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郷愁の詩人与謝蕪村 №23 [ことだま五七五]

夏の部 8

       詩人 萩原朔太郎

五月雨(さみだれ)や御(みず)の小家(こいえ)の寝覚(ねざめ)がち

「五月雨や大河(たいが)を前に家二軒」という句は、蕪村の名句として一般に定評されているけれども、この句はそれと類想して、もっとちがった情趣が深い。この句から感ずるものは、各自に小さな家に住んで、それぞれの生活を悩んだり楽しんだりしているところの、人間生活への或るいじらしい愛と、何かの或る物床(ものゆか)しい、淡い縹渺(ひょうびょう)とした抒情味である。

百姓(ひゃくしょう)の生きて働く暑さ哉(かな)

 「生きて働く」という言葉が、如何(いか)にも肉体的に酷烈(こくれつ)で、炎熱の下に喘(あえ)ぐような響(ひびき)を持っている。こうした俳句は写生でなく、心象の想念を主調にして表象したものと見る方が好いい。したがって「百姓」という言葉は、実景の人物を限定しないで、一般に広く、単に漠然たる「人」即ち「人間一般」というほどの、無限定の意味でぼんやりと解すべきである。つまり言えばこの句において、蕪村は「人間一般」を「百姓」のイメージにおいて見ているので、読者の側から鑑賞すれば、百姓のヴィジョンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしそうでなく、単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになってしまうし、かつ「生きて働く」という言葉の主観性が、実感的に強く響いて来ない。ついでに言うが、一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術として軽い境地のものである。正岡子規(まさおかしき)以来、多くの俳人や歌人たちは伝統的に写生主義を信奉しているけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠(すくな)く、名句の中には殆(ほと)んどない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしか過ぎないのである。

花茨(いばら)故郷の道に似たる哉(かな)

 「愁ひつつ丘に登れば花茨」と類想であって、如何(いか)にも蕪村らしい、抒情味(じょじょうみ)に溢(あ)ふれた作品である。この句には「かの東皐(とうこう)に登れば」という前書が付いているが、それが一層よく句の詩情を強めている。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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