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武州砂川天主堂 №42 [文芸美術の森]

第十一章 明治二十四年 3

         作家  鈴木茂夫

七月十三日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ガンは全身に広がった。さらにガンは心臓を冒しはじめた。名状しがたい苦悶が昼となく夜となく続く。ジェルマンは、苦しみを口にはしない。ただ、突き刺すような痛みに、思わずうめき声が漏れてくることもある。七月十八日、食物はほとんど受けつけなくなった。吐瀉(としゃ)は一段と激しくなった。牛乳までも、吐きだしてしまう。それでも気力だけで生きている。

七月二十二日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ガンが全身に転移していることが確認された。
 医師は、苦痛緩和のためにと、モルヒネ注射を行うこととした。血液の中を何かが巡る。
生気が走る。ジェルマンは、痛みカ緩和されるのを感じた。ほっと深いため息が漏れる。苦痛が消えた。ジエルマンは、痛みに妨げられず、考える事ができることを知った。うれしい静寂のひとときだ。だが、なぜそうなったのかも理解した。神父たちと医師と思いやりからだ。感謝しないではいられない。と同時に、それは自らの病状が差し迫っているのだとも覚った。
 ジェルマンは、少量の肉とワインを口にすることができた。そして安らかな眠りに入っていった。
 頬の肉が削げ落ち、毛布の下の体が、一回りは小さくなっている。修道女たちは、ベッドのかたわらの椅子に腰掛けてひたすらに看取っている。

七月二十五日、香港・パリ外国宣教会医療施設ベタニアの園。
 この日、聖体拝領。ジェルマンは、この日、ベルリオーズ司教が日本で叙階されるのに、式典に参加できないのはとても寂しいことだと、看護人につぶやいた。

七月二十六日、日曜日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 聖体拝領。モルヒネ注射が打たれたが、苦痛は消えず、食物は喉を通らなくなった。

七月二十七日、香港・パリ外国宣教医療施設べタニアの園。
 ほんの少し元気が回復。僅かばかりの水でロを湿した。午後になると、自らベッドで起き上がり、遺書を書きはじめた。フランスの両親、パリ外国宣教会本部、東京のオズーフ司教と三通を認めた。一字、一字を確かめるようにゆっくりとペンを運んだ。

七月二十八日、香港・パリ外国宣教医療施設べ夕二アの園。
 容体は悪化した。ベッドからは起き上がれない。眠ることも困難になった。呼吸も困難になってきている。

八月一日、香港・パリ外国宣教医療施設べタこアの園。
 医師はジェルマンの臨終を吉した。極東本部の主管司教が病床に立って、聖油の秘蹟(ひせき)の儀式を執行。ジェルマンは混濁する意識の中で、僅かに警開き天井の言霊つめていた。

八月二日、香港六リ外国宣教医療施設べタこアの園。
 ジェルマンは、病床で顔を洗い、ヒデと髪を警、着衣を改めてくれるように懇願した。
 「この身を浄め、主のみ許に行きたいのです」
修道女が体を浄める。ジェルマンは息をつめて、体内に渦巻く激痛に耐え白い聖衣を着た。そんな体力は残ってはいない。気力でやりとげたのだ。
 ジェルマンは、最期の告解(こくかい)をした。
「神の僕として、神の教えを伝えるために、もつともつと歩くべきでした。意思弱く非力であった私をお許し下さい」
  その声は、今や力なく、低かった。しかし、その語り口は、明晰(めいせき)そのものだった。その場にある数人の修道女と神父たちの胸に、一条の活列なせせらぎのようにしみ通っていった。
 「みなさん、ありがとう。私はこれからお召しの時を待ちます」
 ジェルマンは、両掌(りょうてのひら)を組み、静かに瞑目した。
 脈拍は、不規則となりはじめた。脚と手が冷たくなってくる。
 午後七時半、意識が混濁しはじめた。熱のために渇ききった唇が、何かを言っている。そっと耳を寄せると、ミサの祈りが切れ切れに聞こえてきた。
 病床を取り巻く、神父たちが目配せし、領いた。
 臨終(りんじゅう)の祈りが捧げられる

八月三日、香港・パリ外国宣教医療施設べ夕二アの園。
 ジェルマンから苦痛が消えたようだ。生の終わりに訪れるつかのまの平安なのか。
 ジェルマンは、主の身許へ旅立つ悦びに充たされていた。
 故郷:フングル県での少年の日々。故郷の風景が折り重なって展がる。
 聖歌隊の一員として歌った賛美歌……。
 パリへの旅立ち……。
 大神学院の授業……。
 マルセーユの港から日本へ…。
 グレゴリオ聖歌の重唱が聞こえてくる。
 それはパリの本部で聞いたのではない。
 砂川の聖トーマス教会のオルガンの響きだ……。
 日本の信徒が、フランス語で歌う音律だ。
 その響きに母を思った……。
 ジェルマンは、胸の中の大きな教会にいる。
 思い出すことが、天井画や壁画、そしてステンドグラスに描かれてある。
 今、終わろうとしている竿二年間の生涯…・・・。
 午前五時十三分。日の出に先立つ一時間前、ジェルマン・レジェ・テストヴイドは、わが身から抜け出た。天を舞い、空を見上げて卿を踏み出す帰天(きてん)の旅。その足取りは軽やかだ。 (完) 

『武州砂川天主堂』 同時代社
                   

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