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海の見る夢 №68 [雑木林の四季]

     海の見る夢
         ―詩人は沈黙してはならないー
                     澁澤京子

   暖かな家で何事もなく生きている君たちよ・・・・
   これが人間か、考えてほしい
   ・・・・
   考えてほしい、こうした事実があったことを。
   これは命令だ
   心に刻んでほしい           

       『アウシュヴィッツは終わらない』プリーモ・レイヴィ

  ・・わけもわからず死んでゆく子供
    生きてるだけで罪悪感
    もう見たくない
    世界の裏を知りつつも目を伏せ綴る平和な日常
    そんなくだらないの書いて意味あんの?
   -中略―
    虐殺を止められない国際社会の一員
    それがうち・・
   ・・とにかくなりたくない恥知らずな作家
    Sell Out 金儲け・・         

       ~大田ステファニー歓人 すばる文学賞授賞式でのスピーチ

すばる文学賞をとった大田ステファニー歓人さんの小説「みどりいせき」はまだ読んでいないが、彼の授賞式でのスピーチ(詩)がとても新鮮だったので、一部抜粋して書き起こした。教会の帰り、「私はアメリカ人であることが恥ずかしい」と一緒に歩いていたシスターがおっしゃったが、今のパレスチナの問題はアメリカ人だけの問題じゃなく、「傍観者でいることが恥ずかしい」私たちも同じなのである。しかし、こうしたうしろめたさを覚える人は割と少なく、その代わりに、変に醒めたことを言いたがる人々が増えた。揚げ足を取ったり茶々を入れたり、つまらない屁理屈をこねる人々、そうした干からびた感受性の群れの中で、大田さんのスピーチはまるで造花の中の一輪の活きた薔薇のようにみずみずしい。

大田さんの詩は、ベトナム戦争とニクソンに対して怒りをあらわにした、ネルーダの呪詛のような詩に通じるものがある。世の中には「きれいな怒り」というものがあるのだと思う。

暮れに亡くなった山田太一さんの『岸辺のアルバム』(1977・TBS)は、崩壊しているのに見せかけの幸福にこだわる家族を描いた優れたドラマだけど、今見ても新しいのは、アルバムやマイホームといった見せかけを重視して、次第に人間性を喪失してゆく日本人の姿を描いているからだ。主人公(杉浦直樹)は、会社の売り上げのために闇の武器輸出や、東南アジアからの売春婦あっせんにも手を出してしまう。ちょうどバブルに突入する少し前のこのドラマでは、「お金」が価値観の中心となっている日本人の、次第にモラルが崩壊してゆく過程を描いていて、唯一まともな感受性を持っているのが浪人中の長男(国広富之)で、彼が家族の欺瞞・偽善を暴く告発者となっている。このドラマの投げかける「真の人間らしさとは何か」という問いは、見せかけや「お金」、物事の表面にこだわって本質を見失っている、今の多くの日本人に対する鋭い批判にもなっているだろう。

昔、朝鮮人慰安婦問題でも、まだ生存していた元慰安婦の訴えに対し「金銭が目的だろう」といった意見が圧倒的に多かった。そうした賠償金の問題よりも重要なのは、人種差別と性暴力であり、日本側の謝罪によって過去と和解したかった、彼女たちの心の問題でもあることに気を留める人は極めて少なく、そうしたデリケートな問題を、すべて政治や賠償金の問題に還元してしまえば、個人の痛みは全く無視されてしまうのだ、数字が刻印されたアウシュヴィッツの囚人のように。

今、朝鮮学校の無償化を生徒たちが訴えていて、それに対する心ないコメントや悪態が多くて日本人でいるのが恥ずかしい。ジャニーズの性加害問題では大騒ぎして、なぜこういう差別については平気で無視出来るのだろう、私たちと同じように税金を払っていれば、日本の高校と同じように平等の無償化を望むのは当然ではないか。

『岸辺のアルバム』で、主人公(杉浦直樹)は、洪水警報が鳴ってから危険を冒して家に戻り、家族のアルバムを取り戻そうとするが、窓辺に吊り下げられている鳥かごの中の二羽の黄色い小鳥は、家族の誰の気にも留められないままなのである。それは、自分たちも飢えているのに犬や猫、鳥といった小さな命を大切にする今のパレスチナの人々とは対照的で、『岸辺のアルバム』の日本の家族は、小さな命よりもアルバムのような形のほうが重要なのだ。(命よりも形や形式を重要視するところは、三種の神器にこだわって戦争終結をぐずぐずと引き延ばしてしまった、旧日本軍を連想させる)

詩人というのは、表面的な言葉からこぼれ落ちてしまう大切なものを拾い集めて表現する人々のことだが、その最も大切なものに無関心、あるいは気が付かないのは、言葉そのものとヒューマニティの危機であるということかもしれない。言葉の危機は、過激なシオニストやネット右翼のヘイトスピーチに顕著で、彼らの言葉がなぜステロタイプになるかというと、その訴える動機に深み、つまり人としての切実さが欠けた、ただの脊髄反射による反応だからだ。だから、いくら「美しい日本」と言っても、汚れた墓石の表面を白いペンキで塗ってごまかしているとしか思えない。どこの国でも急進的右翼は、敵対する相手をフェイクだの自作自演、虚構と決めつけるところが万国共通しているが、そういう発想から陰謀論にまっしぐらにはまってゆくのだろう。彼らは、何が真実で何が虚構かわからないといった、相対主義の時代の申し子なのかもしれない。戦争のリアルは無視し、靖国ロマンには陶酔するが、たとえば『きけわだつみの声』は読んだことあるのだろうか?あの本を丁寧にじっくりと読めば「美しい日本」のイメージはかなり崩れると思うのだが。

そして、蔓延する言葉の単純化、浅薄さは、「30分でわかる~」といった小説や哲学の要約本や、マニュアル本の流行と関係あるだろう、特に小説や映画などは要約されたあらすじよりも、ディティールのほうが重要なのであり、そうした要約本で育った子供が深い読解力と繊細な感受性を持てるだろうか?

  詩人とはどういうときにも沈黙してはならない人のことだ。つまりこれは勝算があるかないか、効率的かどうか、有効かどうか、とは違うということである。~『詩の力』徐京植

やはり暮れに、徐京植さんもまた亡くなった。ずいぶん昔、『子どもの涙』というエッセイを読んで、大変、感動したことがある。サラ・ロイの本にも対談で登場していると思っているうちに亡くなった。徐京植さんは、今のパレスチナの状況をいったいどのようにご覧になっていたのか、ぜひ知りたかった。

今、パレスチナのデモに参加する人々、たった一人で、毎晩大阪で、東京のどこかの町で、寒空のなか「停戦」のプラカードを掲げてスタンディングする人々、ツイッターで地道に翻訳して情報を流す人々、体調を崩しながらもパレスチナのための呼びかけを続ける人々、イスラエル企業のボイコットを呼びかける人々、皆、いてもたってもいられずに行動した人々ばかりで、そうしたすべての人の行動は、実に詩的じゃないかという気がしてくる。パレスチナ支持者に、ミュージシャンやアーティスト、女優や詩人が多いのも納得できる。

つまり、「役に立つ・たたない」とか、「勝ち・負け」といった、世俗の価値観からこぼれ落ちた、人間にとって本当に大切なものを拾う人びとが、詩人なのであり、今、世界中で停戦を叫び、パレスチナを様々なかたちで応援しようとしている人びとがまさにそうなのである。そう、徐京植さんの言うように「詩人とはどういうときにも沈黙してはならない人」なのだ。

「・・私たちの誇りは、人間性を保つところにあるのです。」        

       リファート・アラリエールが友達に語った最後の言葉
      (パレスチナの詩人:2023・12・7,家族と共にイスラエル軍に殺害)

パレスチナの男子校のカダシュ先生は生徒たちに、「鳥にはアイデンティティがない」と語った。私たちは日本人であるとかアメリカ人であるとかイスラエル人である前に、まず一人の「人間」なのであって、その「人間性」がどういうものであるのかが、最も大事だということを詩人は語っている。その人がどういう性格なのかとか、どういう品性の持ち主かが人の真のプライドになるのであって、人の価値は、決して国籍や肩書によって決まるものではない。殺されたパレスチナの詩人もカダシュ先生も似たようなことを語るのは、彼らが難民という不安定な立場にあるせいかもしれない。ナショナルアイデンティティや肩書をはく奪された裸の個人、つまり個人の人間性と品性で判断する彼らのやり方のほうが、見せかけにこだわる私たちの社会よりも、ずっと洗練されているように思う。

    参考文献 『詩の力』徐京植
         『ガザとは何か』岡真理・・最近、緊急出版されたこの本はとても
          わかりやすく、著者の情熱が伝わってきます。


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