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夕焼け小焼け №18 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五条尋常小学校

         鈴木茂夫 

 昭和13年(1938)秋。わが家は天王寺区北山町に移転した。味原町から徒歩で20分ほどの距離だ。路地を入ると7軒の2階建て長屋、その中の1軒だ。玄関を開けると6畳ほどの空間、左側に台所と浴室、玄関の入り口は3畳、6畳、8畳、6畳の座敷があり、小さな中庭に向かって離れの8畳間がある。2階は4畳半、6畳が2室あった。
 祖父・大八夫婦と父の弟の勝海が同居する。みんなで食卓を囲むから賑やかだ。
 私は天王寺第5尋常高等小学校に転校、2年1組男子級に編入された。学科の進度が進んでいると言われ、学習プリントで勉強、遅れを取り戻した。 
  祖父は大阪の市岡高等女学校で、国語漢文を担当していた。ときどき呼びつけられて、
国語読本の朗読と解釈を指導された。おかげで成績があがった。
 従兄弟の三木正之(後に神戸大学教授)が5年生にいた。成績が良くて級長をしている。
自宅の茶の間に「少年よ大志を抱け」と書いた半紙が何枚もある。あこがれの人だが、負けてはいられない、頑張らなければ。
 第5小学校は学期ごとに学年の席次を発表した。1学年には50人編成の4組があるから、200人生徒がいる。12月の席次で、私は20番前後にいた。一生懸命に勉強したからだ。わが家のみんなか褒めてくれた。3学期はそれ以上になろうと決めた。
 級友の中には、家庭教師をつけて勉強している子もいた。植村君はその1人だ。夕陽丘高等女学校に近い植村君の家は、高い黒板塀で囲まれている。潜り戸を開けて、
 「植村君、遊ぼ」と声をかけると、女中さんが顔を出し、「どうぞ」と答えたら、入れるのだ。6畳ほどの部屋が勉強部屋だ。見たこともない参考書が並んでいる。
「先生が来たからまたね」
女中さんの声に 私はそこでサヨナラする。植村君が可哀想に思える。
 
 わが家の路地から表通りに出ると、すぐ坂道が延びている。その坂の下におばちゃんの店があった。一銭洋食、一通りの駄菓子、凧、コマ、金魚すくいがそろっている。
一銭洋食は人気がある。1枚5銭だ。
 おばちゃんは水で薄く溶いた小麦粉を鉄板の上に円く伸ばす。紅ショウガと魚粉をふりかける。海苔を一枚置く。桜エビを4,5つ置く。ブラシでソースを薄くはく。ひっくり返す。その表面にソースをひく。現在だとオタフクソースが適している。ソースの香りが漂えば、一銭洋食は仕上がりだ。おばちゃんはこてで一銭洋食を持ち上げ、適当に切った古新聞で包み手渡してくれる。
 熱いからフーッと息を吹きかけ、噛みつくのだ。中身にのせた具の味わいがさまざまにして美味だ。なかでもソースは一銭洋食の基本的な味になっている。
 2枚、3枚と食べてしまうこともある。あんまり食べると胸やけをおこすが、家庭にはない子どもたちの味わいだ。
 私はここに集まる連中と仲良くなった。みんな気の良い連中だ。コマの回し方、凧の揚げ方、ビー玉、メンコなどを、みんな親切に教えてくれた。必要なモノはかおばちゃんの店で買い求めた。金魚すくいは網の紙を破らずにアルミ容器が一杯になるほどすくった。
 みんなの仕込みのおかげだ。

 昭和14年、私は五条小学校の3年に進級した。夏の遊びはトンボ釣りだ。 
 道具は自作する。1メートルほどの細いミシン糸の両端に、直径2ミリの鉄の球を置き、セロファンで包む。それで完成だ。
 近くの住宅団地・松里園の隣に空き地がある。ここで釣るのだ。
 小学生から、大人まで20人近い人が待機する。首には仕掛けを何個もかけている。
陽が沈む頃、ヤンマガ群れをなして飛んでくる。トンボはわれわれが待ち受けている上を一直線に飛び去る。かなり飛んでから再び、同じ進路を飛んでくる。
 われわれは、それぞれ投げる位置で待つのだ。
 名人の人は2つの球を左手で持ち、右手で糸の真ん中を握って「トンボほーい」とかけ声をかけて、トンボの群れの先頭に投げ上げるのだ。球を小さな虫だと誤認したヤンマが球を襲うと、糸に絡まり落ちてくる。
 種類はギンヤンマ、オニヤンマ、アオヤンマなどだ。トンボの王様だ。
 捕まえたヤンマの羽根を、左手の指の間に挟む。
    私も懸命に投げ上げるのだが、ついに釣りに成功しなかった。
 夕日が沈むとヤンマも人も帰っていった。今もその光景を思い出す。
 「トンボほーい」

 11月3日、明治節。明治天皇の誕生日だ。学校の式典で、明治節の歌を歌った。

      アジアの東日出ずるところ 聖の君の現れまして  古き天地閉ざせる霧を
      大御光に隈なくはらい 教えあまねく道開けく 治めたまえる御代尊

 式典の後、紅白の饅頭がお祝いにと配られる。なんか褒美を貰ったようで嬉しかった。  
 昭和 14年4月、大阪市五條尋常高等小学校と改称。
 父母は私を連れて夕食後、ときどき上本町へ出かけた。そこは大阪電気軌道(現・近畿鉄道)の起点だ。大軌のデパート (現・近鉄百貨店)もある盛り場だ。映画館も営業していた。映画もかなり見たが、なぜか「第七天国」だけを覚えている。
 これはサイレント映画だった。無声映画とも言われ、音声・音響は入っていない。そのために活動弁士が画面の傍らに立ち、セリフや状況を解説するのだ。

   貧しい下水掃除人チコは、7階の自室をユダヤ教の最上天に因んで、“第七天国”と呼ん
   でいた。ある夕、姉に鞭打たれ倒れていた少女ディアンヌを救う。 結婚する2人。し
   かし、第一次大戦にチコは召集された。戦場でチコは失明して帰国。神様は俺の中に
   いたんだ、目が見えなくなっても神様は見えると言った。  

 活弁の声はよく聞こえた。父母とともに過ごした思い出でもある。
  
 秋の一夜、中之島の中央公会堂の藤原義江の独唱会に出かけた。私は初めてだ。赤煉瓦で組み立てられた公会堂は。基隆支店に似通っていた。
 会場は満席で、熱気にあふれていた。みんなで「われらのテナー」というと母が言った。
 藤原義江は日本人離れした風貌だ。まず「カルメン」「リゴレット」を歌った。私は分からないけれど、その圧倒的な声に惹かれた。「出船の港」だ。

     ドンとドンとドンと波のり超えて 一挺二挺三挺 八挺櫓で飛ばしゃ
      波はためそと ドンと突きあたる ドンとドンとドンと ドンと突きあたる

 調子を変えた歌が流れる。

      どこまで続く泥濘ぞ  三日二夜を食もなく   雨降りしぶく鉄兜
      いななく声も絶えはてて 倒れし馬のたてがみを 形見と今は別れ来ぬ

 私はこの歌を知っていた。「討匪行」だ。満州の関東軍の歌だ。もの悲しい。みんなで口にしたことはあるけれど、あまり歌わない。軍歌には切ないのが多い。
 
 


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