浅草風土記 №19 [文芸美術の森]
続吉原附近 4
作家・俳人 久保田万太郎
四
が、それも夢、いまはそこも「隅田公園」の敷地の一部の、河岸を縁取っていた家々はすべて取払われた。勿論、沢村宗十郎君の文化住宅も、救命艇庫も、喜多川も、あとなくそこにすがたを消して、みるかぎりの水にのぞんだひろっば、植込まれた雑木のかげに、一つ二つ、一文凧のあがっているのもむしろ長閑な感じだった。――と一しょに、慶養寺の横を斜に、山谷のほうへと広い道路が出来、八幡さまの並びの、嘗てその門々に葵だのコスモスだの孔雀草だのを咲かせていた小さな家つづきのあとに、ものものしい構えの、「寮」というべくはあまりに近代式な邸宅がそれぞれ、いま、工事をいそいでいる。――わずか一二けんだけ残った今戸焼屋が、なにがし製陶所と看板をあげ、古い菓子屋の「塩瀬」が、おもての硝子戸に「喫茶」としるし、そうして、建ち直った新しい家つづきの、軒並、小鳥を、飼って噂かしている……
うかうかとわたしは、もとの小松の宮さまのまえまであるいた。そうして、そうだ、長昌寺はどうした? そう思ってあとへ引き返した。みつからなかった。まさかになくなるわけはないと思って、二三度同じところを行ったり来たりした。~が、肝心の、その大きな門のみ通しにみえた横町をさえ、わたしはさがすことが出来なかった。
あきらめて、わたしは左へ切れた。そのまま橋場へ伸すよりも、いい加減で山谷へ出たほうがいいと思ったからである。すなわちもとの喜多村線即のうちのまえの狭い横町……だったのが、いまはそれもまたみ違えるように広くなった横町、そこに立てられた工事用の制札のおもてによれば「第四一地区補助街第三九号路線」のほうへわたしは曲った。
いかにも「出来立て」の感じに一めん荒い砂利を敷きつめた道を、あるきにくくしばらくあるいたとき、わたしは、ふとそこに寺の境内らしい空地の左手にあたって拡っているのをみつけた。――念のため入ってみた。――長昌寺だった……
いえば、そこも、整然と片附けられた。有線無線の累々とした石塔も、鐘撞堂を失った釣鐘を埋めていた雑草も、トラックの音の響く水の上に睡蓮の花が咲いた古池も、震災のあとのいたましい限りをつくしたそれらの光景は、拭われたようにすべて除かれた。――と同時に、いくら探しても分らなかったわけである、正面の、本堂真っ直のむかしの道は、完全にふさがれて、べつに横に、その境内にかかわりのない新しい道路が、吉野町のはう
「なるほど……」
わたしは感心して、そこをもとの「第三九号路線」へ出た。――間もなく「痔の神さま」をみ出して、以前の曲りくねった道のいかに莫っ直になったかということを悟るとともに、辛うじてたしかめえた方角をたよりに(という意味は、その横町、そのつもりで曲って来はしたものの、あるいているうちに、だんだん勝手が違って来たのである)そのままずっと吉野町の停留場へとわたしは出た。
電車通りの景色は以前の通りである。震災まえと同じである。……とはいっても、一つだけ違ったことがある。「八百善」のなくなったことである。――あの、黒い品のいい高塀と、深いしずかな木立とをもった「八百善」のあとに、大きな二階づくりの、硝子戸を立て、土間を広くとった、荷造りにいそがしい何かの問屋の出来てしまったことである。
が、それをいまわたしは惜まないだろう。むしろわたしは、さっさとそうみきりをつけて未練けなくその土地を捨て去った「八百善」の賢明さを嘆称するだろう。――いうまでもなく、むかしの山谷でなくなったからである。いまはもう「千両のうちで山谷はくらしてい」ないからである。
が、「八百善」はなくなっても「重箱」はまだ残っている。日本堤警察署管内のたった一けんの料理屋として(という意味は、その管内の三四百にあまるもろもろの食物屋、あとのものはみんな飲食店としての鑑札しかもっていないのだそうである)むかしの山谷の名残をとどめている。ことに今度の、区画整理後出来上った普請には、黒い塀なら、浅い植込なら、いかにも江戸前の鰻屋といった工合の器用さ手綺麗さをもっているのがいい。
……とはいうものの、むかしのこのうちの、明治四十四年の吉原大火以前のこのうちの、生野暮な、大まかな、広さにしても三四倍の嵩をもっていた時分がわたしには可懐しい……
なぜなら子供の時分、いまをさる二十五六年以前、わたしは学校のかえりに屡々このうちへ遊びによったのである。いまの主人の平ちゃんこと大谷平次郎君と、同じ学年同じ学級だったからである。――うちで、今度、裏へ器械体操をこしらえたから来ないか? うん、行こう、学校のかえりにすぐ行こう。……そうしたさまに簡単に、おもえば陽気な話である。広小路へかえるのより二倍も三倍もの道程をもったそのうちへ、さそわれるまま、平気でわたしは遊びにまわったのである。―― まえにもいったように学校は馬道にあった。
勿論、まだ、吉野橋まででさえ電車の敷けなかった時分である。いいえ、その段か、そもそもその通りというものが、いまの半分にも足りない狭さだった。そうしてそのわりに、人通りでも車の行きかいでも、つねに頻繁な往来だった。だから、狭いばかりでなく、陰気にごみごみした感じだった。―― だから山谷といえば、その時分、わたしたちにとって「千住」へつづくいそがしい街道の一部といった感じだった。――いいかえれば、それだけけ田舎びていたのである……
が、その狭い通りを一ト足そのうちの門のなかへ入ると、驚くほど広い庭の、木の繁った築山があり、水鏡の浮いた大きな池があり、その池をめぐって、ほうぼうに手丈夫な座敷が出来ていた。――しかもそればかりでなく、そのうえ裏に、何につかうともない四五十坪の空地があった。夏はそこに土俵がつかれた。その場所へ持って行って、器械体操をこしらえたものである。
ここに器械体操というのは「鉄棒」の謂である。その少しまえ、学校の運動場にはじめてそれがとりつけられ、ものめずらしいのに、わたしたちは夢中になった。それがやりたいばかりに、朝、課業のはじまる一時間もまえから、わたしたちは学校へつめかけた。大ぶりだの、中ぶりだの、海老上りだの。・二日も早くそうした離れわざまで行きたいと、毎日、砂だらけになってわたしたちは勉強した。
その「鉄棒」が友だちのうちに出来たのである。これに如くわたしたちの歓びはない。
――うちへ帰るのをわすれて、わたしたちは、屡々平ちゃんと一しょに食ッついて行ったわけである。
さそあれるまま、ある日もわたしは食ッついて行った。十二月のはじめの、日のつまるさかりの、しかも曇って寂しい日だったが、わたしたちはそんなことに頓着なく、兵隊に行ったことのある洗い方を師匠番に、シャツ一つになって、ようやくのこと卒業することの出来た肱かけを幾たびとなくやり返した。――疲れてもう腕がいうことをきかなくなっててもなお、強情にわたしたちは止めなかった。+jIII店のほうから、面白がって、料理場のものだの女中たちだのが代る代る見物に来るので、一層わたしたちは興奮した。
そのうち日が暮れて来た。いくら口惜しがっても見当がつかなくなった。見物もいつとはなし退散した。――わたしは、今度をまた約束して残念ながら着物を着た。
外へ出て、吉野橋まではみんな一しょだったが、それをわたると一人わかれ二人わかれ、しまいにとうとうわたし一人になった。――わたしのうちの見当へ帰るものは誰もいなかったのである。――わたしは、猿若町を馬道の通りへ出て、そこの、まさるやという古い菓子屋で切山椒を買った。――その時分、わたしは、どんな菓子より切山椒が一番好きだった。
後生大事にその袋をふところに入れて、あかりのいろのすでに濃くなったみちを、ひたすらわたしはいそいであるいた。技官稲荷の露地を抜けて、三社さまのあきまで来たとき、ばらばらと暗い空から、急に冷めたいものがふって来た。――雨かと思ったらみぞれだった。
うちへつくと、すぐ、買って来たその切山椒をむさぼるようにわたしは食べた。夕食の支度の出来るのが待ち切れないほど腹が空いたのである。――立ちどころに、わたしは、ふくろをからにした。
その晩、みぞれは雪にかわって、戸外にしずかな音を立てた。わたしはその雪の音をやさしく聞きながら、桜井鴎村の『漂流少年』をよみふけった。
記憶という奴は不思議である。いまでもわたしは切山椒をみると、そのときのことをおもい出す。――山谷の狭い通りをおもい出し、ふって来たみぞれをおもい出し、【漂流少年』をおもい出す。――が、いまにして思えば、それもまたすべて夢である。――しずかにやさしくさしぐまれる夢である……
『浅草風土記』中公文庫
『浅草風土記』中公文庫
2024-01-30 17:24
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