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武州砂川天主堂 №40 [文芸美術の森]

 第十一章 明治二十四年 1

          作家  鈴木茂夫

五月十九日、武州砂川村・聖トマス教会
 「角太郎さん、今日は」
 ジェルマンが人力車に乗って訪ねてきた。顔に生気が無い。
 「お久しぶりです。どうやって来たんですか」
 「新宿から甲武鉄道の列車で立川駅まで来ました。そこから人力車に乗ったんです」
 「神父さん、なんだか疲れているように見えますが」
 「私は元気がないのです。腹や胸がむかついて食欲がありません。それでかなり痩せました。歩くのが辛いのです」
 「神父さん、あなたが土台を固めたこの教会は、五十人の信徒が守っています。私が日曜ミサと説教を行います」
 「角太郎さん、それはすばらしいことです」
 「そして教会付属の宣教学校には、村の小学校の月謝を払えない四十人の生徒がいます。その中には小学校からの転校生もいるんですよ」
 「うれしいです。少しは元気が出てくるような気がします」
 ジェルマンは、初めて砂川村を訪ねた目のことを思い出す。
 剣道場で、子どもたちが竹刀を揮っていた。竹内寿員が大声で指導していた。寿貞が昼食をご馳走してくれた。そして寿員の居室に泊まった。それから、ジェルマンは足繁く砂川村を訪れる。活発につぎつぎと質問を重ねる角太郎。その角太郎は今、教会を支える若手の中心だ。
 角太郎の家に集まった会衆の中には、教えを聴くのではなく、物珍しい異人の姿を確かめに来ている村人もいた。ジェルマンは、教えを説いた。しかし、その話を真撃に受け止めている顔はなかった。説教の中から疑問が生まれ、質問となる。それは訊ねるというよりは、詰問するかのようだった。
 キリストよりも、日本の仏の方が、御利益があると言い張る老人がいた。キリスト教の天国と極楽浄土とは、どう違うのかと迫る男がいた。南無阿弥陀仏と称えれば、極楽に行けるのに、天国に行くのは面倒だと反論する中年男もいた。死刑になったキリストは、やはり罪人ではないかと首をかしげる農婦がいた。角太郎も質問してたたみ込んできた。
 ジェルマンは、笑みを絶やさず、これらの声に答えた。
 ある日の説教の時、ジェルマンの話に領く顔が見えた。それが一人ではなく、二人三人といた。ジェルマンの話が届いたのだ。ジェルマンが待ち望んでいた会衆の変化だった。
 ジェルマンは、そうした人たちに、教理の基本「公教要理(こうきょうようり)」を説くことにした。角太郎もその一人だった。
 ジェルマンは教えを説く時、会衆がジェルマンを信じるのではなく、ジェルマンをこの場に送った神を信じ、ジェルマンを見る人は、ジェルマンを送った神を見ると確信する。神は、光としてこの世に現れ、神を信じるひとが暗黒から救うためであると感じる。

 イエス呼(よば)はりて言ひ給ふ「われを信ずる者は我を信ずるにあらず。我を遣わし給ひし者を信じ、我を見る者は我を遺(つかわ)し給ひし者を見るなり。我は光として世に来たれり。すべてわれを信ずる者の闇黒に居らざらん為なり…」
            ヨハネ伝福音書第十二章第四十四節~第四十六節

 信徒たちは、光が暗闇に射し込むように神の恩寵を感じ取ったのだ。
 ジェルマンは、追憶から立ち戻った。
 「角太郎さん、きょうお伺いしたのは、教会の様子を見たかったこと、特に角太郎さんに会いたかったこと、そしてあなたが、はがきに書いてくれていたこの教会のオルガンに触りたかったのです。」
 「この教会の状況は、お話ししました。つぎに私角太郎は、元気です。教会のお守りを引き受けています。それから、神父さんが贈ってくれた教会のオルガンは、立派に働いています。さあ祭壇の横に行きましょう。鍵盤もきれいでしょ」
 ジェルマンは見た。ルッソー製の八十八鍵の小さなオルガンだ。突然、故郷に戻ったような気がした。
 ティヴエ村の教会信徒が、日本へ出かけるジェルマンのためにお金を持ち寄って送ってくれたもの。敬虔な多くの信徒の顔を思い出す。
 ジェルマンはオルガンの前に坐った。
 「ハレルヤを弾きましょう」

     ハレルヤ
     全能の主
     われらの神は統治すなり
     ハレルヤ

     ハレルヤ
  この世の国は我らの主およびキリストの軋となれり
  彼は世々限りなく王たらん
  ハレルヤ

  ハレルヤ
  王の王 主の主
  主は限りなく王たらん
  ハレルヤ

 鍵盤のタッチは軽い。オルガンの音色は柔らかだ。その旋律が教会を包み込んだ。
 「角太郎さん、私は今、故郷に戻って、公教要理を学んだ少年の日を思い出しました。私は、元気がなくなってきているので、再び、ここへ乗れるかどうか、それは神様次第のことです。でも、きょうのことは決して忘れないでしょう」
 ジェルマンは、角太郎の手を握った。
 「さようなら」

『武州砂川天主堂』 同時代社


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