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続・対話随想 №10 [核無き世界をめざして]

  続・対話随想⑩ 関千枝子から中山士朗さまへ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 お手紙に体のことと言いますか、今、昔からの友達たちが、いま一つ健康状態がよくないようだというようなことが書いてあり、私も「本当に!!」」と思ってしまいました。昨年暮れには喪中欠礼葉書も多かったし、年賀状にも「今年で終わりにする」というのが多かったのです。昨年は、有名人で忘れられない人々の死も多く、がっくりくる年もありました。。この喪失感、なんとも言えませんし、自分自身、弱ったな、という感じもあります。仕事が遅くなった、歩くスピードがガタ落ちそのほかいろいろ。
 でも、また昨年は、私より年上の方で、壮者をしのぐ元気さで頑張っている方に何人もお会いし、励まされました。また、死の寸前まで、悪い体で書き続けたとももあります。生きている限りちゃんと生きたい、と思います。私、目も、耳も悪くありません。このことだけでも、ありがたいと思います。少し自分の能力の落ちているところを、自分できちんとつかみ、そこを,「補完」すればいいと思います。
 さて今年は昨年よりさらに忙しくなりそうなのですが、その第一の」目玉商品」?が、外国人。外国に住んでいる方の取材です。
 その一人が、パリに住む松島かず子さんで、昨年お会いしたのですが、私の『ヒロシマの少年少女たち』に大変関心を抱かれ、映像にしてみたいと言われるのです。松島さんは半分しろうとのような方なのですが、そのような「作者」にでも、フランスは大分助成金をくださるようです。さすが文化の国!一方、フランスと言えば、核を持つ国でもあり原発の推進国でもあります。そのフランスの人々に、原爆の恐ろしさを少しでも知っていただければ。私はとても喜んで案内役を承諾しました、
 もう一人は、浜松に住むアメリカ人のM・シェフタルさんです。静岡大学の教員で、29年も日本に住み、日本語もとても上手ですが、原爆のことはその被害の酷さも知り、原爆投下の国の人間として、長年とても行けなかった。昨年オバマさんが広島に行ったので、勇気をもらって本格的に原爆に取り組もうと思ったと言います。オバマの広島行きも、意味があったのだ、と笑いましたが。シェフタルさんは私の本を読んで、一番先に私にインタビューを申し込んできました。お会いしたところ、体は大きいし、ちょっと威圧されましたが、とてもまじめで真剣なことが分かりました。彼の場合、ジョン・ハーシーの『ひろしま』のように何人かの方に遭わなければどうしようもない、そして被爆のことと、それから70年をどういうふうに生きてこられたか、話を聞いてまとめるしかないだろうと思いました。
 それで、先日、あなたもご存じの狩野美智子さんに会ってもらいました。狩野さんはいま小田原の老人施設におられます。
 小田原は浜松と東京、品川と真ん中で、ちょうどよいということもありました。
 中山さんにも差し上げたかと思いますが、私は、中山さんと往復書簡を始める前、狩野さんと往復書簡を交わしています。狩野さんと私の「共通点」と言いますと東京の私立の女学校から、広島(長崎)に一年前に行き被爆したということでしょうか。ともに、父親の仕事のためで、行った先の地理も知らず、親戚もなく、知り合いもなく…・というところは似ていますね。ともに東京では、歴史と伝統のある女学校で、公立の学校に比べ、のんびりしていたと思います。狩野さんは転校した翌日から、かの有名な三菱茂里町工場に学徒動員で働きに行かされ、魚雷を作らされているのですが、茂里町工場って幕臣に近いのですね、1.5キロないくらい。そこでピカ。あっという間に工場が倒れ、下敷きになったようです。
 結局山に逃げ、そこで一夜明かすわけですが、家族は生きているかどうか本当に心配されたようです。そのあとのこと、生き方、結婚、子どもを持ち、教員を経て、スペインのバスクに興味を抱く、本当にすごい一生なのですが、こんなことを書いていてもきりがないので、話の大部分ははし折って、私も初めて聞いてびっくりした話を書きましょう。
 彼女、帰り着いた自宅で(爆心から3キロ)、敗戦のラジオを聞いているのですが、あの、例の「玉音放送」の後もラジオを聴いているのですよ。そしたら、あの後ラジオ(当時はNHKとはまだ言いませんでしたね。JOAKは東京で、地区によりJO〇〇といっていましたね)。そのラジオで、ポツダム宣言の解説やら、日本は、本州と九州、四国、北海道そのほか小さな島々だけの小さな国になってしまった、これまでとは違うということをしっかり解説したのですって。だから彼女は、その時、敗戦とこれからどうなるのかすべて理解したらしいのです。狩野さんは私と学年では二年上で、一五歳です。一三歳の私とはかなり違うと思うのですが、びっくりしました。
 それにあの敗戦の。いわゆる「玉音放送」を聞いた人はたくさんいますが、その「後」を聞いたなど言う人、今まで聞いたこともありません、びっくりしてしまいました。ラジオが当時のことで聞きにくかったこともありますが、あの放送の意味が分かった人も茫然自失してしまって。それから後ラジオを聴く人などいなかったということでしょうか。
 私も、放送を聞いて茫然とし、大人たちもみなぼんやりしていますので、一人抜け出して学校に行きました。するとひとり生き残っていた友が、誰に聞いたか、夢を見たのか、ウジで一杯の腕を振り回しながら「日本もあんとな爆弾を作ったんと。もう大丈夫じゃ、今度はアメリカをやっつけるのじゃ」と叫ぶ、それを聞きながら堪えられず、庭に出て泣いたことをよく覚えています。あの日(8月15日)は大変な日でした、


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