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浅草風土記 №18 [文芸美術の森]

続吉原附近 3

     作家・俳人  久保田万太郎


            三

 「すみだ川」のはじめて「新小説」に出たのは、明治四十二年の十二月だから、わたしの
二十一のときである。わたしはそれを、朝、慶應義塾へかよう電車のなかで読んだ。そう
してことごとくわたしは昂奮した。勿論「あめりか物語」を読んで以後、「趣味」で「深
川の唄」を、「早稲田文学」で「監獄署の裏」を、「中央公論」で「視盃」及び「牡丹の客」を読んで、世にもこうした美しい小説があるものかと、密かにそう生甲斐を感じていたわたしである。いつも持ちあぐむ雷門から薩摩っ原までの間を、時間にして四十五分……わるくすると、だまって一時間かかる長い間を、ただもうわたしは夢みごこちにすごした。――その「新小説」に附いていた口絵の、翻る納め手拭の下、御手洗の水に白い手をさしのべた、若い芸妓の恰好をさえいまなおわたしは覚えている……
 この作のわたしを魅丁した所以は、一にこの作の主人公長吉の生活の「上にある。一一
という意味は、その弱い、寂しい長吉の性格のうちに、ゆくりなくわたし自身をみ出した
からである。わたし自身の少年の日をみ出したからである。――が、もし、その長吉にし
て、そうした下町の育ちでなかったら、同時にお豊にして浅草の片隅に住むしがない常磐
津(ときわず)の師匠でなかったら、松風庵蘿月にして向島の土手下に住む安気(あんき)な俳諸の宗匠でなかったら、そうまでしかし無条件に、わたしは傾倒しなかったかも知れない。この作にみちた、美しい、すぐれたいろいろの自然描写。―一その描写の対象がまた小梅である、柳島である、浜町河岸である、今戸橋である、山谷堀である、公園裏である、観音さまの境内である、宮戸座の立見場である。一一そうして季節は、秋から冬、冬から春。一一子供の時分から東京住居をしつづけたものにとって、最も感じの強い、愛着の深い期間である……
 実際、わたしにとって 「たけくらべ」を読んだとき以来の歓びだった。
 が、その美しいすぐれたいろいろの描写のうちでも、とりわけ深くわたしのこころに喰
入ったのは「宮戸座の立見場」と「今戸橋」界隈との部分である。まえのものについては
しばらく措く。あとのものについては、それこそ、そこに描かれた光景こそ、わたしの十
四五の時分から震災直後まで残っていたそのあたりの古い光景である。わたしにとって忘
れることの出来ない占い光景である。
「そこ此処に二三軒今戸焼を売る店にわづかな特徴を見るばかり、何処の場末にもよくあ
るやうな低い人家つづきの横町である。人家の軒下や露地ロには話しながら涼んでゐる人
の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立って白くみえながら、あたりは一体にひっそりして何処か
で犬の吠える声と赤児のなく声が聞える。天の川の澄渡った空に繁った木立を聾やかして
ゐる今戸八幡の前まで来ると、薙月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊と書いた妹
の家の灯を認めた。家の前の往来には人が二三人も立止って内なる稽古の浄瑠璃を聞いて
ゐた」
 いま、わたしは、長吉母子の住居に関するくだりを、その作の第一回から抜き出した。
 その「低い人家つづき」ということと、「涼んでゐる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立
って白く」みえることと、「天の川の澄渡った空に繁った木立」 のそびえていることと、
 わたしにいわせればそれだけで、それだけの少しの言葉で、その八幡さま附近の、しめやかな、つつましい景情は残りなくつくされている。一一というものが、そのあたりの家々、どこもいい合せたように二階をもたなかった。そうしてどの家も、古い普請の、ガタガタな格子を閉めた軒さきが暗かった。たまにしか俸の音も響かず、いたって人通りに乏しい狭い往来ながら、そのせいか、み上げる空の感じにどこかカラリと放たれたものがあって、そこに八幡さまの境内の大きな銀杏……一ト際目立ったその梢が、飽くまで高くそそり立っていた。……冬、時雨が来て、その黄に染った落葉が用捨なく道のうえに散りしくと「それがわずかな特徴」の(という意味は、そうした格子づくりのうちばかりの、外に商人やといったら数えるほどしかない)今戸焼を売る店々が急にその存在をはッきりさせた。
 白い腰障子、灰いろの竃(かまど)、うず高くつまれた土細工のとりどりに、すぐその裏をながれる隅田川のしずかな水の光が、あかるくさむざむと匍上った。
 ただし今戸橋をわたってすぐの右側には、土蔵をもったり、土塀をめぐらしたりした
「寮」といった風の建物がしばらくそこに立並んでいた。その片側には、慶養寺以下、二
三の寺の筋塀だの黒い門だのがつづいていた。一一「そのまま八幡さまのほうへ入っても、
み覚えの古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳。一一そうしたものの匂わ
しい影はどこにもささない」と「雷門以北」に書いた所以である。

 「お豊は今戸橋まで歩いて来て時節は今正に爛漫たる春の四月であることを始めて知った。手一つの女世帯に追はれてゐる身は空が青く晴れて日が窓に射込み、斜向の『官戸川』といふ鰻屋の門口の柳が線色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根に四方の眺望を遮られた地面の低い場末の横町から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川は、一年を二三度と数へるほどしか外出することのない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につゞく桜の花、種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺から起る人々の叫び声、鉄砲の響、渡船から上下りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼にはあまりに色彩が強烈すぎる程であった。お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐る、如く踵を返して、金龍山下の日蔭になった瓦町を急いだ」
 このくだりでわたしの心を惹くのは「汚い瓦屋根」である、「四方の眺望を遮った両側
の汚い瓦屋根」ということである。一一先生はそれほどの深い用意をもって書かれたので
なかったかも知れない。が、前記カラリとした感じの空の下に、濃い、うららかな春の日
のさしそめたとき、まず眼にうつるのは汚い瓦屋根……低い、汚い、両側のその瓦屋根だ
った。一一青い空、立迷う陽炎(かげろう)、よかよか飴屋の太鼓の音、そうしたあかるい色と響きとの間に、せんべやで干す煎餅の種の白さが、汚いその瓦屋根に照り添って、そのあたり東京の……というよりは「江戸」のといった方がいい……外れの化しさをよく物語った。
「『官戸川』といふ鰻屋の門口の柳の緑色に芽をふくのに……」とあるのは、おそらく「喜
多川」というその附近にあった鰻屋のことをいわれたのだろう。八幡さまのまえ、今戸橋
のほうへややよったところにある古い鰻屋だった。ごくの小さな栄えない店だったが、門
に柳を植えたけしきが妙に人目を惹いて「今戸のあの鰻屋…⊥といえば「あの、ああ、柳のある……」と、そのあたりを知るほどのものだったら誰でもすぐそういった。一一以前は知らず、わたしが知ってからは出前だけの、上りはしないと聞くうちながら岡鬼太郎氏の戯曲「女魔術師」の二幕目「今戸河岸鰻屋清川の場」とあるのをみたときも、矢っ張わたしはこのうちを思い起した。
 一ト言にして古風な人情。一一古風な人情をもった町だった。しかく、しずかな、哀し
い、つつましい往来だった。……

『浅草風土記』 中公文庫



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