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続・対話随想 №23 [核無き世界をめざして]

  続対話随想23 関千枝子から中山士朗様へ

               エッセイスト  関千枝子

 昨日からブログが21、私の文章に変わりました。カラ梅雨を嘆いています。そして今…。関東では八月一日から二週間以上雨が降り続き日照不足で野菜の生育が遅れ,価格暴騰、プールも海岸も上がったりで嘆いています。本当に妙な天候。困ったことです。

 さて、この夏の報告ですが、まずうれしいこと、私の「広島第二県女二年西組」文庫版、九刷りまで行っているのですが、私はもうこれでおしまいかと思っていましたら一〇刷りが決まったと筑摩書房から連絡が来ました。本当!と言ってしまいました。「原爆物」は売れないのだそうです。私の本などが、文庫版で10刷り、ハードカバーから数えて32年も生き続けていること、ありがたいことだと思います。
 七月二八、二九日、博多で開かれている政教分離全国大会に行きました。
 その帰り、博多の誠座という素人劇団が私の「広島第二県女二西組」の朗読劇を上演するというので、その稽古を見に行きました。これは、前に関西の様々な演劇活動でご活躍の熊本一さんが、私の四半世紀前に書いた脚本で、大阪や生駒のシニア劇団で上演してくださっていることを「往復書簡第Ⅲ集」でも書きましたが、六月にシニア劇団の全国交流大会が博多で開かれ、熊本さんは生駒の劇団を率いて参加され、「…二年西組」を上演されたのです。それを見た博多の誠座の方がこれを見て感動され、自分たちの劇団で八月五日に上演したいと言われるのです。どんな劇団かさっぱりわからないのですが、ありがたいことと思い、とにかく稽古を見に行くことにしました。政教分離大会がすんでから行ったので、稽古が終わる直前だったのですが、年寄りの女性たちあり、女子高校生おり、小学生もひとりあり、何とも幅広くびっくり。うまいとは言えず、群読もバラバラで、これでやれるのかしら、と不安になったのですが、皆さん一生懸命です。靖国神社のことなど、かなり厳しい場面もあるのに力まず普通に群読しておられます。演出の指揮をとっているのが、座長らしいのですが、若くてまたびっくり。
 稽古が終わって食事をしながら話したのですが、座長の井口さんはまだ三二歳、高校の時から演劇が好きで、演劇好きな仲間と誠座を作った。普段は介護の勉強をしている。自分の座だけでは人数が足りないのでシニアの女性グループの協力を得たと。高校生、小学生はこの上演だけの参加のようです。今年だけで終わらず三年ごとにもう一度上演したいなど言うので、「私、三年先まで生きているかどうかわからないけど」と言ったら「じゃ二年先にやりましょう」ですって。あまり軽やかで、楽しげなので驚いてしまいました。私が構えすぎているのかも、ね。
 それから新幹線で広島へ、博多―広島って、たった一時間なのですね。近い!
 その夜、広島で、YWCAの難波さんと打ち合わせ、翌日はリニューアルなった資料館の東館を見学しました。なんだかきれいすぎ整理されすぎていて、どうも物足りない。これは他の方も同じような感想を持たれる方が多いようです。それから県立病院緩和ケア病棟の戸田さんの所に行きました。戸田さんは八月六日に、教会で、被爆証言をするのだそうですが、それを朝日新聞の宮崎園子さんも取材するのだそうで、宮崎さんの車で県病院まで連れて行ってもらいました。
 戸田さんは一度県病院から出されて鷹野橋中央病院にいたのですが、(なんだか緩和ケアの規則でずっといられないとかで)そこがあまりあわなかったようで、鷹野橋にいたころは声に元気がなく心配していたのですが、諸事親切で病室もとてもきれいな県病院に帰ってきて、とても元気そうです。再発したがんの進行も止まっているとかで、痛みもないようです。
 六日に語る被爆体験の原稿を見せてくださいました。こんな自分のことを書いていいじゃろうか、聞かれました。彼女、宇品の一番北、御幸橋に近いところに家があったのです。御幸通りを行進する軍靴の音・陸軍の港宇品港に向かう兵隊の行進、それを日常聴いて育ったわけです。七人きょうだいで五人は男、そのうち四人を戦争末期に失っています。二人は結核で、二人は戦地で。骨もない帰国。人前では泣くこともできずじっと耐えていたお母さんが夜、一人になってワーッと泣いたその声が忘れられないと。もちろん書いていいことよ、書かなければいけないことよ、と言いました。
 原爆で屋根も吹き飛んでしまって柱だけが残っているようになった家で、戸田さんの帰りを心配しながら待っていたお母さん。夜になって、駅前の国鉄の作業場から帰ってきた戸田さんを見て、どんなにうれしかったか。
戸田さんは自分は運よく助かったが、建物の下敷きになった友を救えなかった。その苦しみを抱えて、戦後、生きてきたわけです。高校三年のとき、私たちは、国泰寺高校の一期生として知り合ったが、こんなことを話したこともなかったのです。
 いちど東京に帰り、八月四日から広島入り。中国新聞を見ると、市中の慰霊碑が、天満川岸の現在の場所が、川の整備だかなんかでまずくなり、慰霊碑が基町高校(市中の後継校になっている)に移されるという記事です。この前、パリの松島さんに撮影していただいたのが、最後の撮影になったのかもしれないと、不思議な思いになりました。もう一つ、中国新聞のコラムで元山口放送の磯野恭子さんが亡くなられたことを知りました。磯野さんは優れたドキュメンタリストで、民間放送で、女性で初の役員にもなられた方です。コラムには彼女が満蒙開拓団の番組を作られ、初めて問題を明らかにしたと書いてありました。彼女は社会問題に敏感な方で満蒙のことは私知りませんでしたが、原爆のことも、ずいぶんいいドキュメンタリーを作っています。ことに胎内被曝の原爆小頭児を扱った「母さんの声が聞こえる」は名作で、私もその感動を忘れられません。中国新聞の方ももうそのことを知らないのか、原爆報道のことはまったく書かれていないのが残念でした。
 中国新聞の西本さんとも会いました。西本さんのお話によりますと資料館は今整備中の本館がメインで。東館はつけたりのようなものだから、あれでいいのだ、というようなことでした。それから往復書簡のこと、今もブログ上でやりとりが続いていますが、あとはお金が続かず、本にはできないだろうと言いましたら、西本さんは気になるようなことを言われました。原爆物の出版など興味を持っている人はあまりいない、中国新聞はデータがあるので、色々出版しているが、売れないのでただで配ってしまう。在庫があると税金を取られる、それはかなわないので、ただで配ってしまう方が損が少ないと。私の『第二県女』はよく売れている方だと。西本さんによると原爆物のノンフィクションで一番売れているのは大江健三郎のヒロシマノートであれで70万部くらいだそうです。やれやれ、私たちの往復書簡まだずいぶん西田書店に残っているけれど、あれ、西田書店の迷惑になるのではないかしら。心配になってきました。
 フィールドワーク少しでも涼しい方がいいと5日の午前中にやりました。(去年までは午後)。しかし、日差しのきついこと。暑いこと。YWCAの方、気にして車いすを出そうかと言われたのですが断りました。私が車いすで参加者に汗水泥で歩かせては、申し訳ないから。歩くのは平気ですが、立ってしゃべるのがきついのでその時の椅子を用意していただき(難波さんの軽自動車で運んでもらいました)、とにかく私、ちゃんと歩きました。皆様にあの日、少年少女たちは、炎熱の日に火のなかを逃げ回ったこと、慰霊碑を案内したが、慰霊碑もない、名前もわからなくなっている国民学校高等科の子どもたちのことを考えてほしいと訴えました。この日もフランスの松島さんや、共同通信などの取材があったのですが、共同の記事は北海道新聞に出ました。北海道新聞とはまた奇妙な縁ができるのですが、それはまたこの次。
 六日の朝は、第二県女、山中の慰霊碑のところで慰霊祭。いつも福山から見える平賀先生の姿が見えず、お歳(九五歳を超えられたはず)なので、さては、と緊張したのですが、つい数日前骨折されたのですが、いたってお元気で来年はどうしてもと頑張っておられるそうで安心いたしました。
 この後お茶など飲みながら暇をつぶし、お昼に鷹野橋の日本基督教団の教会に。なんだか私がたくさんの人(クリスチャンでない)人を連れ込んだみたいで申し訳ないようでしたが、戸田さんの証言とてもよかったです。松島さんも取材していました。
 その日の夕方、平和公園の近くのレストランで、松島さん、堀池美帆さん、私、それに後から西名さん(前に話しました大庭里美さんの娘さん)も加わり夕食をいたしました。この場で初めて会った人も多いのに、大いに話は盛り上がりました。
 そんなことでこの日の平和式典の様子は、テレビなどで知るだけでしたが、核兵器廃絶条約に触れない首相、そのことに何だか控えめな広島市長、怒り狂いました。
 七日、台風が来るというので割合早く広島を出、帰って新聞を見ると朝日社会面トップの戸田さんの記事、全国版で出たのだ、と驚きうれしくなりました。教会の方も喜ばれたかな?
 九日、長崎、相変わらず核兵器禁止条約に触れない首相、それに鋭く迫った長崎市長見事!ついヒロシマと比べてしまいますね、長崎の被爆者も「あなたはどこの国首相なのだ!」と迫ったそうです、立派でした。
 帰ってからも連日バタバタしていたのですが、十九日、土曜日、TBSの報道特集で中国放送の秋信記者のことを取り上げていてびっくりしました。私、彼とはあなたの番組「鶴」の取材のころ初めてお会いしたのですが、その後、昭和天皇への原爆についての鋭い質問で感心していました。報道特集で言われたので、びっくりしたのですが、小頭児のことに最初に気づかれたのは、秋信さんだったのですね。その後「キノコ会」の結成に協力というか、中心になって支えられたのですね。驚き、このことをしっかり取り上げら、この時期の原爆報道にされたTBS(金平記者)に感動しました。
 
 あまり長くなりました。この辺で終わらせます。まだ書きたいことがありますが、次回に持ち越します。 


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