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多摩のむかし道と伝説の旅 №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  1

          原田環爾

多摩の東部に隣接する杉並区から練馬区にかけては都会の住宅街の雰囲気だ。その住宅街に戦国時代初頭に活躍した智将太田道灌と桓武平氏末の豊島氏との間で繰り広げられた戦跡が散在する。この地域は古くから秩父流平氏豊島氏の地盤で、平安末から室町中期にかけて、現在の練馬区、板橋区、豊島区、北区、足立区、荒川区、文京区、台東区など都心北部に勢力をもっていた。練馬の石神井池の池畔に残る石神井城跡は豊島氏が鎌倉末に築城した城だ。戦国初頭の15世紀中頃の城主は豊島泰経で、室町幕府の関東管領上杉氏の有力一族である山内上杉氏に属していた。一方太田道灌は同じ頃、上杉氏のもう一つの有力一族である扇谷上杉の家宰として活躍していた武将である。江戸城を築城したことで知られている。文明8年(1476)山内上杉の長尾景春が家宰職をめぐって反乱を起こすと、豊島氏は姻戚関係にあった長尾氏を加勢したことから、上杉氏と豊島氏の対立が決定的となった。文明9年(1477)ついに太田道灌は豊島泰経の石神井城を攻略することとなる。江戸城を発進した道灌軍は中野の江古田、沼袋で豊島軍との激戦となり、これを打ち破ると更に西進し、杉並に入ると桃井辺りから北へ向かって練馬に入り石神井城を攻撃したと言われる。本稿では前編に杉並から練馬の石神井城を目指した道灌の城攻めの道を辿ることにし、後編には中野の江古田・沼袋の古戦場を巡る道筋を解説する。

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[前編]杉並荻窪から練馬石神井城を目指す道灌の進撃路

ここではJR中央線西荻窪駅から荻窪八幡を経て青梅街道に入り、桃井で井草通りを北へ向かう。練馬区に入ると西武新宿線上井草駅の西側で線路を横切り、更に北上して石神井池へ。帰路は西武池袋線石神井公園駅に至るものとする。

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 西荻窪駅北口から賑やかな商店街の北銀座通りを北へ向かう。500mも進めば、善福寺川に架かる関根橋の袂に来る。善福寺川は神田川の支流で、ここより北西1.5kmにある善福寺池を水源とする川である。因みに善福寺という名称の起源は、昔池畔の丘の西側に善福寺、万福寺の二ヶ寺があったことによる。ところが大地震で池水が溢れ堂宇が破壊され、修復かなわず何時しか廃絶となってしまった。ただその一つの善福寺の名だけが池の名となって残ったという。この先善福寺川の東側右岸の水辺の道に入る。水辺の道の右側は小高い丘になっている。か27-3.jpgつて城山と呼ばれた所で、源頼義が奥州における前九年役の帰途、兵士を駐留させた所という。古びたコンクリート橋の山下橋を過ぎ、丸山橋で車道を横切ると対岸には小さな関根文化公園が見える。社橋を過ぎると次に車道の真中橋の袂に出る。真中橋から車道を北へ向かう。緩やかな上り坂を上って行くと前方左にこんもりと樹木が茂る一角が目に入る。坂道を登り切るとそこに荻窪八幡神社の正面鳥居が立っている。旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられる。永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年27-5.jpg(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったという。ここはまた道灌に縁のある神社だ。鳥居をくぐり境内に入ると右側に猿田彦を祀る小祠がある。正面参道を進むと、本殿手前の左手に背の高い槇の樹が立っている。道灌槇と呼ばれる樹齢500年の御神木だ。文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は、関東管領上杉定正の命を受け、謀反を起こした家臣長尾景春に味方する石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願した。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として保護されている。
 交差点「荻窪警察署前」で激しく車両の行き交う青梅街道に入る。街道を西へ200~300m 進むと街道北側に日産プリンス東京荻窪店がある。以前はその左隅の一角の27-6.jpg27-7.jpg植え込みの中に「旧中島飛行機発祥之地」碑があり、またその裏手には「ロケット発祥の地」碑あり、糸川英世博士が開発したペンシルロケットが埋め込まれていた。戦後間もない昭和28年、旧中島飛行機から社名を変えた富士精密工業は東大生産技術研究所の指導を受け、ロケット開発に着手。2年後の昭和30年にペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。爾来、約半世紀、富士精密工業は、プリンス自動車工業、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、ロケット技術は脈々と受け継がれ、現在の日本の主力ロケットを生み出す原動力となった。ロケット開発の拠点たる日産自動車荻窪事業所は平成10年5月に群馬県富岡市に移転した。(この項つづく)


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