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浅草風土記 №20 [文芸美術の森]

続吉原附近 5

       作家・俳人  久保田万太郎


           五

 吉野橋をわたって、わたしはそのまま右へ切れた。すなわち、さばさばと空地になった「道哲」のあとを横にみて、そのまま土手……といっても今はもう決して土手じァない、区画整理後、そういわれるだけの特別の高さをその道は失った。両側の町々と同じ低さに平均された。つまりほ、三の輪へ続く一筋の平坦な広い往来になったのである。が「先刻よりずっと濃くなった月の影を仰ぎつつ、土手のほうへわたしはあるいた」と「吉原附近」の最後にもわたしは書いた。便宜のためしばらくわたしはそういいつづけるであろう。……へ入った。以前は、そこか、だらだらと田町へ下りられたからそれだけの風情もあった、ただそのままの、凡常な、ついとおりの往来の、とある曲り角になったのでは、合力稲荷の職のかげも、霜げた、間のぬけた感じである。――十年まえ「続末枯」を書いたとき、わたしは、狂言廻しの真葛庵五秋という俳諧師に、わざわざこのあたりをあるかした。――と、ふとそれをわたしはおもい出した。

 「……どうせここまで来たものだ、出たついでに、公園の近所まで伸して、宮戸座のそばに三味線屋をしている甥のところでもたずねようと、五秋は考えた。
 合力稲荷のところから、田町へ、土手を下りた。店を閉めた上総屋のまえを通り、如燕の看板の出ている岩勢亭(いわせてい)の前をとおって、鬘屋のところから右へ切れたところで、五秋は、小梅の宗匠のところへ来る吉原の引手茶屋の主人の紅蓼に逢った。
 『五秋さん、どちらへ』
 『一寸、いま、今戸まで』
 帽子をとりなから五秋はいった。
 『今戸は鈴むらさんですか』
 『そうでございます。――ところが、生憎留守で』
 五秋はいった。
 『どちらのおかえりです』
 『今日は古笠庵の芭蕉でしてね』
『ああ古笠庵の――』
 五秋はすっかり忘れていたことを思い出した。
 「そうでございましたね。――今日……すっかり忘れておりました、わたくし』」
 五秋、紅蓼、ともにわたしの空想の人物である。手近にみ出すことの出来た二三人の人間をあつめ、それをわたしの空想に浸して、それぞれ都合よくでッち上げた存在である。
が、この二人、十年まえの、よし、店は閉めたとしてもまだそこに、うそにも「上総屋」という名まえの残っていた底(てい)の、そうした古い、すぎ去った情景のなかにだったからこそ、自由にわたしに動かすことが出来たのだろうか? こうした会話を、忌憚なく勝手にとり交させることが出来たのだろうか7 ――そうしたうたがいがふとわたしの胸を掠めた。
 「そうじゃアない。――そんなことはない」
 すぐにわたしは自分にいった。五秋も紅蓼もまだ生きている。震災が来ても、区画整理が出来ても「八百善」がなくなっても「道哲」が空地になっても、そうしてその「日本堤」が平坦になっても、この二人はなお生きている。――生きている以上、どこへでも出て来ていいわけである。――どこへだって、出て来ていけないというわけはないはずである。
 かれらをして、いま、合力稲荷のまえにひさびさに出会せしめよ。――おそらくかれらは十年まえと同じ調子でいうであろう、こうしたことを……
「しばらくお目にかかりませんでしたね。どうなさいました、その後?」
 「有難う存じます。―一相変わらず、貧乏暇なしで……」
 「いつ、けど、お目にかかったきりでしょう? いつでしたろう、あれは、このまえお目にかかったのは?」
 「たしか、あれは、一昨年の……」
 「一昨年?……と、まだ、ここに土手のありました時分?……」
 「そうでございます」
 「大した、それは、古い……」
 「いかがでいらっしゃいます、お景気は?」
 「といっていただくのも面目ないくらいのもので。――いえ、実際、全く不思議な世の中になりました」
 「ほんとでございますか、このごろ横町の妓たちがみんな廓外へ稼ぎに出ると申すのは?」
 「みんな、ええ、土手の飲食店へ入ります。――そうしない分には立ち行きません」
 「左様でしょうかねえ」
 「台屋だって、あなた、このごろじゃァ廓外の出前でも何でもします。その方が利方(りかた)です」
 「…………」
 「それをそうした算用にしないと、いつまでむかしのような科簡でいると、平八のようなことが出来上ります」
 「どうかいたしましたか、あの男?」
 「御存じありませんか?」
 「存じません」
 「吉原におりませんよ、もう、あの男」
 「で?」
 「満洲へ行きました」
 「満洲?」
 「いろいろ日くもあったんでしょうけれど。――とにかく土地にいられなくなったことだけはたしかです」
 「可哀想に」
 「満洲へ行くまえ、しばらく大阪あたりにいた塩梅です。――その時分、どこからともなくよこした句があります。――後厄(あとやく)のとうとう草鞋はいちまい……」
 「後厄のとうとう草鞋はいちまい:…・」
 「幇間(ほうかん)もらくは出来なくなりました」
 ……震災が来ても、区画整理が出来上っても、「八百善」がなくなっても、「道哲」が空地になっても、「日本堤」が平坦になっても、かれらの精神生活は、焼けず、潰えない。
かれらの感傷はつねにかれらをつつみ、かれらの人生はつねにかれらをめぐって身動(みじろ)がない。――ということは、たとえば、水の庇にしずんだ落葉……「トたび水の底にしずんだ落葉はつねにしずかに冷やかだから……
 おもわザ諸が横へ外れた。――が、謡は横へそれでもわたしの足はそれなかった。土管、瓶類、煉瓦、石炭、タイル、砂利、砂、セメント、そうした文字のいたるところ、壁だの看板だのに書きちらされた右手の家つづきをながめながら、わたしは真っ直にあるいた。
そうしてそのあと、左手に、千束町への曲り角に瓦斯会社の煉瓦の建物をみ出したとき、いつかわたしは、小料理屋、安料理屋の、けばけばしくいらかを並べた「吉原」のまえに立つでいた。……

 「江戸演劇の作者が好んで吉原を舞台にとった理由は明白である。当時の吉原は色彩と音楽の中心だった。花魁(おいらん)の袿(うちかけ)にも客の小袖にも。新流行の奔放な色と模様とがあった。店清掻(みせすががき)の賑かさ、河東、薗八のしめやかさ。これを今日の吉原に見る事は出来ぬ。今日の吉原は拙悪なチヨオク画の花魁の肖像と、印絆纏に深ゴムを穿いた角刈と、ヴイオリンで弾く『カチウシヤの唄』の流しとに堕している。当時の吉原は実際社会の中心であった。百万石の大名も江戸で名うての侠客も、武家拵(こしらえ)の大賊も、みんなここへ集まるのであった。それ故、劇中の人物に偶然な邂逅をさせるのに、こゝ程便利な場所はなかったのである。併し今日の吉原をさういふ舞台に選むのは無理である。大門側のビイアホオルのイルミネエシヨンの下で、計らず出会ふのは奥州誹りの私立角帽と農商務省へ願ひの筋があって上京中のその伯父さんとである。裸の白壁に囲まれた、ステエシヨンの待合じみた西洋作りの応接間で、加排入角砂糖の溶かした奴を飲まされて、新モスの胴抜に後朝の背中をぶたれるのは、鳥打帽のがふひやくか、場末廻りの浪花節語りである。今日の吉原は到底Romantikの舞台ではない」

 いまは亡き小山内〔薫〕先生、嘗て『世話狂言の研究』の「三人吉三」のくだりでこうしたことをいわれた。いまはその「花魁の肖像」も覗き棚のなかに収められて一層商品化し、「カチューシャの唄」は「ソング・オブ・アラビー」にまで幾変遷して、いよいよ低俗になった。――そうした内容をもつ「吉原」の、なにがし酒場と、なにがし牛島料理店とによってまずその入口を支持されるということは、あまりにこれ、ことわりせめてあわれではないか。――しかもそのなにがし酒場のまえ、うつし植えられた「見返り柳」のそばに立てられた磨硝子のたそや行燈、老鼠堂機一筆の立札。――その立札のうらにしるされた一句をみよ。
 
 きぬ/\のうしろ髪ひく柳かな

 この気の毒な老宗匠は器用にただ十七文字をつらねる職業的訓練以外になんにも持っていない。
 ……風の落ちた、冬の日の暮ほどわびしきのつのるものはない。――わたしは、そのままなお、大門を横にみつつあてもなく三の輪のほうへあるきつづけた。

『浅草風土記』 中公文庫



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