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夕焼け小焼け №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

三民主義 

         鈴木茂夫

昭和20年(1945年) 9月10日月曜日。
 会社は社員の安全のため、新北投に大きな家屋を借り上げていた。数家族が疎開している。幸町のわが家は爆撃で半壊、住めなくなったので、母もその一室にいる。
 私もここで休養した。
 ラジオを聞いていると、日本語の放送のあとに、
  XUPA  XUPA  台北広播電台
  とアナウンスが入った。台北放送局の呼出符号はJFAKだ。中華民国の放送局に入れ替わったのだ。
久しぶりに学校へ行くことにした。
 街には「三民主義」「光復」「還我河山」の飾りが見える。
 学校の校門には、雷神第13863部隊の標識はなくなっている。それに替わり中華民国台湾省立仁愛高級中学の標識がある。台北四中は消えたのだ。級友が台北一中は建国中学、台北二中は成功中学、台北三中は和平中学と替わったのだと教えてくれた。
 朝礼には見たことのない教員が並んでいる。中華民国の国歌の斉唱だ。君が代とは違った。

 三民主義、吾党所宗 以建民国、以進大同 咨爾多士、為民前鋒 夙夜匪懈、主義是従
 矢勤矢勇、必信必忠 一心一徳、貫徹始終。

 三民主義は   わが党の指針  これをもって 民国を建設し これをもって大同に進む
 ああ多くの人々よ   民の模範となって 朝夜怠けることなく 三民主義に従おう
                                                           (日本語訳詞)

 教室に庄司先生が現れ、各自に50円を支給した。兵隊であったときの俸給だという。
   庄司先生はそれが終わると、そそくさと教室を出た。
 国史を担当すると,中国人の青年が教室に入ってきた。
 「君たちの祖国・中華民国は三民主義を基本としている。三民主義は国の父・孫中山が唱えた。民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ。国の大系としては立法,司法,行政,考試,監察。これに中国古来の考試(官吏採用権),監察(弾劾権)を加えた5権が分立する」
 その青年はこれに続いて、中国革命の歩みを詳しく述べた。私は東洋史の近代はまだ習っていないから、はじめて聞くことだった。
   学校からの帰り道、お金を持っているからと西門町の屋台店で、焼きそばを食べた。美味しかった。代金は7円といわれた。高い。私は1円ぐらいと思っていたのだが。物の値段は上がっているのだ。

10月10日水曜日
 街のあちこちに、爆撃で破壊された家屋もそのままだ。しかし、目抜き通りの家々は、青天白日旗や祝賀の春聨を掲げている。華やかに飾り立てた型の山車の上では、芝居の決まり役に扮した俳優たちが所作を披露し、何台も連なってゆっくりと曳かれて行く。それを取り囲むように、獅子舞、龍舞、太刀隊、それに太鼓、チャルメラ、銅鑼を打ち鳴らし、中国北部、南部の民族音楽を賑やかに奏でる。爆竹の弾ける音がこれに混じって、町中が沸き立っていた。

 台湾新報
祝えや祝えわれらの国慶日 光復の歓声は爆発 慶祝の色山野に満つ
光復台湾が初めて迎える双十節、今日10月10日はわが中国のめでたい国慶日である。思えば宣統三年(1911年)の10月10日、中国国民党の同志が国父の名によって武漢に革命ののろしを上げ、清朝討伐の軍を興すや風を臨んで各省の国民党もまた相呼応してわずかに2ヶ月足らずで10余省の独立を見るに至ったのだ。
まさにこの月、この日こそは、わが民主主義の大国家中華民国が雄々し発足したこよなくも意義深い日と言うべきであり、ことに台湾にとっては、51年ぶりにわが中国の領土に復帰し、光復の夢ここに実現されて六百余万の同胞が、ひとしく光復の悦びに沸き返っているまっただ中に迎えた最初の国慶記念日だけに、感激もひとしお深いものがある。
この日は、全島各戸いっせいに青天白日満地紅の旗を掲げ、各官衙・学校・会社では、休業するなど、島民の赤誠を最高度に盛り上げた多彩活発な祝賀行事が展開される。
真心込めて祝おう、われらの国慶日、今日ぞ全島の山野は慶祝一色に逞しく塗りつぶされ、光復の歓声を天地にとどろき、津々浦々に爆発させるのだ。

 台湾新報は諸手をあげて、双十節を歌い上げている。台湾人は日本国民ではなく、中国国民だと主張しているのだ。
10月18日木曜日。
  午前11時45分、汽笛が2度3度と長く尾を引いて響いた。基隆からの特別列車が台北駅に着いた。駅頭がどよめき、潮騒のような歓声が起こる。軍長・陳孔達中将の率いる中華民国第70軍の第一陣だ。
 私は林志楊君と駅前に並んでいた。
 4列縦隊で行進しはじめた。先頭にゆっくりと進むジープに乗っているのが隊長だろう。兵士たちのとは違うスマートな緑色の軍服だ。その隣の席に、裾の両脇が深く切れ上がった中国服を着た女がいた。人目もはばからず、隊長に寄りかかって周囲を眺め回している。将校の妻が、軍と行動を共にすることはない。だとすれば、この女は…。
 その後ろに従って歩いているのは、名状しがたい集団だ。青天白日の徽章のついた軍帽をかぶっているから兵士であることは確かだ。緑色の上着に長ズボンをはき、巻き脚絆を巻いている者、半ズボンの者とさまざまだ。大方はズックの運動靴に似たものを履いているが、日本陸軍の真新しい靴を履いている者もいる。小銃を肩にしている兵、手ぶらの兵、そのいずれもが背嚢を背負っている。
 兵士たちの背嚢には、唐傘、魔法瓶、大きな鉄の釜、薪、野菜、洗い桶などがくくりつけてある。天秤棒を担ぎ、両2つの籠に、背嚢と小銃、ゴザ、豚肉、生きた鶏などを載せ、裸足で歩いてくる40代の男もいた。
 「これが兵隊か」
 私と林志楊君は思わず声をあげた。 

10月20日土曜日。
 学校整理のためにと、仁愛高級中学の各学年の1組、2組は建国高級中学へ、3組、4組は和平高級中学に配属されるいわれた。仁愛高級中学は消滅したのだ。
 3組,4組のわれわれは、そろって和平高級中学へ歩いた。都心から校外の六張犁まではかなりの距離だ。
 われわれは和平高級中学に迎えられ教室に入った。
  「学連が来たぞ。逃げるなら今のうちだ」
 切迫した叫び声が聞こえてきた。どやどやと靴音がして2.30人の若者が乱入してきた。 そのリーダーと思われる男が、
 「俺たちは三民主義学生連盟だ。日本時代の悪を追求する」
 中学生に混じって、老鰻もいる。老鰻は台湾の与太者というかヤクザの呼び名だ。
 座っているわれわれの顔を、丹念に睨みつけていく。
 級友だった林滄海が私を指さした。
 「お前立て」
 私は引きずり出された。私は林滄海を侮辱したことはない。ほかに数人が立たされ、職員室へ連行された。そこには10人ほどの日本人生徒がいた。職員が立って並んでいる。
  「お前たちは、台湾人生徒を馬鹿にしたり、差別したりしていた。その報復に制裁する」
  一人ずつ職員の輪の中に立たされ、老鰻が殴りつける。私の番が来た。
 老鰻がニヤッとして、
 「脚を開け。いくぞ」
 左の頬に打撃を受けた。痛くはない。意識を失いそうになった。そのまま後ろへ倒れる 。誰かが後頭部で受け止め、もとの位置に戻した。右の頬もやられた。左右の口の中は切れている。
 老鰻が顎をふって終わりを指示した。これが敗戦の現実だった。
 私はもう二度と和平高級中学行かなかった。


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