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海の見る夢 №76 [雑木林の四季]

    海の見る夢
        -鳥のカタログ―
                澁澤京子

  ・・光は裂け目から射し込んでくる
                  『Anthem』レナード・コーエン

左の股関節を悪くして不自由している。足が悪くなると、うちからバス停までの距離を、うちから吉祥寺駅くらいの距離に感じ、吉祥寺駅まで行くのに、新宿に行くくらい遠くに感じるようになった。歩く速度が遅くなることによって距離感覚が変わったのだ。のろのろと歩いていると青信号の時間が短いことに気が付くし、手押し車を押して歩いているお年寄りの気持ちがよくわかるようになってきた。

桜の時期に、うちの近所の桜を立ち止まってぼんやり見ていたら(足が痛かったので立ち止まっていた)、桜の花がいきなり大きくなって目の中に飛び込んでくるように見えたので驚いた。毎年、桜の花を見ているが、こんな見え方をしたのははじめて。たまたまその時の私の波長が桜にピッタリと合ったのかもしれない。健脚だと、もっといい桜を、いい場所に行こうと考えておそらく通り過ぎてしまうところを、痛くて歩けなくなったために、普段では見えなかった桜の声が見えたのだ。

自然と会話ができるというと連想するのは、小鳥に説教したという聖フランチェスコの逸話。昔は、小鳥に説教したというのは作り話だろうと思っていたが、鳥を飼い始めてから実際にそういう事はあったのだろうと思うようになってきた。去年オカメインコを探しているときに気が付いたのだが、野鳥というのはこちらが口笛を吹いたり話しかけると、必ず返事をするのである・・返事されるとその度にうちのオカメインコかと思い、何度も樹上を見上げて探すはめになったが。

シジュウカラの言語の研究をされている鈴木俊貴さんによると、シジュウカラは20余りの単語を使い分け出来るそうで、危険な生物である蛇やカラスの場合はそれぞれを指し示す単語を持ち、また同じ単語でもアクセントの違いで別の意味として聞き分けることができるのだそうだ。鳥が意味ある言語を持っているという考え方は、鳥を飼っている人にとっては「ああ、やっぱり」となるだろう。シジュウカラの言葉の聞き分けができるということは、鈴木さんはシジュウカラとある程度のコミュニケーションがとれると言う事で、実にうらやましい。今うちにいるウロコインコ(9か月)は、朝、歯を磨いていると、洗面台にとまってしきりにこちらに話しかけてくることがあるが、哀しいかな何を言っているのかよくわからない・・しかも時折、急に攻撃的になるのは、鳥というのは犬や猫と同じように人の気分を察知する能力も優れているのでイライラするのかもしれない。もちろん、鳥は人とは別の世界に住んでいる、しかし両者を結ぶ「通路」は確実に存在する。 

 ―小鳥は言葉を使わずに音楽で 天使のように囀ります
        ~『アッシジの聖フランチェスコ』オリヴィエ・メシアン

人の音楽の好みというのが一体何によって決定されるのかよくわからないが、音楽ではまず、恋愛のような一目?ぼれ現象が起こり、明けても暮れても恋の相手を想うように、同じ曲を何度も繰り返して聴いたり、同じ作曲家や演奏家の曲を続けて聴くことになる。「これだ!」という感じでまるで天啓のように脳天を直撃するのが音楽なのである。

鳥に恋して世界中の鳥の鳴き声を採譜し、鳥類学者のように鳥の生態も研究していた作曲家オリヴィエ・メシアン。メシアンはその鋭い聴覚で500種類以上の鳥の声を聴き分けることができ、シジュウカラの研究をしている鈴木さんと同じように、鳥が意味ある言語でお互いに会話していることをよくわかっていたのである。博物学者であったハドソンは逆に、鳥類観察者は一流の音楽家になれるくらいの鋭敏な聴覚で鳥の鳴き声を聴き分けると書いている。

メシアンは『鳥のカタログ』など鳥の鳴き声をベースにして何曲か作曲しているが、同時に敬虔なカトリック教徒でもあったのでオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』を作曲した。そこで聴いてみたが、とにかく難解だし長い・・長時間に及ぶこのオペラを全曲聴くのはかなりの忍耐力を要する。しかもyou tube画面には楽譜しか出てこないし。(字幕は出てくるが)。オペラの後半になってくると、聖フランチェスコの口を借りて自分の鳥に対する熱い思いを打ち明けているんじゃないかと思うほど、鳥に対する賛美が続き、メシアンにとって、地球上で最も優れた音楽家であり、また最も洗練された美しい生物は鳥だったのだ。

ところで、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』を聴いて忍耐力を付けた後にメシアンの『おお聖なる饗宴よ』(O Sacrum Convivium)を聴いてみたら、思わず鳥肌がたったのであった。こんなに神秘的で荘厳な聖歌ってあるだろうか?・・私にとっては桜が親しく目に飛び込んで見えたのも、この曲を聴いて感動したのも足が悪くなったおかげで、普段だったらメシアンをここまでじっくりと集中して聴かなかっただろうし、その魅力もわからなかっただろう。メシアンの音楽は一人でいる時にしんみりと聴くのにいい。メシアンのほうがラヴェルのピアノ曲より瞑想的であり、俗世間の汚れを洗い流してくれるような浄化作用を持っているが。

 -音楽は真理に欠けている私たちを神に導きます。
                       ~メシアン

メシアンの『鳥のカタログ』を聴いていると、鳥の群れの動き・・まったく予測不可能でいながら全体では統制の取れている、活き活きした鳥の群舞を連想する。そしてそれは流れる雲の動きと同じで、二度と同じ瞬間がやってこないことも思い起こさせるし、鳥の囀りの持つ自然の調和が、私たち人間が持っている調和のイメージとも違う事にも気が付く。

毎朝、起きると紅茶を飲むためにヤカンを火にかける、そうするとうちのウロコインコは私の肩にとまってお湯が沸く前に「ピーッ」とお湯の沸いたヤカンの音を再現してみせる、紅茶にお湯を注ぐ前に「ジュウッ」と注ぐ音を再現する。鳥の音に対する記憶力と予測能力は素晴らしく、それゆえ「ゴアン」(ごはん)、「ルーちゃん」(寂しい時、ケージから出してほしい時)など様々な鳴き声で人に訴えるのである。窓の外でムクドリやヒヨドリの群れが騒いでいると、しきりに「ルーちゃん」と連呼して自分の存在を懸命にアピールしているのが愛らしいのと同時に、決して野生には戻れないことを考えると可哀そうでもあるが。

鳥を飼っている方なら、鳥がどんなにか賢く、また素早いテンポで生きていて、時折予測不能な動きをするのかをご存じだろう。ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトリューシ-カ」のテンポの速さはかなり鳥のテンポに近いが、メシアンの『鳥のカタログ』には間というか余白があって、余白があるために鳥の囀る風景全体も、聴いている人に想像できるようになっている。

メーテルリンクの『青い鳥』では、チルチルとミチルが大喜びで夜空を飛ぶ青い鳥の群れを追いかけて、捕まえたとたんに死んで黒くなってしまうというシーンがある。また、聖フランチェスコの逸話で、兄弟レオが「真の歓びは何ですか?」とフランチェスコに尋ねる。すると、すべての人を回心させても、奇跡を起こしたとしてもそこに真の歓びはない、と聖フランチェスコは答える。人が窮乏した、最もみじめな状態に置かれたときに、初めて真の歓びがわかるだろう、と言うのだ。真の幸福は自己満足の状態にあるものではなく、むしろその反対の欠乏した状況で初めて見えるということ、つまり真の幸福は、自分の意志によって獲得されるのではなく、神の恩寵のみにあるということだろう。

愛というのは、完全なものが不完全な人間に与えるようなものではなく、むしろ両者が対等であるときにはじめて成立するのかもしれない。メシアンがその教室で多くの優れた弟子(クセナキス、ピエール・ブーレーズ、シュトックハウゼンなど多数)を育てることができたのも、彼があくまで生徒と対等な立場をとれる「愛の人」だったからであり、メシアンは自分の追随者を嫌った。(鳥の社会には上下関係がないように)

メシアンは鳥の研究を通して、神(自然)の秩序に限りなく接近しようとした。(敬虔なカトリック教徒であったメシアンにとって「偶然」は存在しない)幼い時、教会のステンドグラスの色彩に音を感じるという共感覚の持主だったメシアン。メシアンはやはり、天上の音楽(調和)を信じたピタゴラスの末裔の一人だったのだと思う。


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