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夕焼け小焼け №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

陸軍二等兵

        鈴木茂夫

 昭和20年(1945年)6月25日月曜日。
 朝礼の代わりに2階の大教室に集まるようにいわれた。壇上には教練の軍事教官中川中尉、担任の庄司先生、横井先生、松宮先生が立っている。中川中尉が口を開いた。
 「大東亜戦争は、今や重大な局面を迎えている。沖縄のわが軍は3月26日にアメリカ軍が沖縄に上陸したのに対し、激しい防衛戦を展開してきた。そして先週末の6月23日、90日間にわたる第32軍の組織的な戦闘が終わった。沖縄の中学3年生以上は、鉄血勤皇隊として兵役につき活躍していた。台湾の防衛はますます重大である。4年生は。すでに防衛召集により軍務についている。台湾軍は貴様らも兵力の一員とすることを決定された。日本男子として名誉なことである。今から配る書面に必要なことを記入するようにせよ」
私たち3年生も軍務につくのだ。 紙が配られた。
 「第二国民兵役編入特別志願願 」 とある。これは私たちが、兵役に編入してくださいと軍にお願いするということだ。ふと壇上を見上げると、松宮先生が刀を抜いて、  
  「卑怯者がいたらぶった斬るぞ」                
  顔色が変わっている。異様な雰囲気だ。 壇から降りて私たちの机の周りを歩いた。       いやもおうもない。氏名、住所、本籍などを書き込む。
                                           
 この日から3日後、淡紅色の紙に印刷された臨時召集令状を、台北市役所の兵事係が届けてきた。

  臨時召集令状
  台北州台北市 幸警察署管内
  第二国民兵役 鈴木茂夫
  右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ此ノ礼状ヲ以テ当該召集事務所ニ  届ケ出ヅベシ
   到着日時 昭和20年6月28日
  到着地    台北州立台北第二中学
  召集部隊   雷神 13863部隊
   台北連隊区司令部

 学校からの連絡も入った。身の回りの衣類、毛布、蚊帳、鉄兜、飯ごう、水筒、筆記具、教練教科書など、すべて自前で持参するようにという。兵隊になると、一切の衣服、寝具などなどは、支給されると思っていたが、私たちの場合はそうではなかった。
 母がそれらの物品を調達してくれた。そして涙ぐみながら、
 「戦争が勝利しているとばかり思っていたけれど、そうじゃなかったのね。あなたが死んだら陸軍二等兵なのね。海軍の予科練、陸軍の少年航空兵などに志願したいと言ったとき、四年生で陸軍士官学校、海軍兵学校の試験を受け、将校として活躍しなさいと言ったけれど、もうそんな余裕はないのね。あなたの意見を聞かなくて悪かったわ。それとこれほど状況が切迫していると、ボルネオにいるお父さんの安否も分からなくなったわね」
 6月28日、私は重いリュックサックを担いだ。家を出ると涙が出てきた。もう二度とわが家には帰れないと思った。そして戦死するのは怖かった。母は私の後ろからついてきた。集合地の台北第二中学までは、普通な歩いて10分ほどの距離だ。だが脚が重い。
 泣きながら30分もかかって到着。母は帰っていった。集まった多くの級友の顔には、涙の跡があった。 
 午後5時、私たちは校庭に整列した。一人の将校が、
 「自分が徴兵を担当する。貴様たちは、防衛召集によりここに参集した。誰か体調がすぐれぬ者いるか。腹の具合の悪い者は一歩前へ」
 10人ほどが前へ出た。
 「腹具合は精神力で回復する。隊列のもとに戻れ。全員合格。陸軍二等兵に任ずる」
 あっという間に、陸軍二等兵となった。校舎の二階に導かれ、整列する。衣服を脱ぎ、裸体となる。軍医が先頭からペニスを診ていく。付き添っている中年の看護婦が名簿に記入する。恥ずかしかったがしかたない。私の番がきた。
 「まだ毛も生えそろっとらんな」
 私のペニスをつまみ、包皮を反転した。痛い。思わず腰を引く。
 「よし、異常なしだ」
 痛みと恥ずかしさで、ペニスは勃起して、一層恥ずかしかった。
 ついで上体を前に倒せと命じられた。肛門の検査、それで終わり。
 以上の検査で不合格になったのはいない。

 みんな校庭に降りた。各自夕食は執れと言われた。それぞれが一人で弁当を開いている。誰もしゃべらない。母の最後の弁当になるのか。心づくしの海苔巻きおにぎりが美味しかった。晴れわたって満天の星。いつしかうとうとと眠っていた。

 午前零時過ぎ、集まれといわれる。4列縦隊となり台北駅へ。われわれが列車に乗りこむと汽車は動きはじめた。特別列車なのだろう。駅に停車することもなく、北回りの線路を走り続ける。
 午前6時頃、列車は止まった。羅東駅だ。一人の曹長に迎えられ、私たちはそこで降りた。4列縦隊を組み歩き始める。街中をすぎると、広い河原だ。曹長が羅東渓と教えてくれた。雨季でないからだろう。水はない。大きい石がゴロゴロしている。われわれはその支流に入った。打狗渓というそうだ。
 やがて四方林の原住民集落が現れる。ここを通り過ぎて少し行くと、また一つの支流がある。山肌が迫っている。そこを入っていくと茅葺きの小屋が現れた。われわれの駐屯地だ。
すでに来ていた4年生が迎えてくれた。
 台湾・雷神13863部隊の中川中隊だ。4小隊で1中隊を編成している。20数人が一つの小屋に入る。それぞれに割り当てられた小屋に入る。私は庄司先生が班長をつとめる班に組まれた。河の最上流に炊事小屋、次に中隊本部・中隊長居室、そこから各班の小屋が散在していた。
 炊事班が朝昼兼用の食事を出してくれた。飯に豚汁だ。空きっ腹に美味しかった。食べ終わると横になり、ぐっすり眠った。
 起床ラッパが鳴っている。午前7時。あわてて起きた。屋外に出て2列横隊に整列した。
 庄司班長先生が、
 「軍人勅諭斉唱」
 私たちは口をそろえて、
 「一つ、軍人は忠節を盡すを本分とすへし、一つ、軍人は禮儀を正くすへし、一つ、軍人は武勇を尚ふへし、一つ、軍人は信義を重んすへし、一つ、 軍人は質素を旨とすへし」
 私たちは本格的な軍人になっているのだと思った。このあと朝食だ。炊事班から朝食の給与を受けてきた当番が、各自の食器によそっていく。飯と汁だけだ。副食はない。
 食後、庄司班長先生が、この部隊の現況を話された。
 「われわれの任務は,東側の海岸から上陸して台北をめざすアメリカ軍を阻止することにある。現在、部隊にある兵器は10丁の38式歩兵銃の模擬中。形は本物と変わらないが、弾丸はできない。明治の日清戦争で使われて廃銃とされた村田銃が10丁、今はこの銃の弾丸は作っていない。97式軽機関銃が1丁ある。使用可能だ。ただし弾丸は500発しかい。連続発射すれば、1分で使いきる量だ。手榴弾もなし。兵器はまるでないのだ。やがて支給すると言われているが、いつになるかは分からない。君たちの大和魂だけが頼りだ」
 今、敵が上陸してくれば、われわれは逃げるよりないのだ。情けなかった。
 私たちは朝食を終えると、基礎訓練に取り組んだ。武器がないからそれしかできない。
    「気をつけ」「休め」「右向け右」「左向け左」「回れ右」「敬礼」「なおれ」「前へ進め」「縦隊右へ進め」「縦隊左へ進め」「右向け前へ進め」「左向け前へ進め」「歩調執れ」
 これらの命令とそれへの対応は、中学2年の時の教練ですでに習得している。数回これを繰り返すと,雰囲気がだれてくる。しかし、これ以外の訓練しかすることはない。
 夕食が終わると、自由な時間となる。電気はないから読書はできない。退屈してくる。
 私たちより、先にここへ来ていた4年生を古兵という。私たち3年生は新兵だ。古兵は私たちを呼び出し、整列させた。勤務の態度がなってないという。古兵の何人かで、私たち新兵を殴りつけた。悔しいが抵抗できない。上官にさからうのはゆるされないからだ。
 午後9時、消灯ラッパが鳴る。 タンタントー タタタント タタタントトー
 ラッパには替え歌がついている。
 「兵隊さんは悲しいなあ また寝て泣くのかよー」
 このラッパは身にしみるのだ。私も涙がにじみ出たことが何度もある。
 電気がないから暗い。消す灯りがないのだ。

 ある日、庄司班長に呼ばれた。君たちは成績優秀だから、蘇澳に駐屯する船舶工兵の部隊に転属するようにしたと言われた。私は嬉しかった。制裁からのがれられる。
 私と数人は山を下り、羅東駅から蘇澳駅まで汽車に乗った。蘇澳駅から部隊までは近かった。駅の近くの国民学校に、「船舶工兵第28連隊通信隊」と表札がかかっていた。
 ほかの部隊からも転属者がきていて40人になった。通信隊の隊員は300人ほどだ。
 中隊長の佐藤中尉が、自分がお前たちを教育すると言われた。国民学校の校舎で寝泊まりしている。食事も美味しかった。寝るのも楽だ。
 翌日から教育が始まった。
 佐藤中尉が先生だ。なめらかな口調だ。私たちを学徒兵と呼び、君たちと呼んだ。
 君たちはオームの法則は知っているかな。 導体に流れる電流の大きさ  と導体に加えた電圧  は比例する。このことをオームの法則というのだ。
 電気通信の技術は,電気の技術と歩調をあわせながら進展し,19 世紀終盤には電信および電話の業務が行われるようになった。20 世紀に入ると真空管が発明され,電気信号を電子の流れとして扱うことにより,信号波形を操作(増幅など)できるようになった。
 私は真剣に理解しようと努めた。通信が面白いからだ。
 7月末に、2ヶ月分の俸給だと25円受け取った。兵隊に給料があるとしらなかったから驚いた。その時、ついでだから、遺書をかいておけと紙を渡された。
 最大の望みは、家へ帰りたいのだが、検閲されると問題になるだろうと、当たり障りのない尽忠報国とだけ書いた。
 8月15日正午、重大放送があるからと、総員集合してラジオを聞いた。
雑音が入って聞きにくかったが、そこだけは聞こえた。
  「 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス」
 戦いに勝ったのではない。負けたのだ。しかし戦争が終わるのだと理解できた。
 短かった授業は終わった。私たちは羅東の原隊に戻り、みんなと台北へ帰った。

 戦後分かったことがある。「兵役法」は17歳以上の男子が兵役に就くことを規定していた。しかし当時の私たちは14歳か15歳だった。その私たちが自発的に兵役に就くようにお願いしているのだ。だから軍はそのことを受け入れるということだ。だがそんな願いは違法だ。超法規的な措置なのだ。
 沖縄と台湾は、第10方面軍とされていた。昭和19年暮に「防衛召集規則」の改正により、沖縄県、台湾、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島に限り、志願すれば17歳未満でも第二国民兵役に編入できるとしていた。これについて内務省は、徴兵年齢の引き下げにあたり、憲法違反の疑いがあると指摘していたという。


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