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郷愁の詩人与謝蕪村 №22 [ことだま五七五]

夏の部 7

        詩人  萩原朔太郎

草の雨祭の車過すぎてのち

 京都の夏祭、即ち祇園会(ぎおんえ)である。夏の白昼(まひる)の街路を、祭の鉾(ほこ)や車が過ぎた後で、一雨さっと降って来たのである。夏祭の日には、家々の軒に、あやめや、菖蒲(しょうぶ)や、百合(ゆり)などの草花を挿して置くので、それが雨に濡れて茂り、町中が忽たちまち青々(せいせい)たる草原のようになってしまう。古都の床しい風流であり、ここにも蕪村の平安朝懐古趣味が、ほのかに郷愁の影を曳ひいてる。

夕立や草葉を掴つかむ群雀むらすずめ

  急の夕立に打たれて、翼を濡(ぬ)らした雀たちが、飛ぼうとして飛び得ず、麦の穂や草の葉を掴んでまごついているのである。一時に襲って来た夕立の烈(はげ)しい勢(いきおい)が、雀の動作によってよく描かれている。純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けてるけれども、自然に対して鋭い観照の目を持っていた蕪村、画家としての蕪村の本領が、こうした俳句において表現されてる。

紙燭(しそく)して廊下通るや五月雨(さつきあめ)

  降り続く梅雨季節。空気は陰湿にカビ臭く、室内は昼でも薄暗くたそがれている。そのため紙燭を持って、昼間廊下を通ったというのである。日本の夏に特有な、梅雨時(つゆどき)の暗い天気と、畳の上にカビが生えるような、じめじめした湿気と、そうした季節に、そうした薄暗い家の中で、陰影深く生活している人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれている。僕らの日本人は、こうした句から直ちに日本の家を聯想(れんそう)し、中廊下(なかろうか)の薄暗い冷たさや、梅雨に湿った紙の障子や、便所の青くさい臭(におい)や、一体に梅雨時のカビ臭(くさ)く、内部の暗く陰影にみちた家をイメージすることから、必然にまたそうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。しかし夏の湿気がなく、家屋の構造がちがってる外国人にとって、こうした俳句は全然無意味以上であり、何のために、どうしてどこに「詩」があるのか、それさえ理解できないであろう。日本の茶道(さどう)の基本趣味や、芭蕉俳句のいわゆる風流やが、すべて苔(こけ)やさびやの風情を愛し、湿気によって生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて芸術しているのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文学や情操で、多少とも湿気の影響を受けてないものは殆ほとんどない。(すべての日本的な物は梅雨臭(つゆくさ)いのである)特に就中(なかんずく)、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文学では、この影響が著しい。日本の気候の特殊な触感を考えないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの湿気が全くなく、常に明るく乾燥した空気の中で、石と金属とで出来た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは当然であり、気象学的にも決定された宿命である。

『郷愁の詩人与謝蕪村》 青空文庫



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