続・対話随想 №23 [核無き世界をめざして]
エッセイスト 関千枝子
昨日からブログが21、私の文章に変わりました。カラ梅雨を嘆いています。そして今…。関東では八月一日から二週間以上雨が降り続き日照不足で野菜の生育が遅れ,価格暴騰、プールも海岸も上がったりで嘆いています。本当に妙な天候。困ったことです。
さて、この夏の報告ですが、まずうれしいこと、私の「広島第二県女二年西組」文庫版、九刷りまで行っているのですが、私はもうこれでおしまいかと思っていましたら一〇刷りが決まったと筑摩書房から連絡が来ました。本当!と言ってしまいました。「原爆物」は売れないのだそうです。私の本などが、文庫版で10刷り、ハードカバーから数えて32年も生き続けていること、ありがたいことだと思います。
あまり長くなりました。この辺で終わらせます。まだ書きたいことがありますが、次回に持ち越します。
続・対話随想 №22 [核無き世界をめざして]
この手紙が届いたのは七月二五日でした。
奇しくもそれから以後、私たちが「ヒロシマ往復書簡」で語った人たちのことが新聞やテレビで報道されたのでした。
七月二七日の朝日新聞では、俳優・渡辺美佐子さんらの広島。長崎で被爆した人の体験記を読む朗読劇「夏の雲は忘れない」が、福岡県宗像市の大島で公演された記事が出ていました。この公演は三十年以上にわたって続けられ、来月には千回を迎えるそうです。九州では、八月五日に福岡県八女市、六日に大分県日田市で公演。八月八日に広島県廿日市市、二十九、三十日に広島市で貸し切り公演があるそうです。
以前、私たちの「往復書簡」について書評を寄せてくださった都留文科大学の非常勤講師・丸浜江里子さんが紹介されていました話が、このたびの新聞でも伝えられていました。十二歳で終戦を迎え、その後。俳優となった渡辺さんは、八〇年にテレビの対面企画で初恋の人との再会を望んだのでした。ところが現れたのは、男の子の両親でした。渡辺さんは小学生時代に親しくしていた友人が広島に転校し、被爆して亡くなったことを初めて知り、そして、その遺骨も見つからなかったことを教えられたのでした。両親は「本当に死んだのかわからなくて、お墓が造れない」と話されたそうです。
「普通の人が殺されていく理不尽さを感じた」
と渡辺さんは語っています。
「その子がおしりをたたいてくれて、今日まで朗読をやらせていただいています」
そして、戦後七二年を迎えて、
「どんどん遠くなるのは仕方がないけど、絶対忘れてはいけないことがある」
とも語っていました。
私は、これまで「往復書簡」のなかで、このたび亡くなられた元聖路加国際病院理事長・日野原重明さんの朝日新聞に連載されていました「あるがまま行く」というエッセーの中から、何度か引用させていただきました。日野原さんは七月一八日に一〇五歳で亡くなられましたが、その直後の七月二九日の新聞に「読者の皆様に最後のごあいさつ」の見出しで(五月下旬に口述筆記)とされた文章が載っていました。
<私のエッセーは、私の全力疾走の様子を読者の皆様に報告する形で、今日まで続いてきました。こんなにも長く連載できたのは、私と一緒に走ってくださった読者の方々の応援があってのことです。ここに感謝とともに皆様に最後のお別れをしたいと思います。今まで本当にありがとうございました>。
<この人生で国内外を飛び回ってきた私ですが、心の故郷はやはり聖路加病院です>。
<(前略)スタッフの方たち、そして私の意志を受け継いで聖路加を率いて下さっている福井院長。最後までありがとうございました>。
<自宅の庭には、妻の遺骨がほんの少しばかりまかれています。亡き妻はここに静かに眠っていると思います。私の名をつけた真紅の薔薇「スカーレットヒノハラ」と、妻の名を付けた「スマイルシズコ」も、今頃、長野県中野市の一本松公園で花を咲かせていることでしょう>。
<これからの季節は、紫陽花が美しく咲くと思います。紫陽花は丸く、ボールのような形なので、私はボールフラワーとニックネームを付けました。まだ緑色のつぼみが日に日に膨らんでいくのを眺め、ボールのような花がきれいに色づくのを楽しみにしています。これで、私からのメッセージを終わりにしたいと思います>。
そして、八月一日のNHK総合テレビの「クローズアップ現代+」で、<日野原重明さんの遺言”死”をどう生きたか≫を観たのでした。
その中で、日野原さんは、
<一九七〇年、よど号ハイジャック事件から生還した時、私はタラップを降りて靴底が大地を踏みしめた瞬間、その感触に、「これからは、生かされたこの感謝の思いを他の人々に返していくのだ」という使命感を覚えました。「この命を、未来へと続く若い人たちのため生きていきたい」>。
と語っていました。
一九九五年三月二〇日の地下鉄サリン事件では、当時、日野原さんが院長を務めていた聖路加病院では、当日は、午前中に六四〇人もの患者を受けいれ、その治療に当たったが、その決断にスタッフ全員が覚悟を決めて取り組んだことも、紹介されていました。
番組のなかでは触れられていませんでしたが、私たちの『ヒロシマ往復書簡』Ⅲ集「再び「生」と「死」を考える」の章で、一九九四年、疎開学童七八〇人を含む一四八五人の命を奪った「対馬丸」の沈没事件についての日野原さんの言葉について触れています。
<今を生きる子どもたちに、歴史的事実を伝えること、戦時下の子どもたちの「魂」に触れてもらうこのテーマでした>
<太平洋戦争で、どれだけ罪のない大人が、子どもが尊い命を失ったことでしょう。対馬丸撃沈の悲劇は、戦争の悲惨さを物語る出来事の一つとして、決して忘れてはいけないものです>。
と、「対馬丸からのメッセージ<命>」と題した音楽劇が上演された時の言葉でした。
そして、小さな虫の死について触れ、次のような言葉を残していました。
<どんな小さな昆虫でも生きたいと思って努力しているというのに、私は今、ぼうっとした意識でつい、指先でこの昆虫を壁に押し付け、殺してしまったのだ。私は強い後悔の念を抱きました>。
<思えば私自身、この虫のように、自分の力が及ばない理由でいつ死んでしまうか分からないのです。事実、私は一九七〇年によど号ハイジャック事件の人質になりました。奇跡的に解放され、改めて眺めた空や海は、以前とは違う輝きを放っていました。これからの生涯をかけて、命の尊さを訴え続ける、その決意はあの時、芽生えたのでした。
<こんなことを考えながら、晴れた晩秋の日曜、私は軒先にパンジーの花が色とりどりに咲いているのをただ眺めていたのでした>。
日野原さん一〇三歳の時の「私の証 あるがまま」の言葉でしたが、口述筆記による「読者の皆様に最後のごあいさつ」の結びに、<色づきはじめた紫陽花を眺めながら、私からのメッセージを終わりにしたいと思います>と、語りかけられた時の情景と重なるのを覚えました。
「生」と「死」、私たちの『ヒロシマ往復書簡』のテーマでもあります。
丸木美術館から見える風景 №50 [核無き世界をめざして]
東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣
仕事柄、8月は休みが少ないので、夏の展覧会は見逃すことが多いのだが、先日、駆け足で「ヨコハマトリエンナーレ2017―島と星座とガラパゴス」を見た。
友人の小森はるかさんとの二人展や、鞆の津ミュージアム「原子の現場」展など、最近、彼女の作品を観る機会が多くなっている。
もちろん、1950年代と2010年代では時代背景も大きく違うので、表現手法は異なる。
しかし、絵と(詩のような)言葉で、互いの特性を補完しあいながら、観る側の想像力を刺激する、という点は似ている。
今回、瀬尾さんの作品は、横浜美術館と横浜赤レンガ倉庫1号館の2会場にあった。
1946
1955
語られた記憶のかたわらには、常に語られなかった記憶が存在する。
夕方には、浅草橋のギャラリーで、瀬尾さんの話を聞く機会があった。
現在の風景の時間軸をずらすことで、過去の記憶を宿す。
【連続講座のお知らせ】
続・対話随想 №21 [核無き世界をめざして]
政治はもうめちゃくちゃな感じですが、この間いいこともありました。
七日、私が世話人を務める、女性「9条の会」で私が強硬に主張して七月七日「戦争の始まり」を考える会を開きました。戦前の体験者が戦争の酷い体験はしっかり語るのに、戦争の始まりのことを聞かれると、さあ、むにゃむにゃ。私の同級生なども、昭和一六年一二月八日までは日本は平和でいい国だったなど平気で言うのに驚いてしまいます。つまり中国との戦争のことをすっかり忘れている、日本の加害の歴史が忘れられている!(若い人は本当に知らない)のは困ると、七月七日と九月一八日に集会を開くことを提案しました。重慶爆撃のDVDを映写、その後、私が教育勅語のことを語ったのですが、はじめ七月七日など言っても、皆様まったくわけわからず、人が集まらないというので、私、自分のブログでも宣伝して、四〇人も集まり、熱心に聞いていただけました。大学生も来てくれてうれしかったです。
この七日、(奇しくも七日)、国連で「核兵器禁止条約」が採択されました。内容も実に立派で、一二二か国もの賛成で成立、予想以上の国が賛同しました。カナダ在住のヒバクシャ、サーロー節子さんが「この日を七〇年待った」と言っておられたという報道に、私も胸が熱くなりました。被爆以来のいろいろな思いが胸にぐっときて「ヒバクシャ」が持ち上げられすぎているような気がしましたが(被爆者でない人たちの反核のさまざまな運動もある)、ヒバクシャというと、政治的に中立、どこの政党にも属さないということで、ヒバクシャが核廃絶をいうと、超保守的な人びとも反対できない、ということもあります。
とにかく核兵器を、非人道的な兵器で違法と断じ、核抑止力だけではだめと、核による威嚇まで禁止したのですから、完璧です。非現実的と反対した日本(唯一の被爆国と言っているくせに)、本当に恥ずかしい。岸田外相の「ヒロシマナガサキに来てください」の弁がいかにいい加減なものであったかわかるというものです。これから核を持つ国々、その核の壁に依存し、遠慮している国々をいかに説得していくか、まだまだ大変ですが、とにかく歴史的第一歩にちがいありません。
七月一四日、朝日新聞「社説余滴」アメリカ総局長(元国際社説担当)沢村亙さんが、「憲法に胸を躍らせた時代」というタイトルで書かれたコラム、お読みになりましたか?沢村さのお母様は、この一月に亡くなっていますが、広島での被爆体験を三万三千字も書いておられるのですが、それと別に『戦後』の手記があるそうで、当時祇園高女の四年生だったお母様は一九四六年三月、「憲法改正草案要綱」が発表された時、クラスで新聞を持ち寄り、授業をしたと書いてあるのです。「戦争放棄」の言葉に驚きと喜びが交錯。権利という言葉に驚き…・教室がざわめき歓喜と興奮、「新時代の到来に胸が高まる」様子が書かれています。
沢村さんは、広島中の女学校で「憲法教育があったのか」と疑問を持ち、私に聞かれたのです。私は、「それはないと思う、広島市内の学校は、あの当時まだ借り校舎だったり、分散授業をしていたり、まだ大変だった。私の第二県女も校舎が倒壊してしまい、広島女専に仮住まい、先生も、たりないところは女専の先生が時々授業をしてくださっていた。そんな社会科の授業で女専の後藤陽一先生が、憲法草案のことを言われたので、私は、先生が「戦争放棄」「象徴天皇」と黒板に書かれたことが印象的なのですが、たまたま後藤先生が若手の熱心な社会学の先生だったからでしょう。祇園高女は当時は廣島市外、建物疎開作業には動員されていませんし、上級生が勤労動員先で被爆し、亡くなった方がおられますが、市内の学校よりは被害は少ない。もちろん校舎は焼けていない。だから 勉強もかなり充実していたのではないか。それにしても「憲法改正草案要綱」の掲載された新聞を生徒が持ち寄ったというのには驚きました。生徒自身で、こんな知恵が出たとは思えませんし「優れた教師がいたのではないか」、といいました。私は、当時まだ女学校の二年生、新しい憲法の先進性、臣民から国民、主権者になったことなど、その時はさっぱりわからなかったのですが、沢村さんのお母様は、私より二年上らしく、かなり「新時代の到来」が分かっていたようです。沢村さんは、「アメリカ総局長になることは決定しているが、行く前にこれをコラムにしたい」と言っておられました。沢村さんは七月初めに赴任されたようですので、コラム掲載は赴任後になったのですが、約束はきっちり守ってくださいました。それにしても、「憲法に胸を躍らせた時代」という見出しも素敵ですね。
続・対話随想 №20 [核無き世界をめざして]
作家 中山士朗
関さんのお手紙によって岡田禎次さんの訃報に接したとき、二〇一四年に今田耕二さん、二〇一五年に栄久庵憲司さんが亡くなられたことを思い出しました。
丸木美術館から見える風景 №49 [核無き世界をめざして]
東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣
1967年5月、原爆の図丸木美術館は開館した。今年は開館から50周年という節目の年に当たる。
写真家の本橋成一さんから、丸木夫妻の写真集『ふたりの画家』を、新たに編みなおして、質の高い写真集にしたいという提案を受けたのは、2年ほど前のことだった。それなら、50周年にあわせて写真展を開催しましょう、と逆に提案して、展覧会が実現することになった。本橋さんの写真を丸木美術館で展示するのは、2012年の『屠場』以来、5年ぶりだ。
本橋さんは、1984年にスライド作品『ひろしまを見た人』の撮影で、初めて丸木夫妻に出会った。監督はドキュメンタリ映画の巨匠・土本典昭さん。土本さんの指示の通りに《原爆の図》を撮影しつつ、「自分ならこう撮る、とこっそり指示を離れては、土本さんに見つかって怒られていた」という。
そのとき本橋さんは、丸木夫妻の暮らしに惹かれ、「どんな所でどんなものを食べ、どんな話をしているのか。そして、どのように絵を描いているのか。「反戦画家」として知られている丸木位里・丸木俊ではなく、さらにその奥に広がる位里さん、俊さんの世界を知りたかった」と、スライドの仕事が終わってからも、東松山に通って写真を撮り続けた。
この時期、丸木夫妻の仕事は映画やテレビ番組などで何度も映像化されているが、本橋さんほど多くの写真で2人の画家の日常を記録した人は他にいない。
5月5日の開館記念日には、歌手の小室等さんも来館され、本橋さんと対談をして下さった。2人とも、生前の丸木夫妻と親交があったから、50周年にふさわしい、とても楽しいトークになった。
5月20日には、原爆文学研究会との共催で、本橋成一さん監督の映画『ナージャの村』の上映会を行った。チェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシの小村ドゥジチに暮らす人びとの慎ましい生活を、四季折々の美しい映像とともに淡々と記録した作品。
本橋さんは今春に、ベラルーシを再訪していて、上映後には映像とトークでその報告もして下さった。人の手を丹念にかける暮らしを営んでいた村が、人影も見えず、荒れ果てて廃村寸前であるという現実に、「復興」の困難さを思い知る。トークの聞き手は、原爆文学研究会会員で、哲学を専門とされる柿木伸之さんが務めて下さり、歴史の記録には残らない人間関係の中から聞こえる声にいかに共感できるかと、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの記録文学『チェルノブイリの祈り』を参照しながら、本橋さんの思いを引き出して下さった。
東松山駅近くの焼きとり店に場所を移した懇親会の席では、九州・島原の山間部出身の若い研究者が、「映画は批判的に見なくてはいけないと思いつつ、登場する村の老婆の姿が自分の故郷の祖母にそっくりで、恥ずかしながら心を動かされた」とそっと打ち明けてくれた。
当初は原発事故の実態を撮るためにベラルーシを訪れたという本橋さんだったが、そこに見出したのは、炭鉱や魚河岸、屠場、旅芸人の一座など、本橋さんが一貫して関心を寄せ続けている、(消えゆくかもしれない)ささやかな「共同体」――人びとが支え合って生きる姿だったのかもしれない。その問題意識には、自由学園や共働学舎、あるいは上野英信の筑豊文庫の影響を受けてきた本橋さん自身の人生が反映されているようにも思う。
本当のことを言うと、本橋さんがなぜ丸木夫妻の写真を撮り続けていたのか、ずっと不思議に思っていた。無名の人たちを撮り続けていた写真家が、すでに国際的にも評価されている芸術家の写真を撮ろうと思ったのは、どうしてなのか。
今回の展覧会の準備のため、本橋さんの写真に目を通しているうち、その理由が少しだけわかったような気がした。写真には、丸木夫妻だけでなく、2人をとりまく大勢の人の姿が映っていた。それぞれが支え合いながら、大地に根ざした暮らしを営み続ける小さな「在り処」。きっとそこに、本橋さんは惹かれたのではないか。《原爆の図》の画家というだけでなく、その「在り処」を作りだした芸術家を撮りたかったのではないか。
本橋さんの写真や映像は、センチメンタルなノスタルジーと紙一重かもしれない。けれども、社会から忘れられそうになりながら肩を寄せ合って生きる人たちにも「豊かな物語」があるのだと記録することには、重要な意味があるだろう。
沖縄から来た文学研究者のMさんが、「ベラルーシ再訪映像に、『あなたの送ってくれた写真集を何度も見ている』とナージャのお母さんが語る場面があった。村が失われていく中で、本橋さんの仕事は、現地の人たちの心の支えになっていたのではないか」と、最後に感想を聞かせてくれたことが、心に残った。
【丸木美術館からのお知らせ】
8月2日(水) 立川市柴崎学習館 平和人権講座「ヒロシマ・ナガサキを考えよう」
8月6日(日) 丸木美術館ひろしま忌
12:00~ 丸木美術館クラブ・工作教室 案内人:万年山えつ子(画家)&石塚悦子(画家)
13:00~13:50 ★神田甲陽講談「ヒロシマ・ナガサキ・アンド・ピース」
14:00~14:20 ★北久保まりこ短歌朗読「平和を求める祈り」
15:00~15:30 城西川越中学・高校 和太鼓「欅」演奏
16:00~16:40 ★堀場清子さん講演「私の原爆体験&《原爆の図》とのつながり」
17:00~18:00 ★白崎映美&東北6県ろ~るショー!!(小)
18:15~18:30 ひろしま忌の集い
18:30~ とうろう流し
続・対話随想 №19 [核無き世界をめざして]
エッセイスト 関 千枝子
遅くなってしまいましたが、三月末から四月初めまで、パリに住む松島和子さんの原爆ドキュメンタリー取材撮影に付き合ったことを報告するはずでしたが、その前に書くことがたくさんできてしまいました。
続・対話随想 №18 [核無き世界をめざして]
作家 中山士朗
このたびの関さんおお手紙を拝見しながら、私自身が日ごろ感じていることの鬱憤が一挙に吹き上がってくるのを覚えました。
丸木美術館から見える風景 №48 [核無き世界をめざして]
東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣
3月はじめに、一宮市三岸節子記念美術館の杉山章子学芸員(当時)、奥田元宋・小由女美術館の永井明生学芸員とともに、広島市内三滝町の丸木スマの遺族宅で、作品調査を行った。
「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」
続・対話随想 №17 [核無き世界をめざして]
松島さんたちが日本に来る直前の三月二七日、国連で核兵器廃絶条約(協定)を結ぶための会議が開かれたのですが、日本はアメリカの核の傘で護られている国として、このような条約はかえって逆効果と席を立ってしまいました。日本の席に「あなたにここにいてほしかった」折り鶴が置かれました。本当に恥ずかしかった。「ヒロシマナガサキに来てください」とオバマ前大統領を広島に呼んだあの大騒動、何だったのでしょうね。
松島さんたちの取材を無事終えたのち、四月二二日、二三日、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館のツアーに参加しました。これは例の竹内良男先生のツアーなのですが、昨年成功せず、私、友と二人で個人的に行ったのですが、この記念館にはぜひ、多くの人に行ってもらいたいと思い、再度挑戦のこのツアーにもう一度行くことにしたのです。今回は32人の大ツアー成功、竹内さんの関係で広島からも平和記念館のボランティアの方など多くの方が参加、大成功でした。
長年、この問題を取材調査してきた齋藤俊江さんという方がおられるのですが( 私、前にもこの方の話を伺ったことがあります)、満蒙開拓に長野県から大ぜいの人が行った話は有名ですが、長野県の中でもこの飯田伊那地域が群を抜いて多いのはなぜか、「国策」に惑わされ、あるいは仕方なくいった民の悲劇。「国策」は「お国のため」であっても「民」のためでは全くなかった、その怖さを言っておられたのが印象的でした。
さて、このツアーで昨年秋と大変わりしたことは、入館者の数が多く、超満員だったことです。これは昨年秋、天皇、皇后の訪問があったためで、例の「戦争の傷痕」を訪ねる訪問の一つですが、それで入館者が一挙に増えたようです。私は天皇皇后の訪問、悪いこととは申しませんが、館に貼られた天皇来館の時の新聞を見て呆れてしまいました。
館の前に集まった大勢の人々がもつ横断幕に「奉祝 天皇、皇后陛下…」とあります。来館を喜ぶのはいいでしょう、しかし歓迎、でなく、「奉祝」とは何でしょう。そして人々は日の丸の小旗を打ち振っています。
こんな横断幕を集まった人々自身が用意するはずはありません。誰かが用意したのでしょう。しかし「奉祝」とは。戦後,天皇が「象徴」になったことをわかっているのでしょうか。そして、日の丸の小旗。神社庁が配ったものだと言います。戦中、満蒙開拓、村々からの入植も少年義勇軍も、そして「大陸の花嫁」も「日の丸」の旗の下に行われたのです。「王道楽土」を築くと教えられて。そして最後は惨憺たる悲劇となるのですが、この日、天皇、皇后の来館を「奉祝」して集まった人々は、日の丸に何の違和感も持たなかったのでしょうか。歴史をすぐ忘れてしまう日本人と、思わざるを得ません。
そうこうするうち四月二十八日、中山さんもご存知の私が原告の一人であります「安倍、靖国参拝違憲訴訟」の判決がありました。同趣旨の裁判が大阪で行われていて、こちらはすでに高裁判決まで進みひどい判決でした。ですから、東京地裁の判決を私はまったく期待していませんでしたが、この日の判決の酷さは、想定外の物でした。安倍首相の靖国参拝はどう見ても公式参拝で、憲法二十条違反だと思いますのに、直接国民の権利自由を保障するものではないと、訴えを却下。(却下はつまり、門前払いということだそうです。)、参拝差し止め、平和的生存権侵害(損害裁判)は棄却。要するに憲法判断は全くせず、多くの原稿の「損害」の訴えも簡単に退けてしまい、安倍首相の参拝後のインタビュー「英霊に哀悼の意を捧げ恒久平和、不戦を誓った」など安倍首相の言うことのみを長々と書いて、まさに安倍首相に寄り添った答弁でした。三権分立どころか、行政」べったり、「迎合」、恐ろしくなる判決でした。
そして、五月三日の憲法記念日、安倍首相は、はっきり期日目標まで出して改憲を言いました。彼は、自分の任期内に何としても祖父・岸以来の、憲法を変える念願を果たしたいのだと思います。
一方、岸田外相はNPTに出席しています、いろいろ「現実的」な核を減らす対策などを口にしているようですが、アメリカの核の傘の下にいながら、何を言おうと、世界は日本の態度にあきれ果てています。
岸田外相の動きも、北朝鮮の動きと無関係でないように読み取れます。北朝鮮のようなやり方、まったく困ったものですが、先日のミサイル騒ぎ。あれで、東京の地下鉄が一〇分ほど止まったのには驚きました。避難訓練などをしているところがあるとか、私はこれは行き過ぎと思いました。緊張が高まっているとき、何か別の仕掛けが働いて、戦闘が始まる、その恐ろしさ、体験した世代として、私は「力の平和」でない本当の「恒久平和」をもっと叫ばなくてはと思うのですが。
実は、靖国判決の前の日から、私はのどをやられて体調を崩しました。昨年の九月も風邪をひいたのがなかなか治らず困ったのですが。あれ以来です。なかなか治らないので薬が増えたのですが、のどが少し良くなったと思ったら食欲不振。これには困りました。ものが食べられない苦しさを味わいました。結局薬の副作用と気が付き、危ない薬をやめてしまい、ようやく食欲が少し戻ってきました。中山さんの心臓ペースメーカー入れ替え後の体調の悪さ偲びました。のどが痛くてものが食べられず、またかんきつ類など酸味のきつすぎるものも具合悪く、トマトで助かりました。被爆後、火傷で口の中まで焼いた人々が唯一食べられるものがトマトでした。トマトは「滲みない」で食べやすいのですね、そんなことを思いながらトマトを食べています。
続・対話随想 №16 [核無き世界をめざして]
戸田照枝さんいついては、以前、往復書簡の中で書いておられたので、記憶に残っていましたが、このたびその生涯について語られているのを知り、同じ被爆者として心にしみるものがありました。
関さんのお見舞いが機縁となって県病院の緩和ケア病棟でのNHKの出山さん、関さんの『ヒロシマの少年少女たち』を通じての映像取材で広島に訪問中のパリ在住の松島和子さんも加わった取材になったようですが、わけても、被爆して後の彼女の生きてきた時間を知るに及んで、心打たれました。そして、遺言とも思える「とにかく戦争だけはいけません。平和こそ大切」という言葉に被爆者の真実の叫びが伝わってくるのを覚えました。おそらく、その言葉を聞いた人の胸のうちに響いたと思います。
この話を聞いた時、私たち『ヒロシマ往復書簡』の第一集の終わりに関さんが、家の近所に住む、鶴見橋で被爆し、顔にケロイドの痕を残した女子商生徒の話を書いておられたことを思い出しました。それを読まれた中国新聞の西本雅実さんが「ヒロシマの少女たち」というシリーズで取材された記事を送ってくださいました。その中に和田さんの被爆後の生涯が描かれていました。和田さんは、原爆乙女として渡米し治療を受けて帰国しましたが、その後、アメリカで治療中の身元引受人となってくれた家庭からの支援を得て、大学で学び、資格を得て介護の仕事に携わる生涯が描かれていました。
彼女が最後に私たちに伝えたのは、
「戦争のなかの死は、死ではない。平和の中の死でありたい」
ということでした。
こうしたことから思われるのは、いつかも書きましたように、お二人に共通しているのは“一つところに精いっぱい咲いている”姿です。凛とした、一輪の花の姿です。
そして、関さんが東京に帰られてからの電話のやりとりの中で
「思いがけない大取材に、うちは上がってしもうて、もとらんことを言って…」
それに対して、関さんは、
「”もとらん“どころではない。すごくいいことを言ってくださってありがとう、もとる、もとる」
と、応じたのでした。
「もとらん」はへたくそ、不器用、要領が悪い場合を指して言う広島弁です。
「わしゃあ、何をしても、もとらんけえのう」
「お前は、本当にもとーらんのう」
「わしの手は、もとーらんでのう」
ですから、その意味を聞いて、NHKの出山さんが吹き出されたという話から、私が初めての本『死の影』を出したとき、阿川弘之さんから頂いた、序文の中の文章をふと思いださずにはいられませんでした。
<地味な作風の中に、かすかな苦いユーモアがある。原爆を描いてユーモアが生じるのは奇異なことのようだが、これは著者の静かなゆとりのある眼、なかなかの文学的資質を示すものであろう。「死の影」のなかの中学生と看護婦、中学生と母とのやりとり、広島の方言の会話にはあるおかしみのこもった涙を催さずにはいられない。広島人というものがよく書けている。扱っているのは異常の体験だが、中山さんの作品に出てくる人物はごくごく普通の広島の人たちで親しみがもてる>。
私の作品に関することを引き合いに出して恐縮ですが、恐らく戸田照枝さんの大取材もこうした内容で進んだのではないかと想像しております。
また、被爆当時、戸田さんは、第三国民学校の生徒とありましたが、戦後はじめて広島一中が借り校舎で授業を再開したのは、その第三国民学校の校舎でした。翌年、江波の旧陸軍病院跡の仮校舎に移るまでの短い期間でしたが、真冬の寒さの中を渡し船に乗って川を渡り、焼け跡のなかの道を歩いて通ったことがまだ昨日のことのように思い出されます。
その後の戸田さんのご容態は、如何かと案じております。
お手紙の終わりに、広島で朝日新聞の宮崎園子さんにお会いになられたことが書かれていたのには、驚きました。しかも、ご夫婦揃っての広島支社転勤とのこと。松島さんと関さんの出会い、私たちの『ヒロシマ往復書簡』を通じての宮崎さんとの出会い、このたびの戸田さんとの出会い、これまでの数々の出会いは、伏流水がまさに源流となって川の流れを形成し、次代の海に注がれて行く様を見る思いがします。
手紙に添えて、久しぶりに「核なき世界をめざして」のブログに掲載された岡村さんの『「原爆の図保存基金」へのご協力お願い』の文章がありましたが、これに関しては、この四月一六日の朝日新聞によって、「原爆の図」が虫食いで傷んでいる様子を知りました。そのため、同館は温度・湿度管理や防虫対策が出来る新館建設を決め、基金への寄付を呼びかけている。目標は五億円。問い合わせは同館とありました。
被害は、同館所有の一四部全部全てに広がっているということなので、何時かもう一組
の「原爆の図」の存在を知りましたが、そちらの方は無事で良かったと安堵しております。
後日、保存のための私のささやかな貧者の一燈を献じたいと思っています。
丸木美術館からみえる風景 №47 [核無き世界をめざして]
世の中には多くの博物館・美術館があって、国立だったり、県立だったり、区立や市立だったりする。企業が出資している私立の施設もある。丸木美術館も分類上は「私立」になるのだけど、ニュアンスは少し違う。
それに倣えば、「大衆が建たせた美術館」。50年代的な言葉で言えば「大衆」あるいは「民衆」。80年代的な言葉で言えば「市民」。つまり、たくさんの人びとの、幅広い支援によって受け継がれている美術館だ。
ひとりひとりの小さな支えが集まって、それが確かな力になるということ。文化とは、本来、こういうものなのではないかと、学芸員として17年、この美術館で働きながら、感じている。
であれば、丸木美術館は「民立」美術館だろうか。
実際、企業系の美術館の活動は華々しかった。それからほどなく、先の見えない不況に突入して、企業はもちろん、行政の文化財政まで大幅に縮小されていった。閉鎖された企業系美術館も少なくない。
その頃は、まさか丸木美術館の方が生き残るとは、想像もしていなかった。決して潤沢とは言えないが、小さな幅広い支援体制は、不況のリスクに強かった。日常の活動も、ボランティアの支えが不可欠で、支援されているのは決して資金面だけの話ではない。
とりわけ「3.11」後、日本全体が萎縮や自主規制の空気が強まってから、その重要性を感じるようになった。近年、若者を中心にした表現者が、「丸木美術館で展示をしたい」と言ってくれるのは、公的な展示施設での自由の幅が狭まっていることの証でもある。
丸木夫妻が、みずからの芸術活動のために作った「場」は、時代を超えて、新しい世代が、社会と芸術を切り結ぶ表現の「場」になっている。観客も、そうした表現に関心を寄せ、丸木美術館の展示が終わった後も、彼らの活動を追い続けているという話も聞く。
丸木美術館に哲学があるとすれば、それは《原爆の図》という作品そのものだ。画家の名前がついた美術館はあっても、作品名を冠する美術館は、世界的に見てもほとんど例がない。この美術館に来る人は、《原爆の図》と出会い、そこから、それぞれの新しい世界を拓いていく。
そんな丸木夫妻の理念の大切さを痛感してはいるものの、絵を100年後、200年後の人たちにも残すために、50周年を機に、新しいチャレンジをすることになった。「原爆の図保存基金」だ。
それでも、「民立」美術館の歴史を継承して、次の世代に、この稀有な絵画と「場」を手渡したい。
長く厳しいチャレンジになるかもしれないが、みんなといっしょに、かならず乗り越えていきたい。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/donation.html
岩波ブックレットNo.964
『《原爆の図》のある美術館 丸木位里、丸木俊の世界を伝える』
岡村幸宣著 定価(660円+税)
原発と原爆を一体のものとして批判していた丸木位里・丸木俊夫妻の先見性が、3.11後、改めて注目されている。二人の共同制作《原爆の図》はいかに描かれ、それがもたらした衝撃とはどのようなものだったか。二人の生い立ちと遍歴、そして美術史的にも再評価が進む《原爆の図》について、丸木美術館の学芸員が語る。
https://www.iwanami.co.jp/book/?book_no=285374
岡村 幸宣(おかむら・ゆきのり)
原爆の図丸木美術館 学芸員・専務理事
埼玉県東松山市下唐子1401
電話0493-22-3266 FAX 0493-24-8371
携帯電話090-8109-5059
Curator, Managing Director
Maruki Gallery for the Hiroshima Panels
1401 Shimogarako, Higashi-matsuyama City, Saitama
JAPAN 355-0076
TEL +81-493-22-3266
FAX +81-493-24-8371
続・対話随想 №15 [核無き世界をめざして]
三月末から四月初めまで、パリ在住の松島和子さんの映像取材で広島など約一週間付き合いました。大変充実したいい旅だったのですが、それはまた次に書くとして、戸田照枝さんのお見舞いに行った話を書きます。これは、中山さんのお手紙の「命」「健康」に関して、どうしても書いておきたいからです。
前の通信で書きました通り、戸田さんは国泰寺高校時代からの友です。彼女とは高校卒業後も仲の良い「遊び仲間」だったのですが、その後しばらく無沙汰が続いたのち、久しぶりにあった時、彼女はクリスチャンで、YWCAで「朗読の会」の中心メンバーで大活躍でした。原爆の詩や手記を朗読する活動です。小さなグループですが、被爆者としてこれだけはという彼女の思いが分かりました。
私のフィールドワークにも毎回協力してくださり、私の本や、この往復書簡も何冊も買っていただき、友人たちに贈ってくださいました。ここ数年、お元気だった彼女が、昨年病気に倒れました。それがすい臓がんで大手術。退院したばかりのところにお連れ合いの死(肺気腫で長年療養中だったのですが)、いろいろ大変だったのです。しかし、手術は成功したということで、昨夏広島に行った時、私は彼女のところにお見舞いに行かなかったのです。もちろん彼女はフィールドワークに参加できなかったのですが、大手術の後だし、しばらく休養が必要だから、くらいに軽く考えて、私は時間の余裕がなかったこともあり、お見舞いに行かなかったのです。昨年夏のヒロシマ、私はやるべきことはすべてやったと書きましたが、彼女のお見舞いだけは、しなかったのです。
それが、秋が深まってからですが、体重がいっこうに増えない、どうも体調が回復しないというのです。それは、あまりよくないと心配していたのですが、がん再発の宣告を受けてしまったのです。三月まで命を補償する医者が言ったという電話を受け、私は「四月初めに広島に行くからそれまで死んだらだめよ!」と叫んだのですが。昨年、彼女に会いに行かなかったことをどんなに後悔したか。人は会える時に会っておかなければならない、つくづく思いました。
戸田さんは、腰がひどく痛むと辛そうなので、心配していました。ところが三月も末になって、県病院の緩和ケア病棟に入ったというので、よかったと思いました。緩和ケアの専門ですから痛みを止めるために最大のことはしてくれるでしょうし、何より場所がいい。県病院は私の広島時代に住んだ宇品の家のすぐそばです。戦前、ここは陸軍共済病院で、私は、そのころからなじみの病院です。戸田さんの家も宇品一七丁目(当時)、宇品は二人の古戦場です!
とにかく、広島の旅の合間をくぐって、どんなことがあっても戸田さんの見舞いに行こうと思っていたのですが、このことを知ったNHKの出山さんが、戸田さんに会い、彼女の話に感激してしまい、県病院の院長(もしかしたら副院長)に交渉、私の見舞いをNHKが取材(ついでに松島さんも取材)することに仕掛けしてしまったのです。
四月三日、午後一時、県病院に行きました。行ってびっくりしました。病院は奇麗になっているし、緩和ケアのお部屋の立派なこと、広いこと。彼女のベッドの脇に大きなソフアーがあって(ここで時々戸田さんの娘さんが泊まる、つまりベッドに使えるような立派なソフアーです)。その周りも広々。普通の病室なら四人分のベッドが入るくらいの大きさです。これで自己負担分五〇〇〇円だそうで感心してしまいました。彼女も緩和ケアの処置がいいのか、腰の痛みも今日は全くないということで顔色もよく、声にも張りがあり、うれしかったです。
病室からベランダに出てみると、県立大学の裏門が見えます。ここは昔、広島女専の表門、そう、女専の中に校舎があった第二県女に通う私たちが毎日通った門です。なつかしい!
戸田さんは、この大取材に、少し戸惑い気味でしたが、戦争中五人のお兄さんのうち四人が亡くした話をしました。何も入ってない白木の箱で帰って来ました。戦戦中、戦死は名誉の死、人前では泣いてもいけないのですが、夜、お母さんが、白木の箱を抱いてワーッと泣いた、その泣き声を今も忘れることができないと言われました。
彼女は当時第三国民学校の生徒だったのですが、国民学校の生徒は早くから勤労動員に連れ出されました。いろいろの国民学校高等科から一人ずつ四〇人が選抜され、国鉄の仕事で無線の仕事をさせられていた。あの日は、広島駅のそばの国鉄の建物で被爆し、倒壊した建物の下敷きになったそうです。彼女は運よく抜け出たのですが、友達は出られない人が多かった。大谷さんというとても素敵な友がいたのですが、彼女を助けることができず、逃げるしかなかった。友を救えなかったことが彼女の心を痛めました。各校一人ずつの選抜ですし、職場では学校と違い、全員の席が近いわけではないので、互いの名前も覚えられない。たまたま、大谷さんは名前を覚えた人だったそうですが、どこの学校から来たかどこに住んでいるかも知らない。どうして彼女を救えなかったか、それを戸田さんはずっと気にしていて、自分を罪深いと思い、その思いが彼女を、キリスト教の教会に足を向けさせ、クリスチャンになった動機だそうです。
私、戸田さんとは高校3年以来六十八年の付き合いですが、こんなことを初めて知りました。高校のころ、原爆のことはお互いにあまり話さなかった。それはみな辛い思いをしている、互いに聞かないでそっとしておく方が思いやりという気持ちでした。そんな思いを抱えながら、あの高校三年生の一年は、愉快で楽しかったのです。高校の男女共学の一期生、新しい民主主義の教育の最先端を行く思いがあったからです。彼女がそんな苦しみを抱えていたとは、まったく知りませんでした。
「とにかく戦争だけはいけません。平和こそ大切」。彼女の「遺言」のような言葉、NHKの方にも、松島さんたちにも、ずしりと響いたと思います。
東京に帰ってきたら、戸田さんから電話がありました。思いがけない「大取材」に「うちは上がってしもうて、もとらんことをいって…」と戸田さんがいうので「“もとらん”どころではない、すごいいいこと言ってくださってありがとう、もとる、もとる」と言ったのですが。出山さんにその話したら、彼、「もとらん」、という広島弁を初めて知ったそうで。思わず吹き出してしまいました。このごろ広島の人も、正統的広島弁をあまり使わないですからね。
あまり長くなってもいけませんので、松島さんたちとの「旅」のことは次の便で書きますが、このことだけは、書いておきます。今回、松島さんたちの映像撮影のこと中国新聞と朝日新聞に通知しておきました。フランスの人の(松島さんは日本人ですが)原爆取材は珍しく、記事になると思ったのです。朝日新聞は広島支局の原爆取材のトップの岡本玄記者に言っておいたのですが、なんと岡本記者は四月一日から東京に転勤、代わりに取材に来てくださったのが、中山さんが、その記事を往復書簡第二集の最後で紹介された宮崎園子記者だったのです。宮崎さんは被爆三世で原爆に熱心なのですが、今回大阪から広島に転勤するにあたり、夫(彼も朝日の記者だそうです)といっしょに転勤ですって。朝日も味なことをするようになったなあと感心しました。彼女、二歳と三歳の二人の子の子持ちなんですって。今日は夫が保育所に迎えにいてくれますからと自転車でさっそうと現れたのには驚きました。そういえば松島さんも二人の子持ち、下の子は二歳です。歳も同じくらい(四〇代)、後輩たちやるな、と感動です。中国新聞も女性の記者が取材してくださりとても熱心でした。この方も同じくらいの年です、被爆三世世代の女性たちの真剣な取材に接して、私も身が引き締まりました。
続・対話随想 №14 [核無き世界をめざして]
続対話随想14 中山士朗から関千枝子さまへ
作家 中山士朗
今回、四度目のペースメーカーの入れ替え手術を受けましたが、四度目ともなれば、感染症が気遣われ、そのために抗生物質による治療がほどこされました。その副作用によって、入院中もそうでしたが、退院後も食欲がなく、まったく食事を摂ることができず、体重も五キロも減ってしまい、瘦せ衰えてしまいました。鏡に映る自分の顔になんとなく死相が現れているように感じられたものでした。手術後にはたびたび血液検査が行われましたが、白血球の数値は良好とのことでした。けれども、動悸、息切れめまい、食欲不振が続き退院後一週間経ってようやくそうした症状が収まり、少しずつ食事が進むようになりました。
関さんとの往復書簡が始まった当初、蜂窩織炎に罹り、入院したことがありました。この病気は、皮下及び深部の密度の粗結合組織中に起こる急性の化膿性炎症のことをいうらしいのですが、つまり、私の体質は白血球の数値に影響を受けやすいということなのでしょう。
そのようなことをあれこれ回想しておりましたら、昭和三十五年に「被爆者健康手帳」の申請をした際、医師の診断書に白血球の数値の異常が記入されていたことがふと思い出された次第です。そして、現在八十六歳になるわが身を振り返りますと、今更、そのことを嘆いていても仕方がなく、あるがままに生きるしかないと思っております。
ここまで、今回の入院中の憂鬱なことばかりを書いてしまいましたが、その反面、私は別府によって生かされた自分というものを強く感じないではいられませんでした。
私が四十三年間住んだ東京から、まったく誰一人知った人のいない別府に移って来たのは、平成四年のことでした。その直後に、右心房完全ブロックによる新機能不全で倒れ急遽入院となり、人工心臓ペースメーカーの埋め込み手術が行われ、私の命が保たれたのでした。東京にいた時分にも、会社、自宅、通勤途上で失神発作を起こしましたが、すぐに検査ができなかったために、その原因が通っていた大病院でも解明されませんでした。
別府に移住するに際して、知人から紹介してもらったのは、新別府病院の循環器内科部長でしたが、通院するようになって間もなく倒れたのでした。その手術を担当してくださったのは、私が現在診てもらっている、定年後に別府温泉病院に移られた中尾先生、そして現在は新別府病院の院長となっておられる中村先生でした。
別府市内には現在、内竈に独立行政法人 国立病院機構・別府医療センターがあり、鶴見には国家公務員共済連合会・新別府病院があります。前者は戦前には陸軍病院、後者は海軍病院でした。私がペースメーカーを植え込んでもらった新別府病院は、通院をはじめた当初は、質素な木造建物でしたが、その後改造が重ねられ、一年ほど前に新型救命緊急センター、日本医療機能評価認定施設としての立派な施設が完成しました。私は今回その新しい病棟に入院し、その恩恵を受けたのでした。そのエントランスホールの正面の壁には、
Science & Humanity
科学する心と人間愛
「理念」の言葉が掲げられていました。
私がこのたびの入院で、私が別府によって生かされたと強く感じるようになったのは、私が二十五年前に通院するようになった頃からの人々に出会ったからです。時を同じくして病院のレントゲン技師として配置された人と、今回の入院中、看護師に付き添われてレントゲン室を訪れたときに偶然出会ったのでした。パソコンで受付患者の名前を見て、驚きの眼でもって私を見つめ、私と十六年前に亡くなった妻の名前を言い、妻が私より十四歳年上であったことや、レントゲン室に通っていた私たちの様子をよく記憶し、語ってくれました。私も一目見た瞬間に、彼だったとわかりましたが、こちらは相手一人の記憶ですみますが、彼は無数の患者を相手に記憶しなければならないなかで、私たち夫婦の名前と杖を突いて歩いていた妻の行動を即座に語った記憶力には驚嘆しました。それとも、私たち夫婦がよほど変わった組み合わせとして記憶に残っていたかもしれません。恐るべきことであります。
また、手術が終わって間もなく、メーカーとしての最終チェックがありましたが、その担当者は、二十五年前の植え込み手術のときにも立ち会ってくれた人でした。正確に機能していることを告げたあとで、「今度の機器は十年より少し先まで持ちますよ」と言いました。十年先になると、私は九十六歳になりますが、そんな年齢まで生きてはいたくないと思います。
私が別府によって生かされたという思いは、別府に移住して来たことによって、瀬戸内海を通じて広島を客観的に、冷静な目で捉えて作品が書けるようになったことではないでしょうか。
「原爆亭折り父子」で日本エッセイスト・クラブ賞を頂けたのも、その後多くの短編小説やエッセイを書き残すことができたのも、またそれらの仕上げとして関さんとの『ヒロシマ往復書簡』を書き続けることができたのも、生かされたお陰だと思っています。
丸木美術館から見える風景 №46 [核無き世界をめざして]
幻の牛
原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣
2月、名古屋出張の帰りに、藤沢駅前のビルの6階にある藤沢市民ギャラリーへ立ち寄った。
この市民ギャラリーに来たのは、ちょうど10年前、2007年に開催された「藤沢市30日美術館 藤沢と丸木位里・俊展」以来。
神奈川県立近代美術館の水沢勉さんと初めていっしょに仕事をさせていただくなど、思い出深い展覧会だった。今回は、最終日を迎えた山内若菜さんの《牧場》の展示を観るのが目的だ。
彼女から初めて連絡があったのは、記憶が正しければ、2013年に神奈川県立近代美術館・葉山で開催された「戦争/美術 1940-1950」展の少し後だったと思う。この展覧会に感動した彼女は、館長の水沢さんのもとを訪ね、君の絵は丸木美術館に合うかもしれない、と推薦されたそうだ。
その後、展覧会の案内状をもらい、初めて実際に絵を観たのは、2015年5月の銀座・中和ギャラリーでの個展だった。
会場には、福島県浪江町の牧場を取材した際の風景を題材に描いたという、壁いっぱいの大作が飾られていた。
一見儚げで、しかし、土と風の匂いのする作品。現実の風景と心象風景が入り混じったようでもあり、過去と現在の時間が折り重なるようでもあった。
彼女は文化交流としてロシアをたびたび訪れているそうで、シベリアの強制収容所と福島・飯館村の廃墟のイメージがつながったという《ラーゲリと福島》などのイメージの飛翔した作品も、印象に残った。
テーマはまっすぐ直球勝負だが、絵の表現は決して表面的ではない。これなら丸木美術館で展覧会をやっても面白そうだ。
会場に立っていた、華奢で小柄な画家に声をかけると、やります、という予想外に力のある声と、こちらを見つめる強い視線がかえってきた。
丸木美術館の2階アートスペースで彼女の個展を行ったのは、2016年3月のこと。
見るからに気持ちが高まっていた彼女は、会場の壁に収まりきらないほど横に大きく広がった《牧場》の絵を運び込み、部屋中にぐるりと展示した。そして、それだけでは気が収まらずに、1階の奥のロビーにも、天井から床まではみだすほどの大きさの《福島のお母さん》の絵も2点展示した。
彼女の熱い思いを、丸木美術館の小さな空間は受けとめきれなかった。学芸員としては、作品の大きさを制御すべきだったのかもしれないが、すっかり圧倒されてしまったぼくは、ロビーの窓を封鎖して、さらにもう1点《福島のお母さん》の絵を展示したいという彼女の提案を却下するだけで精いっぱいだった。
会期中には、二本松市在住の詩人・関久雄さんの自作詩の朗読に合わせて彼女が絵を描くというイベントや、浪江町に残って牛を飼い続ける「希望の牧場」の牧場主・吉沢正巳さんの講演会も行われた。
《牧場》の大作には、その「希望の牧場」で生き、死んでいく牛たちの姿が描かれていたが、墨の勢いが強すぎたのか、「真っ黒で何が描いてあるかわからない」という感想も少なくなかった。
それでも、絵に心を動かされる人は多く、来場者も日を追うごとに増えていった。この展覧会をきっかけにして、岡山県の中学校で絵を展示する機会も生まれたと聞いた。
そうした経緯があっての藤沢展である。
会場に入った途端、画面が明るく、牛たちの姿が浮かび上がってくることに驚いた。どうやら、中学校の生徒たちの感想を参考にして、加筆したようだった。
幾重にも墨を塗り重ねられた深い闇の上に白い絵の具がほとばしり、幻のような牛の姿を形づくる。
「わかりやすさ」ばかりが良い訳ではないけれど、彼女の内にある福島へのまなざしを他人が共有することに大切な意味が生じる作品だから、こうした変化は効果的だった。
土の色、星の光、貼り重ねた和紙の上に流された墨の中から浮かび上がる人や生きものたちの姿を見ているうちに、この絵が小さな宇宙のようにも見えてきた。
「3.11」後の私たちが生きる世界、そして「3.11」よりずっと前から受け継がれてきた宇宙。
それが、彼女の身体を通って、目の前に現れてきたような感覚。
丸木美術館での作家トークの際、「私には絵しかない、絵を描くことしかできない」と、観客の質問から遠ざかるように、青ざめながら何度も繰り返していた彼女の姿を思い出す。
客足の途絶えた夕暮れの美術館で、《原爆の図》の前に勝手に和紙を広げて、憑かれたように模写に没頭していた後ろ姿も。
時に危うく感じられる一途さで、彼女がどこまで内なる宇宙を拡げ、深めていくのか。これからもじっくり観続けていきたいと思いながら、会場を後にした。
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【「原爆の図保存基金」へのご協力のお願い】
《原爆の図》は、近年、ますます歴史的・社会的な意味が大きくなり、美術史的な視点からも20世紀を代表する絵画作品として、国内外で高く評価されつつあります。
一方で、丸木美術館は、建物の老朽化や、展示室・収蔵庫の温湿度管理および紫外線・虫害・塵埃対策の未整備などの現実的な問題に直面しています。将来的に《原爆の図》は、人類の普遍的な財産として、重要文化財や世界遺産に選ばれる可能性もあるでしょう。しかし、すでに画面上には虫食いなどの深刻な被害が表れ、このままの状態では作品の保存に支障が出ることは間違いありません。
そこで、50周年という節目を期に、《原爆の図》の保存管理が可能な新館建設と資料整理・保存公開のためのアーカイブ設立を目的とした「原爆の図保存基金」を立ち上げました。
詳細は追ってこのHP上で公開していきます。
郵便振替口座
口座名称:原爆の図保存基金
口座番号記号:00260-6-138290
寄付金額は任意となりますが、1万円以上寄付された方には記念誌をお送りいたします。
10万円以上寄付された方のお名前は、新館に掲示いたします(希望制)。
この寄付は寄付金控除の対象となります。
詳しいお問い合わせは、原爆の図丸木美術館(0493-22-3266)まで。
続・対話随想 №13 [核無き世界をめざして]
続対話随想13 関千枝子から中山士朗様へ
エッセイスト 関 千枝子
本当ならここは中山さんの複信が入るはずなのですが、中山さんがペースメーカーの取り換え手術の前であり、目に何か炎症が生じて体調が悪く、もうひとつ落ち着かないということがありまして、私の「報告」をつづけてもう一回入れることにしました。
ペースメーカーの入れ替え、経験のない私は簡単に思っていたのですが、大きな手術なのですね。それに当たって誓約書やらなにやら、いろいろ書類をとられて(このごろ病院面倒ですものね)、中山さんがナーバスになられるのもよくわかります。それに、私、近頃、同年配の方々(ヒバクシャでなくても)急に弱る方が多くて気にしているのです。この一年でずいぶん友を亡くしました。そして具合が悪くなっている方も多く、気にしています。
誤解されると困りますが、私、中山さんの手術には何の不安も持っていません。電話で話す中山さんの声には張りがあります。声が変わってしまいいわゆる老人声になる方が多いし、耳が弱る方も多いのですが、中山さんの声若いです。私も幸い、目、耳、声などが元気なのはうれしく思っています。不器用な私は、目がだめになったらもう暮らしていくことはできないなどと思い、目がいいことをありがたく思わなければと思います。
私の方は、この三月、四月、忙しくなりそうです。前の便で報告したシェフタルさんをこの間、被団協の事務局長田中熈巳さんに紹介しました。田中さんは、前からとても立派な方だと思っているのですが、安保関連法制違憲訴訟の原告になっておられ、この間、法廷で陳述もされました。それを読みまして、シェフタルさんに会ってもらいたいと思いました。シェフタルさんは、前にも書きましたが、日本滞在三〇年、日本語もうまいし、日本のことに精通しておられます。とても進歩的で平和主義者です。学者として、特高のことを調べたりしていますが、原爆のことに突っ込む勇気がなかったと言われます。原爆を投下した国、加害の国の国民としての複雑な思いは私にもわかります。そしてオバマが広島に行ったことで、勇気をもらったと言います。オバマ広島来訪についてはいろいろ考えがありますが、シェフタルさんがそういう風にとらえて、原爆のことに取り組もうと決意されたのなら、悪いことではないと思いました。そしてシェフタルさんを応援してあげたいと思い、ぜひ被爆者できちんと生きてきた方を紹介したいと思いました。田中さんにお願いしましたところ、田中さんも快く承諾してくださいまして、ちょうどビキニデーで焼津に行くから、静岡で会いましょうと言ってくださいました。シェフタルさんは浜松在住なので、静岡でお会いできればありがたいわけです。
行きがかり上、私も静岡に行くことになりまして、一緒にお会いしました。私は田中さんが長﨑のヒバクシャだということくらいしか知らなかったのですが、親類を多くなくされ、お金がなかったのでしばらく働いてお金を貯めて東京理科大にいらしたこと(授業料が安かったかららしいです)、大学生協の運動を長くなさったこと、東北大にお勤めになっていたことなど初めて知りました。私は、被団協のような様々な考えの方がいる団体がともかくうまくまとまっているのは田中事務局長の力が大きいと思っているのですが、田中さんがもう今年位で事務局長もやめにしたいのだが、と言われるので、もう少し頑張って下さいと無責任なことを言ってしまいました。被爆者団体もいろいろあって自民党から左まで、いろいろありますからというと、シェフタルさんが、自民党?と驚くので、広島など、昔から自民党が強くて有名なところですよ、と言ってしまいました。そして「被爆者にはいろいろな考えの方がおられます。超保守から左翼までいろいろ。しかし、原爆だけはもうごめん、世界中のどこにも落としたくない、それだけは一致しています。これは絶対にわかってください。書いてください」と言ったのです。
そして、どんな方に体験を聞いても、さまざまなことに忘れっぽくなっている方も、あの日のことだけは、きちんと語ります。これをわかってほしいのですが(たぶんシェフタルさん、わかって頂けたと思いますが)。
そのほかにも、前々回でお話ししたパリの松島かず子さんの映像制作も三月末から始まります。この準備打ち合わせも大変なのですが、とてもハードなスケジュールになりそうです。
四月初め、松島さんとともに広島に入るのですが、撮影がすんだら、戸田照枝さんのところにお見舞いに行こうかと思っています。戸田さんのこと、往復書簡ではあまり書いていないのですが、国泰寺高校三年のときの同窓生で、後に彼女はクリスチャンになり、広島YWCAで地道な活動をつづけました。原爆詩や手記の朗読を熱心にされ(朗読グループ)、私の活動をつねに親身になって支えてくださった友です。第二集で、二〇一四年の八月四日のフィールドワークで、広島には珍しく雨が降り、雨が降ったので、中学生の参加者は学校から不参加命令が出て(事故を心配して)来なかったのですが、そのことを書いた文章で八〇代の参加者が「このくらいの雨で近頃の子どもはなんねえ」と怒った話を書いていますが、その怒った八〇代の女性が戸田さんです。
元気だった戸田さんが、昨年お年明けから急に体調がおかしくなり、結局すい臓がん、大手術をやり手術は成功した、はずなのですが、腰痛がひどく、再発と分かり、私はとても心配で、撮影がすんだら彼女のところに飛んでいこうかと思っているのですが。とても心配です。たくさんの友が先に逝ったのですが、彼女のことを思うと叫びだしたいくらいです。長生きするのはいいことかもしれませんが、多くのゆかりの人を失うことでもあるのですね。でも、またそれだけに、生きている間は全力でしっかり生きなければと思うのです。
ここでやめるはずでしたが、新ニュースを知りました。沖縄の摩文仁の平和記念公園に「全学徒隊の碑」ができ、除幕式があったというニュースです。沖縄戦での学徒の悲劇はひめゆり隊や鉄血勤皇隊など有名校のことはよく知られていますが、全部の学徒が動員され悲惨な目にあっているのです。有名校は「力がある」ので、記録や文集を出せますが、弱小校はできません。戦争の悲劇が有名校だけの物語に終わる。私は常々これは問題だと思っていました。広島の疎開地作業動員学徒の悲劇も同じです。国民学校高等科のことなど誰も知りません。この記事を読んで私は沖縄はやったな!と思いました。沖縄の場合、元学徒の要望を聞いて県がつくってくれたそうです。
これまで私、平和資料館の展示にきちんと入れてもらうことのみを考えていましたが、そうか、碑があったらなと思いました。広島でも運動できないかしら。広島市が作ってくれるなど考えられないですね。でも何とかできないかしら。途方もないことを考えています。
続・対話随想 №12 [核無き世界をめざして]
続対話随想⑫ 関千枝子から中山士朗様へ
エッセイスト 関 千枝子
なんだかばたばた忙しくて、すっかり遅くなってしまいごめんなさい。忙しさの所以は、この前にも書きましたアメリカ人の大学の先生シェフタルさんの、ヒバクシャへのインタビューのお手伝い、(と言ってもこの人に話を聞いてみれば、という程度のお手伝いなのですが)、それに加えてこれは前に書きましたかしら、パリ在住の日本女性(夫はフランス人)、で、松島かず子さんという方がいらして、原爆の、それも私の「少年、少女のフイールドワーク」に興味を示し、ぜひそのことを映像にしたいと言われるのです。これも着々進んでいまして、今パリとメールのやり取りで「詰め」の作業です。まあ、そんな雑用で忙しいのですが、今日は、シェフタルさんもお呼びし、私も話を伺って驚いた田戸サヨ子さんの話をいたしましょう。
これも不思議な縁でして、昨年暮れ、私も入っている「図書館友の会」で話をする機会がありました。私が、「横浜の図書館を考える集い」で、一応代表として「活躍」いたしましたのは、もうふた昔前。今、私は、図書館に関してこれということもできず、地道な活動をしている皆様には申し訳ないありさまですが、その会で「図書館に関わり続けて40年」と言ったことで、私などが話していいのかしらと忸怩たる思いで、でも、これが私の図書館活動の最後の働きかもしれないと、お話をしたのです。その会に田戸義彦さんという横浜で建築士をしておられる方が出席しておられて、自分の母親・サヨ子さんの自分史を読んでほしいと一通の自分史(まだ第一部なのですが)を渡されました。
驚きました。田戸さんは、当時第二市女生だったそうで、教室を借りていた第三国民学校で被爆したようです。第二市女という学校があったことは知っていましたが、どんな学校やら知らず、建物疎開には動員されていないようで、前から疑問に思っていました。またこの方(私より一年上)、工場に動員されていたが、その日は電休日で学校に登校、被爆したと。つまり第三国民学校で被爆したわけで、私の被爆地(宇品の我が家)とは歩いて一二、三分の近さですそれに、この方、被爆後、爆心地を通って帰っているので。六日に爆心地を通った方など稀だと思います。私のクラスメートの母たちにしても、子どもを探しに入るのは翌日ということが多く、六日に爆心地に入った人の話など聞いたことがありません。いろいろな意味で、驚きましたので、有楽町のレストランに、田戸さん親子、シェフタルさんを呼んでお話を伺いました。
まず、田戸サヨ子さんのお元気でしっかりしておられるのにびっくり。東大和にお住まいで、遠いのですが、疲れも見せずニコニコしておられます。お連れあいが体調を崩し、施設に入られたので、少し暇ができたとのことですが、まあ、本当にシャンとしておられます。
サヨ子さんは、お父さんは早く亡くなられ、このころは、お母様ときょうだいと鷹匠町(爆心地から近い)に住んでおられましたが、母子家庭で、生活は大変だったようです。三篠国民学校の高等科を卒業しますが、卒業しても挺身隊にとられて働かされるだけなので、高等科卒の生徒を入れる女学校があるというので第二市女に行ったそうです。第二市女は高等科を卒業した子を入れる女学校として昭和一八年に実科女学校を母体にできたと広島原爆戦災誌の学校編にあります。だから、女学校と言っても一,二年生はおらず、高等科を卒業しては入った三年生から上の学校だったのですね。もっともサヨ子さんはそんなこともよくわからず、挺身隊を嫌って入学したのに、入ってみると女学校の三年生も勤労動員とのことで、三,四日学校で簿記を習っただけで、すぐ日本製鋼所に動員されました。工場は向洋にあり(広島駅の一つ先)、飛行機の部品を鋳物で作っていたそうです。入学から四か月たちましたが、学校のことも先生も級友もほとんどわからないままでした。
八月六日は一か月に一度の電休日、学校に来て教室に座り、久しぶりの登校がうれしかったそうです。そこへピカ。爆風。級友の泣き叫ぶ声を聴きながら机の下にうずくまったまましばらく動けなかったそうです。気づくと窓ガラスは全部壊れ部屋はめちゃめちゃ、「痛い痛い」と友達はみな教員室へ行ってしまい、けがをしていないサヨ子さんともう一人の友達だけが残っている。そこへ助けてという声がしたので見ると、もう一人の友が引き戸の下でないている、助け出すと脚が折れたらしい。近くには陸軍共済病院があるので、.そこへ行こうと友を助けながら病院に向かったのですが、病院に向かう火傷やけがをした人の一団にあい、ショック。病院もいっぱい。長時間待って、板をあてがい包帯をぐるぐる巻いて、おしまい。
私は不思議に思い、自分たちだけで病院に行くことを考えたのですか、先生に相談しなかったのですか、と聞くと、自分たちで病院に行こうと思ったと。先生にもあまりなじみはなく、それにほかの友達もどこかへ行ってしまってよくわからなかったからとのことです。新しい学校の新しいクラス、級友の名前もよく知らない。教師の指導などなかったのでしょうね。
私が不思議に思ったのは、私もあの後、父に言われて、祖母を連れて大河の知人の家に向かい、その時。第三国民学校のすぐ近くを通っているのですが、その時はまだけがや、火傷の人などみかけませんでした。おそらくピカから一時間以上たっていると思いますが、その時はまだやけどで逃げて来る人に会わなかったのです。私が火傷のものすごさを知ったのはずっと後でした。サヨ子さんのお話を聞くとなんだかすぐ病院に行ったように思えるのですが、彼女は火傷の人を見たという、このあたり確かめたのですが、彼女は確かに見たという。ただこれはいくら話してもわかりませんでした。何しろあの頃、私たちは腕時計など持っていませんから、正確に、あれは何時かわからないのです。
とにかくサヨ子さんは大分待って友の手当てが終わってから、幸いその友の家が近かったので送り届け、もう一人の友といっしょに御幸橋に向かいます。橋の向こうは真っ赤な炎。ここから先はいけない、橋のところでずっと座っていたら、誰かが「通れるぞ」、というので皆で一斉に電車道を進んだ,鷹野橋まで来た時、火のトンネルを抜けたが、見渡す限り焼け野原で驚いたそうです。でも、紙屋町まで電車道を歩けたのに、そこから相生橋までが、道が残骸で一杯で通れない。サヨ子さんは紙屋町までは兵隊の手で道が片付けられていたが、そこから先はだめだったと言われるのです。私は八月六日に宇品方面から幕臣に入った人の話は初めてで驚いてしまいました。
やっと相生橋まで来て鷹匠町の方を見ると、そのあたりは壊滅、家など何もない。これはだめだとわーわー泣いたと言います。
鷹匠町の人はいざというとき、川内村に逃げることになっていたので、そこに行こうと思い友は大芝町が家なので、励ましあって横川橋めざして歩くと、ひとりの青年に、足が痛くて歩けないから助けてくれと頼まれ、少女二人で青年を助け歩きます。横川橋で大芝に帰る友と別れ、今度はサヨ子さん一人で青年を助け、もう夕暮れになった道を、祇園町山本の青年の家にたどり着きました。結局その日は、青年の家で泊まることになるのですが、その家は農家で牛を一頭飼っていて、なんとその日、牛乳風呂に入れてもらったそうですよ。
川内村に行ったが母は来ておらず、心配ですが、九日にお姉さんが川内村に来ます。お姉さんは、住吉橋(爆心から一・五㌔)の郵便局で働いていましたが、建物の下敷きになり、その後黒い雨に降られましたが、けが一つなく無事だったそうです。その日、川内村から捜索トラックが出るというのでお姉さんと二人乗せてもらい、自宅のあたりに行来探しますがお母さんは見つかりません。時間がかかっているうちに川内村に帰るトラックは出てしまい、置いてけぼりになったので驚きますが、仕方なく、横川の方に向かって歩き出すと、バラックの収容小屋ができていました。二つ目の収容小屋で横たわっているお母さんを発見したのです。お母さんは外傷は大したことはなかったがひどい熱です。十一日になって汽車が通っていることが分かり、宮島口の宮内村のお母さんの実家にお母さんを負ぶって転がり込みます。ここでやっとお母さんを布団の上に寝かせることができたのです。
九日に、横川の方にバラックの収容所ができていたなど私も初めて聞きました。トタン屋根で畳が敷いてあり、壁はむしろが下げてあったそうです。畳などよくあったなと思いまが、考えてみると建物疎開で壊した家の資材、すべて兵隊たちがどこかへ持っていって軍が再利用したようです。とたんにしろ、畳にしろ、どこかへ保管してあったのではないか、それが緊急収容所に使われたのではないかしら。
おかあさんは一四日になくなるのですが、その前に、伯母さんの家に疎開していた小学校六年の妹を伯母に連れてきてもらい、会わせることができたのはよかったと。私はおばさんの所にどうして連絡できたの?と聞いてしまったのですが、電報を打ったとのことです。なるほど、私の家のあった宇品など市内は、そのころはやっと電気が直ったくらい、電報など考えもつかなかったのですが、宮内くらい離れていると、そのあたりは平常通りなのですね、宮内村から伯母さんの友和村まで電報を打つことが可能だったわけです・
おかあさの実家でそのまま世話になっていたサヨ子さんたちきょうだいは復員してきた兄と一緒に一一月に呉線の小屋裏の県営住宅に移ることができきょうだい四人で暮らしました。兄は国鉄で働き姉は郵便局が再開して働く。しかしサヨ子さんは、家の仕事で大変でした、コメの配給が少ないので、何とか手に入れなくてはならない、芋一つ買うのも一五歳の少女には大変でした。それで学校はそのまま行けなくなってしまいました。学校がどうなったのか、わからないし、あの日一緒に逃げた友も、その後どうなったやら、全くわからないと言います。
一九四八年、姉の勤め先の局長の世話で祇園に移り、ここで妹の友人の関係でカトリックの教会を知り、三菱重工の祇園製作所の臨時工で働くことになりました。当時三菱は工員たちに定時制高校に行くよう勧めていたので、高校生になります。祇園線の車両一つが三菱の工員で一杯になるくらい、定時制高校に皆行ったそうです。「学校に行くのはうれしくてよく勉強した。国語が大好きだった」。なるほど、サヨ子さんは文章が確りしていますものね、こうして、可部定時制高校の一期生で、広島大学工学部に入った義登さんと知り合い、大恋愛結婚。お子さんを七人!も生むのです。
そして、病気もせず、)暮らし、自分は原爆病にもならずけがもせず、だから被爆者手帳もいらないと思い込んでいたサヨ子さんは、平成元年になってから、ある日めまいで倒れ入院し、姉に言われ、被爆者手帳を申請しました(このころはもう東京に住んでいた)。係の人に話しても、六日に爆心地を歩いて生きているはずはない、あなたは嘘吐きだなど言われてしまった、しかし、第二市女で被爆したことは直ぐ証明が付くので、被爆者手帳を取得します。その時、たくさんの放射能を浴びたはずなのに、こうして元気で生きていることの不思議さ、「自分が生かされていること」を感じ、地域のヒバクシャの団体にも入り、近所の小学校でも語って来たというのです。
彼女の話の紹介長くなってしまいました。私の初めて聞くような事実が多かったので、驚きました。そして彼女が戦後三菱重工の臨時工になり、工場の奨励で定時制高校に行ったことも素晴らしいと0思いました。原爆のため、あのまま学校に行けず、悔しい思いをした人も多いのですから。当時の三菱重工可部、なかなかやるな、と思いました。私は戦後の学校の明るさを思い出しました。校舎も壊れ、貧しい教育環境の中なのに、あの頃の学校の楽しさ。学ぶことの楽しさ。先生たちも手探りだったけれど、私はあの時代に、民主主義の大切さをわかったのだと思っていますので。
続・対話随想 №11 [核無き世界をめざして]
続・対話随想⑪ 中山士朗から関千枝子様へ
作家 中山士朗
お手紙拝見しながら、いつに変わらぬご活躍ぶりに感心いたしております。
これまでに送っていただいた『ヒロシマ往復書簡』の書評を読んだときにも感じられたことでしたが、そのいずれもが女性の方で、其の交流範囲の広さに改めて関さんの活力というものを思った次第です。その根底にあるものは、ご自身語っておられますように、”生きている限りちゃんと生きよう”という強い意志の表れで、草庵に篭りきりの私とではその気持ちのあり方に雲泥の差があるように思われます。
しかし、関さんのこの気迫に引き込まれての五年間は、朝日新聞記者の宮崎園子さんが、いつか<記者有論>で、「広島から思う 家族たどり戦争を知ろう」と題して、晩年になって多発性骨髄腫に罹り、八八歳で亡くなったご自分の祖母の「最終章」について書かれておりましたように、最終章に入った私の、被爆者として生きたいことの記憶と記録を残す大切な時間となったのでした。
こうした思いも、私の友人の高田君が年賀欠礼の葉書を印刷して送って来たことから端を発したものですが、その手術は成功し、無事に退院したという知らせを野村君から聞いております。手術の日からしばらくして高田君の家に電話してみたのですが、留守で通じなかったものですから、心配しておりましたが、結果がよくて何よりだと思っております。関さんの言葉に従って、能力の落ちてくるところを、自分でちゃんとつかみ、そこを「補完」しながら暮らしていくのも、最終章という言葉で表現された宮崎さんが,最近の朝日新聞に「心苦しい歴史 日本人直視を」という表題で、佐世保の元教員、渡邊さんが、翻訳で証言集のアーカイブ化に協力したことをコラムに書いていました。
これはネット上の被爆地の立体地図に被爆者の証言を記録した「ナガサキ・アーカイブ」を一〇年、同様の「ヒロシマ・アーカイブ」を一一年に開設したものです。全世界からいずれも年間平均十万のページビューがあるそうです。
それについて、「過去の資料の価値を今の世にあった形で、発信するミッション。技術はあくまで補助で、体験を語り継ぐ人の営みこそが大切」と渡邊さんは話しているそうです。
このたびの関さんの手紙を読みながら、ふとこの宮崎さんが書かれたコラムが思い出されたのでした。パリ在住の松島かず子さん、静岡大学の教員のM・シェフタルさんは、ともに関さんの「ヒロシマの少年少女たち」に感銘を受けられ、そして直接会って話を聞きたいと思われたのだと思います。
しかし、わが身に置き換えて考えてみますと、先刻の最終章の話ではありませんが、関さんの健康のことも気になります。お会いになって話を聞く対象者が、今ではごく少数に限られるのではないでしょうか、その一人として狩野美智子さんをご紹介されたのだと思いますが、その狩野さんも、自ら<戦中のアナウンサー>と名乗られる来栖琴子さんと同様に老人施設に入っておられると知り、改めて戦争を体験した人の最終章を覚えずにはいられません。来栖さんのいらっしゃる熊本県ああああ阿蘇村の老人施設を一度お尋ねしたいと思っているうちに大地震となり、遠い場所になってしまいました。
狩野さんのことは、以前、関さんからご本を送っていただき読ませていただきましたので、よく存じ上げておりますし、最近、ご子息との対談集が彩流社から発行されたことを新聞で知りました。母から被爆の実相を聞いておきたいという思いから、作られた本だと記憶しております。
こうしたことからも、関さんの『ヒロシマの少年少女たち』を、翻訳によってアーカイブ化されることが望ましく、参考までに宮崎さんが書かれたコラムの内容をお伝えしました。
それにしても、狩野さんが、「玉音放送」あった後もラジオ放送を聞いておられたことを知り、あの「玉音放送」のあった日のことを思い出していました。
母がバラック小屋で臥せっている私に、
「日本は戦争に負けたんよ」
と告げに来ました。
それを聞いて、熱い涙があふれ、火傷した顔面に伝わるのが分かりました。
原爆で破壊された広島に電灯が点るようになったのは、その年の暮れ近くになってからではないでしょうか。それまでは、夜になると蝋油に布で縒った芯を浸し、灯火としたのです。したがって破壊された家屋からラジオを取り出しても、使えなかったのです。後に必要があって「戦後のラジオ放送」について調べたことがあります。
<ラジオ放送に¥「天気予報」が復活したのは、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦の玉音放送が全土に流された七日後の、昭和二〇年八月二十二日のことであった。
三年半ぶりの予報復活は、人々に改めて平和を実感させた。それは、戦争が終わって灯火管制から解き放たれ、気兼ねなく電灯を明るくした時の喜びに似ていた>。
このことから察して、天気予報の復活に合わせて、一般のニュースも流れるようになったのではないでしょうか。特に放送局(当時は、JOAK第一放送と言っていたように記憶していますが)は、GHQがまず最初に管轄下に置いたと言いますから、狩野さんがポツダム宣言の解説を聞かれたのもその頃だったのではないでしょうか。
丸木美術館から見える風景 №45 [核無き世界をめざして]
ミュンヘンの《原爆の図》
東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣
冬のミュンヘンは最高気温も零度に満たず、街のあちこちに雪が積もる。
「戦後:太平洋と大西洋の間の美術1945-1965」を観るため、ハウス・デア・クンストを訪れた。
ハウス・デア・クンストは、日本語に訳せば「芸術の家」。ギリシャのパルテノン神殿のような巨大な列柱が正面にならぶ、壮麗な外観の建物で、1937年にヒトラーによって建てられている。
開館時にはナチスの推奨する芸術を一堂に集めた「大ドイツ芸術展」を開催し、同時期に別会場で前衛美術に「退廃」の烙印を押す「退廃美術展」が開かれたことも知られている。
そんな複雑な過去を背負う建物が当時のまま展覧会場として使われていることには驚いたが、さらに、ナイジェリア出身のオクウィ・エンヴェゾー氏が館長を務めていることも、自分にとっては驚きだった。彼は2015年に非欧米圏出身者で初めて国際現代美術展ヴェネツィア・ビエンナーレの総合キュレーターを務めるなど、世界を代表する優れたキュレーターの一人だ。
そして、今回の展覧会は、そのエンヴェゾー氏が重要な企画の中心的役割を担っていた。
準備には、8年の歳月をかけたという。第2次世界大戦が終結した1945年から20年間の大規模な世界の変動を、西洋的な視点をずらして多焦点化しつつ、8つのテーマ別セクションを設けて、65カ国の258人の芸術家による350点の作品によって再考しようという試みだ。
たしかに日本でも2015年を中心に、「戦後70年」あるいは「1950年代」などをテーマにした展覧会は開催されたが、その多くは、あくまで日本国内における美術の動向を再考する展覧会だった。 果たしてドイツの展覧会はどのように「戦後」を回顧するのか。期待に胸を膨らませながら、美術館の扉を開いた。
最初の「余波――零時と原子の時代」の章では、丸木位里・俊夫妻の《原爆の図》より、第2部《火》と第6部《原子野》が招致されている。私がこの展覧会を訪れたのも、この展示を見るのが大きな理由だった。 展示室には、2段掛けされた《原爆の図》のほか、彫刻家イサム・ノグチの原爆をモチーフにした作品や、山端庸介による長崎の被爆写真、アラン・レネ監督の映画『ヒロシマ・モナムール』の一部など、原爆の惨禍を喚起する作品が並び、展覧会全体の印象を決定づけるほどの強いインパクトを与える。
しかし、会場の奥へと進むうちに、この企画の真価は、その後の章で明らかになることに気づいた。
米ソの冷戦が本格化し、芸術の潮流も東西に分断されていく「戦後」の時代。もっぱら東側諸国では社会主義リアリズムが隆盛し、西側諸国はアンフォルメル、と呼ばれる抽象表現主義が席巻した。
展覧会は、こうした歴史を踏まえつつ展開されるが、その欧米中心的な視線を意識的に揺さぶるのが、第6章「コスモポリタン・モダニズム」だった。ここでは、自由や開放的という従来の「コスモポリタン(国際人)」の概念が、亡命、移住、ディアスポラへ変化した、と定義されなおす。
そして「新たなハイブリッド」は、(旧)植民地出身者が西洋で学び、あるいは抑圧を逃れた難民が故郷を離れて安全な場所を見つけたときに現れるとも位置づけられる。
実は、出品作のキャプションには、通常の作品名と作者名、生没年に加え、生誕地、死没地まで丁寧に記されていた。
その理由が、はじめはよくわからなかったが、この第6章でようやく理解できた。たとえば、ナイジェリア南部のオニチャで生まれロンドンで没したウゾ・エゴヌのように、この章では、非欧米圏から欧米圏に活動の場を移した芸術家の作品が数多く紹介されているのだ。
そこで初めて、展覧会の重要なテーマが「越境」であることに気づいた。
さらに第7章「形を求める国家」では、「戦後」に独立を勝ち取った旧植民地における「ナショナリズム」の多義性も示唆される。
戦後に広がった「グローバリズム」の概念は、今日、一部の強者のための画一的な社会を生み出しつつある。
しかし、世界はもっと多様で多義的なものだ。人びとは今も境界を越えて移動を続け、国家の概念は否応なしに揺らいでいる。
その反動のように、各地で時計の針を逆戻しするような「ナショナリズム」の動きが台頭しているが、この展覧会は、その荒波に芸術で対峙する、渾身の試みとも受けとれる。混沌の時代だからこそ、多様な世界の豊かさを見つめていきたい。
芸術は、その想像力のための重要な源泉なのだと、あらためて実感した。
【丸木美術館からのお知らせ】
現在開催中の企画展「美しければ美しいほど The more beautiful it becomes」(4月9日まで)
1984年、丸木夫妻は《沖縄戦の図》を描きました。それは絵画というメディアを通じて、沖縄戦の恐怖を今日まで伝える作品です。それから30年あまりが過ぎた現在。沖縄の、なにを見て、なにを聞き、どのように表現することができるのでしょうか。
参加作家=嘉手苅志朗、川田淳
協力=佐喜眞美術館、Barrack、木村奈緒、西尾祐馬
イベント共催=早稲田大学メディアシティズンシップ研究所
企画=居原田遥
◆シンポジウム「沖縄の情報は本当に伝えられていないのか」
3月26日(日) 15時より 予約不要・無料(要展覧会チケット)
登壇者=伊藤守(メディア研究/早稲田大学教授)、津田大介(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)、毛利嘉孝(社会学/東京芸術大学教授)、新垣毅(琉球新報社東京報道部長)
モデレーター=木村奈緒(フリーライター)
共催=早稲田大学メディアシティズンシップ研究所
続・対話随想 №10 [核無き世界をめざして]
続・対話随想⑩ 関千枝子から中山士朗さまへ
エッセイスト 関 千枝子
お手紙に体のことと言いますか、今、昔からの友達たちが、いま一つ健康状態がよくないようだというようなことが書いてあり、私も「本当に!!」」と思ってしまいました。昨年暮れには喪中欠礼葉書も多かったし、年賀状にも「今年で終わりにする」というのが多かったのです。昨年は、有名人で忘れられない人々の死も多く、がっくりくる年もありました。。この喪失感、なんとも言えませんし、自分自身、弱ったな、という感じもあります。仕事が遅くなった、歩くスピードがガタ落ちそのほかいろいろ。
でも、また昨年は、私より年上の方で、壮者をしのぐ元気さで頑張っている方に何人もお会いし、励まされました。また、死の寸前まで、悪い体で書き続けたとももあります。生きている限りちゃんと生きたい、と思います。私、目も、耳も悪くありません。このことだけでも、ありがたいと思います。少し自分の能力の落ちているところを、自分できちんとつかみ、そこを,「補完」すればいいと思います。
さて今年は昨年よりさらに忙しくなりそうなのですが、その第一の」目玉商品」?が、外国人。外国に住んでいる方の取材です。
その一人が、パリに住む松島かず子さんで、昨年お会いしたのですが、私の『ヒロシマの少年少女たち』に大変関心を抱かれ、映像にしてみたいと言われるのです。松島さんは半分しろうとのような方なのですが、そのような「作者」にでも、フランスは大分助成金をくださるようです。さすが文化の国!一方、フランスと言えば、核を持つ国でもあり原発の推進国でもあります。そのフランスの人々に、原爆の恐ろしさを少しでも知っていただければ。私はとても喜んで案内役を承諾しました、
もう一人は、浜松に住むアメリカ人のM・シェフタルさんです。静岡大学の教員で、29年も日本に住み、日本語もとても上手ですが、原爆のことはその被害の酷さも知り、原爆投下の国の人間として、長年とても行けなかった。昨年オバマさんが広島に行ったので、勇気をもらって本格的に原爆に取り組もうと思ったと言います。オバマの広島行きも、意味があったのだ、と笑いましたが。シェフタルさんは私の本を読んで、一番先に私にインタビューを申し込んできました。お会いしたところ、体は大きいし、ちょっと威圧されましたが、とてもまじめで真剣なことが分かりました。彼の場合、ジョン・ハーシーの『ひろしま』のように何人かの方に遭わなければどうしようもない、そして被爆のことと、それから70年をどういうふうに生きてこられたか、話を聞いてまとめるしかないだろうと思いました。
それで、先日、あなたもご存じの狩野美智子さんに会ってもらいました。狩野さんはいま小田原の老人施設におられます。
小田原は浜松と東京、品川と真ん中で、ちょうどよいということもありました。
中山さんにも差し上げたかと思いますが、私は、中山さんと往復書簡を始める前、狩野さんと往復書簡を交わしています。狩野さんと私の「共通点」と言いますと東京の私立の女学校から、広島(長崎)に一年前に行き被爆したということでしょうか。ともに、父親の仕事のためで、行った先の地理も知らず、親戚もなく、知り合いもなく…・というところは似ていますね。ともに東京では、歴史と伝統のある女学校で、公立の学校に比べ、のんびりしていたと思います。狩野さんは転校した翌日から、かの有名な三菱茂里町工場に学徒動員で働きに行かされ、魚雷を作らされているのですが、茂里町工場って幕臣に近いのですね、1.5キロないくらい。そこでピカ。あっという間に工場が倒れ、下敷きになったようです。
結局山に逃げ、そこで一夜明かすわけですが、家族は生きているかどうか本当に心配されたようです。そのあとのこと、生き方、結婚、子どもを持ち、教員を経て、スペインのバスクに興味を抱く、本当にすごい一生なのですが、こんなことを書いていてもきりがないので、話の大部分ははし折って、私も初めて聞いてびっくりした話を書きましょう。
彼女、帰り着いた自宅で(爆心から3キロ)、敗戦のラジオを聞いているのですが、あの、例の「玉音放送」の後もラジオを聴いているのですよ。そしたら、あの後ラジオ(当時はNHKとはまだ言いませんでしたね。JOAKは東京で、地区によりJO〇〇といっていましたね)。そのラジオで、ポツダム宣言の解説やら、日本は、本州と九州、四国、北海道そのほか小さな島々だけの小さな国になってしまった、これまでとは違うということをしっかり解説したのですって。だから彼女は、その時、敗戦とこれからどうなるのかすべて理解したらしいのです。狩野さんは私と学年では二年上で、一五歳です。一三歳の私とはかなり違うと思うのですが、びっくりしました。
それにあの敗戦の。いわゆる「玉音放送」を聞いた人はたくさんいますが、その「後」を聞いたなど言う人、今まで聞いたこともありません、びっくりしてしまいました。ラジオが当時のことで聞きにくかったこともありますが、あの放送の意味が分かった人も茫然自失してしまって。それから後ラジオを聴く人などいなかったということでしょうか。
私も、放送を聞いて茫然とし、大人たちもみなぼんやりしていますので、一人抜け出して学校に行きました。するとひとり生き残っていた友が、誰に聞いたか、夢を見たのか、ウジで一杯の腕を振り回しながら「日本もあんとな爆弾を作ったんと。もう大丈夫じゃ、今度はアメリカをやっつけるのじゃ」と叫ぶ、それを聞きながら堪えられず、庭に出て泣いたことをよく覚えています。あの日(8月15日)は大変な日でした、