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多摩のむかし道と伝説の旅 №114 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

摩のっむかし道と伝説の旅(27話)
-太田道灌の石神井城城攻めの道を行く-  3

          原田環爾

29-1.jpg 石神井城跡から三宝寺池の畔に降りるとそこに水神の小祠がある。そこから池畔を時計まわりに巡ることにする。ほどなく厳島神社の前にくる。赤い建屋が池畔の風景によく映える。更に池畔を大きく回り込み厳島神社の対岸に来ると。丘へ上がる細い小道がある。小道に入って丘の上に上がると、公園の外縁部に道灌に攻め滅ぼされた石神井城主豊島泰経の悲話を伝える2つの塚がある。塚は殿塚と姫塚と言い、殿塚は豊島29-2.jpg29-3.jpg泰経を、また姫塚は泰経の二女照姫を供養した塔という。2つの塚は30mばかり離れてひ  っそりと立っている。
 29-4.jpg伝説によれば、文明9年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌との戦いに敗れて落城した折、城主豊島泰経は黄金の鞍をつけた白馬に跨り、三宝寺池に飛び込み水底に沈んだという。また泰経の二女照姫も父の後を追って三宝寺池に身を投げたという。天気のよい日には湖底にきらきら輝く光が見えるといわれ、泰経の黄金の鞍が光っているのであろうということになり、「三宝寺池の黄金の鞍伝説」が生まれた。またこれと同じような伝説として、豊島泰経の娘が石神井川に身を投げたともいい、入水した渕は後に姫ヶ淵と呼ばれるようになったという。
29-5.jpg 殿塚、姫塚を後にして再び三宝寺池の池畔に降りる。池畔に沿って進むと園内真中に石神井城主と同じ名前の豊島屋の看板を掲げた茶屋が見える。かつて筆者が訪ねた折は甘酒、しるこ、おでん、ラー メン、カレーなど色々なメニューで商いをしていた。小雪が舞う寒い日にここで12種類の具沢山の豚汁を注文して舌鼓をうったことを記憶している。人参、大根、ゴボウ、ネギ、蒟蒻、揚げ、小芋、椎茸、エノキ、肉・・・・。随分色々入っていた。何より身体が温まってほっこりしたことを思い出す。三宝寺池から井草通りを隔てた隣の石神井池の池畔に移る。石神井池は三宝寺池と打って変わってボートが浮かぶモダンな池だ。池畔には目を見張る豪邸が立ち並ぶ。池畔を辿ってゆくと程なくボート乗り場に至る。石神井池の終端だ。同時に石神井公園もここで終わる。これより帰路をとり、石神井駅へ向かう。かつては細い道路をうねうねと行ったものだが、今は駅前は新たな都市計画が進行中で大改造されつつある。数年後にはすっかり変わった姿をみること になるであろう。

[後編]中野の江古田・沼袋古戦場を巡る道
 文明9年(1477)太田道灌は豊島泰経の石神井城を攻略するため江戸城を発進した。この時、道灌軍は江古田・沼袋で石神井城や平塚城から進軍してきた豊島軍と遭遇し激戦となった。これに勝利した道灌軍は更に西進し、練馬の石神井城を攻撃してこれを落城させた。今回は石神井城城攻めの最初のターニングポイントとなった江古田・沼袋の古戦場界隈の旧跡を辿ることにする。西武新宿線沼袋駅を出発し、沼袋氷川神社を皮切りに旧跡を巡りながら江古田・沼袋古戦場に至る。その後は妙正寺川の畔に出て、水辺に沿って哲学堂公園に立ち寄り、帰路は大江戸線落合南長崎駅に至るものとする。
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29-7.jpg 西武新宿線沼袋駅を出て線路沿いに東へ200mも進むと太田道灌ゆかりの沼袋氷川神社の前に来る。鳥居をくぐり参道の石段を上れば正面に拝殿があり、左手に神楽殿がある。境内の一角にご神木であった道灌杉の遺構が保存されている。遺構といっても柵の中に枯れた杉の根株のかけらがあるだけだ。傍らにかつての杉の古写真が添えられており往時の威容をしのぶことができる。沼袋氷川神社は今から約600年前の後村上天皇の正平年間(1346~1370)、大宮氷川神社の分霊を沼袋の鎮29-8.jpg守として奉祀したことに始まる。祭神は須佐之男命。文明9年(1477)4月太田道灌と豊島氏が江古田が原・沼袋の地で合戦したのは、当社から新青梅街道にかけての辺りと推定され、当社一帯の高丘は道灌の本陣となり、社頭に杉一株を献植し戦勝祈願した。それが後年道灌杉と称される高さ約30mの天を圧する老杉となったが昭和19年頃枯死した。
 境内西にある鳥居をくぐって氷川神社を後にする。複雑に入り組んだ狭い街路をうねうねと進むと集落の中に埋もれるように、真言宗豊山派の禅定院、日蓮宗の久成寺、真言宗東寺派の百観音明治寺が所狭しと林立して29-9.jpgいる。百観音明治寺はその名のごとく境内に青天井で無数の観音様をお祀りした百観音霊場があり一見に値する。由緒書には次のように記されている。「西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、あわせて百の観音札所を巡礼して旅をすることは、江戸時代以前から今に至るまで盛んに行なわれて来ました。この百観音霊場に、明治天皇が崩御された時に、その遺徳をしのぶため、草野栄照尼によって最初の観音像が建立されたことから始まりました。以後、多大な信望を受けて、続々と百観音霊場の御本尊の姿が刻まれ、現在は番外も増えて合計百七十四体になっています。この石像を一体づつ拝むことで日本中の観音霊場の御縁をいただくことができ観音慈悲の恵みを受けることができます」と。
29-10.jpg 明治寺から更に集落の中をじぐざぐと進み、コンビニのある南北に走る車道に出る。車道を北に採るとすぐ沿道右にこじんまりした丸山塚公園が現れる。公園の片隅に身の丈1~2mばかりの小さな石の祠がある。傍らには「豊玉二百柱社」と刻まれ標柱石と由来を記した昭和49年造立の石盤碑が立っている。江古田・沼袋合戦の戦死者を供養したものだ。由来書には次のように刻まれている。「文明9年4月13日、江戸城主太田道灌は平塚城の豊島泰明を攻めたが頑強な抵抗にあい帰城した処、石神井・練馬両城より兄泰経が江戸城を目指し進発したことを知り急遽出撃した。両軍は江古田が原・沼袋で遭遇し激烈な戦闘を展開した。興亡をかけて戦った豊島氏は敗れて泰明以下百五十余名がこの地で戦死し、在地の領主として栄えた豊島氏は致命的打撃を受けた。江戸道沿いに点在の古墳は豊島塚といわれた。このたび地元有志の者が供養のため古来の祠を再建て戦没者の霊を祀る」と。なお中野区内の豊島塚は7カ所ほど知られていたが、ほとんど調査されることなく失われてしまったという。(この項つづく)


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