の稲荷山に鎮座している薬力明神の神託により病気平癒にご利益ありとして「薬水の井戸」と呼ばれ手水舎の水はこの水の引水が利用されているという。
 街路は再び元の首都高速3号線下の玉川通りに合流する。程なく沿道左手に昭和女子大のキャンバスが現れる。大学の正門前をやり過ごすと前方に車両や人通りがひときわ多い三叉路が目に飛び込む。そこが三軒茶屋だ。江戸時代は太子堂村と言われ、この三叉路に、角屋、田中屋、信楽(後の石橋屋、石橋楼)という三軒の茶屋があったことに由来する。江戸入り28-2-15.jpg28-2-16.jpgする旅人にとっては有りがたい休み処で渡辺崋山や坂本龍馬も利用したという。ここで大山道は二手に分かれ、左方向の高速道下を進む太い車道は玉川通りの続きで新町線、右方向へ進む車道は世田谷通りで上町線だ。旧大山道は上町線になる。ちなみに旧大山道は登戸道(津久井道)でもある。新旧大山道の分岐点には28-2-17.jpg古びた笠付きの大山道標が立っている。三軒茶屋の大山道標で寛延2年(1749)建立、文化9年(1812)再建という。銘文は正面に「左相州道 大山道」、左側面に「右富士世田谷・ 登戸道」、右側面に「此方二子道」、背面に建立、再建年が刻まれている。なお相州道、二子道はほぼ現在の玉川通りに相当する。

(この項つづく)



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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №218 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

石北本線常紋峠玉葱列車  

             岩本啓介
 
久しぶりに飛行機で北海道旭川へ、以前の職場の『鉄ちゃん仲間』と北海道へ『撮り鉄』旅へ

①生田原いくたはら~にしるべしべ西留辺蘂の常紋峠 北見からの『玉葱列車』
今年、2023年10月14日の玉葱列車です

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②ほぼ1年前の10月24日の常紋峠の玉葱列車です。初雪でドカ雪でした

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多摩のむかし道と伝説の旅 №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         多摩のむかし道と伝説の旅(№28)
      -江戸の庶民の参詣道、都心の大山道を行く-1
               原田環爾

江戸時代、庶民の娯楽として人気を博したのは講中を組んで信仰を兼ねて旅することで した。全国的には東海道中膝栗毛のようなお伊勢詣りであり、関東・甲信では古典落語にあるような大山詣り、多摩では御嶽菅笠に見られるような御嶽詣りなどがありました。特に大山阿夫利神社への大山詣りは江戸の庶民にとって比較的気軽に行ける長旅として大変人気があったと言います。

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大山は奈良時代の天平勝宝7年(755)東大寺別当良辨僧正によって開山された。その後、中腹に大山寺、山頂に石尊大権現(現阿夫利神社)が祀られた。阿夫利神社は延喜式神明帳にも載る古社で、相模の山岳修行の中心的道場になっていたとされる。鎌倉時代には北条政子が安産祈願として大山寺に神馬を献上し、室町時代には聖護院門跡道興准后も来訪している。江戸時代に入ると、徳川家康は大山八大坊を中心組織とし、大山寺、阿夫利神社を別当として管理、修験者は山麓へ移住させるなど大山全山を統括運営する大改革を断行した。この改革を契機に御師は門前町を築き大山信仰を各地に広めた。こうして江戸の庶民は大山講を組織して大山詣りをするようになり、江戸中期から後期にかけて大いに流行り、宝暦年間には年間20万人もの参詣者があったと伝える。
 大山詣りに使われた道筋は、大小様々な大山道として、多摩や関東一円各所に幾筋も残 されている。中でも最も代表的な大山道は、江戸の町民が旅した大山街道と言える。この道筋は大部分が矢倉沢往還の道筋と重なる。矢倉沢往還とは足柄峠近くの矢倉沢に関所があったことに由来する。大山はその関所の手前の伊勢原で往還路から分岐するのである。従って大山道の道順は都心の赤坂御門を起点として、三軒茶屋を通り、二子玉川へ至り、そこで多摩川を渡り、溝口、長津田、鶴間、国分、海老名へと進み、厚木で相模川を越え、愛甲、そして伊勢原に至ると、ここで矢倉沢往還から離れて大山へ向かうのである。

今回は大山道の内、起点の赤坂御門から二子玉川迄の都心の港区、渋谷区、世田谷区を抜ける道筋を辿ることにする。

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28-3.jpg地下鉄赤坂見附駅から地上に上がると、そこは外堀通りに青山通りが合流する丁字路帯になっている。外堀通りを渡って弁慶堀の畔に出る。堀の右端には弁慶橋が架かっている。弁慶堀や弁慶橋の名は工事を請け負った弁慶小右衛門の名に由来し、明治22年に開橋されたものである。武蔵坊弁慶とは全く無関係である。
堀の対岸は紀尾井町で江戸時代は紀州藩の藩邸があった所だ。今は左手にホテルニューオータニ、右手にはかつて赤坂のシンボルと言われた旧赤坂プリンスホテルがあった。弁慶橋から堀に沿って100mも進めば大山道の起点である赤坂御門跡がある。赤坂御門とは江戸城外堀に作られた門のうちの一つで、二つの門を直28-4.jpg角に配置した枡形門の形式をとっている。門には常時3人の見張り番を置いていたので赤坂見附と呼ばれ 地名にもなった。他にも地名になった見附に四谷見附がある。赤坂御門は明治になって撤去されたが、平成3年の地下鉄南北線工事に伴う発掘調査で地中から石垣が発掘された。ちなみに江戸城三十六見附と言われ、浅草見附、筋違見附、小石川見附、牛込見附、市谷見附、四谷見附、喰違見附、赤坂見附、虎ノ門、幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、桜田門、日比谷門、馬場先門、和田倉門、大手門、平川門、北桔橋門、西の丸大手門、二重橋、坂下門、桔梗門、下乗門、中之御門、中雀門があった。現在御門跡には地下鉄工事で発掘された石垣が組まれて復元され、由緒書が立ち、明治初期に撮影された赤坂御門の高麗門の写真などが掲載されている。
28-6.jpg これより最初の大山道である青山通りに入る。緩やかな上り坂を車両が激しく行き交っている。程なく沿道右に豊川稲荷が見える。正式には東京・赤坂豊川稲荷別院と称す。本社は愛知県豊川市の三州本山豊川稲荷である。通常見られる神社形式ではなく曹洞宗の寺である。江戸の町奉行大岡越前守忠相の屋敷稲荷で盗難除けに霊験あらたかと言われる。これと筋向かい沿道左に斜めに入るやや狭い上り道が分岐する。これが大山道で坂は牛鳴坂と称28-5.jpgす。路傍の標柱の説明書には、「牛鳴坂は赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた、さいかち坂ともいう」と記載されている。坂の途中左に重厚な武家屋敷門がある。山脇学園が移築整備したものという。もとは老中本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)の屋敷門で千代田区丸の内の中央郵便局辺りにあった。何時の頃か山脇学園の所有となり千葉県九十九里町の同学園の松籟荘内にあったものを、平成27年現敷地内に移築された。同学校では「志の門」と名付け、始業式などの行事の時に開門し生徒たちに登校させるという。坂道はゆったり右方向へカーブしながら上りきり、左に山脇学園の校舎をやり過ごすと、再び喧噪な青山通りに復帰する。
(この項つづく)


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夕焼け小焼け №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

この項は一度掲載しましたが、筆者の台湾時代最後の記事になりますので再掲します。次回より日本編にはいります。

三民主義 光復・還我河山
          鈴木茂夫

 昭和20年(1945年) 9月10日月曜日。
 会社は社員の安全のため、新北投に大きな家屋を借り上げていた。数家族が疎開している。幸町のわが家は爆撃で半壊、住めなくなったので、母もその一室にいる。
 私もここで休養した。
 ラジオを聞いていると、日本語の放送のあとに、
  XUPA  XUPA  台北広播電台
  とアナウンスが入った。台北放送局の呼出符号はJFAKだ。中華民国の放送局に入れ替わったのだ。
久しぶりに学校へ行くことにした。
 街には「三民主義」「光復」「還我河山」の飾りが見える。
 学校の校門には、雷神第13863部隊の標識はなくなっている。それに替わり中華民国台湾省立仁愛高級中学の標識がある。台北四中は消えたのだ。級友が台北一中は建国中学、台北二中は成功中学、台北三中は和平中学と替わったのだと教えてくれた。
朝礼には見たことのない教員が並んでいる。中華民国の国歌の斉唱だ。君が代とは違った。

 三民主義、吾党所宗 以建民国、以進大同 咨爾多士、為民前鋒 夙夜匪懈、主義是従
 矢勤矢勇、必信必忠 一心一徳、貫徹始終。

 三民主義は   わが党の指針  これをもって 民国を建設し これをもって大同に進む
 ああ多くの人々よ   民の模範となって 朝夜怠けることなく 三民主義に従おう
                                                           (日本語訳詞)

 教室に庄司先生が現れ、各自に50円を支給した。兵隊であったときの俸給だという。
 庄司先生はそれが終わると、そそくさと教室を出た。
 国史を担当すると,中国人の青年が教室に入ってきた。
 「君たちの祖国・中華民国は三民主義を基本としている。三民主義は国の父・孫中山が唱えた。民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ。国の大系としては立法,司法,行政,考試,監察。これに中国古来の考試(官吏採用権),監察(弾劾権)を加えた5権が分立する」
 その青年はこれに続いて、中国革命の歩みを詳しく述べた。私は東洋史の近代はまだ習っていないから、はじめて聞くことだった。
 学校からの帰り道、お金を持っているからと西門町の屋台店で、焼きそばを食べた。美味しかった。代金は7円といわれた。高い。私は1円ぐらいと思っていたのだが。物の値段は上がっているのだ。

10月10日水曜日
 街のあちこちに、爆撃で破壊された家屋もそのままだ。しかし、目抜き通りの家々は、青天白日旗や祝賀の春聨を掲げている。華やかに飾り立てた型の山車の上では、芝居の決まり役に扮した俳優たちが所作を披露し、何台も連なってゆっくりと曳かれて行く。それを取り囲むように、獅子舞、龍舞、太刀隊、それに太鼓、チャルメラ、銅鑼を打ち鳴らし、中国北部、南部の民族音楽を賑やかに奏でる。爆竹の弾ける音がこれに混じって、町中が沸き立っていた。

 台湾新報
祝えや祝えわれらの国慶日 光復の歓声は爆発 慶祝の色山野に満つ
光復台湾が初めて迎える双十節、今日10月10日はわが中国のめでたい国慶日である。思えば宣統三年(1911年)の10月10日、中国国民党の同志が国父の名によって武漢に革命ののろしを上げ、清朝討伐の軍を興すや風を臨んで各省の国民党もまた相呼応してわずかに2ヶ月足らずで10余省の独立を見るに至ったのだ。
 まさにこの月、この日こそは、わが民主主義の大国家中華民国が雄々し発足したこよなくも意義深い日と言うべきであり、ことに台湾にとっては、51年ぶりにわが中国の領土に復帰し、光復の夢ここに実現されて六百余万の同胞が、ひとしく光復の悦びに沸き返っているまっただ中に迎えた最初の国慶記念日だけに、感激もひとしお深いものがある。
 この日は、全島各戸いっせいに青天白日満地紅の旗を掲げ、各官衙・学校・会社では、休業するなど、島民の赤誠を最高度に盛り上げた多彩活発な祝賀行事が展開される。
 真心込めて祝おう、われらの国慶日、今日ぞ全島の山野は慶祝一色に逞しく塗りつぶされ、光復の歓声を天地にとどろき、津々浦々に爆発させるのだ。

 台湾新報は諸手をあげて、双十節を歌い上げている。台湾人は日本国民ではなく、中国国民だと主張しているのだ。

10月18日木曜日。
 午前11時45分、汽笛が2度3度と長く尾を引いて響いた。基隆からの特別列車が台北駅に着いた。駅頭がどよめき、潮騒のような歓声が起こる。軍長・陳孔達中将の率いる中華民国第70軍の第一陣だ。
 私は林志楊君と駅前に並んでいた。
 4列縦隊で行進しはじめた。先頭にゆっくりと進むジープに乗っているのが隊長だろう。兵士たちのとは違うスマートな緑色の軍服だ。その隣の席に、裾の両脇が深く切れ上がった中国服を着た女がいた。人目もはばからず、隊長に寄りかかって周囲を眺め回している。将校の妻が、軍と行動を共にすることはない。だとすれば、この女は…。
 その後ろに従って歩いているのは、名状しがたい集団だ。青天白日の徽章のついた軍帽をかぶっているから兵士であることは確かだ。緑色の上着に長ズボンをはき、巻き脚絆を巻いている者、半ズボンの者とさまざまだ。大方はズックの運動靴に似たものを履いているが、日本陸軍の真新しい靴を履いている者もいる。小銃を肩にしている兵、手ぶらの兵、そのいずれもが背嚢を背負っている。
 兵士たちの背嚢には、唐傘、魔法瓶、大きな鉄の釜、薪、野菜、洗い桶などがくくりつけてある。天秤棒を担ぎ、両2つの籠に、背嚢と小銃、ゴザ、豚肉、生きた鶏などを載せ、裸足で歩いてくる40代の男もいた。
 「これが兵隊か」
 私と林志楊君は思わず声をあげた。 

10月20日土曜日。
  学校整理のためにと、仁愛高級中学の各学年の1組、2組は建国高級中学へ、3組、4組は和平高級中学に配属されるいわれた。仁愛高級中学は消滅したのだ。
 3組,4組のわれわれは、そろって和平高級中学へ歩いた。都心から校外の六張犁まではかなりの距離だ。
 われわれは和平高級中学に迎えられ教室に入った。
  「学連が来たぞ。逃げるなら今のうちだ」
 切迫した叫び声が聞こえてきた。どやどやと靴音がして2.30人の若者が乱入してきた。 そのリーダーと思われる男が、
 「俺たちは三民主義学生連盟だ。日本時代の悪を追求する」
 中学生に混じって、老鰻もいる。老鰻は台湾の与太者というかヤクザの呼び名だ。
 座っているわれわれの顔を、丹念に睨みつけていく。
 級友だった林滄海が私を指さした。
 「お前立て」
 私は引きずり出された。私は林滄海を侮辱したことはない。ほかに数人が立たされ、職員室へ連行された。そこには10人ほどの日本人生徒がいた。職員が立って並んでいる。
 「お前たちは、台湾人生徒を馬鹿にしたり、差別したりしていた。その報復に制裁する」
  一人ずつ職員の輪の中に立たされ、老鰻が殴りつける。私の番が来た。
 老鰻がニヤッとして、
 「脚を開け。いくぞ」
 左の頬に打撃を受けた。痛くはない。意識を失いそうになった。そのまま後ろへ倒れる 。誰かが後頭部で受け止め、もとの位置に戻した。右の頬もやられた。左右の口の中は切れている。
 老鰻が顎をふって終わりを指示した。これが敗戦の現実だった。
 私はもう二度と和平高級中学へ行かなかった。


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押し花絵の世界 №192 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Autumn leaves」

      押し花作家  山﨑房枝

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18cm×23cm

アメリカの作家、ジョン・ハリガンの名言が書かれたメッセージカードを囲むように、美しく紅葉したツタやドウダンツツジをメインに秋色にアレンジしました。
アクセントに緑のもみじやセイタカアワダチソウを取り入れて風が舞っているイメージで、ふんわりとした雰囲気に仕上げました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「森の妖精」  A forest fairy
 
          銅板造形作家  赤川政由

45森の妖精.jpg
45森の妖精2.jpg

カフェあきもと国分寺市内藤

国立の北側、園分寺との境に、沖本邸という古い洋館と和館がある。そこには竹で覆われ
素晴らしい庭が広がっている。入り口に木で作られたゲートがあり、キツツキと、妖精と、知恵の象徴フクロウが来る人を迎えてくれる。ここはカフェとして人々が集う場所になった。今ではこの杜から素敵な音色が奏でられ、多くの人が緑に囲まれ、心地良い時間を過ごしている。


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夕焼け小焼け №24 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

台北第四中学

           鈴木茂夫

 父は台北への転勤に際し、私の転校先を調べていた。台北第一中学、台北第三中学は、一年の一学期現在では欠員はない。ただ台北第四中学だけが転校を受け入れてもいいと のことだった。台北第四中学は新しく創設された学校だ。転校すれば3期生になる。台北第一中学の隅の木造二階建ての建物を校舎としている。台北市郊外に校舎を新築する予定だとか。
 昭和18年8月はじめ、父に連れられて台北第四中学へ。転入試験を受けた。国語・数学につづいて英語の設問が出された。英字をブロックレターで書けとあった。私は驚いた。国語・数学もそうだったが、やさしすぎるのだ。でも、問題にはすべて回答した。答案を書き上げてまもなく、合格です、お引き受けしますと言われた。
 帰り道、帽子屋で台北第四中の制帽を整えた。徽章は中の真ん中に四が入り、帽子の胴に緑色の線が3本入っている。台北第一中は赤線が3本、台北第二中には線がない。台北第三中は白線が3本だ。昭和国民学校で席次を競った大沢三昭は台北第一中学の帽子をかむっていた。それを見かけると情けなかった。
 私はあまり勉強しなくなった。家ではもっぱら父の文学全集を読んでいた。それでも授業にはついていけた。2学期を終えた席次は12番といわれた。

 陸上競技部があると知ったので加入した。約30人の選手がいた。短距離、中距離、長距離に分かれて活動している。最上級の3年生が指導に当たる。私は中距離2000メートルを選んだ。放課後は一中のトラックを一中と交代で使う。
 これまで特に走ったことはなかったが、走るのは愉しくなった。台北帝大のグラウンドで、市内の中学の競技会があった。みんな頑張って5位になった。
  数人で走ると、私の前を行く男がいた。追い抜こうと速度を上げると、彼も軽く速度を上げる。追い抜けない。なんとか抜こうと頑張ったが、無理だった。
 ある日、2000メートルを走り終えると、ニッコリ笑って頭を下げた。
  「ボクは林志楊だ。ボクは高等科に通ったから君より2歳年長だ。三峡から通っている。自宅から駅まで、毎日走っているんだ」
  「高雄中学から転校してきた鈴木茂夫だよ」
 林君は人懐っこい。すぐ友達になった。そして姓ではなく、名で呼ぶようになった。
 ある日、
 「志楊君、君の家は何しているの」
 「ボクの家は昔から染物屋だ。三峡川に沿っている古い町並みのなかの一軒だ」
 「志楊君、君の街の三峡を訪ねたいな」
 「ああいいよ」
 台北駅から小1時間で三峡に到着。街に入ると、志楊君は話してくれた。
 「 三峡とは三峡渓、大漢渓、横渓の3つの河の合流点に街ができたんだ。古い家並みは赤い煉瓦組で建物の上部はバロック様式の装飾をしている。三峡老街という」
 三峡川のほとりで、
 「川を利用して布・樟脳・木材・お茶を台北などに送り出していた。中でも藍染めが盛んだったから、屋号に「染」の文字がある家もある。わが家はそうした建物の中の一軒だ」
 店の中にいた志楊君のお母さんが、丁寧に挨拶された。
 「この古い町並みの中心にあるのが『三峡清水祖師廟』だ。福建省の守護神清水祖師を祀っている。伝統的な5門3様式なんだ。5つの門と前殿、正殿、後殿からなる3殿がある。美しい廟だ。三峡の住民は、台湾一の廟と誇りにしている」
 私は山間の街・三峡に魅せられた。志楊君は親友となり、長い付き合いが始まる。 


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押し花絵の世界 №191 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「錦秋」

         押花作家  
山﨑房枝

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70cm×54cm

ツタやドウダンツツジ、紫陽花などが紅葉して、錦の織物のように美しい様子を表現しました。
パンパスグラスやクリスマスローズも取り入れて、下地には日本画の黒い絵の具を塗り、箔を貼り付けて和モダンな雰囲気を演出しました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №44 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ブレッドママJ  Bread Mama

         銅板造形作家  赤川政由

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土屋パン教室国立市中

体にやさしいオーガニックな食事食にだわる手造りバン教室の看板マスコット人形。教室の建材も徹底して自然素材にこだわる。骨格となる木材には、良質な国産無垢材として評価の高い「天竜材」を使った空間で心地良い。大きなお皿に出来たてパンをのせて「どうぞ!」と言っている。「ボナべティ」召し上がれ。



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夕焼け小焼け №23 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 父はボルネオへ

           鈴木茂夫

 昭和19年(1944年)5月のある夜。父は夕食の食卓で語り始めた。
 「海軍からの強い要請があって、ボルネオ島のタラカンで算出した石油を日本内地に輸送する事務の運営監督に、経験のある人材を出して欲しいと言ってきている」
 母が怪訝な顔で聞き返した。
 「ボルネオ島ってなんですか」
 「ボルネオ島は東南アジアの島の一つで、日本の東南国土の約1.9倍、南シナ海、スールー海、セレベス海に囲まれている。島の南部から東部がオランダ領、北西部がイギリス領だった。昭和17年(1942年)、日本陸軍はイギリス領を日本海軍はオランダ領を攻撃して占領した。ボルネオ本島に付属しているタラカン島はタラカン島は島の北東岸沖のセレベス海西部に位置している。沼地の多い島で、面積は303㎢、石油を産出する。海軍の守備は第22特別根拠地隊。海軍はここに施設部を設け、石油を日本へ送ることを意図した。陸軍の運営している油田には1万人以上の石油会社の社員が働いているそうだ」
 「それがあなたと、関係しているんですか」
 「海軍は大阪商船本社とも話し合い、俺を適任者とみなしているんだ」
 「海軍軍人になるんですか」
 「いやそうではない。軍人や軍属でもなく、左官待遇の嘱託として迎えると言うんだ」
 「あなたが行くっていうのなら、そうすればいいわ」
 「これは本社の意向もあるし、断り切れないと思う」
 それから数日して父は、
 「海軍省に行ってくるよ。いろいろ打ち合わせをしたいというから」
 母は平静を装っているが、落ちついてはいない。
 台北から東京へ飛ぶ代日本航空の座席を海軍が押さえたと父は出かけた。
 一週間ほどして、父は帰宅した。
 「親父にもほかの係累にも会ってきた。それに神戸高商以来の親友上村良一君とも話してきた。俺に万一のことがあったきは、家族のことを頼んできた。良一君は信義に厚い男だから」
 父は身の回りの衣類のほかは、何もいらないと、ボストンバッグを一つだけにした。
 「明るい壮行会をしよう」
 父は大稻埕から大稻埕はる淡水河のほとりにある貿易街としては栄えていた。街の中心には大稲埕慈聖宮は天上聖母(媽祖)を祀る媽祖廟に参詣の人が絶えない。
 有名料理店も人気を呼んでいた。東薈芳、春風樓、蓬萊閣 、江山楼(いずれも消滅)は4大酒家といわれる。そのなかでも江山楼は別格の老舗だった。賑やかな通りの中に店はある。恰幅の良い支配人が愛想良く個室へ案内してくれた。店内は豪華な家具調度を整え、個室を多くしつらえていた。
 その席には東京商科大学の級友で大阪商船の同僚でもある瘳能さんもお見えになった。
 「無理するなよ。死ぬようなことはしちゃダメだよ」
 瘳さんは、優しくはげましてくれた。
 円形の食卓には、美味としか言いようのない料理がつぎつぎと提供された。
 私も母も陶然として味わった。
 ここで食べた料理の名前を思い出せない。ボンヤリした記憶をたどっみる。
 白雪木耳(きくらげやえび、貝柱、イカなど)、金錢火雞(七面鳥の肉団子)、蜈蚣蟳(海藻)、 海參竹菇(なまこ、えびなど)、鳳眼鮑魚(アワビなど)、それ以後こんな料理に出会ったことはない。
  ご機嫌な父は私に語った。
 「君の将来だけれど、成績が良くて体力があれば、海軍兵学校に入り、海軍将校になる。船が好きなら、東京か神戸の高等商船学校で学び、船長になるのもいい。東京か大阪の外語学校で外国語を習得して外交官になるのも悪くない。たまにはそんな未来を考えるのもいいよ」 
 父はそれだけ言うと、別の話題に変えた。私には重い話だった。父の希望は分かった。それなりに将来のことを考えてみようと思った。
 
 この宴のあと、父は気軽い表情で家を出た。
 台北の松山飛行場から、臨時に飛ぶ海軍の輸送機に乗るのだという。東京発の飛行機で現地に向かうとのこと。

 一月ほどで、父から封書が届いた。
 飛行機はマニラ、ジャカルタで着陸、別の飛行機でタラカンに着いたとか。石油の積み出しに、忙しくしている。元気だから心配しなくていい。
 母と二人で何度となく読み返した。


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押し花絵の世界 №190 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「秋色のアレンジメント」

       押花作家   山﨑房枝

2023.10月下.jpg

30cm×25cm

秋色のオレンジの薔薇と黄色い木香薔薇をメインに、エビヅルの巻きひげをアクセントに取り入れてアレンジしました。
大根の皮を乾燥させて製作した花瓶が、まるで陶器のような味わい深い仕上がりました。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №43 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「お帰りなさい」OKAERINASAI Welcomehome

      銅板造形作家  赤川政由

43おかえりなさい.jpg
43-2.jpg
ルシオ国立国立而西

国立のマンション入口でお出迎え。luxo kunitachiのオーナーは、ギャラリービプリオの代表十松さん。かって出版関係の仕事をなさっていたことから、図書館にいるような女性にした。帰って<る住人に「あ帰りなさい」と温かく迎えてくれる。たくさん読書をしてほしいとメッセージを込めた作品。足元には、猫が3匹じゃれている。


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夕焼け小焼け №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

三民主義 

         鈴木茂夫

昭和20年(1945年) 9月10日月曜日。
 会社は社員の安全のため、新北投に大きな家屋を借り上げていた。数家族が疎開している。幸町のわが家は爆撃で半壊、住めなくなったので、母もその一室にいる。
 私もここで休養した。
 ラジオを聞いていると、日本語の放送のあとに、
  XUPA  XUPA  台北広播電台
  とアナウンスが入った。台北放送局の呼出符号はJFAKだ。中華民国の放送局に入れ替わったのだ。
久しぶりに学校へ行くことにした。
 街には「三民主義」「光復」「還我河山」の飾りが見える。
 学校の校門には、雷神第13863部隊の標識はなくなっている。それに替わり中華民国台湾省立仁愛高級中学の標識がある。台北四中は消えたのだ。級友が台北一中は建国中学、台北二中は成功中学、台北三中は和平中学と替わったのだと教えてくれた。
 朝礼には見たことのない教員が並んでいる。中華民国の国歌の斉唱だ。君が代とは違った。

 三民主義、吾党所宗 以建民国、以進大同 咨爾多士、為民前鋒 夙夜匪懈、主義是従
 矢勤矢勇、必信必忠 一心一徳、貫徹始終。

 三民主義は   わが党の指針  これをもって 民国を建設し これをもって大同に進む
 ああ多くの人々よ   民の模範となって 朝夜怠けることなく 三民主義に従おう
                                                           (日本語訳詞)

 教室に庄司先生が現れ、各自に50円を支給した。兵隊であったときの俸給だという。
   庄司先生はそれが終わると、そそくさと教室を出た。
 国史を担当すると,中国人の青年が教室に入ってきた。
 「君たちの祖国・中華民国は三民主義を基本としている。三民主義は国の父・孫中山が唱えた。民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ。国の大系としては立法,司法,行政,考試,監察。これに中国古来の考試(官吏採用権),監察(弾劾権)を加えた5権が分立する」
 その青年はこれに続いて、中国革命の歩みを詳しく述べた。私は東洋史の近代はまだ習っていないから、はじめて聞くことだった。
   学校からの帰り道、お金を持っているからと西門町の屋台店で、焼きそばを食べた。美味しかった。代金は7円といわれた。高い。私は1円ぐらいと思っていたのだが。物の値段は上がっているのだ。

10月10日水曜日
 街のあちこちに、爆撃で破壊された家屋もそのままだ。しかし、目抜き通りの家々は、青天白日旗や祝賀の春聨を掲げている。華やかに飾り立てた型の山車の上では、芝居の決まり役に扮した俳優たちが所作を披露し、何台も連なってゆっくりと曳かれて行く。それを取り囲むように、獅子舞、龍舞、太刀隊、それに太鼓、チャルメラ、銅鑼を打ち鳴らし、中国北部、南部の民族音楽を賑やかに奏でる。爆竹の弾ける音がこれに混じって、町中が沸き立っていた。

 台湾新報
祝えや祝えわれらの国慶日 光復の歓声は爆発 慶祝の色山野に満つ
光復台湾が初めて迎える双十節、今日10月10日はわが中国のめでたい国慶日である。思えば宣統三年(1911年)の10月10日、中国国民党の同志が国父の名によって武漢に革命ののろしを上げ、清朝討伐の軍を興すや風を臨んで各省の国民党もまた相呼応してわずかに2ヶ月足らずで10余省の独立を見るに至ったのだ。
まさにこの月、この日こそは、わが民主主義の大国家中華民国が雄々し発足したこよなくも意義深い日と言うべきであり、ことに台湾にとっては、51年ぶりにわが中国の領土に復帰し、光復の夢ここに実現されて六百余万の同胞が、ひとしく光復の悦びに沸き返っているまっただ中に迎えた最初の国慶記念日だけに、感激もひとしお深いものがある。
この日は、全島各戸いっせいに青天白日満地紅の旗を掲げ、各官衙・学校・会社では、休業するなど、島民の赤誠を最高度に盛り上げた多彩活発な祝賀行事が展開される。
真心込めて祝おう、われらの国慶日、今日ぞ全島の山野は慶祝一色に逞しく塗りつぶされ、光復の歓声を天地にとどろき、津々浦々に爆発させるのだ。

 台湾新報は諸手をあげて、双十節を歌い上げている。台湾人は日本国民ではなく、中国国民だと主張しているのだ。
10月18日木曜日。
  午前11時45分、汽笛が2度3度と長く尾を引いて響いた。基隆からの特別列車が台北駅に着いた。駅頭がどよめき、潮騒のような歓声が起こる。軍長・陳孔達中将の率いる中華民国第70軍の第一陣だ。
 私は林志楊君と駅前に並んでいた。
 4列縦隊で行進しはじめた。先頭にゆっくりと進むジープに乗っているのが隊長だろう。兵士たちのとは違うスマートな緑色の軍服だ。その隣の席に、裾の両脇が深く切れ上がった中国服を着た女がいた。人目もはばからず、隊長に寄りかかって周囲を眺め回している。将校の妻が、軍と行動を共にすることはない。だとすれば、この女は…。
 その後ろに従って歩いているのは、名状しがたい集団だ。青天白日の徽章のついた軍帽をかぶっているから兵士であることは確かだ。緑色の上着に長ズボンをはき、巻き脚絆を巻いている者、半ズボンの者とさまざまだ。大方はズックの運動靴に似たものを履いているが、日本陸軍の真新しい靴を履いている者もいる。小銃を肩にしている兵、手ぶらの兵、そのいずれもが背嚢を背負っている。
 兵士たちの背嚢には、唐傘、魔法瓶、大きな鉄の釜、薪、野菜、洗い桶などがくくりつけてある。天秤棒を担ぎ、両2つの籠に、背嚢と小銃、ゴザ、豚肉、生きた鶏などを載せ、裸足で歩いてくる40代の男もいた。
 「これが兵隊か」
 私と林志楊君は思わず声をあげた。 

10月20日土曜日。
 学校整理のためにと、仁愛高級中学の各学年の1組、2組は建国高級中学へ、3組、4組は和平高級中学に配属されるいわれた。仁愛高級中学は消滅したのだ。
 3組,4組のわれわれは、そろって和平高級中学へ歩いた。都心から校外の六張犁まではかなりの距離だ。
 われわれは和平高級中学に迎えられ教室に入った。
  「学連が来たぞ。逃げるなら今のうちだ」
 切迫した叫び声が聞こえてきた。どやどやと靴音がして2.30人の若者が乱入してきた。 そのリーダーと思われる男が、
 「俺たちは三民主義学生連盟だ。日本時代の悪を追求する」
 中学生に混じって、老鰻もいる。老鰻は台湾の与太者というかヤクザの呼び名だ。
 座っているわれわれの顔を、丹念に睨みつけていく。
 級友だった林滄海が私を指さした。
 「お前立て」
 私は引きずり出された。私は林滄海を侮辱したことはない。ほかに数人が立たされ、職員室へ連行された。そこには10人ほどの日本人生徒がいた。職員が立って並んでいる。
  「お前たちは、台湾人生徒を馬鹿にしたり、差別したりしていた。その報復に制裁する」
  一人ずつ職員の輪の中に立たされ、老鰻が殴りつける。私の番が来た。
 老鰻がニヤッとして、
 「脚を開け。いくぞ」
 左の頬に打撃を受けた。痛くはない。意識を失いそうになった。そのまま後ろへ倒れる 。誰かが後頭部で受け止め、もとの位置に戻した。右の頬もやられた。左右の口の中は切れている。
 老鰻が顎をふって終わりを指示した。これが敗戦の現実だった。
 私はもう二度と和平高級中学行かなかった。


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押し花絵の世界 №189 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「押し花ヘアゴム 秋冬デザイン」

        押花作家  ?山﨑房枝

2023.10月上.jpg

霞草、ノースポール、紅花、ビオラなどの小花を並べて、パールやストーンでアレンジをしてヘアゴムを作りました。
3歳の息子が「可愛いー[黒ハート]?」と褒めてくれて嬉しかったです。


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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「本を読む人J A man reading a book

     銅板造形作家  赤川政由

42本を読む人.jpg
39-2.jpg
マルジュ国立国立両富士見台
 散歩をしなが5本翫売む.。最近は見かけない姿だ。今ではスマホを見ながらゲームでしょうか。
 国立の谷保近くのマンションの、緑地植込みにある。大学生が多く居る町なので読書に親しんでほしいとの思い。現代の二宮金次郎的。国立の街中に設置された、ボップ作品第1号。


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多摩のむかし道と伝説の旅 №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  4

          原田環爾

115-1.jpg 丸山塚公園の前の通りを挟んで筋向いのマンションの1階の奥まった所に地蔵堂がある。身代延命地蔵尊と呼ばれている。マンションに取り囲まれていることからマンション地蔵などとも呼ばれている。かつてこの近辺で不幸が相次いで起こり、これは江古田・沼袋合戦の戦死者の怨念によるのではないかということになり、彼らの霊を鎮めるために造立されたという。当地では毎年春と秋に身代延命地蔵祭が開催されている。
 公園前を北に向うとすぐ交差点「沼袋」で東西に走る新青梅街道にぶつかる。右折して街道に沿って進む。街道沿い左に民家風のモダンな建物が目に入る。中野区立歴史民俗資料館だ。入館は無料なので時間があれば是非立ち寄りたい所である。
 これより江古田原沼袋古戦場碑がある江古田公園を目指す。街道は緩やかな下り坂とな115-2.jpgる。下りきってまっすぐ進むのが近道であるが、江古田公園の緑道を満喫するため交差点「江古田一丁目西」で右折し一旦南へ向かう。100mも進めば北流してきた妙正寺川に架かる江古田橋の袂に出る。橋を渡って右岸に回り、右岸に沿って再び北へ折り返す。妙正寺川は新青梅街道手前で大きく東に蛇行し、それと共に右岸の道は終わり、ごく細い上り坂の小路が続いて現れる。それが江古田公園の緑道の入口だ。緑道は小丘の中腹を縫う樹々で覆われた小路で、樹間からは左下に妙正寺川を望むことが出き、気持ちの良い散歩道になっている。程なく妙正寺川に合流する江古田川を望むことができる。江古田川とは練馬区豊玉南の学田公園付近を水源とする川だ。細い緑道が広くなってきた所で妙正寺川の対岸にグランドが現れる。江古田公園橋を渡ってグランドの西端に目をやると、そこに高さ2m程の「史跡 115-3.jpg江古田原沼袋古戦場碑」が立っている。
 文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り広げた江古田原沼袋の古戦場は、古戦場碑より東にある哲学堂公園から野方6丁目に至る新青梅街道沿いの一帯であった。もともとこの戦は、享徳の乱(1454~1482)という長い内乱の中の一つである。享徳の乱は、公方足利茂氏と太田道灌が仕える関東管領上杉氏とが対立する中で、管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起こったものだ。この乱で関東は二分され、豊島氏は公方・上杉両陣営から軍勢への参加を求められ、思案の末に上杉方(山内上杉)についた。しかし管領上杉顕定の時、家宰職の長尾景信が亡くなりその後継問題が発生した。後継を期待していた景信の嫡男長尾景春は跡目を継げず、それがもとで主君へ反乱を引き起こした。長尾景春の乱である。この時豊島泰経は自身の妻が長尾景春の妹であったことから関係の深い長尾景春に味方した。そのため文明9年(1477)上杉顕定を援助していた江戸城主上杉定正の家宰太田道灌は豊島氏を攻めた。豊島泰経は江古田原沼袋の合戦で敗れ、ついには本城の115-4.jpg石神井城も落城した。「太田道灌状」によれば敗れた泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年再び道灌に攻められ、鶴見川河畔の小机城(横浜市)に逃れたというが、その後の足取りは不明である。一方太田道灌は豊島氏を破ったことで武蔵国の支配は大きく前進した。
 これより妙正寺川に沿って進む。天神橋を過ぎ下田橋の袂で中野通りに出ると両岸に哲学堂公園が展開する。東洋大学の前身哲学館を設立した井上円了を記念して造られたものだ。左岸が本来の哲学堂公園で唯物園と称し、右岸は後に取得し整備された公園で梅林区域になっている。左岸の段丘を上がればそこに様々な哲学上の建造物が建ち並んでいる。常識門、鬼115-6 のコピー.jpg115-7 のコピー.jpg神窟、無尽蔵、六賢台、四聖堂、宇宙館、皇国殿、絶対城、理外門等々。哲学的名称が付与された77場がある。四聖堂脇に佇む哲学堂公園の由緒書「心を養う公園」には次のように記されていた。「日本が世界へと開けゆく幕末に井上円了先生は新潟県下の寺院に生まれました。やがて明治となり、東京大学文学部哲学科に学び、変わりゆく時代のなかで世界・宇宙・人間を見つめる新しい心の必要を感じました。その思いから明治20年に東洋大学の起源である『哲学館』を設立して、教育によって新しい考えを創り出す人を育てようとしました。さらに全国の半数以上に及ぶそれぞれの市町村にまで身を運び、世界と心のあり方を説き続けました。全国巡回講演というこの壮大な事業における謝礼と人々の寄付のすべてを注いでこの公園を建設しました。先生は公共の利用を志し、人々の心を養う場としてここを『哲学堂』」と名づけました。先生の没後80年を記念して、ここにその願いを記します。 東洋大学」と。
115-8.jpg 哲学堂公園の東出口から緩やかな坂道の哲学堂通りに出る。坂を北へ少し上がって右折通りに入る。そこに葛谷御霊神社がある。寛治年間(1087~1094)源義家による奥州征討(後三年の役)の折、義家に従軍した山城国桂(葛)の里の一族が奥州平定後、京へ帰還する途中、この地に氏神八幡宮および神功皇后、武内宿禰を勧請して御霊社と称したことに始まるという。このことからこの地一帯は葛ヶ谷村と称されるようになった。別当はこの先の猫寺で知られる西光山自性院無量寺である。
 御霊神社を後にし先の街路を東へ向かうとやがて新青梅街道に合流する。合流点の街道のすぐ南に猫寺で知られる自性院がある。江古田原沼袋の合戦の折、苦戦した太田道灌を猫が助けたという伝説を有する寺であ115-9.jpgる。街道から細い参道が伸びている。入口には「猫地蔵霊場」「子育猫地蔵尊」などと刻んだ石標柱が立ち、また門柱の上には招き猫の石像が乗っている。なお本来の山門はすぐの信号のある交差点を南に入ったところにある。派手な朱色の山門だ。真言宗豊山派の寺で正式には西光山自性院無量寺と称す。境内には本堂の他、平和観音堂、猫地蔵堂などがある。猫地蔵堂を覗けば像高2m程の観音様の周りに多数の猫の置物が置かれてい115-11 のコピー.jpg115-10 のコピー.jpgる。堂の前には「西光山自性院猫地蔵詠歌」なる石盤碑が立っている。詠歌は1番から五番まであり、うち二番には「文明九年に政争あり 猫に導かれて福を得る 道灌公の報恩行 み像祀りし濫觴(はじめ)とぞ」と記されている。寺伝によれば弘法大師が日光山参詣の途中に観音を供養したのが自性院の始まりという。なお猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島泰経と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったことで、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという。また江戸時代の明和4年(1767)金坂八郎治の妻のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏で御開帳は二月の節分の日で観音様の足元に置かれて公開されている。像高は30~40cm程度である。
 猫寺より再び新青梅街道に出ればすぐ目白通りと交差する。交差点を左折して目白通りに入れば今回の旅の終着点である大江戸線落合南長崎駅に到着する。(完)


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夕焼け小焼け №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

陸軍二等兵

        鈴木茂夫

 昭和20年(1945年)6月25日月曜日。
 朝礼の代わりに2階の大教室に集まるようにいわれた。壇上には教練の軍事教官中川中尉、担任の庄司先生、横井先生、松宮先生が立っている。中川中尉が口を開いた。
 「大東亜戦争は、今や重大な局面を迎えている。沖縄のわが軍は3月26日にアメリカ軍が沖縄に上陸したのに対し、激しい防衛戦を展開してきた。そして先週末の6月23日、90日間にわたる第32軍の組織的な戦闘が終わった。沖縄の中学3年生以上は、鉄血勤皇隊として兵役につき活躍していた。台湾の防衛はますます重大である。4年生は。すでに防衛召集により軍務についている。台湾軍は貴様らも兵力の一員とすることを決定された。日本男子として名誉なことである。今から配る書面に必要なことを記入するようにせよ」
私たち3年生も軍務につくのだ。 紙が配られた。
 「第二国民兵役編入特別志願願 」 とある。これは私たちが、兵役に編入してくださいと軍にお願いするということだ。ふと壇上を見上げると、松宮先生が刀を抜いて、  
  「卑怯者がいたらぶった斬るぞ」                
  顔色が変わっている。異様な雰囲気だ。 壇から降りて私たちの机の周りを歩いた。       いやもおうもない。氏名、住所、本籍などを書き込む。
                                           
 この日から3日後、淡紅色の紙に印刷された臨時召集令状を、台北市役所の兵事係が届けてきた。

  臨時召集令状
  台北州台北市 幸警察署管内
  第二国民兵役 鈴木茂夫
  右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ此ノ礼状ヲ以テ当該召集事務所ニ  届ケ出ヅベシ
   到着日時 昭和20年6月28日
  到着地    台北州立台北第二中学
  召集部隊   雷神 13863部隊
   台北連隊区司令部

 学校からの連絡も入った。身の回りの衣類、毛布、蚊帳、鉄兜、飯ごう、水筒、筆記具、教練教科書など、すべて自前で持参するようにという。兵隊になると、一切の衣服、寝具などなどは、支給されると思っていたが、私たちの場合はそうではなかった。
 母がそれらの物品を調達してくれた。そして涙ぐみながら、
 「戦争が勝利しているとばかり思っていたけれど、そうじゃなかったのね。あなたが死んだら陸軍二等兵なのね。海軍の予科練、陸軍の少年航空兵などに志願したいと言ったとき、四年生で陸軍士官学校、海軍兵学校の試験を受け、将校として活躍しなさいと言ったけれど、もうそんな余裕はないのね。あなたの意見を聞かなくて悪かったわ。それとこれほど状況が切迫していると、ボルネオにいるお父さんの安否も分からなくなったわね」
 6月28日、私は重いリュックサックを担いだ。家を出ると涙が出てきた。もう二度とわが家には帰れないと思った。そして戦死するのは怖かった。母は私の後ろからついてきた。集合地の台北第二中学までは、普通な歩いて10分ほどの距離だ。だが脚が重い。
 泣きながら30分もかかって到着。母は帰っていった。集まった多くの級友の顔には、涙の跡があった。 
 午後5時、私たちは校庭に整列した。一人の将校が、
 「自分が徴兵を担当する。貴様たちは、防衛召集によりここに参集した。誰か体調がすぐれぬ者いるか。腹の具合の悪い者は一歩前へ」
 10人ほどが前へ出た。
 「腹具合は精神力で回復する。隊列のもとに戻れ。全員合格。陸軍二等兵に任ずる」
 あっという間に、陸軍二等兵となった。校舎の二階に導かれ、整列する。衣服を脱ぎ、裸体となる。軍医が先頭からペニスを診ていく。付き添っている中年の看護婦が名簿に記入する。恥ずかしかったがしかたない。私の番がきた。
 「まだ毛も生えそろっとらんな」
 私のペニスをつまみ、包皮を反転した。痛い。思わず腰を引く。
 「よし、異常なしだ」
 痛みと恥ずかしさで、ペニスは勃起して、一層恥ずかしかった。
 ついで上体を前に倒せと命じられた。肛門の検査、それで終わり。
 以上の検査で不合格になったのはいない。

 みんな校庭に降りた。各自夕食は執れと言われた。それぞれが一人で弁当を開いている。誰もしゃべらない。母の最後の弁当になるのか。心づくしの海苔巻きおにぎりが美味しかった。晴れわたって満天の星。いつしかうとうとと眠っていた。

 午前零時過ぎ、集まれといわれる。4列縦隊となり台北駅へ。われわれが列車に乗りこむと汽車は動きはじめた。特別列車なのだろう。駅に停車することもなく、北回りの線路を走り続ける。
 午前6時頃、列車は止まった。羅東駅だ。一人の曹長に迎えられ、私たちはそこで降りた。4列縦隊を組み歩き始める。街中をすぎると、広い河原だ。曹長が羅東渓と教えてくれた。雨季でないからだろう。水はない。大きい石がゴロゴロしている。われわれはその支流に入った。打狗渓というそうだ。
 やがて四方林の原住民集落が現れる。ここを通り過ぎて少し行くと、また一つの支流がある。山肌が迫っている。そこを入っていくと茅葺きの小屋が現れた。われわれの駐屯地だ。
すでに来ていた4年生が迎えてくれた。
 台湾・雷神13863部隊の中川中隊だ。4小隊で1中隊を編成している。20数人が一つの小屋に入る。それぞれに割り当てられた小屋に入る。私は庄司先生が班長をつとめる班に組まれた。河の最上流に炊事小屋、次に中隊本部・中隊長居室、そこから各班の小屋が散在していた。
 炊事班が朝昼兼用の食事を出してくれた。飯に豚汁だ。空きっ腹に美味しかった。食べ終わると横になり、ぐっすり眠った。
 起床ラッパが鳴っている。午前7時。あわてて起きた。屋外に出て2列横隊に整列した。
 庄司班長先生が、
 「軍人勅諭斉唱」
 私たちは口をそろえて、
 「一つ、軍人は忠節を盡すを本分とすへし、一つ、軍人は禮儀を正くすへし、一つ、軍人は武勇を尚ふへし、一つ、軍人は信義を重んすへし、一つ、 軍人は質素を旨とすへし」
 私たちは本格的な軍人になっているのだと思った。このあと朝食だ。炊事班から朝食の給与を受けてきた当番が、各自の食器によそっていく。飯と汁だけだ。副食はない。
 食後、庄司班長先生が、この部隊の現況を話された。
 「われわれの任務は,東側の海岸から上陸して台北をめざすアメリカ軍を阻止することにある。現在、部隊にある兵器は10丁の38式歩兵銃の模擬中。形は本物と変わらないが、弾丸はできない。明治の日清戦争で使われて廃銃とされた村田銃が10丁、今はこの銃の弾丸は作っていない。97式軽機関銃が1丁ある。使用可能だ。ただし弾丸は500発しかい。連続発射すれば、1分で使いきる量だ。手榴弾もなし。兵器はまるでないのだ。やがて支給すると言われているが、いつになるかは分からない。君たちの大和魂だけが頼りだ」
 今、敵が上陸してくれば、われわれは逃げるよりないのだ。情けなかった。
 私たちは朝食を終えると、基礎訓練に取り組んだ。武器がないからそれしかできない。
    「気をつけ」「休め」「右向け右」「左向け左」「回れ右」「敬礼」「なおれ」「前へ進め」「縦隊右へ進め」「縦隊左へ進め」「右向け前へ進め」「左向け前へ進め」「歩調執れ」
 これらの命令とそれへの対応は、中学2年の時の教練ですでに習得している。数回これを繰り返すと,雰囲気がだれてくる。しかし、これ以外の訓練しかすることはない。
 夕食が終わると、自由な時間となる。電気はないから読書はできない。退屈してくる。
 私たちより、先にここへ来ていた4年生を古兵という。私たち3年生は新兵だ。古兵は私たちを呼び出し、整列させた。勤務の態度がなってないという。古兵の何人かで、私たち新兵を殴りつけた。悔しいが抵抗できない。上官にさからうのはゆるされないからだ。
 午後9時、消灯ラッパが鳴る。 タンタントー タタタント タタタントトー
 ラッパには替え歌がついている。
 「兵隊さんは悲しいなあ また寝て泣くのかよー」
 このラッパは身にしみるのだ。私も涙がにじみ出たことが何度もある。
 電気がないから暗い。消す灯りがないのだ。

 ある日、庄司班長に呼ばれた。君たちは成績優秀だから、蘇澳に駐屯する船舶工兵の部隊に転属するようにしたと言われた。私は嬉しかった。制裁からのがれられる。
 私と数人は山を下り、羅東駅から蘇澳駅まで汽車に乗った。蘇澳駅から部隊までは近かった。駅の近くの国民学校に、「船舶工兵第28連隊通信隊」と表札がかかっていた。
 ほかの部隊からも転属者がきていて40人になった。通信隊の隊員は300人ほどだ。
 中隊長の佐藤中尉が、自分がお前たちを教育すると言われた。国民学校の校舎で寝泊まりしている。食事も美味しかった。寝るのも楽だ。
 翌日から教育が始まった。
 佐藤中尉が先生だ。なめらかな口調だ。私たちを学徒兵と呼び、君たちと呼んだ。
 君たちはオームの法則は知っているかな。 導体に流れる電流の大きさ  と導体に加えた電圧  は比例する。このことをオームの法則というのだ。
 電気通信の技術は,電気の技術と歩調をあわせながら進展し,19 世紀終盤には電信および電話の業務が行われるようになった。20 世紀に入ると真空管が発明され,電気信号を電子の流れとして扱うことにより,信号波形を操作(増幅など)できるようになった。
 私は真剣に理解しようと努めた。通信が面白いからだ。
 7月末に、2ヶ月分の俸給だと25円受け取った。兵隊に給料があるとしらなかったから驚いた。その時、ついでだから、遺書をかいておけと紙を渡された。
 最大の望みは、家へ帰りたいのだが、検閲されると問題になるだろうと、当たり障りのない尽忠報国とだけ書いた。
 8月15日正午、重大放送があるからと、総員集合してラジオを聞いた。
雑音が入って聞きにくかったが、そこだけは聞こえた。
  「 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス」
 戦いに勝ったのではない。負けたのだ。しかし戦争が終わるのだと理解できた。
 短かった授業は終わった。私たちは羅東の原隊に戻り、みんなと台北へ帰った。

 戦後分かったことがある。「兵役法」は17歳以上の男子が兵役に就くことを規定していた。しかし当時の私たちは14歳か15歳だった。その私たちが自発的に兵役に就くようにお願いしているのだ。だから軍はそのことを受け入れるということだ。だがそんな願いは違法だ。超法規的な措置なのだ。
 沖縄と台湾は、第10方面軍とされていた。昭和19年暮に「防衛召集規則」の改正により、沖縄県、台湾、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島に限り、志願すれば17歳未満でも第二国民兵役に編入できるとしていた。これについて内務省は、徴兵年齢の引き下げにあたり、憲法違反の疑いがあると指摘していたという。


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押し花絵の世界 №188 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「cosmos」

       押花作家  山﨑房枝

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23cm×18cm

コスモスだけでシンプルにデザインした作品です。
白い花弁を桃赤色で縁取ったものや、紅色に白の絞りが入ったものなど多彩なカラーで人気のピコティという品種を使用しました。
一輪一輪違う花弁の型や色合いを楽しみ、最後に金箔を塗して仕上げました。



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赤川ボンズと愉快な仲間たちⅡ №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「毎日感謝」 BE thankful every day

        銅板造形作家  赤川政由

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麦酒堂KASUGAI  国立市東

秋の実りに感謝する少女。大きなブドウの房を芋にしている0秋の柔らかな日差しと青い空。小学校の子供たちの通学路にあるこの作品は、何気ない街の中に優しい光を投げかけていて、依頼者の街への優しさが現れている。

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多摩のむかし道と伝説の旅 №114 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  3

          原田環爾

29-1.jpg 石神井城跡から三宝寺池の畔に降りるとそこに水神の小祠がある。そこから池畔を時計まわりに巡ることにする。ほどなく厳島神社の前にくる。赤い建屋が池畔の風景によく映える。更に池畔を大きく回り込み厳島神社の対岸に来ると。丘へ上がる細い小道がある。小道に入って丘の上に上がると、公園の外縁部に道灌に攻め滅ぼされた石神井城主豊島泰経の悲話を伝える2つの塚がある。塚は殿塚と姫塚と言い、殿塚は豊島29-2.jpg29-3.jpg泰経を、また姫塚は泰経の二女照姫を供養した塔という。2つの塚は30mばかり離れてひ  っそりと立っている。
 29-4.jpg伝説によれば、文明9年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌との戦いに敗れて落城した折、城主豊島泰経は黄金の鞍をつけた白馬に跨り、三宝寺池に飛び込み水底に沈んだという。また泰経の二女照姫も父の後を追って三宝寺池に身を投げたという。天気のよい日には湖底にきらきら輝く光が見えるといわれ、泰経の黄金の鞍が光っているのであろうということになり、「三宝寺池の黄金の鞍伝説」が生まれた。またこれと同じような伝説として、豊島泰経の娘が石神井川に身を投げたともいい、入水した渕は後に姫ヶ淵と呼ばれるようになったという。
29-5.jpg 殿塚、姫塚を後にして再び三宝寺池の池畔に降りる。池畔に沿って進むと園内真中に石神井城主と同じ名前の豊島屋の看板を掲げた茶屋が見える。かつて筆者が訪ねた折は甘酒、しるこ、おでん、ラー メン、カレーなど色々なメニューで商いをしていた。小雪が舞う寒い日にここで12種類の具沢山の豚汁を注文して舌鼓をうったことを記憶している。人参、大根、ゴボウ、ネギ、蒟蒻、揚げ、小芋、椎茸、エノキ、肉・・・・。随分色々入っていた。何より身体が温まってほっこりしたことを思い出す。三宝寺池から井草通りを隔てた隣の石神井池の池畔に移る。石神井池は三宝寺池と打って変わってボートが浮かぶモダンな池だ。池畔には目を見張る豪邸が立ち並ぶ。池畔を辿ってゆくと程なくボート乗り場に至る。石神井池の終端だ。同時に石神井公園もここで終わる。これより帰路をとり、石神井駅へ向かう。かつては細い道路をうねうねと行ったものだが、今は駅前は新たな都市計画が進行中で大改造されつつある。数年後にはすっかり変わった姿をみること になるであろう。

[後編]中野の江古田・沼袋古戦場を巡る道
 文明9年(1477)太田道灌は豊島泰経の石神井城を攻略するため江戸城を発進した。この時、道灌軍は江古田・沼袋で石神井城や平塚城から進軍してきた豊島軍と遭遇し激戦となった。これに勝利した道灌軍は更に西進し、練馬の石神井城を攻撃してこれを落城させた。今回は石神井城城攻めの最初のターニングポイントとなった江古田・沼袋の古戦場界隈の旧跡を辿ることにする。西武新宿線沼袋駅を出発し、沼袋氷川神社を皮切りに旧跡を巡りながら江古田・沼袋古戦場に至る。その後は妙正寺川の畔に出て、水辺に沿って哲学堂公園に立ち寄り、帰路は大江戸線落合南長崎駅に至るものとする。
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29-7.jpg 西武新宿線沼袋駅を出て線路沿いに東へ200mも進むと太田道灌ゆかりの沼袋氷川神社の前に来る。鳥居をくぐり参道の石段を上れば正面に拝殿があり、左手に神楽殿がある。境内の一角にご神木であった道灌杉の遺構が保存されている。遺構といっても柵の中に枯れた杉の根株のかけらがあるだけだ。傍らにかつての杉の古写真が添えられており往時の威容をしのぶことができる。沼袋氷川神社は今から約600年前の後村上天皇の正平年間(1346~1370)、大宮氷川神社の分霊を沼袋の鎮29-8.jpg守として奉祀したことに始まる。祭神は須佐之男命。文明9年(1477)4月太田道灌と豊島氏が江古田が原・沼袋の地で合戦したのは、当社から新青梅街道にかけての辺りと推定され、当社一帯の高丘は道灌の本陣となり、社頭に杉一株を献植し戦勝祈願した。それが後年道灌杉と称される高さ約30mの天を圧する老杉となったが昭和19年頃枯死した。
 境内西にある鳥居をくぐって氷川神社を後にする。複雑に入り組んだ狭い街路をうねうねと進むと集落の中に埋もれるように、真言宗豊山派の禅定院、日蓮宗の久成寺、真言宗東寺派の百観音明治寺が所狭しと林立して29-9.jpgいる。百観音明治寺はその名のごとく境内に青天井で無数の観音様をお祀りした百観音霊場があり一見に値する。由緒書には次のように記されている。「西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、あわせて百の観音札所を巡礼して旅をすることは、江戸時代以前から今に至るまで盛んに行なわれて来ました。この百観音霊場に、明治天皇が崩御された時に、その遺徳をしのぶため、草野栄照尼によって最初の観音像が建立されたことから始まりました。以後、多大な信望を受けて、続々と百観音霊場の御本尊の姿が刻まれ、現在は番外も増えて合計百七十四体になっています。この石像を一体づつ拝むことで日本中の観音霊場の御縁をいただくことができ観音慈悲の恵みを受けることができます」と。
29-10.jpg 明治寺から更に集落の中をじぐざぐと進み、コンビニのある南北に走る車道に出る。車道を北に採るとすぐ沿道右にこじんまりした丸山塚公園が現れる。公園の片隅に身の丈1~2mばかりの小さな石の祠がある。傍らには「豊玉二百柱社」と刻まれ標柱石と由来を記した昭和49年造立の石盤碑が立っている。江古田・沼袋合戦の戦死者を供養したものだ。由来書には次のように刻まれている。「文明9年4月13日、江戸城主太田道灌は平塚城の豊島泰明を攻めたが頑強な抵抗にあい帰城した処、石神井・練馬両城より兄泰経が江戸城を目指し進発したことを知り急遽出撃した。両軍は江古田が原・沼袋で遭遇し激烈な戦闘を展開した。興亡をかけて戦った豊島氏は敗れて泰明以下百五十余名がこの地で戦死し、在地の領主として栄えた豊島氏は致命的打撃を受けた。江戸道沿いに点在の古墳は豊島塚といわれた。このたび地元有志の者が供養のため古来の祠を再建て戦没者の霊を祀る」と。なお中野区内の豊島塚は7カ所ほど知られていたが、ほとんど調査されることなく失われてしまったという。(この項つづく)


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