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多摩のむかし道と伝説の旅 №113 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  2

          原田環爾

28-6.jpg 28-8.jpg更に街道を西へ200mも進み、交差点「桃井四丁目」で右折し再び北へ向かう。これは道灌が進軍した道筋と思われる。程なく今川地区入る。道の左が今川4丁目、右が3丁目だ。やがて早稲田通りとの交差点「今川三丁目」に近づくと沿道左に大きな敷地の屋敷が現れる。小美野邸と呼ばれる旧家だ。ここは古くは陣幕あるいは幕陣とも呼ばれた所で、石神井城を攻撃する太田道灌が本陣を置いた所という。小美野邸の西側に回ると、その名も「道灌公園」と称する小公園がある。交差点から先は長い下りのだらだら坂で「道灌坂」と呼28-9.jpg28-7.jpgばれている。下り切ると右に三谷小学校があり、そこで瀟洒な遊歩道と交差する。遊歩道は井草川緑道という。道灌堀とも呼ばれたかつての井草川を暗渠にした上に造られた緑道だ。緑道を右に20mばかり入ると、緑道沿い右に「道灌橋之跡」と刻んだ高さ50cmばかりの標石が立っている。かつてここに井草川にかかる道灌橋があった。その標石の筋向いに道灌橋公園と称する小公園がある。因みに井草川の水源はここより南西400mばかりの所にある杉並区立切り通し公園が谷頭で、そこから流れ出た湧水が上井草、井草、下井草を通ってやがて妙正寺池付近で妙正寺川に合流している。妙正寺池は神田上水の水源の一つである。/ところで切り通し公園付近は別に「道灌の切り通し」と称されている。ここには道灌にかかわるこんな伝説が残されている。石神井城主の豊島泰経はしばしば切り通しの近くにある井草八幡社に馬で遠出したという。文明9年(1477)の春、数人の家臣を伴って上井草の切り通し付近に差し掛かったところ道普請をしている農民に会った。泰経は感心して声を掛けようとしたところ、やにわに農民の一人が槍で突き掛かり、脇腹を串刺されて落馬、瀕死の重傷を負った。道灌の兵が農民に化けていたのだ。泰経は助けられて石神井城帰還するも間もなく死亡。驚いた平塚城を守備する弟の泰明は急遽石神井城に向かった。一方道灌も直ちに一千の軍を率いて石神井城を攻略する。この時太田軍は幕陣に本陣を置き道灌坂を下って道灌橋を渡り、道灌山に軍勢を配したという。城主泰経なき豊島軍は劣勢の中よく城を守備したが、戦巧者の道灌に抗しきれずついに落城する。泰経の奥方は自刃し、娘の照姫は三宝寺池に馬もろとも飛び込み落命したと伝える。ただこれは杉並の伝説で、史実では泰明は一旦平塚城に逃れ、その後鶴見川河畔の小机城へ逃避したという。
28-1.jpg 井草川緑道を後にすると一転だらだらとした上り坂となる。上り切った所で「上井草給水場前」の道標が掛かる辻に来る。ここから沿道右には上井草スポーツセンターの大きな外壁が続く。この辺りが道灌山と呼ばれる所で道灌の攻城軍が宿陣した所という。程なく道は練馬区に入り西武新宿線の踏切を渡る。踏切を境に東西右斜めに交差する道は千川通りだ。かつての千川上水の流路で、今は暗渠となり道路になっているのだ。千川通りを無視して更に井草通りを北へ進む。200mも進むと都立井草高校の前に来る。この辺りは観音山と呼ばれ、ここにも道灌の軍が陣を敷いたいう。引き続いて新青梅街道との交差点「石神井消防署前」に来る。ちなみにここから街道沿いに西へ500~600m行った所に早稲田大学高等学院があるが、その辺りは愛宕山とよばれ、そこにも道灌は軍を宿陣させたという。つまり道灌は石神井城を攻めるにあたって軍を3つ分けて、それぞれを道灌山、観音山、愛宕山に陣を敷かせたのである。
28-2.jpg さて交差点「石神井消防署前」を過ぎると、やがて道は緩やかな長い下り坂となる。下り切った所で石神井川の蛍橋の袂に来る。橋の袂の左には水辺の小公園が広がる。蛍橋界隈の石神井川はつい最近までコンクリートで護岸工事された狭い用水路といった味のない川であったが、近年川幅の拡張工事がなされモダンな景観に変貌している。石神井川を渡るとすぐ東西に走る道路との交差点にくる。交差点の北西角地に「所澤道」と刻んだ石標柱が立っており、この道路が古い道であることを示している。なお以前は交差点の南西角地には大きな「甘藍の碑」が立っていた。練馬区はもともと練馬大根で知られていたが、今ではキャベツがそれに取って代わり練馬の特産物にな っている。
28-3.jpg 所沢通りを左に入るとすぐ沿道北側に豊島氏の菩提寺道場寺がある。道場寺は曹洞宗の寺で山号を豊島山と号す。文中元年(1372)当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を開山に創建し、豊島氏の菩提寺にしたという。文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経を含む一族の墓が3基ある。残念ながら一般には公開していない。境内には本堂、客殿、庫裡、鐘楼のほか重厚な三重塔がある。道場寺のすぐ北側に石神井城跡があり、左隣には三宝寺がある。三宝寺は真言宗智山派の寺で山号を亀頂山と号す。本尊は大聖不28-4.jpg動明王。応永元年(1394)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が当地周辺に建立したが、文明9年(1477)太田道灌 により当地に移転された。境内は広く、本堂、鐘楼、根本大塔(多宝塔)、観音堂、大師堂、大黒堂、地蔵堂のほか、三宝寺旧六塔頭の一つである正覚院などがある。山門は御成門とも呼ばれ、将軍家光が鷹狩の折、休憩所としてお成りになったことからその名がある。また練馬区旭町にあった勝海舟邸の長屋門が移築されている。
 先の所沢道の辻に戻り井草通りを北へ向かう。道は緩やかな上り坂で、途中沿道左には練馬区立石神井図書館がある。坂道を上り切ると一転下り坂となる。だらだらと下り終ると通りの両サイドに石神井公園が広がる。右はボートで遊べるモダンな石神井池で、左は三宝寺池と石神井城址からなる歴史公園になっている。まずは左の園内に入る。すぐに左前方に小さなひょうたん池が現れ、その先に三宝寺池が続く。その左側池畔にはこんもりと雑木林で覆われた小高い丘があ28-5.jpgり、それが秩父流平氏豊島氏の居城石神井城跡だ。回廊の様な木橋で三宝寺池を渡り鬱蒼と樹木の茂る丘を登るとそこが本丸跡だ。城跡には空堀、土塁がよく整備されて保存されている。石神井川と三宝寺池に挟まれた台地上に築かれた平城で鎌倉時代後期の築城と考えられている。豊島氏は平安末から室町中期にかけて、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持った一族で、室町時代の城主豊島泰経は、文明8年(1476)長尾景春が主君の武蔵守護上杉顕定に背いた折、長尾景春に味方した。そのため文明9年(1477)顕定を援助していた江戸城主上杉定正の家宰太田道灌により攻められ石神井城は落城した。太田道灌状によれば敗れた泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年再び道灌に攻められ、鶴見川河畔の小机城(横浜市)に逃れたというが、その後の足取りは不明である。(この項つづく)


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