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住宅団地 記憶と再生 №27 [雑木林の四季]

「慎重な都市更新」原則と賃貸住宅「再公有化」運動 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 以上みてきたのは、19世紀後半から20世紀30年代にかけて建設されたドイツの古い団地であり、それらを2010年以降にわたしが見聞した記録である。実地に見たあとで、各団地がたどった存続の危機、住民の労苦と世論の支援、記念建造物としての公的保護、団地再生への営為、なかには世界遺産への登録、等々の経過を知ることができた。これらの経過は、いうまでもなく、とくに大都市の住宅に共通してさまざまに生起した問題や施策の一環にすぎず、中央および地方政府の住宅法制と政策、市場動向等との関連においても検証すべきであろうが、それはできていない。
 ここではただ、これまでの記述のなかで点描した事実を拾いあげてつなぎ、ふりかえってドイツの都市再生の基本的な特質について再論しておきたい。
 ルール地方の労働者団地でみたように、所有主と自治体が取り壊しを計画し、再開発にのりだしたのは1960年代にはじまり、住民運動が計画に反対し、記念建造物として公的保護に転換させたのは70年代にはいってからである。74年のグスタフ・ハイネマン大統領の「社会的建築」発言の意義は大きかった。地区の社会的環境を解体し、地区住民の居住継続をおびやかすクリアランス型再開発は認めないとする表明であった。75年にはヨーロッパ記念物保護年のキャンペーンが各地で展開され、都心の再開発、都市開発が第2次大戦の空爆に匹敵する都市破壊、景観破壊とする告発、展示会がおこなわれた。こうしたなかで「市民に、自分たちが暮らす都市の独自の歴史、景観にたいする関心、愛着が高まってきた」(大村謙二郎「ドイツ都市計画の動向と展望」、『現代都市法の新展開』2004年東大社研・研究シリーズNo.16、17)。
 1970年代の特徴として、各自治体の都市計画観、計画実践に明らかな変化、転換がみえはじめ、とくに計画の早期段階からの住民参加、合意形成が制度上、明確に位置づけられたことがあげられる。法制上も、70年代に都市計画への住民参加制度が大きく改善され、80年代にはいり再開発法制が改正され、スクラップ・アンド・ビルド型の再開発から「保全的都市更新」へと転換していった。それは1986年の建設法典の制定となり、「現存の地区を保持し、更新し、かつ存続されること、地区の景観および自然景観の形成を改善すること、記念物保護の要請を考慮すること」という項目が新設された(広渡情吾ほか『現代の都市法』1993年東京大学出版会、49ページ)。
 ドイツだけでなく、1970年代から80年代はじめにかけては、オランダ、フランス、イギリスでも大都市に住宅占拠運動が燃えひろがった。都心部の古い、家賃の安い建物が解体されて、若者、学生、高齢の年金生活者など低所得者層は住居を奪われ、住みなれた地域を追われた。再開発が予定された地域は空き家、空き地が増え、これを占拠して住みつき独自の生活圏をつくる若者たちの運動が各所で起こった0空き家を占拠する住民運動は、都市を貪本収益の場とする再開発事業への抗議であるとともに、積極的には住宅政策の転換、都市改造への住民参加をもとめ、歴史的遺産をふくめ自然と景観を守るエコロジー運動でもあった。
 さきにあげた各団地での住宅補修は、第2次大戦の空爆被害にたいする応急的な処置にはじまり、80年代の団地修復は、明らかにクリアランス型再開発を対極に見ながらの、住宅占拠運動にも呼応する団地住民と都市自治体との連携した新しいまちづくりの取り組みであった。
 こうした都市改造をめぐる住民運動の高まりのなかで1982年にクロイツベルク地区でまとめられた「慎重な都市更新12の原則」は、83年に西ベルリンの原則として確認され、1984/87年のベルリン国際建築展のプログラムにもとりいれられ、やがてドイツの都市更新、団地再生の本流となり、現在に生きている。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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