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海の見る夢 №69 [雑木林の四季]

    海の見る夢
    ―「I am still alive」―
                澁澤京子 

 「・・もし君に少しでも心があるのなら、パレスチナ人のために泣いているはずだ。」
               ノーマン・フィンケルシュタイン

ツィッター上で、ノーマン・フィンケルシュタイン(米・政治学者)の演説が出回っている。両親ともホロコースト生還のユダヤ人でありながら、シオニスト批判。シオニストを揶揄したナチスという言葉に反応し、泣きながら抗議する女子大生に「それをクロコダイルの涙という。」と教授はやり返した。フィンケルシュタイン教授は、イスラエル政府がホロコーストの被害者であることを強調してそれを政治利用し、同時にパレスチナ人の苦しみには鈍感なダブルスタンダードが我慢できないのである。(ツィッターで「クロコダイルの涙」で検索すると出てきます)クロコダイルの涙とは、(見せかけの涙)と言ったらいいだろうか?

ツィッターでの現地のパレスチナ人の書き込みを読むと、淡々と事実を述べた記述が多い。毎日流れてくる多くの「I am still alive」、その底流に流れる、自分たちを忘れないでほしいという思い、自分たちのために祈ってほしいという気持ち、そして想像を絶する悲しみを感じると、自分が浮ついたことしか言えない人間のように思え、とても恥ずかしくなるのと同時に、彼らのために何かを発信しないと、という焦燥感にもかられる。そして、彼らの「I am still alive」には、どんなレトリックも安っぽいチラシのように吹き飛ばしてしまうほどの力がある。

9・11の時、何かがはじけて、世界は後戻りできないとんでもない方向にズルズルと流れ落ちていくような感じがしたが、今回のパレスチナでは、世界は超えてはならない閾値を超えてしまったような気がする。

年が明けてから能登の大地震が起こった。能登の震災で明らかになったのは政府の対応の遅さ、劣悪な避難所、支援物資の遅れ(道が遮断されているというが、ヘリコプターや船では入れないのだろうか?)。自民党議員が街頭で募金活動をはじめたが、その前に、なぜ被災地への予算をもっと増やさないのだろう?万博や軍事費には惜しげもなく投入し、被災者救助には雀の涙の予算。

さらにSNSでは、ボランティアに現地に駆け付けた山本太郎さんに対する誹謗中傷がすさまじく、しかも批判の内容が、現地の人に迷惑だの、的外れ(一緒にカレーを食べたことが非難されている)なものばかり。故・中村哲さんの口癖は「議論よりまず行動」だったという。自分は何もせずに、行動する人を非難し嘲笑する人々。

また、SNSでは、外国人に対する警戒を呼び掛ける差別的な投稿も目立ったが、在日外国人の犯罪率は5パーセント、在日外国人総数の割合では0.3パーセントと別に犯罪は多くはない。トルコ人グループはいち早くボランティアの炊き出しに駆け付けたし、川口市のクルド人グループも支援している。在日外国人を警戒する以前に、日本の難民認定率が世界の中でも恥ずかしいほど低いこと、そのため仕事をしたくても仕事に就けない難民が多いという、彼らの困窮した状況を知る必要があるんじゃないだろうか。文化や言葉の壁もある。しかも、今の日本政府の対応よりも、ずっと人情があるではないか。外国人である彼らに比べたら、恵まれた状況にありながら、オレオレ詐欺や強盗殺人などの悪質な犯行を行うのはむしろ日本人のほうなのである。しかも昨年は、強制送還がもっと容易くなる「入管法改正案」が通ってしまった。「多様性の時代」と言いながら、どんどん逆の閉鎖的な方向に向かっている今の日本。「己のことばかり見つめるものは滅びる」は確かアラブのことわざだけど、個人もそうだが、今の日本のような内向きの国家は滅びの道をひたすら歩んでいるとしか思えない。

そして、沖縄では強引に辺野古工事に着手。しかも、住民の代表である沖縄県知事の反対を押し切って。民主主義を踏みにじり、世界に誇れる沖縄の美しいサンゴの海を、平気で埋め立てる鈍感さ。

「イスラエル人がトランプの行動を見ると心が安らぐのには明白な理由がある。それは、難民に対する無関心、移民への残酷な対応、法の支配への敵対、外国人嫌悪、嘘で塗り固めた発言、下劣な誹謗中傷、人種差別主義者へのおべっか、女性蔑視である。」

「ハアレツ」ヘミ・シャレブ記者~『イスラエル人VSユダヤ人』シルヴァン・シペルより

こうした風潮が世の中に蔓延し始めたのはいつのころだったか・・「ウソもつき通せば真実となる」はトランプの信念(故・安倍総理も同じ信念の持ち主)だったが、政治家がウソをつき通して隠そうとすれば、森友文書改ざんの責任を押し付けられて自死した赤木さんのように、真面目な人間が犠牲になるのである。

パレスチナに対するネガティブキャンペーンをまき散らされた挙句、標的にされたジャーナリスト、医療関係者たち(悪事の証拠を残さないため?)。また、安全な場所からゲーム機のように操作されるドローンの無差別攻撃がどんなに残虐な結果をもたらすことか・・ゲームのような虚構と現実があいまいな時代になると、病院、学校、避難したキャンプ地も片端から空爆を受け、乳児、子供、女性が容赦なく殺され、それをリアルタイムで見ながら止められない私たち。パレスチナの人口230万人に対し、死亡者は2万3000人以上(1月12日現在)国民のおよそ100人に一人以上のパレスチナ人が殺されている。負傷者60000人以上、特に両足や、腕を切断された子供が多い(医療品の不足により麻酔なしで)いったい、なんていう時代に生きているんだろう。

今、世界から失われつつあるのは正義と、そして他人の痛みや苦しみに共感する身体感覚なんじゃないだろうか?(正義というのはなかなか実現できないからこそ、逆に理念として価値を持つと思うが)

懇意にしているシスター・K(79歳)は、友人とハイキングに行った帰りの電車が混んでいて、座ることもできず、暑いのに上着を脱ぐこともできないでいるうち気分が悪くなり、我慢できずに戸塚で降りた。身体が動けなくなり手すりにつかまったまましゃがみこんだが、次に来た電車が止まり、またその次の電車が止まっても、聞こえるのは電車から降りてきた人々の足音だけで、誰も声をかけてくれなかった。しばらく気を失っていたら、「おい、大丈夫か?」とはじめて声をかけてくれたのはホームレスのおじさんだったのだそうだ。

「わたしはダニエル・ブレイク。人間だ、犬ではない。」
~『わたしはダニエル・ブレイク』ケン・ローチ監督

「ゆりかごから墓場まで」がとっくに過去の神話となってしまったイギリスで、さらにAIの導入により、ますます生活保護受給や失業手当の手続きが煩瑣になったうえに、役所の対応が非人間的になってしまった今のイギリスの状況を描いたこの映画は、ドキュメンタリーかと思うほど役者の演技が自然。パソコンなど触ったこともないのでオンラインから失業手当の手続きがなかなかできない大工(デイブ・ジョーンズ)が、追い詰められたシングルマザー(ヘイル・スクワイーズ)に温かい手を差し伸べようとするストーリーだが、特に主役のデイブ・ジョーンズが素晴らしく、困っている人のために思わずひと肌脱いでしまう、昔かたぎの職人役がぴったりはまっている。イギリスのみならず、いまだに日本の、あるいはどこかの国の下町には、こういう人情のある職人がひっそりと存在しているようなリアリティがある。政治が頼りにならなければ、寄り添いあって助け合うしかない。こうした状況は、日本では決して他人事じゃないどころか、実際に桐生市で起きた生活保護受給者に対する職員からのハラスメント(桐生市以外でも起こっているだろう)、そして、なぜか生活保護受給者に対するバッシングの起こる日本。怒りの矛先が政治ではなく、生活保護者や山本太郎さんといった見当違いの方向に向けられるのは、国から支給されているのを「ずるい」とばかりに、他人の足を引っ張らないと気の済まない人間が多いのと、「出る杭は打たれる」の国民性にあるのだろうか。他人の足を引っ張れば、自分も一緒に落ちるだけだし、出ない杭は地中で腐っているだけとなる。

「‥人が弱さを持っていると言う事は、非常に重要だ。」ケン・ローチ

ケン・ローチ監督の映画では役者が自然体なのだが、ケン・ローチは、役者を選ぶときに演技力よりもむしろその人の人間性を見て選ぶのだという。演技というテクニックよりも、本質、つまりその人の性格や「心」を重視しているのである。そして、そうした性格、その人の本質(心)は、最も弱さをさらけ出した無防備な状況に現れるということであり、また、困っている人、他人の弱さに対してどういう態度をとるかで人の本質(心)がはじめてわかる、ということだろう。

それでは本質(心)とは何だろうか?

人は普段は自意識が邪魔をして、なかなか無防備な状態にはなれない。芸術家は自意識と格闘するが、それは魂というものを直接伝えたいためなのである。同じ曲でも、ある演奏家の演奏には演奏家の魂を直接感じ、ある演奏家のものにはテクニックしか感じられないというのはよくあることだが、人の無意識にある感情、身体感覚と直結した心と、そしてさらに深いところにある魂は、芸術家にとってとても貴重なものであり、私たちを人間らしく保つのも、まさにその魂なのだと思う。魂はその人の心の有様と密接な関係にあるだろう。

SNSには、クロコダイルの涙のような中身のない言葉と、力ある言葉の玉石混合で、本当に伝えたい事、訴えたい思いがある人々からは、その人の体温が伝わってくる。そして、「I am still alive」は、パレスチナの人々の命そのものと直結した、魂からの声なのである。

※1月11日、インターネットで(日本のメディアが流さないので)ICJの中継(ボランティアの人たちが字幕を付けてくれた)を見た、イスラエルをジェノサイドとして提訴する南アフリカ側の弁論は本当に感動的で素晴らしかった。12日のイスラエル側の弁論は、(停戦したらより多くの人命が失われる)(ハマスが)などの長い言い訳と、南アの証言のあら捜し。人道的な配慮を行っているとか、まさに「ウソをつき通せば真実となる」の見本のような空疎な言説で、前日の南アフリカの弁論とは正反対の、中身のないスピーチだった。

南アフリカには、ネルソン・マンデラの魂が今も生き続けているのである。

パレスチナが自由にならない限り、私たちの本当の自由はない。~ネルソン・マンデラ


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