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地球千鳥足Ⅱ №41 [雑木林の四季]

「あった!」 父の故郷

      小川地球村塾村長  小川律昭

 かつて父が十三年間サン・フランシスコで生活の場としていた住居を訪ねて見たいと、かねがね考えていた。きっかけは田舎の土蔵の中で発見した二枚の写真。父はサン・フランシスコでランドリーをやっていたという。それも独身時代のことだ。父が四十六歳の時の子供である私は、接触が少なかったので、母を通してしか父のアメリカ時代のことは知らない。発見した一枚の写真はカンパニー・カーで、そこに「PHONE.OAK.3958.ADDRESS. N2510.FILBERT ST.」と記載されていた。もう一枚は乗用車、田舎のわら屋根を背景に日本で撮ったものだ。帰国時に、アメリカから鳥取県の田舎の実家に送ったのだ。日付は大正七年(一九一八)。乗用車はデトロイトのフォードミュージアムで調べてもらって、当時のキャデラックとわかった。今回の家族四人の旅は観光はもちろんだったが、この写真にあった住所の調査が私の密かな目的であった。
 いよいよその日が来た。日本から子供たちを呼び、サン・フランシスコで待ち合わせた。我々は一日早くシンシナティからサン・フランシスコに飛び、ホテルを取り、万一会えない場合を想定して最初の宿だけを事前に知らせ、当日彼らを迎えるためにサン・フランシスコ空港に出向いた。子供たちが結婚する前の話だ。
 ワイフは、「あなたのプロジェクトなんですから一人で探し当ててみたらどうですか?」と提案した。言外には、自分の親父の住所捜しは独力でやる方が有意義だろうという考えがあったようだ。私も同意し、ワイフたち三人は明日のホテルと今後の観光ルートを決め、予約するものはしてしまい、その後は市内で自由に過ごし、私は写真の住所をたよりに、かつての父の住んでいた場所を捜す、という行動分担を決めた。
 さてさて見知らぬこの広大なシスコの街、どう始めるか考えた末、昔の市内の状況や地理を知るには、市役所か図書館しかないと思った。図書館が近くにあることを知り、図書館内ではあっちこっちの人にたらい回しにされながら写真を示して尋ねた。後になってつくづく思ったことだが、満足に言葉もわからないのによくまあ調べることが出来た、と自分ながら感心した。おそらく私の真剣さが伝わって、相手もまじめに対応してくれたのだろう。余談だが、キャデラックの年式をデトロイトのフォード・ミュージアムで教えてもらった時もそうであった。

 なかなかすんなりいかなくて困惑していたら、図書館のとある部屋の人が、「待ちなさい、貴方に会わせる人がいる」と言って、ナント日本人のおばさんを連れて来てくれたのだ。もちろん職員のようだ。オハイオから来たこと、七十六年前の車の写真とその下にタイプされた父の住所だけが頼りであること、そのあたりの歴史を知りたいこと、など訴えた。するとおばさんは別な部屋に私を案内し、色々資料を調べて、サン・フランシスコにはこの住所はない、と言う。シスコに間違いないかと再質問されたが、私は「それしか開いていない」と答えるしかなかった。

 彼女は気が利いた。サン・フランシスコ湾を隔てた隣のオークランド市を捜し、「番地もぴったり合っている」と言って、今度は年代別の電話帳を三冊持ってきて、「これを調べましょう」と示した。あるではないか! なんと氏名、住所、電話番号が一致しているページが。 ”Ogawa”の名を見つけた時は天に昇る心地であった。さすがアメリカだ。旧い電話帳が保管してあるのだから、それもオークランドではなくサン・フランシスコにあったのだから、感動この上もなかった。後でわかったことだが、当時オークランド市はサン・フランシスコの一部だったのだ。

 宿に帰った。「お父さんどうだった? 私たちは宿も予約したし、ラツシアン・ヒルもチヤイナ・タウンにも行ったわ」とワイフはあっさりしたものだった。多分期待してなかったのだろう。私はこの時ほど得意満面だったことはない。ワイフの驚いた顔は感銘に変わった。私が日本人に会えてヘルプを得られたことはすぐには話したくなかったが、図書館に入るという考えが成功をもたらしたことに間違いはない。

 翌日はうだるような暑い目であった。オークランドには電車で行き、人に尋ねながら捜すのだから時間がかかった。気だけは焦るがなかなか見つからない。草臥(くたび)れてテレンコと足を引きずる家族。私は先に歩きながら捜し、ようやくにして写真に記載の同番地を見つけた。周辺は昔ながらの閑散とした住宅街、かつては高級住宅地であった面影が古い建物に残っていたが、今は庶民的な街となっていた。住んでいた家は、この辺りでは珍しい煉瓦作りの平屋。日曜学校として使われていた。ランドリー工場であったから住宅としては使用出来なかったのだろう

 父の故郷健在! やけにその番地がまぶしく感じられた。探し求めて来た甲斐があった。
 我々が入り口で「ここだ、ここだ⊥と騒がしくしていたら、隣家から黒人の男性数人が出てきて「何事か」と尋ねた。写真を見せ、「かつての父の家を訪ねて来た」と言ったら、「それじゃあ、あなたはこの建物を購入するために来たのだね」と笑いながら質問されたのには驚いたが、家族全員大笑いした。アメリカ文化の背景から考えれば、わざわざ来たということは当然の質問かもしれない。また冗談だとしても、とっさにこんな嬉しくなるジョークが言えるなんて、アメリカ人は素敵だなあ、と四人とも感心した。フレンドリーな彼と記念写真を撮って、父の七十六年前の生活を思い、瞼に去来する在りし日の父の苦難の日々を忍びながら、そこを去った。

 縁があって捜せたのか、仏が導いたのか、人間その気になれば道は開けるものだ。父から、「これは一〇〇ドルもしたのだよ」と言われてウォルサム製の腕時計をもらったことが懐かしく脳裡をよぎった。渡航に際して父が祖父から渡されたお金は、二〇〇ドルであったと聞いている。十九歳の青年、父賢蔵はアメリカで使い走りから始めて、ランドリーの経営者になり、アメリカ車を持って帰った。時代は変わろうとも当時の青年の夢は、現代の若者に通じることであろう。(一九九一年九月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社 
                                     

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